続・祈りの巫女
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タキの話を聞いていたら、タキがどうして神官になったのかは判ったけど、あたしにはタキがそれを不思議に思って、どうしても知りたいと思う気持ちが判らなかった。だって、畑仕事をするならいつ種をまいて草取りして肥料をあげて、いつ収穫すればいいのかが判ってればいいし、狩人ならその季節にその動物がどこにどのくらいいるのかが判ってればいいんだもん。空がどうして青いのか判っても、誰の役にも立たないんだ。
「それはタキだけなの? 神官はみんなそう思うものなの?」
「そうだね、何を考えてるのかはみんな違うけど、少なくとも知りたいと思う気持ちは同じじゃないのかな。この間セリと話したら、セリは山の上の方がふもとより寒いのはどうしてかな、って言ってたし。祈りの巫女はどうしてだと思う? 山の上の方が太陽に近いはずなのにね」
あたしはタキの問いには答えられなかったし、そもそも考えることすらもできなかった。タキは、たぶん慣れてたんだと思う。そんなあたしの反応を意外に思った様子はなかった。
「祈りの巫女は? どうして巫女になったの? ……もちろん神託の巫女の予言があったからだろうけど」
2人ともすっかり草むしりの手が止まっていたのだけど、お互いそんなことにはぜんぜん気がついていなかった。
「んとね、みんなを幸せにできるから。祈りの巫女になって、みんなのために祈ったら、みんなを幸せにできると思ったの」
あたしがそう答えたとき、タキはちょっと首を傾げてあたしを覗き込んで、ふっと、微笑んだ。
「みんなを幸せにする祈りの巫女、か。……だったら、祈りの巫女の幸せは、いったい誰が祈ってくれるんだろう」
思いがけないタキの言葉に、あたしは返事をすることができなかった。
「セーラの物語を読んでいて思ったんだ。セーラは災いを避けるために必死で祈りを捧げて、その祈りは神様に届いて、村は平和を取り戻した。今オレたちがここにいるのは、セーラたち祈りの巫女のおかげだと思ってる。だけど、セーラを幸せにすることは誰にもできなかったんだ。祈りの巫女は災いを避けるために生まれてくる。それは確かにそうなのかもしれないけど……。オレは、祈りの巫女自身の幸せも、大切なことだと思うんだ」
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あたしはタキの目を見たまま、しばらくのあいだ何も答えることができなかった。
もちろん思ったことはいっぱいある。あたしは祈りの巫女で、祈りの巫女の仕事は誰かのために祈ること。それは例えば誰かの健康だったり、仕事の成功だったり、もっと漠然とした誰かの幸せだったりすることもある。あたしはマイラの幸せを祈って、あたしの祈りを受けた神様はマイラが今一番幸せになれる方法を選んで、マイラに子供を授けてくれた。そのために祈ることがあたしの仕事で、マイラの子供が無事に生まれたとき、あたしは幸せを感じたんだ。
祈りの巫女になって誰かのために祈ることは、あたしを幸せにしてくれる。あたしは自分で自分の幸せを祈らなくても、誰かの願いがかなうことで幸せになれるんだ。タキにそう言いたかったのになぜか言えなかった。あたしが幸せだって、自信を持ってタキに言うことができなかったの。
あたしの幸せを祈ることは誰にもできない。タキのその言葉は、あたしには「祈りの巫女は幸せになれない」って聞こえた。セーラがわずか17歳で死んでしまったように、あたしもこれから先永久に幸せになれないような気がしたの。
あたしは不安そうな顔をしていたんだろう。見つめたまま、タキはちょっとばつが悪そうに微笑んだ。
「……参ったな、祈りの巫女がそんなに深刻に取るとは思わなかった。これは罪滅ぼしが必要だな」
タキはちょっと目を伏せて、そのあともう一度顔を上げたときには、今までよりもずっと明るい表情になっていた。
「ねえ、祈りの巫女、セーラが書いた日記の原文を読んでみたいと思うかい?」
タキが突然話を変えたからあたしは驚いて、でもその内容の方にもっと驚かされていた。
「日記の原文があるの? 物語じゃなくて?」
「もちろん原文の書き直しも定期的に行ってるよ。物語の書き直しの時には参考資料として必要だからね。ただし、セーラの時代と今とでは言葉も変化してるから、理解できない言葉も多いんだけどね」
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読んでみたかった。セーラが日々どんなことを考えて、祈りの巫女の使命を全うして、どんな風に思いながら死んでいったのか、それを知ることができるのなら。
「それ、読んでみたい! 読ませてもらえるの?」
「祈りの巫女がそう思うなら読めると思うよ。ただ、あの本は持ち出し禁止だから、自分の宿舎でゆっくりと、っていう訳にはいかないかな。物語よりもずいぶん長いしね。どっちにしても物語をぜんぶ頭に入れてからでないと理解できないから、今読んでる物語の方を読み終わって、そのあと神官の誰かに隣で訳してもらいながらだね。オレでよければ協力するよ」
「ありがとうタキ! あたしが物語を読み終わるまで、忘れないでね。約束!」
「ああ、約束」
セーラに会える。だれかが書いた物語じゃなくて、セーラが毎日綴っていた、1日1日を積み重ねたセーラの小さな毎日に。
物語の中では切り捨てられてしまっている、小さな出来事や小さな悩み、今あたしが感じてるような焦りや不安を、セーラがどう感じてどう克服していたのか。
物語の中のセーラは気が強い女の子だったから、あたしみたいにたくさんの不安はなかったのかもしれないけど。
そのあと、タキはまた無言で草むしりを再開したから、あたしも両手を動かして、やがて山の陰だったこの場所にも日が差し始めていた。途中1回だけ飲み水を持って見習いの巫女の1人が回ってきて、あたしもタキも1杯ずつ水をもらって、お昼になる頃にはようやく建物の陰になるあたりまで作業を進めることができた。
それで初めて気がついた。タキが、最初からできるだけ日陰になるように場所を選んで、草むしりを始めてくれたこと。日中陽が当たる場所は朝、山の陰になるときに済ませてしまって、いちばん日差しが強い時間には建物の陰になるように。たぶんタキは毎年の草むしりにも慣れているんだと思うけど、たとえそうだとしてもあたしには新鮮な驚きだったの。
タキの気遣いで、今年あたしは最後まで草むしりを続けることができた。この時からあたしは、タキに無条件の信頼を置くようになったんだ。
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草むしりの日は神殿の全員で川へ身体を洗いに行く習慣だったから、リョウも遠慮して話しにはこなかった。翌日からはまたいつもの生活に戻って、あたしは今までよりもずっと熱心に、セーラの物語を読み進めていった。この物語を読み終えたら、タキはセーラの日記を読ませてくれるって約束した。あたしはセーラの日記が読みたくて、できるだけ早く物語を読み終えてしまいたかった。
いつもよりも2倍以上ページが進んで、さすがに読み疲れてきた頃、いつもの時間にリョウがやってきた。昨日話していなかったからあたしはリョウに話したいことがたまってしまって、カーヤに呼ばれるのももどかしく、本にしおりを挟んで勉強部屋を飛び出していた。
「リョウ、お帰りなさい!」
「ただいま、ユーナ。元気そうだね」
「うん、昨日ね、タキがセーラの日記を見せてくれるって約束してくれたの。あたし嬉しくて」
リョウは微笑みながら、少し首をかしげる仕草をした。あたしは昨日は嬉しくてカーヤにも同じことを話していたから、本当ならリョウに説明しなければならないことを知らない間に省いちゃってたんだ。あたしは少し落ち着くようにテーブルについて、1つ深呼吸してから言った。
「昨日ね、草むしりの時にタキと一緒だったの。リョウはタキを知ってる?」
リョウは記憶を辿るように視線を泳がせた。
「うん、たぶん顔を見れば判ると思う。オレと同じか少し年上くらいの神官だよな。ひょろっとした感じの」
「そう、そのタキ。そのタキがね、あたしが今読んでるセーラの物語の元になった、セーラの日記があるって教えてくれたの。それでね、物語を読み終わったら、セーラの日記も読ませてくれるって、約束したの」
あたしはまだ少し興奮気味に話していたのだけど、リョウにはあたしが興奮している気持ちが判らないみたいだった。ちょっと首をかしげて、相変わらず微笑んだままだった。そんなリョウを見ていたらあたしも少し気分が萎えてしまったみたい。今まですごく嬉しかったのに、セーラの日記を読めることがあまりたいしたことじゃなかったような気がした。
そんなあたしの表情の変化を、リョウも感じたみたいだった。
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「ユーナはその日記の方をずっと読みたいと思ってたの?」
リョウは少し目を見開いて、強引に作ったような雰囲気の笑顔で言った。あたしがリョウの反応に引っかかって気分を萎えさせてしまったことに責任を感じたのかもしれない。でもあたしは、そんなリョウの心遣いに応えることができなかった。判ってしまったから。リョウはあたしが嬉しいと思ったことをあたしと同じようには喜べないんだ、って。
「……日記のことはね、昨日タキと話していて初めて知ったの。物語はセーラが書いた訳じゃないから、もしかしたら本当のセーラとは少し違うかもしれない。でも日記はセーラが自分で書いたものだから、本当のセーラなの。その日記を読めば、あたしは本当のセーラに会うことができるの」
リョウは文字が読めないから、物語を読んだことも日記を読んだこともない。だから昔の文章を読むことがどんなことなのか判らなくてあたりまえなんだ。
「そうか。……よかったな、ユーナ」
「うん、ありがとリョウ」
リョウがあたしの頭をなでる。リョウはいつでもあたしに優しくしてくれる。あたしの話を毎日聞いてくれて、嬉しい時には一緒に喜んでくれる。リョウに判らないことがあっても仕方がないんだ。でも、こんなにはっきり判ってしまったのが初めてだったから、あたしは自分で思ってもみなかったくらい、大きなショックを受けていた。
そんなあたしの落ち込みは、もしかしたらリョウにもショックを与えたのかもしれない。それからほんの少し会話を交わしただけで、リョウは宿舎をあとにしていた。
リョウがドアを出て行ったあと、今までずっとあたしたちの様子を見ていたカーヤが言った。
「ユーナ、余計なことかもしれないけど……。男の人と2人で話しているとき、他の男の人の話題は相手にとってはあまり気分がいいものじゃないかもしれないわよ。あたしだったら、好きな男の人に他の女の子の話はできればしてほしくないもの」
その言葉に、あたしは更に別の意味のショックを覚えていた。
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リョウは狩人だから、巫女のあたしがすごく嬉しいと感じたことを、同じくらいに嬉しいと感じることはできない。あたしだって狩人のリョウの気持ちを本当に理解することはできない。でも、リョウがカザムを仕留めたことをすごく喜んでいたら、あたしだって嬉しいんだ。リョウが喜んでいるってだけで、あたしは喜ぶことができるんだ。
あたしがセーラの日記を読めることをリョウも喜んでくれた。リョウには判らないことだったけど、あたしが喜んでいたから、リョウは「よかったな、ユーナ」って言ってくれたんだ。
「……カーヤ、リョウはタキのことを気にしてたのかな」
しばらくの沈黙のあとそう言ったら、カーヤは少しほっとしたように笑顔を見せた。
「なんとなくね、そうじゃないかな、って思っただけなの。あたしの勘違いかもしれないけど」
「ううん、勘違いじゃないかもしれないわ」
たぶんカーヤが言ったことも本当なんだ。リョウは、あたしがいきなりタキの話を始めたから、気分を悪くしてしまったんだ。だからすぐにはあたしと一緒に喜ぶことができなかったんだ。
リョウはいつもすごく優しくて、自分が怒っていたとしてもぜったいに表情に出さない。今日だってずっと微笑んでいたんだもん。もしもカーヤが言ってくれなかったら、あたしはリョウが怒ってたかもしれないなんて、ぜったいに思わなかっただろう。もしかしたら今までもリョウが怒った時はあったのかもしれない。あたしはずっと気付かないで、リョウを傷つけてたかもしれないんだ。
リョウはたぶん、ものすごく強い意思を持って、人に優しくしようとしてるんだ。あたしは今までずっと、そんなリョウの優しさに甘え続けてきた。本当はリョウがどう思ってるのかなんて、気付こうとすらしなかったんだ。
この1年で、あたし、リョウに嫌われなかった? あたしが祈りの巫女になったあの時、一緒に暮らしたいって言ってくれた、あの時と同じ気持ちで今でもいてくれてる?
それとも、知らない間にあたしは嫌われていて、リョウの中にはもう優しさだけしかないの……?
今までの自分があまりに何も知らな過ぎたことに気付いたその夜、あたしはベッドの中でいつまでも眠れずにいた。
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翌日も、あたしは朝からずっとセーラの物語を読み進めていった。そろそろ改めてマイラにお祝いを言いたかったから、午前中少し頑張って物語を進めて、午後からマイラの家に行こうと思っていたの。ほんとは、マイラにリョウのことを相談してみたかった。マイラがベイクと結婚した時の話とか、あたしが知らないリョウのこととか、訊いてみたいことがあたしにはたくさんあったから。
物語のセーラは15歳になっていた。セーラが恋するジムは19歳で、きこりの仕事をしているの。セーラはその前からずっとジムにまとわりついてて、ジムはいつもうるさそうにあしらってたんだけど、この頃になってようやくセーラの言葉に耳を傾けるようになってきた。気が強いセーラは、このとき初めて、ジムに告白したんだ。
『あたし、ジムと結婚するの。ずっと前から決めてるの』
あたしはまわりのことなんか一切忘れて物語に熱中した。ジムの返事を待っているセーラと同じ気持ちになって、ドキドキしながらページをめくった。これは物語だから、セーラの心の中が細かく描写されてて、あたしはその部分を読み飛ばして早く返事のところを読みたくなったけど、なんとか我慢して順番どおり読み進めた。
やがて、しばらくの沈黙のあとのジムのセリフ。
『……なんでオレがセーラと結婚するんだよ。そんなこと、勝手に決めるなよ』
あたし、しばらく呆然としちゃったよ。そのあとなんだかすごく腹が立ってきた。物語の先を読んでいくと、セーラもあたしとほとんど同じ気持ちで呆然として、そのあと怒りに変わったみたい。あたしが言いたかったセリフとよく似たセリフをジムに投げつけたの。
『そんな言い方ってないでしょ! それが自分を好きになってくれた人への言葉なの? 嬉しいとか、ありがたいとか、そういう気持ちはぜんぜんない訳?』
『どうしてセーラに好かれてオレがありがたがらなきゃならないんだ。おまえなんかと結婚したら、毎日が夫婦喧嘩で終わるだろ。オレはもっとおとなしくて優しい女の子がいい。おまえにももっと優しい奴が合ってるよ。ほら、アサとか』
アサはセーラに恋している神官で、ジムとも友達だった。このときはまだアサはセーラに告白していなかったけど、セーラもアサの気持ちにはなんとなく気付いていたんだ。
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『あたしどうしてあんな奴のことが好きなんだろ!』
部屋に戻ってから、セーラはジムを罵倒して涙を流した。セーラはジムのことが大好きだったから、毎日のようにお昼にお弁当を作って森の中に届けたりしていたの。ジムはきこりで、毎日同じ場所にいるわけじゃないから、時にはジムが見つからなくてお弁当が無駄になってしまうこともあった。でも、運良く探し当てた時には、ジムもちゃんとお礼を言って、自分が持ってきた分とセーラが持ってきた分、両方ともぺろりと平らげていたの。
祈りの儀式のときには、村の平和を祈ったあと、こっそりジムの無事を祈ってた。気が強くて、だからよくジムと喧嘩ばかりしていたけど、あたしは一途なセーラを1番知ってたから、セーラの失恋はあたしにはすごくショックだった。
たくさん泣いて、たくさん怒って、あたし、セーラがこの恋を諦めるんだと思ってた。でも、セーラは諦めなかったんだ。
あんなに泣いたのに、翌日にはけろっとして、朝から一生懸命お弁当を作ってジムを森の中に探しに行った。ジムの方はまたセーラをうるさく思ってた頃の態度に戻っていたけど、セーラの態度はぜんぜん変わらなくて、ジムと本気で喧嘩をして、反面神殿ではジムの無事を真剣に祈っていた。
すごく大胆で、その上繊細なセーラの恋。ジムと本音でぶつかり合う激しい恋。1回失恋したくらいじゃ消えない、とっても強い恋。あたしはそんなセーラの恋に、今までよりもずっと夢中になって物語の中に入り込んでいた。だから、自分の名前がユーナで、現代の祈りの巫女だってことも忘れてたみたい。それに気がついたのは、誰かがあたしの身体をゆすって、本を閉じてしまったからだった。
「ユーナ、ユーナ、お願い、返事して」
あたしがまだ物語の世界から戻れなくて、呆然と顔を上げると、カーヤがすごく心配そうな顔であたしを見下ろしていた。
「……カーヤ?」
そう返事ができるまでにもずいぶん時間がかかったと思う。あたし、カーヤの名前を一瞬思い出せなかったんだ。
「ユーナ、そんなに夢中になってはダメよ。食事をとらなければ身体に悪いし、目も悪くするわ」
言われて見回すと、あたりは既に夕闇に包まれていた。
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カーヤは少し悲しそうな表情をしているように、あたしには見えた。だんだん思い出してきた。あたしは朝食のあと物語を読み始めて、それからずっと物語の世界にいたんだ。今が夕方だとすると、お昼ご飯も食べずにいたことになる。あたし、あまりに物語に夢中になりすぎて、カーヤが昼食に呼んだことにすら気がつかなかったんだ。
「ごめんなさいカーヤ! あたし、カーヤが作ってくれたお昼ご飯食べなかった!」
ようやくあたしがまともに返事をしたからだろう、カーヤも少し安心したみたいだった。
「何回か呼んだんだけどね、あんまり夢中だったから、あたしもかわいそうになっちゃって。でもさすがに夕ご飯くらいはちゃんと食べなきゃ身体に悪いわ。さ、食卓にきて」
カーヤに背中を押されて部屋を出ると、食卓には既に夕食が並べられていた。あたしはなんだかお腹がしくしくしてしまって、すぐに食べられる気がしなかった。でも、せっかくカーヤが用意してくれたんだもん。食卓について、いただきますを言って、スープを何口か飲んでいたら、だんだんあたしのお腹が空き過ぎてたんだってことに気がついた。
「このハムのスープおいしい」
「よかった。たくさんあるからおかわりしてね」
「うん、ありがと。……そうだ、リョウは?」
あたしは気付いてカーヤに訊いた。いつもリョウは、夕食の前には来てくれてたんだ。
「今日も来てくれたわよ。でも、ユーナは呼んでもこないし、あたしが今日はユーナはずっと本を読んでたって言ったら、それなら邪魔しなくてもいいって。すぐに帰ったわ」
「そんな! ……リョウ、怒ってなかった?」
「そうね、怒ってるようには見えなかったわ。逆に、ユーナらしい、って笑ってたわよ。一生懸命になると周りのことが何も見えなくなるのがユーナなんだ、って」
あたし、カーヤの言葉に少しだけ気が楽になっていたけど、でもそれならなおさらリョウに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
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あたしは、1つのことに夢中になると、周りのことが何も見えなくなる。昨日そのことに改めて気付いたから、今日は朝から物語には一切手をつけなかった。久しぶりにカーヤの朝食の支度を手伝って、ジャガイモの皮を剥こうとしたら、カーヤがあたしの手元を見て何かを言いたそうに目を見開いた。
「どうしたの、カーヤ?」
「うん、えっと……。やっぱりお手伝いはいいわユーナ。椅子に座って待ってて」
なんだかカーヤはあたしの包丁使いに言いたいことがあるみたい。確かにあたし、このところ料理はぜんぶカーヤに任せきりだったけど、家にいる時はちゃんとお手伝いもしてたし、そんなに危ない持ち方はしてないと思うんだけど。
「あたしの包丁の使い方、おかしい?」
「ううん、そうじゃないの。ただ……ユーナにはたぶん判らないことで、どうすることもできないことだから。でもこれはあたしの料理だからやっぱり野菜はちゃんと使ってあげたいし……」
カーヤが言ってることはあたしにはさっぱりわからなかった。たぶんそんな顔でカーヤを見てたんだと思う。1つ溜息を吐くみたいにして、カーヤは言った。
「あたしね、ユーナに話してないことがあるの。でもいい機会だから言っておくわね。……あたし、野菜の気持ちが判るのよ」
カーヤの言葉は、信じるとか信じないとか以前に、意味がよく判らなかったの。野菜の気持ちが判る、って……。野菜に気持ちなんかあるの? 切られたくないとか、食べられたくないとか、野菜が思ってたりするの?
「……ジャガイモがしゃべるの?」
「信じられなくても無理はないわ。でもね、生きてるものにはみんな心があるのよ。あたしには小さな頃から野菜の声が聞こえてたの。だから他の人は不思議に思っても、あたしには野菜がしゃべるのはあたりまえなのよ」
そう言ったカーヤは、あたしにはまるで初めて見る人のように見えた。
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