続・祈りの巫女



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 狩人のリョウは真っ黒に日焼けしていて、17歳でもう一人前の男の人だった。リョウと2人きりになると、なんだか少し怖い気がするの。それは1年前には感じてなかったことだった。リョウはいつもすごく優しかったのに、そんなリョウを怖いと思うのは少し変な気がした。
 セーラのジムもセーラより何歳か年上だった。彼女はジムを怖いと思ったことがあるのかな。セーラは気が強い子だから、あたしがリョウに思うような気持ちはなかったのかもしれない。
「それで? 神託の巫女の予言は聞けたの?」
 あたしはリョウにその時の様子をかいつまんで話した。神託の巫女の予言の様子や、マイラとベイクの幸せそうな顔。それから、帰り道で神託の巫女が言った、あたしがいずれ知らなければならないことがあるってこと。
 あたしはそうしてほとんど毎日、リョウにその日起こった出来事を話してきた。この1年余りの間、2日とあけずに。
「なんかね、神託の巫女があたしに言おうとしてることって、すごく嫌なことのような気がするの。ねえ、リョウ。マイラは幸せになれないの? あたしはただマイラに幸せになって欲しいだけなのに」
「どうして幸せになれないなんて思うんだ? 祈りの巫女が1年も祈って、願いはかなえられたんだろ? もっと自分と神様を信じなよ。だいたい神託の巫女が言ってた事だって、マイラのこととは限らないじゃない。予言に嘘がないならマイラの子供は幸せになるよ。子供が幸せならマイラだって幸せだよ」
「……うん、そうよね。あたしもリョウの言うとおりだと思う。神託の巫女の話だって、聞く前からあれこれ考えてもしかたないよね」
「そうだよ。……やっとユーナらしくなったな」
 そう言って、リョウはまたあたしの頭をなでた。あたしの気持ちは少しだけ軽くなってたけど、リョウが言うようにいつものあたしらしくはまだなってない気がした。
 物語を読んでいると判る。祈りの巫女が生まれる時代には、必ず何かの災いがあるんだってこと。その災いはいつも避けられてきたけれど、あたしがその災いを避けることができるかどうかなんて、まだ誰にも判らないんだ。


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 リョウは狩人だから、文字も読めなかったし、巫女の歴史を勉強したこともない。だから、あたしが不安に思ってることが、リョウには判らないかもしれないんだ。それは少し前からあたしが感じてきたことだった。狩人のリョウと、巫女のあたしとの距離は、少しずつだけど離れ始めてるのかもしれない、って。
 リョウが今でもあたしと一緒に暮らしたいと思ってるかどうかなんて、リョウ自身にしか判らないんだ。
 だんだん、リョウに訊けないことが増えていく。小さな子供の頃だったら素直に訊けていたのかもしれないのに。
 リョウは、いつ、誰と結婚したいの……?
「ねえ、リョウは? 今日リョウは何をしてたの?」
 リョウはとたんに目を輝かせて、あたしに話し始めた。
「ルギドの穴を捜してたんだ。放っておくと村の畑に来て土の中を荒らしまわるからね。いくつか見つけて、入口に罠を仕掛けてきた。今の時期だとこの仕事が一番重要かな。午後からは南の森で雄のカザムを一頭仕留めたよ」
「ほんとに? すごい」
「カチに細工用の角を頼まれててね。もう少し腕を上げて、カチにワガママ言えるくらいになったら、北カザムの角でユーナの髪飾りを作ってもらうな」
「あたしの……?」
「まだずっと先のことだと思うけどね。とりあえずそれが今のオレの目標」
 リョウはほんとに嬉しそうにそう言ったから、あたしまた期待しちゃうよ。誰にでも優しいリョウ。その優しさが、あたし1人のものなんじゃないか、って。
 リョウの顔がまともに見られない。口を開いたら憎まれ口を言いそうで、あたしは下を向いたまま何も言うことができなかった。
「さあて、時間も遅いし、カーヤが戻ってくる前に帰ろうか。ユーナ、またな」
 もう一度あたしの頭に手を置いて、顔を上げたあたしににっこり微笑んで、リョウはドアを出て行った。


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 あたしが祈りの巫女になってから、リョウは毎日話しにきてくれるようになった。それまでのリョウはなんだかそっけなくて、あたしが話し掛けてもいつも忙しそうにしてたから、毎日きてくれるようになったのがすごく嬉しくて、その日勉強したことや、誰かと話したこと、たくさんリョウに話した。リョウがそばにいるのが楽しくて、リョウがいろいろ話してくれるのが嬉しくて、リョウが来てくれるのが毎日の楽しみだった。リョウの家を建てる時にみんなで手伝いに行った。あたしはお弁当を作るくらいしかできなかったけど、でもリョウのために役に立てるのがすごく嬉しかった。
 今でも毎日リョウは来てくれる。あたしの話を聞いてくれて、あたしにいろいろ話してくれる。前と同じなのに、前ほど楽しくないの。あたし欲張りなのかな。1つ願いがかなったら、今度は次の願いをかなえたいと思っちゃうの。
 大好きなリョウの1番になりたい。リョウが1番好きで、1番大切にしてくれる女の子になりたい。誰にでも向ける優しさじゃなくて、あたしだけに向けてくれる優しさが欲しい。だって、リョウはカーヤにも同じように優しいんだもん。カーヤに優しく笑いかけてるリョウを見るのが、なんだかすごく悔しいと思うの。
 あたしだけのリョウを願っちゃいけないのかな。それって、あたしのワガママなのかな。誰にでも優しいのがリョウだから、そんなリョウのことを好きになったあたしは、リョウがほかの人に優しくするのも我慢しなきゃいけないのかな。
 それとも、リョウがあたしに優しいのも、ほかの人への優しさと同じなのかな……
 あたしがそうして考えつづけてた時、遠慮がちにドアがノックされて、小さく開かれたドアからカーヤが顔をのぞかせた。
「ユーナ、……よかった、1人ね」
 あたしは気分を切り替えて、カーヤに笑いかけた。
「どうしたの? リョウはもう帰ったわよ。入ってくるのに遠慮なんかしなくてもいいのに」
「深刻な話をしてるかと思ったのよ。……実はね、守りの長老がユーナを呼んでるの。夕食がまだなんだって言ったんだけど、そんなに時間は取らせないから、って」
 カーヤの言葉で、あたしはその話が今朝の神託の巫女の話と関係があることを、おぼろげながら察していた。


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 守りの長老の家は神殿の左側、神官の宿舎が並んだ奥にあった。カーヤは明かりを持ってドアの前まで送り届けてくれたけど、呼ばれていたのはあたしだけだったから、そのまま引き返していってしまった。ドアをノックすると、中から守護の巫女がドアを開けてあたしを迎え入れてくれる。部屋の中には守護の巫女と神託の巫女、そして、奥に守りの長老が座っていた。
 守りの長老は神殿の神官の最高位で、最高齢でもある。たぶん60歳は超えてるんじゃないのかな。巫女で同じ位置にいるのが守護の巫女で、こちらはまだ40台くらい。神託の巫女は30台くらいで、名前がある巫女や神官の中では、当然あたしがいちばん若い巫女だった。でも今の神託の巫女は20台の頃に巫女を継いだから、巫女の中では出世が早い方だった。
 大きなテーブルのいちばん向こうに守りの長老がいて、その左に守護の巫女と神託の巫女がついている。あたしは促されて、長老に向かって右側の席に腰掛けた。
 最初に口を開いたのは、あたしの正面に座った守護の巫女だった。
「祈りの巫女、突然呼び出したりしてびっくりしたでしょう?」
 あたしは素直にうなずくことで答えた。
「でも、そんなに緊張しなくていいわ。今日は、祈りの巫女が儀式を受けてから1年余り経って、巫女としての生活にも慣れてきただろうし、少し神殿の現状について話をするだけだから。あまり深刻に取らないで聞いてちょうだいね」
 守護の巫女の声は穏やかで、あたしは少しだけ緊張を解くことができた。あたしが視線を移すと、神託の巫女も微笑んでくれた。2人とも、あたしが若い巫女だから気を使ってくれてるんだ。あたしもしっかりしなくちゃ。そう思って、2人に微笑みかけた。
「実はね、ここ……もう30年くらい前からだけど、神託の巫女が行う誕生の予言の中にある予兆が見えるようになってきたの。あなたが生まれたのが14年前で、その予兆は現実味を帯びてきた。祈りの巫女がその時代に必要とされて生まれてくる巫女だからよ」
 この1年間、ずっと祈りの巫女の勉強をしてきて、あたしにもわかった。あたしは何かの災いを回避するために生まれてきたんだ、ってこと。
「神託の巫女の予言に含まれるのは、死の予兆。たくさんの人がある同じ時期に死を迎える予兆なの」


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 このとき、あたしは初めて口を開いていた。
「何が起こるのかは判らないの? 飢饉とか、争いとか」
 ある程度覚悟ができてたのかな。あたしは自分でも不思議なくらい、取り乱したりすることはなかった。
「判らないのよ。運命の巫女が未来を見ても、それがいつ起こるのか、その時何が起こるのか、何も判らないの。すでに決まってしまった未来なら運命の巫女は見ることができるわ。運命の巫女に未来が見えないのは、未来がまだ決まっていないから。その未来は、おそらく祈りの巫女が握っているのだと思うの」
 あたしが、未来を握ってる。
 この先で何が起こるのか、それとも何も起こらないのか、それはすべてあたしにかかってる。あたしの祈りがみんなの運命を握ってる。
 あたしは祈りの巫女。特別な時代に生まれてきて、人々の祈りを神様に届ける役割を負う。あたしがみんなを幸せにしなきゃいけないんだ。
「もっともっと、たくさん勉強しなくちゃいけないのね。祈りが神様にちゃんと届くように」
 あたしが取り乱さなかったことを、守護の巫女は少し意外に思ったみたいだった。明らかにほっとしたような笑顔で言った。
「今までずっと、祈りの巫女は災いを退けてきたわ。神様はあなたに不可能だと思うような試練を与えたりしない。自分の力を信じて、今のあなたにできる限りのことをすればいいと思うの。あなたが生まれてきたことがすでに幸運なのよ」
「救いもあるわ。今、命の巫女は生まれていない。だからそれほど大きな災いではないのよ。祈りの巫女ユーナが背負うものは、2代目のセーラのときよりずっと小さな災いのはずだわ」
 神託の巫女が引き継いで、あたしの気持ちをできるだけ楽にしてくれようとする。その気持ちが嬉しかった。だけど ――
  ―― 誰も、祈りの巫女にはなれない。あたしの代わりにその宿命を背負うことなんてできない。
「……祈りの巫女ユーナ。そなたの命があることがすでに幸運なのだ。騎士がそなたを守るだろう」
 その時初めて、守りの長老が重い口を開いた。


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 騎士があたしを守ってくれる。あたしには騎士がいるの? セーラにジムとアサがいたように、あたしにもあたしを守ってくれる騎士がいるの?
「守りの長老、それは……」
 考えたこともなかった。祈りの巫女には騎士がいることがある。でも騎士はいつでも2人揃っている訳じゃないし、歴史の中には騎士がいない祈りの巫女の方が多いんだ。あたしに騎士がいるなんて、今まで思ってもみなかったことなのに。
「あたしには騎士がいるの? それは誰……?」
 守りの長老は答えてはくれようとはしなかった。沈黙を破ったのは神託の巫女だった。
「祈りの巫女、騎士の存在は誰も知らないのよ。もちろん私は知ってるけどね。あなたには教えられないわ。理由は判るでしょう?」
 騎士は、その時がくるまで、自分が騎士であることを知ってちゃいけない。その理由は判らないけど、あたしがそれを知ってると、騎士に自分が騎士であることを悟られてしまう。だからあたしは騎士の存在を知ってちゃいけないんだ。
「守りの長老、その話は祈りの巫女には内緒だって言ったでしょう?」
 神託の巫女に叱責されて、守りの長老は黙り込んでしまったけど、あたしはなぜ守りの長老が禁を破ったのか、なんとなく判った。
 あたしの宿命を背負うことは誰にもできないけど、同じ宿命を背負った人がほかにもいるんだよ、って、守りの長老はそう言ってくれようとしたんだ。
「守りの長老ありがとう。守りの長老は前にも言ってくれたわ。ユーナの命があることを神に感謝しよう、って。あの頃からみんな災いのことを知ってたのね。あたしの命は、ここにいるみんなの希望なんだわ」
 あたしの命は一度消えかけた。幼いあの日、シュウが助けてくれた命。あたしの命がある限り希望は消えない。もしかしたら、シュウこそがあたしの騎士だったのかもしれない。
 シュウは今でもあたしを守ってくれる。そう信じてるのは悪いことじゃないよね。自分ひとりだけ、シュウを騎士と呼んでも。
 祈りの巫女の誕生が災いを運んでくるんじゃないんだって、あたしはそう信じていたかったのかもしれない。


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 カーヤの心づくしの夕食を食べて、あたしは勉強部屋に戻って、自分の日記をつけ始めた。この日記はのちの神官が物語に起こしてくれる。だからいいかげんに書くこともできなかったし、嘘もつけなかった。今日の出来事を正確に正直に、できるだけ丁寧な文字で書き綴っていった。
 そして、眠る前のその時間、あたしはまた神殿にきていた。マイラの子供が無事に生まれた感謝の気持ちを神様に伝えるために。
 神殿のあちこちに順番にろうそくを立てて、聖火を移して、順番にともしていく。床に水滴をたらしながら結界を張って、螺旋を描いて歩く。何度か歩いているうちに、徐々に神様と祈りの巫女との心の距離が近づいていく。あたしは、神様の前に、心のすべてを開放する。
  ―― あたしはまだこんなに未熟です。でも、マイラの幸せを願う気持ちは本物。神様、マイラの幸せのために子供を授けてくださって、本当にありがとうございました。この先は、マイラが自分の力で幸せになります。どうか、マイラが幸せになるための力を、彼女に授けてあげてください。
 祈りを捧げているあたしには、神様の気配がすぐそばに感じられる。代々の祈りの巫女の中には神様の声を聞いた人もいたけれど、あたしにはまだ神様の声は聞こえなかった。神様の気配は、あたしが優しい気持ちでいれば優しく、厳しい気持ちなら厳しく感じられた。今日の神様は、あたしの不安を映したように、ひどく不明瞭な気配を発していた。
 神様に祈ることは、自分の心を知ること。祈りを終えてろうそくを集めながら、あたしは自分の心を見つめた。あたしがこれから本当にしたいと思うこと。リョウが、カチに髪飾りを作ってもらうのが目標だと言ったように、マイラの祈りを終えた今、あたしもまた祈りの巫女の目標を定めなければいけないんだ。
 マイラが幸せになって、神託の巫女の死の予兆を知った今が、あたしの折り返し点なのかもしれない。
「ねえ、カーヤ。あたしこれから何をすればいいと思う?」
「祈りの巫女、人間は焦ると普段の半分の力しか出せなくなるのよ」
 カーヤの言うことはもっともで、でもあたしは心の中のもやもやをどうしたらいいのか判らずにいた。


18
 翌日は毎年恒例の草むしりの日だった。神殿や宿舎の周りの雑草を、巫女と神官が総出できれいにするの。あたしは今年で2回目だった。朝から日よけの帽子やシャベルを用意して、神殿前の広場にみんなで集まった。
 少しの説明を受けて、担当の場所を教えてもらって、あたしは守りの長老が住む宿舎の裏手に向かう。その場所の担当はあたしのほかには神官のタキ。たぶんリョウよりも少し年上くらいで、主に昔の書物を新しく書き直す仕事をしている神官だった。
「よろしく祈りの巫女」
「こちらこそ。がんばろうね」
「向こうの端から一緒にやっていこうか」
 あたしはタキの指示に従って、タキの隣で地面を掘り返し始めた。まだ朝も早くて神殿の全体が山の陰になってるからそれほど暑くは感じない。でも、ここはもともと日が当たる場所だったから、雑草もけっこう長く伸びていて、シャベルを使っても引き抜くのは大変だった。隣のタキは慣れてるみたいで、見る間に土の見える範囲を広げている。あたしも負けないように一生懸命草を抜いた。だって、あたしがちゃんと頑張らなかったら、タキにも迷惑をかけることになるんだもん。
 ふいにタキは顔を上げて、そんなあたしの様子を見て笑った。
「祈りの巫女、そんなに飛ばすと夕方まで持たないよ。もっとゆっくりやればいいよ」
 タキの言葉で、あたしは去年のことを思い出した。初めて草むしりに参加したあの時、あたしはお日様の熱さに耐えられなくて、午後にはフラフラになって日陰で休ませてもらったんだ。
「タキの方がずっと早いわ。タキにばっかりやらせてたらサボってるみたいだもん」
「そんなこと誰も思わないよ。それより、祈りの巫女がまた倒れたら、オレが無茶させたみたいじゃないか。いいからゆっくりやりなって。祈りの巫女の分もちゃんとオレが引き受けるからさ」
 あたしは、タキの心遣いが嬉しくもあったのだけど、やっぱりなんだか悔しかった。あたしだってちゃんと一人前の巫女なんだもん。タキに子供扱いされている気がして、あたしはタキに返事をすることも、手を休めることもできなかった。


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「情がこわいな、祈りの巫女は」
 タキが半分笑いながらからかうように言って、あたしは再び顔を上げてタキを見た。タキの笑顔の中にはあたしに対するほほえましさのようなものが混じっていて、あたしはまた子供扱いされてることを感じていた。ちょっと腹が立ったけど……あたしが子供扱いされるのって、もしかしたら自分が悪いのかもしれないって思い直した。リョウはカーヤを子供扱いしたりしない。こんな時、カーヤだったらきっと素直にタキに甘えていたから。
「ごめんなさい。あたしが倒れたらタキに迷惑をかけるのよね。タキの言う通りゆっくりやるわ」
 あたしがそう言って微笑んだら、タキの様子がみるみる変わって、あたしの方が驚いてしまった。
「……んまあ、なんにでも一生懸命なのは祈りの巫女のいいところでもあるんだけどね」
 あたしの視線を避けるように目を伏せて、口の中でぼそぼそと言ったあと、あたしに背を向けてまた草むしりを始めてしまったの。これって、あたしにはすごく新鮮な驚きだった。だって、タキはぜったいあたしをからかうつもりだったはずなのに、それが途中からできなくなっちゃったんだもん。
 こんなに簡単なことだったんだ。それが判ったあたしは嬉しくて、自然に顔がほころんでいた。そうしてニヤニヤしながらしばらく無言で草むしりを続けていたら、やがてタキがまた話し掛けてきた。
「2代目祈りの巫女の物語を読んでるの?」
 タキは微笑んでいたけれど、もうあたしをからかうつもりはないみたいだった。
「うん、セーラの物語ね」
「3年くらい前だったかな、オレも清書を手伝ったよ。今祈りの巫女が読んでる中にはオレが書いたページもあるんだ」
「え? そうなの?」
「12代目の祈りの巫女が読む本だから心をこめて慎重に書くようにって、何度も言われたな。オレにとっても初めての清書だったし。だから楽しみだった。君があの本を読んでくれる日がくるのが」


20
 タキは穏やかな笑顔で話してくれて、あたしにはタキが本当に喜んでくれていることが判った。あたしが読んでいるセーラの物語は、1300年も前に生きていたセーラの日記を、のちの神官が物語に起こしたもの。それからすごく長い時間を、タキのような神官たちがずっと書き直してくれていたんだ。だからあたしはセーラの物語を読むことができる。まるで昨日生きていた人のように、セーラを身近に感じることができる。
 もしも途中で誰かが書くことをやめてしまっていたら、あたしはセーラに出会うことはできなかった。あたしはすごくたくさんの神官たちに助けられてるんだ。その人たちの名前をあたしは知らない。そして、あたしの次の代の祈りの巫女は、タキの名前を知ることもないんだ。
 それでも、タキは物語を書き写して、あたしが今それを読んでることを喜んでくれる。タキの名前はどこにも残らないのに。タキがここに生きてたことを、この先生まれてくる人は誰も知らないのに。
「ねえ、タキはどうして神官になったの?」
 あたしがそう聞くと、タキはちょっと驚いたように、視線を泳がせた。
「……そうだな。オレはそれほど身体を動かすのが得意じゃなかったし、子供の頃から独りで考え事をするのが好きだったんだ。例えばね、晴れた日の空は青くて曇りの日の空が白いのはどうしてかとか、太陽が毎日東からのぼって西に沈むのがどうしてなのかとか。祈りの巫女は不思議に思わない? 毎年同じ頃に草は芽を出して、夏の初めにはこうして草むしりもしなきゃならない。だけど冬になれば自然に枯れていく。そういうのが」
 タキの答えはあたしが今まで考えもしなかったことで、だから今度はあたしの方がびっくりしてしまったの。
「そんなこと、あたりまえだと思ってたわ。春に花が咲くのも、秋に枯葉が落ちるのも。ああ、もう秋なんだな、って」
 何がおかしかったのか、タキはあたしを見て、ちょっと吹き出すように笑った。
「そういうことをね、昔の人がどう思ってたのか、オレは知りたかったんだ。だから神官になって文字を覚えて、昔の本を読みたかった。中にはオレが思ったようなことを思ってた人もいて、答えを教えてくれるかもしれなかったから」


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