真・祈りの巫女



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 本当の別れをあたしは知らなかった。だけど、たとえば今そばにいてくれるカーヤとも、いつかは別れるときがくる。出会った人とは必ず別れなければならなくなる。それは相手の死だったり、自分の死だったりするけれど、必ずやってきてぜったいに避けられないものなんだ。
 だとしたら早いか遅いかだけの違いしかないんだもん。リョウは、とつぜん現われて、あっという間に消えてしまった人。それでもあたしの中に残ったものは果てしない。だからあたしはむしろ、リョウと出会えたことをこそ喜ぶべきなんだ。本当だったらぜったい出会えなかった人に出会えたんだって、そのことを。
「そうだ、あたし、お夕食の前に出かけてくる」
「どこへ行くの?」
「タキのところ。帰ってきてからまだ1度も顔を見せてなかったから。それに怪我の具合も気になるし」
「今から? そんなに急がなくても、明日にすればいいんじゃないの?」
 明日はきっと、リョウがいなくなって神殿は大騒ぎになってしまうだろう。あたし自身も笑って人と会える状態じゃなくなってるかもしれない。
「思い立ったら早い方がいいわ。大丈夫。ちゃんと夕食までには帰ってくるから」
 不思議そうに見つめるカーヤとはあまり目を合わせないようにして、あたしは宿舎を飛び出した。そのまま神官の共同宿舎を訪れて、タキの病室が変わっていないことだけ確認してから奥の部屋をノックしたの。返事を聞いてドアを開けると、タキはうつ伏せで寝転がって本を読んでいたんだ。
「あれ? 命の巫女。どうしたの? まだ諦めてないの?」
 あたし、ちょっと驚いて呆然と立ち尽くしてしまったみたい。命の巫女と間違えられるのは久しぶりで、いきなりのことでどう反応していいか判らなかったの。タキにもあたしの戸惑いは伝わったんだろう。すぐに身体を起こして言った。
「……もしかして、祈りの巫女かな? 髪飾りをつけていないけど」


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 そうか。あたし、さっき部屋で髪飾りをはずしてそのまま出てきちゃったんだ。
「ごめんなさいタキ。あたし、髪飾りをつけ忘れたみたい。あたしは祈りの巫女で間違いないわ」
「そう。でも珍しいね。髪飾りを外した祈りの巫女なんて、オレはここしばらく見てなかったから」
 タキと話しながら枕もとの椅子に腰掛けて、あたしは自分でちょっと驚いていたの。15歳の誕生日でリョウにプレゼントされたときから、あたしはあの髪飾りをはずして外に出たことなんてほとんどないんだ。それなのに、さっき髪を整えたあと髪飾りをつけ忘れるなんて。
「……あの、タキは元気そうね。本なんか読んでて大丈夫なの?」
「さすがに退屈でね。祈りの巫女は? まだ体調が悪そうだって聞いたけど」
「うん、身体の方は元気よ。今日は村へも行ってきたくらいだから。早ければ明日にも仕事復帰できるわ」
「それは良かった。君がいなくなったって聞いたときにはみんな心配したんだけどね。大きな怪我もなく帰ってきてくれて本当によかったよ。やっぱり君は、神様に守られているんだね」
 そう言ってタキは微笑んでくれる。うつ伏せのままのタキの怪我はまだ長引きそうに見えたから、あたしは少し胸が痛んだ。
「……で? どうしたの? ……オレは別に、祈りの巫女が見舞いに来てくれるのはいつでも大歓迎なんだけど。なにか心配ごと?」
 タキの方から聞く態勢に入ってくれていた。それはもしかしたら、あたしのちょっとした表情を読み取ったからなのかもしれない。
「タキ、命の巫女たちが明日帰るって話は聞いてる?」
「昨日きてくれたときに話してたからね。本当はもっといろいろな話をシュウに聞きたかったけど、彼らも自分の世界での生活があるから。オレも身体が動きさえすれば本の執筆なんかも手伝いたかったよ」
「……リョウも」
「え?」
「リョウも帰るの。……命の巫女たちと一緒に、リョウも自分の村へ帰るの。……さっき、リョウに服と持ち物を渡してきたの」
 タキが驚いたように目を丸くした。あたしはタキの視線に耐えられなくて目を伏せた。


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「タキにだけは、話しておこうと思って。……たぶん、リョウがいきなりいなくなったら、神殿のみんなが驚くから。あたし1人じゃみんなに上手な説明ができないかもしれないから」
「……リョウに渡した、って。あの、ランドに預かってもらってた?」
「うん。ケータイデンワと血のついた服が入ってた」
「それで? リョウは帰るって?」
「はっきりそう言った訳じゃないけど、嘘がバレたらここにいる理由はないもの。あたしが1人でも大丈夫だって言ったら、判った、って。……優しい人だから、あたしを気遣ってはっきり帰るって言えなかったんだと思う」
 あたしが言葉を切ると、タキは少しの間うつむいて考え込んでいるように見えた。ようやくあたしは顔を上げて、タキが次の言葉を言ってくれるのを待っていたの。
「そう、か。……まあ、その方がいいかもしれないけど」
 つぶやくようにそう言って、タキはあたしの顔を見上げた。
「昨日さ、シュウと命の巫女が見舞いにきてくれたんだけど、実はオレの方はついででね。命の巫女がライを一緒に連れて帰りたいって、ローグに相談しにきたらしいんだ。ライは両親もいないし、大きな怪我をしていて、命の巫女の世界なら医学もここよりずっと進歩しているからちゃんと歩けるようになるんじゃないかって。ただ、シュウに言わせればそんなに簡単でもないらしい。ローグも反対していたから、けっきょく2人して命の巫女を説得することになってたみたいだけど」
 そういえば、さっきタキがあたしと命の巫女を間違えたとき「まだ諦めてないのか」って訊ねた。命の巫女は、最初にライを見たときに「連れて帰れないかな」って言ってた。それは些細なことで、あたしは忘れていたのに、命の巫女はちゃんと覚えていたんだ。
「そのときにシュウが言ってたんだけど、本来ならいないはずの人間がとつぜん現われたら、シュウたちの世界にどんな影響が出るか判らない、って。ライはこの村に属する人間で、シュウたちの世界では存在しないはずの人間なんだ」


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「たとえばライがシュウたちの世界で結婚して子供が生まれたら、その子供も本来なら存在しなかったはずの人間になる。ライの奥さんになった人も本当なら別の人と結婚して子供を産むはずだったかもしれないのに、その子は生まれなくなる。逆に、この村でライと結婚するはずの女性は結婚相手がいなくなる。たかが子供1人、って思うかもしれないけどね。たった1人でも時間が経てば経つほど歴史の歪みが広がっていくんだ」
 その話を、あたしはすぐに理解することができなかった。いきなり歴史の歪みがどうとか言われても頭がついていってくれなかったの。
「……同じことが言えると思うよ、リョウにも」
「……」
「リョウはシュウたちの世界に属する人間なんだ。リョウにはリョウの世界に将来結婚する相手がいるかもしれない。それだけが理由じゃないけど、リョウがいなくなればリョウの世界では確実に歪みができるからね。君がそう決心して、リョウが帰ることを承知したのなら、オレはそれが正しいことだと思うよ」
 そうか。ライは将来オミの娘と結婚する。もしも命の巫女がライを連れて行ってしまったら、オミの娘には結婚する相手がいなくなるんだ。本当だったら一緒になるはずの2人を引き裂いてしまうことになる。……リョウにも決まった相手がいたとしたら、あたしはリョウとその人とを引き裂くことになってたかもしれない。
 大丈夫。あたし、諦められる。だって、あたしは人を不幸にしてまで幸せになんかなれないもん。人を幸せにして初めて幸せになれるのが祈りの巫女なんだ。あたしは、1人の女性としてよりも、祈りの巫女として生きるべき人間だから。
「祈りの巫女?」
「あ、うん。ちょっと話が難しくて考え込んじゃった。でも、タキの話はなんとなく判ったわ。あたしの結婚相手はもう死んじゃってる。だからあたしは独りで生きていくのが正しいことなのね」
「……まあ、そういうことを言いたかったのともちょっと違うんだけど。まわりのことはオレに任せて、その先はゆっくり考えればいいよ」
 タキの返事は歯切れが悪かったけど、それでも微笑んでくれたから、あたしはタキを安心させるために笑顔を向けた。


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 タキの病室を出て宿舎に戻ったあと、カーヤと夕食をともにして自室で今日の日記を書いていたとき、命の巫女が来たという知らせを受けていた。すぐに部屋を出て食卓へ向かう。命の巫女とシュウは午前中に話していた通り、各宿舎へ挨拶に回っているところだった。
「本はもう書き終わったの?」
「タイムリミット。文章には自信がないけど、もう直している時間がなさそうだからね」
「量が多すぎるからあたしも諦めたわ。しゃべる言葉は同じだから、多少接続詞を間違えてても意味は判るでしょ。さすがにシュウはカンジケンテイ持ってるだけあって文字の間違いはないし」
「むしろおまえの悪筆の方が問題だよな。“ゆ”と“わ”と“れ”の区別がつかないのはなんとなく判るんだけど、どうして“キ”と“オ”が同じになるのかが判らない」
「同じじゃないよ! よく見ればちゃんと違いがあるんだから!」
「未来の神官たちに暗号解読をさせるつもりはなかったんだけどね。ユーナのあの文字じゃ結果的にはそうなりそうだ」
 昼間のときは言われっぱなしだったシュウが、今度はしっかり言い返していた。この言い合いも明日からは見られなくなるんだ。
「神官のみんなはすぐに解読したくなるわねきっと。タキなんか真っ先に始めちゃいそう」
「そう思ったからね、解読禁止にしてある。神官たちが約束を守ってくれさえすれば君が生きている間に解読されることはないよ」
「そうなの? そういう約束になってるの?」
「ああ。まあ、とうぜんその前に書き直しがあるだろうからついでに解読しちまうかもしれないけど。……ユーナの文字、そのまま書き直されたら完全に解読不可能になるだろうな」
「判ったわよ! あとでちゃんと解読表残していくから。それでいいんでしょ!」
 そういう約束があるのなら、きっと神官たちはちゃんと約束を守るだろう。そうか。あたしはシュウたちが書いた本を読むことはできないんだ。たぶんリョウやタキなんかも。
「ねえ、どうしてあたしが読んではいけないの? たとえ神様の正体が理解できなくてもあたしも読んでみたいのに」


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 シュウは少しだけ、あたしにどう話をしようか迷ったみたいだった。
「そうだな。……祈りの巫女、君は神様をどういう存在だと思う?」
「どうって。この世にあるすべてのものを作った存在だわ。村の過去も未来も、人間の運命も、すべてを司っている。あたしに祈りの力を与えて、あたしの祈りを聞き届けて村人を幸せにしてくれるのも神様よ。……影はあの時、神様を「計算するもの」と呼んでいたけど」
 シュウは一瞬だけ目を見開いたけど、でもそのあとに口調を変えることはしなかった。
「君は君なりに神様を感じて、今までの祈りの巫女や運命の巫女たちが感じてきた神様についての解釈を信じている。その解釈と信じるという気持ちはね、正しいことなんだ。ところが、正しいと思うことは時を経て変わっていく。それは人間が「探求するもの」だからだ」
 その「探求するもの」という言葉を聞いたとき、命の巫女が反応を示した。もしかしたら以前自分が探求の巫女と呼ばれていたことを思い出したのかもしれない。
「オレたちの歴史でもね、神はいろいろな信じ方をされてきた。この村では神を目に見えるものに投影することがないけれど、オレたちの歴史ではたとえば太陽に投影したり、身近な動物や時には実在する人間に投影したりね。オレたちの世界ではさまざまなものが解明されているけれど、まだ神様の存在に関しては未知のままだ。だからその中のなにが正しいのか、それともすべてが間違いなのかも判らない。オレがそのすべての解釈を正しいと思うのは、神を信じることでそのときの人間たちに与えられたものが計り知れないからなんだ。もう1つ、神を探求することで人間が得たものは更に貴重なものだと思ってる」
「……」
「影が言った「計算するもの」というのは、影にとっての真実だ。そして、オレにとっての真実はオレが書いた本の中にある。だけど、それらは君の解釈ほどにはこの村で真実じゃない。正しいものはいつも、そこに生きている人々の中から生まれてくるものなんだ」
「……よく、判らないわ。真実は常に1つだけじゃないの? いくつもあるものを真実と呼んでもいいの?」
「真実は人間1人1人、動物や植物にとってもそれぞれ違う。影の真実は必ずしも君の真実じゃない。だからオレは、君が真実を探求することを邪魔したくはないんだ。オレという存在を身近に感じた君は、きっとオレの真実を自分の真実だと勘違いしてしまうだろうから」


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 シュウが言うことは、いつものようにあたしにはほとんど理解できないものだった。たった1つだけ判ったのはシュウが最後に言った言葉。もしもあたしがシュウの本を読んだとしたら、あたしはシュウが書いた神様をそのまま信じてしまうだろうということ。それはあたしがシュウを知っているからなんだ。シュウは頭がよくて、誰よりも深い考えを持っているってことを、あたしは知っている。
 だけど、これから先のシュウを知らない世代の村人たちなら、もしかしたらシュウの神様を信じないかもしれない。
「なんとなく、しか判らないわ。シュウは自分の神様をあたしに信じて欲しくないのね。でも、それならどうして本を残していくの? 本を書かなければ誰もシュウの神様を知らずにいられるのに」
「真実は変わっていくものだ、って言ったよね。おそらく、これから先村の神様は何らかの変貌を遂げていくだろう。神官たちが神様を研究して、やがてどうしても解けない矛盾を見つけたとき、オレの本が役に立つかもしれない。あの本は今回の戦いでオレが経験した事実を克明に記してある。それに対するオレの解釈も書いてあるけど、本当に伝えたいのは事実の方だ。真実は人それぞれ違うけど、事実はたった1つしかないからね。それが、オレが本を書いた本当の理由だよ。……ほら、君は影の世界でオレと同じ経験をしているから」
 そうか、あの本はあたしには必要がない本なんだけど、これからの村人には必要になるかもしれない本なんだ。少なくともシュウはそう思ってる。だからあたしが生きている間は解読されないようにしたの。でもあたしは、シュウの言葉に少しのごまかしを感じていた。
 きっと丸め込まれたんだと思ってたけど、でもあたしはそれ以上シュウを追及しなかった。そのあと少しだけカーヤやオミと話をして、命の巫女たちは帰っていった。
 あたしは部屋に戻って日記の続きを書いた。今日の出来事を克明に。シュウが言った、真実は人の数だけあるけど、事実は1つだということも。この日記はあたしにとっては真実を集めたものだけど、でも人によってはそうとも言えないのかもしれない。シュウが言うのはきっとこういうことなんだろうな、なんてことを考えながら。
 あたしにとっての真実と、シュウにとっての真実は違う。たぶんリョウにとっての真実も違うんだろう。言葉では理解できたような気がしたけど、実はあたし、本当の意味はぜんぜん判っていなかったのかもしれない。
 今日の出来事のすべてと、シュウの言葉の意味とを結びつけることが、今のあたしにはできなかったんだ。


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 その夜、あたしはまったく眠ることができなかった。
 リョウには寝ぼけまなこのあたしを覚えていて欲しくなんかなかった。だけど、次から次へといろいろなことを考えてしまって、ぜんぜん眠気が訪れてくれなかったの。そのうち今眠ったら朝起きられないかもしれないなんて、変な緊張もしてきてしまった。別れに眠そうな顔も見せたくはなかったけど、きちんとお別れも言えないまま別れるのはもっと嫌だと思ったから。
 今、思い出そうとしても、リョウのことはあまり思い出せなかった。リョウとの時間は飛ぶように過ぎていって、思い出そうとすると影との戦いやさまざまなことが一気によみがえって混乱する。同時に込み上げてくる感情があって、勝手に涙が出て来るんだ。きっともう少し冷静になればいろいろ考えることはできるんだと思う。だけど今のあたしには冷静になることなんかぜんぜんできなかった。
 リョウのことは諦めなきゃいけないって、頭の中では判っているの。でも心がついてきてくれない。
 あたしのリョウは死んだんだ。もしもリョウが生き返らなかったら、あたしは今でもあの悲しみの中にいて、村が滅びていくのを黙って見ていることしかできなかっただろう。起きた出来事に意味を与えるなんてことは今までしたことがなかったけど、もしもあのリョウが現われたことに意味があるのだとしたら、きっとその2つだった。あたしがリョウの死から立ち直るためと、村の平和を取り戻すため。
 あの時リョウがきてくれたから、今のあたしは自分が大丈夫だって思える。リョウはあたしに、本来ならあたしが立ち直るために必要だったはずの長い時間をプレゼントしてくれたんだ。もちろんそれだけじゃない。もしかしたら村と一緒に死んでしまうかもしれなかったあたしの命を救ってくれた。……それで十分だよ。それ以上なんて、あたしは望んじゃいけない。
 自分を説得する言葉ならいくらでも考え付くことができる。あたしはちゃんと納得しているんだ。でも感情はあたしの意志を離れてあたしに涙を流させてる。
 笑ってリョウを送り出したい。そう、思ってるのに ――
 今、望みを言葉にしたら、きっとリョウを目の前にして零れ落ちてしまうだろう。リョウの胸に縋りついて叫んでしまうだろう。人は村から離れては生きていけない。リョウとあたしとはまったく違う村に根付いた人間同士なのに。
 命の巫女たちと約束した時刻まで、あたしはずっとベッドの上で人知れず涙を流し続けていた。


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 東の山の稜線がほのかな光を放ち始める頃、身支度をしたあたしはランプの灯りを頼りに重い足を引きずって神殿へと向かっていった。石段を登り切ると中から遠慮がちな低い会話が聞こえてくる。軽くノックをして扉を開けると、いくつか立てられたろうそくに照らされて命の巫女とシュウが振り返るのが見えた。2人とも最初に神殿に現われたときの服装になっていたから、少しだけ違和感がある。
「よく起きられたね。無理してきてくれなくてもよかったんだよ」
「おはよう。……あたしだけなの?」
 もしかしたらまだ早すぎたのかもしれない。回りを見回しながら言うと、苦笑しながらシュウが答えてくれた、
「ほかのみんなには早朝とは言ったけど、夜明け前とは言わなかったからね。正確な時刻を知ってるのは君だけなんだ」
「そんな、それじゃ本当に誰にも見送られないで帰っちゃうつもりだったの?」
「神殿の人たちには昨日ちゃんと挨拶したからね。お互いに心残りはないよ。……さ、ユーナ。祈りの巫女の顔は見たんだし、もういいだろ? オレはさっきから気が気じゃない」
「うん、判ってる。……祈りの巫女、これからが大変だと思うけど、元気でね。身体を大切にして、くれぐれも無理はしないで」
「ええ、ありがとう。命の巫女も元気で」
 命の巫女が差し出した手を握って、あたしはあたしによく似た命の巫女と別れの言葉を交わした。あたりが暗くて命の巫女の顔もあまり見えない。きっと命の巫女にもあたしの顔はよく見えないだろう。涙のあとを見られなくて良かったと思う。
「次元の扉!」
 そう、シュウの声が聞こえて、次の瞬間シュウの前に光の輪が現われたの。あたし、いきなりのことでびっくりして言った。
「シュウ! ちょっと待って! リョウがまだきてないわ!」
「リョウ? 別にリョウの見送りなんかいらないよ。今日帰ることは一昨日会議で会ったときに話してあるし」
 いったん次元の扉を消したシュウが振り返って言う。リョウまさか、一緒に帰ることをシュウたちに伝えてなかったの?
 あたしが見送りにきててよかったよ。もしもあたしがいなかったらリョウはこのまま置いていかれるところだったんだから。


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「すぐに連れてくるわ! もしかしたら寝坊してるのかもしれない」
 あたしが言うと、シュウは焦ったような手振りと苦笑いで返した。
「え? 別にいいよ。こんな時間にわざわざ起こすことないって ―― 」
「ぜったい待ってて! ほんとにすぐに連れてくるから! ……もう、どうしてこんな大事なときに寝坊なんかするのよ!」
 そう言いながらあたしは既に駆け出していた。うしろからシュウが呼び止める声が聞こえたけどかまわなかった。きょろきょろ見回しながら広場を横切って、神官宿舎の裏手にあるリョウの家への坂道を降り始める。ここは1本道だからリョウと行き違ってしまう心配はなかった。
 まさかこんなことになるなんて思わなかったよ。見送りのあたしでさえあんなに緊張して起きたのに、どうしてリョウが寝坊するの? だって、リョウは命の巫女たちに置いていかれたら一生帰れなくなっちゃうの。しかも、命の巫女たちに自分が帰ることを伝えてなかったなんて。
 走っているうちにちょっとだけ不安になった。もしかしてリョウ、あたしと顔をあわせたくなくて、神殿の近くに隠れてたのかもしれない、って。あたしがリョウの家に向かっている間に命の巫女たちと帰るつもりなのかも。万が一にもあたしに追い縋られたくなくて。
  ―― それならそれでいい。リョウがもうあたしの顔を見たくないって思っているなら。
 足元をランプで照らしながら、もう数え切れないくらい歩いた坂道を下っていく。リョウの家に灯りはなかった。眠っているのか、それとも既にリョウはいなくなっているのか、どちらにしても遠慮はいらなかった。形だけノックをしたあと大きな音を立てて扉を開ける。
「リョウ! 入るよ!」
 食卓のテーブルに昨日あたしが置いていった箱が浮かび上がって、ちょっとだけ驚いた。でもそれだけで、今はその箱は無視して再び声をかけながら寝室の扉を開ける。ベッドの上には誰もいなかった。やっぱりリョウはもう出発してしまったんだ、って、ズキッと胸に痛みが走る。
 だけど、部屋の中を再び見回してみたそのとき、部屋の隅でベッドに寄りかかるようにうずくまるリョウの姿を見つけたんだ。


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