真・祈りの巫女
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積極的にならなくちゃいけなかった、って続けようとして思い出したの。告白する前にキスしたのって、あたしも同じだよ。オミ、誰に似たんでもない。あたしに似たんだ!
「ユーナの方が、なんなの?」
「なんでもない。とにかく、ここまできちゃったらちゃんと告白するしかないよ。今のでふられる確率は上がったと思うけど」
「……やっぱり、そうかな」
「あとは早く身体を治して、自分の家を建てて、一人前に仕事ができるようになることね。それでもまだカーヤが独身だったら、2回目のプロポーズをすればいいわ。だって、まさか1回ふられたくらいで諦めたりしないでしょう?」
「……結婚、しちゃうかもしれないじゃないか」
「そこまで責任もてないよ。どっちにしても今のオミじゃ結婚するには子供すぎるもん。カーヤみたいな素敵な女の子を待たせるんでしょう? だったらカーヤが、待ってて良かった、って思えるくらいの男にならなきゃ」
オミが膝を抱えて考え込んでしまって、あたしは少しの間見守ってたんだけど、オミの邪魔をしないように部屋を出ようとした。そのとき、うしろからオミに呼び止められたの。
「ユーナ。……ユーナはリョウのこと、まだ結婚したいと思ってる? 記憶がないのに」
あたしは一瞬だけ返事に困った。リョウは、明日にはいなくなる人。だからあたしがリョウと結婚することは永久にない。
でも、あたしの気持ちは変わっていなかったから、オミには笑顔でうなずくことで答えたんだ。
部屋を出る前に、気づいたあたしはもう一言だけオミに忠告した。
「オミ、カーヤにキスしたこと、ぜったい謝っちゃダメだからね」
「え? ……どうして?」
「悪いことをしたなんて思ってないでしょう? もしもカーヤが真剣に悩んでくれてたとしたら、その気持ちをぜんぶ無にすることになるんだから。1度謝ったら、カーヤは怒っちゃって2度と口をきいてくれなくなっちゃうかもしれないよ。だから、ぜったいに謝ったらダメ」
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「それって……ユーナの体験談?」
「……そういうこと言ってない」
「リョウの奴が謝ったのか? ねえ、そうなのか?」
あたしはそれ以上なにも答えられなくて、強引に話を終わらせると台所まで来て食卓の椅子に座り込んだの。そのまましばらくの間、あたしはただぼんやりと、幸せだったあの頃の思い出にひたっていたんだ。
思い出なら、たくさんある。この思い出があればあたしはきっと生きていける。だって、リョウとの思い出は10年分もあるんだもん。思い出していたらきっと、あとの10年くらいあっという間に過ぎていくよ。10年経ったら、たぶん今回の戦いのことも笑ってみんなに話すことができるようになるだろう。
そうしているうちにお昼が近くなってきて、さすがのあたしも昼食を作り始めようかと腰を浮かせたとき、ようやくカーヤが帰ってきてくれていた。椅子に腰掛けていたあたしにチラッと視線を向けたあと、無言で食事の支度を始めたの。あたしも特に話しかけたりはしないで、カーヤの背中を眺めながら待っていたんだ。
やがて3人分の食事を作り終えたカーヤは、オミの分をお盆に用意しながらあたしに話しかけてきたの。
「あの、ユーナ。……暇だったら、オミの食事を持って行ってくれない?」
なんとなく、そんなことを言われそうな予感がしていたから、あたしは笑顔で首を振って用意していた言葉を言った。
「あたし、暇じゃないわ。だからカーヤが持っていって」
「どうして? すごく暇そうじゃない! ……もしかして、やっぱり、オミに聞いてるのね」
「詳しくは聞いてないわ。ほんの少しだけ。……ね、カーヤ。逃げないでやって。あれでもオミは真剣なの。だから ―― 」
「やだ! それじゃユーナは前から知ってたのね? オミがあたしに対してその……」
「カーヤに恋をしてるってことには気づいてたわ。もちろん、カーヤがオミのことを将来の結婚相手として見られないだろうってことは判ってた。でも少なくともオミがカーヤに恋をすること自体は自由だもの。あたしの方からはなにも言えないよ」
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話し始めてから1度もあたしと目を合わせないカーヤは真っ赤になっていた。こんなカーヤは初めて見るから、あたしもちょっと驚いていたの。だって、カーヤっていつも大人で、2つ年下のあたしにはなんでも相談できる姉のような存在だったから。オミにキスされたくらいでこんなにかわいくなっちゃうなんて思ってもみなかったんだ。
もしかして、少しは望みがあるのかな。少なくともカーヤは、オミと2人きりになりたくないって思うくらいには、オミのことを意識しているみたいだから。
「……あたし、5歳も年上なのよ。オミが一人前になる頃にはおばさんだわ」
あたし、ちょっとドキッとした。カーヤは気づいてないの? もしもオミのことを意識してなかったとしたら、言うべきセリフは「オミはまだ子供だからあたしにはふさわしくない」って方だと思うのに。
あたし、オミはぜったいカーヤにふられると思ってた。だけどカーヤのこの様子だと、もしかしたらオミの恋は実るかもしれないよ!
慎重に立ち回らなきゃ。カーヤはけっこう意地っ張りなところがあるから、あたしがなにか言って意地を張らせるようなことにはぜったいにさせちゃいけない。
「オミってね、あれでかなり早熟みたい。11歳の頃から父さまの仕事を手伝っていて、13歳でもう簡単なガラス製品なら作ることができるの。身体が治ったらすぐに工房を建て直して、村の復興のために一生懸命働くと思うわ。……そうね、それでも一人前だって認められるまでには2年はかかると思うけど。さすがにあたしもカーヤに2年待って欲しいとは言えないわ」
2年経ったらカーヤは20歳だ。女の子の結婚年齢としては明らかに行き遅れだけど、巫女の中にはそのくらいで結婚した人もいる。具体的な数字を聞いて、カーヤの中でオミとのことが現実的になっていくのが、見守るあたしには手に取るように判ったの。あたしにできるのはここまでだ。あとは、オミに自分でがんばってもらうしかない。
「……判ったわ。オミに食事を届けてくる。よかったら先に食べていて」
「ええ。そうする。お願いね、カーヤ」
意を決したカーヤがオミの部屋に食事を届けに行くのを見送って、あたしは少しの寂しさを感じながら、独りで昼食を食べ始めた。
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午後になって、あたしは村に降りていた。村の様子を自分の目で確かめるのは、5回目の影の来襲で祈り台を壊されて以来のことだ。あれから村は更に6体ものセンシャに蹂躙されてきた。徐々に復興は進められていたけれど、焼けただれた家の残骸がそのままになっているところも多くて、センシャの攻撃の激しさを物語っていた。
あたしは通る人ひとりひとりに、影の国で祈りの力をもらったお礼を言い続けた。心配してくれるみんなには、元気な笑顔を見せていた。そうして歩き続けて、あたしはひとつの家の前にたどり着いたの。影の来襲で1度も壊れることがなかった、とっても強運なランドの家に。
ランドもミイもいないかもしれないと思ったけれど、ノックをするとまもなく中からミイが顔を出した。
「あら、こんにちわユーナ。よくきてくれたわ。さあ、中に入って」
「こんにちわ。とつぜん来ちゃってごめんなさいね。もしかしたら誰もいないかもしれないと思ってたの。ほら、ミイはリョウの世話をしてくれてるって聞いてたから」
「リョウが帰ってきてから2日間だけね。その2日でみっちり仕込んだから、食事も洗濯もどうにか自分でやってるはずよ。ユーナも良かったら冷やかしに行ってあげてね。ユーナが傍で見ていたら、少しはまともな食事が作れるかもしれないわ」
あたしはミイの言葉にかなり驚いていたの。リョウ、家のことはなにもできなかったはずなのに、今は自分でやり始めているの? ……リョウは本気なんだ。本気でここで暮らしていくつもりになってる。
―― ダメだよ。リョウは自分の村へ帰る人なんだもん。早くリョウを帰してあげなきゃ。
ミイがあたしのためにお茶を入れながら話しかけてくる。
「ねえ、ユーナ。村がこんなことになったばかりでまだなにも考えられないかもしれないけど、そろそろリョウとの結婚のこと考えてみない? まあ、確かにね、ユーナは両親が亡くなったばかりだし、オミもまだ起きられないほどの怪我をしているし、すぐには無理だとは思うわ。でも、ランドも楽しみにしているし、あたしも。それに、村のみんなだって、明るいニュースを求めてると思うのよ。こんなことがなければいずれは結婚するつもりだったんでしょう? だったら少しくらい予定を早めても ―― 」
ミイの立て続けのおしゃべりは笑顔で相槌を打ちながらかわして、なんとかここでの用事を済ませると、あたしは村をあとにしていた。
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もしかしたらランドが帰ってくるまで家の前で待っていなければならないかもしれないって思っていたから、神殿に帰り着いたのは最初に考えていたよりもずっと早かった。1度宿舎に戻って、それからリョウの家へと向かう。もちろんミイにもらってきた木箱も持ったままだった。
まだ、夕方にも早い時刻だったから、もしかしたらリョウはいないかもしれない。そんなこともチラッと頭をかすめたんだけど、幸いリョウは家にいて、あたしの顔を見ると少し驚いたように家に招き入れてくれた。
「座って待っててくれるか? 今お茶を入れるから」
「あたしがやろうか?」
「いい。手を出さないでくれ。この間ミイに習ったんだ。自分でやってみる」
リョウはそう言うと、ちょっと緊張した表情をして台所に立った。あたしは言われたとおりにテーブルの椅子に腰掛けて、しばらくリョウの背中を見ていたの。リョウは火を扱うのが苦手みたい。あたしは何度も口を出しそうになっていたけれど、ぐっと我慢して椅子に座ったまま口を閉ざしていた。
きっとリョウは、自分の村へ戻れば、お湯を沸かすことくらいなら簡単にできるんだろう。ここにいたらリョウは本当に苦労しなければならないんだ。リョウが危なっかしい手つきで茶碗にお湯を注いでいるのを見ながら、あたしは改めてリョウを自分の村へ帰してあげようって決心していたの。
「待たせたな。……味の保障はしないけど」
「ありがとう。いただくわ」
リョウが入れてくれたお茶はあたしには少し熱すぎたから、冷めるのを待ちながらリョウに話し始めていた。
「さっきミイに聞いたわ。リョウをみっちり仕込んだんだ、って」
「ああ。いつまでもミイに頼る訳にはいかないからな。おまえは? ミイに会ったって、仕事を始めたのか?」
「ううん。まだ始めてない。でもそろそろ始めなきゃいけないわね」
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「みんな休む間もなく働いているんだもん。あたしだっていつまでも休んでなんかいられないわ」
村は復興に向けて動き出している。あたしも、いつまでも同じところに留まってちゃいけないよ。リョウを見送ったらあたしにとっての災厄は終わる。そうしたら今度は、村を元に戻すための戦いが始まるんだ。
「昨日とは顔つきが違うな。少し安心した」
そう言ってリョウが微笑んでくれる。あたし、本当にリョウに心配をかけてたんだ。昨日までの自分がどんな顔をしていたのかなんて判らないけど、あたしが元気になったことが伝わったのなら、きっとリョウも安心して自分の村へ帰ってくれるだろう。
「で、今日はどうしたんだ? 退屈しのぎに歩き回ってるのか?」
何度も頭の中で辿ってきた。リョウにどうやって話すのが1番いいのか、って。本当はこのままたわいない会話をずっと交わしていたかった。そして、ミイが言うように、リョウと結婚してこの家に一緒に住んで。一生、リョウにあたしの夫のふりを続けさせて ――
―― ううん、いつかリョウは耐えられなくなるだろう。どうしてあの時帰らなかったんだろうって、今の時間を後悔することになる。
「……リョウにね、渡したいものがあってきたの。ずっとミイに預かってもらってたんだけど」
リョウが無言の問いをあたしに投げかける。あたしは、自分がもう後戻りできないことを感じた。
ミイからもらってきた木の箱をテーブルの上に置いた。自分でそれを開ける勇気はなかった。だからリョウの方にそっと押し出す。
「……これ?」
「うん。開けてみて」
首をかしげながら、リョウが木箱のふたを開ける。最初に目に入ったのは、血で汚れた布の上に乗った小さなもの。前に命の巫女に見せてもらったものと少し形は違っていたけれど、それがケータイデンワというものなんだって、あたしには判った。
リョウの表情が驚愕を浮かべたまま硬直する。そして、ゆっくりと顔を上げる様子を見て、あたしにはリョウの心の動きが判るような気がした。あたしがそれを持ってきた理由を必死に考えて、やがて少しずつ飲み込めてきたんだ、って。
あたしは唇を結んで、リョウのまっすぐな視線に耐えた。
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沈黙が重かった。すぐにでもこの家を飛び出して逃げてしまいたかった。だけど、今ここで逃げたら、あたしは今度は自分を許すことができなくなるだろう。
「ユーナ、おまえ……判って ―― 」
リョウの方からこの沈黙を破ってくれたから、あたしもようやく呼吸を始めることができた。
「……見るのは、初めてなの。ランドとタキがリョウを治療してくれて、そのとき脱がせた服と持ち物を、ランドが今日まで保管しててくれたから。……でも、これ、見たことあるよ。命の巫女が持ってたの。ケータイデンワ、っていうんだって」
リョウは何も言わなかった。また再び沈黙に襲われるのが怖くて、あたしは話を続けた。
「最初は音がしてたみたい。いつの間にか音はしなくなったけど、たぶん壊れてはいないと思うわ。命の巫女が……デンチとか、デンパとか、そういうことを言ってた。だから、持って帰ればまた使えるようにできるよね、きっと」
そのとき、リョウが大きく息を吐いた。
「……いつから、判ってた。……最初からなのか?」
「ううん。違うよ。最初はあたし、本当に信じてた。あたしのリョウが生き返って、記憶をなくしてしまったんだ、って。……命の巫女たちがね、神殿に現われたとき、シュウがあたしを見て「ユーナ」って言ったの。……それだけだったから。ぜんぶ、リョウがあたしのリョウじゃない証拠ばっかりで、だけどリョウがあたしの名前を呼んでくれたことだけがあたしの証拠だったから」
「……」
「リョウが呼んだのが命の巫女の名前だったって、判ったから。右の騎士の予言も、あたしの騎士じゃなくて命の巫女の騎士だったんだ、って。……リョウ、あたし、元気でしょう? 元気になったでしょう? だから、もう大丈夫だよ。リョウがあたしのリョウのふりをしなくても、あたしはちゃんと元気でいられるよ」
リョウ、優しいリョウ。婚約者をなくして絶望していたあたしを、ずっと見捨てられずにいた優しいリョウ。一生あたしを騙してくれようとした、すごく優しいリョウ。でも、あたしが騙されていないことが判ったら、リョウはもう帰ることができるよね。
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リョウに騙されていなくても、あたしは元気でいられる。それが判ったから、リョウはようやく呪縛から解き放たれる。これでリョウは、心置きなく自分の村へ帰ることができるよね。
「今まで黙っててごめんなさい。気づいていたのに、リョウを失うのが怖くて、ずっと演技してた。リョウを失ったら自分が自分でいられなくなるような気がして。……でも、あたし、大丈夫だってことが判ったの。ここはあたしがずっと育ってきた村で、みんながあたしのことを支えてくれる。たとえリョウがいなくても、村のみんながあたしをちゃんと見ていてくれるの。……みんな、あたしのために幸運を分けてくれた。ここは、あたしが影の国から無事に帰ってくることを心から願ってくれた、優しい村人たちがたくさんいる村なの」
あたしは大丈夫。今、こうして笑顔で話すことができる。だからリョウは信じてくれるよね。もう、あたしを心配しなくても大丈夫なんだって、リョウは判ってくれるよね。
「祈りの巫女の仕事を続けていけば、今度は村のみんなが幸せになるわ。みんなが幸せになればあたしも幸せになれる。そのうち、あたしにもきっと新しい恋人ができると思うの。今はまだぜんぜん考えられないけど、いつかはリョウのことも忘れられると思う。だから ―― 」
「判った」
言葉の途中で目を伏せたリョウが、まるであたしの声をさえぎるようにそう言った。判った、ってただ一言。
その言葉の意味が飲み込めたとき、あたしは心臓が掴み出されているような、そんな気がしたの。 ―― これで、本当にリョウは帰ってしまう。あたしの最後の言葉をさえぎったリョウ。リョウの短い言葉の意味は、きっとあたしが次にいうべき言葉を悟ったってことだったから。
「……明日の早朝、夜明けよりも前に帰るって、命の巫女たちは言ってたわ。もちろん、あたしも見送りに行く」
それ以上そこにいる勇気がなかった。椅子を立ちかけたあたしは、思い出してリョウが入れてくれたお茶を一気に飲み干す。
「お茶、ありがとう。……おいしかった」
あたしが立ち上がっても、リョウは顔を上げてくれなかった。ゆっくり、扉の方に向かう。振り返ることはしなかった。別れの言葉を言うことも。あたしの目に涙がにじんでいること、リョウに気づかれたくなくて。
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できるだけ音を立てないように扉を閉めた。駆け出してしまわないように必死で我慢して、ゆっくり歩いて、ようやく坂道の階段を登り切る。そこまでくればもうリョウの家から姿を見ることはできない。我慢しきれなくなったあたしは、まるでリョウの家から逃げるように坂道を駆け上がっていった。
もう少し。もう少しだけ行ったら、声も届かなくなる。自分の息遣いに嗚咽が混じるのを聞いて、目の前がかすんで見えなくなって、転んだところがあたしの限界だった。地面にすがりつくようにして泣いた。きっと誰にも聞かれていないから、ものすごく大きな声を上げて。
あたし、がんばったよね。これ以上できないってくらいがんばったよね。だから、今ここで泣くことくらい、許してもらえるよね。
だって、リョウは判った、って言ったんだもん。あたしの言葉が判ったってことは、リョウは自分の村へ帰ることに決めたんだ。……少しだけ、期待してなかったとは言わない。ほんの少しだけ、もしかしたらリョウはこの村へ残るって言ってくれるかもしれない、って。
ううん、あたし、ほんとはぜんぜん信じてなかったんだ。リョウを失う覚悟なんか、少しもできてはいなかったの。だからこんなに涙が出るの。もしかしたら、って、わずかな希望にしがみついていたから。
ありえないのに。命の巫女を好きなリョウが、あたしを選んでくれるはずなんかない。嘘を守ることだけが、あたしが唯一リョウをつなぎとめておける鎖だったの。あたしは自分からその鎖を手放した。
でも、だったらあたしはどうすればよかったの? 嘘を守って、リョウを縛り付けて、一生リョウに後悔させたままでいればよかったの?
そうしていればよかった。なにも言わなければ、リョウはずっとあたしのそばにいて、やがてあたしと結婚して、一生あたしの夫でい続けてくれたんだから。
―― そこまで思って、ふっと風が途絶えるように、あたしは冷静になっていた。
同情だけで結婚したってお互い幸せになれるはずなんかない。嘘で塗り固めた幸せを演じたって、お互いに苦しいだけなの。それはあたしが1番知ってることなんだ。だって、リョウと嘘の婚約者を演じている間、あたしはけっして幸せなんかじゃなかったもん。
立ち上がって、近くに流れている小川で顔を洗って、あたしは再び歩き出した。まだ終わってない。後悔の涙を流すのも、すべては明日リョウを見送ってからゆっくりすればいいことなんだ。
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「どうしたのユーナ! そんなに汚れて……」
「うん、ちょっと道で転んじゃって、ものすごく痛かったの。まわりに誰もいなかったから大声で泣いちゃった。部屋で着替えてくるね」
「ああ、それじゃ、お部屋に水を持っていくわ。怪我をしてるかもしれないし」
カーヤに明るく手を振って、あたしは自分の部屋に戻った。汚れた服を脱ぎながらカーヤを待つ。髪を整えるために髪飾りをはずして、ほんの少しだけ見つめてからたんすの上に置いた。勇気をありがとう、って、心の中で声をかけて。
あたしのリョウは今でもここにいる。たとえ姿を見ることができなくても、リョウがあたしを愛してくれたことは真実だった。
たらいに水を張って持ってきてくれたカーヤは、手ぬぐいを絞ってあたしの身体をきれいにしてくれた。両膝と両腕をほんの少しすりむいていて、手当てをしながらカーヤは首をかしげていたの。
「そんな、大泣きするほどの怪我には見えないわね。ほかにどこかぶつけたりした?」
「うん。ちょっとこのへん」
「胸? ……別に赤くはなってないようだけど」
「でも痛かったの。もしかしたら明日には大きなあざができてるかもしれないわ」
影の世界へ行く前の傷は、不思議なことにすべてきれいに消えていた。やっぱりあたしたちの身体は、影の世界へ行く前とあととで何かが違っていたんだろう。カーヤの様子は普段とまったく違わなくて、あたしにはカーヤがオミにどんな返事をしたのか、それだけでは察することはできなかった。でも、あたしがいろいろ訊いてこじれたらオミがかわいそうだから、カーヤが話してくれるまでしばらく訊かないでいようと思う。
リョウのことは、過去に置いていく。
もちろん、リョウは生きているから未来があるけど、それはあたしと同じ未来じゃない。リョウの未来があたしの未来と重なることは2度とない。あたしの未来に現われることのないリョウは、死んだのと同じことなんだ。だったらあたしは未来を見なくちゃいけない。リョウと一緒の未来じゃなくて、あたし1人だけの未来を。
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