真・祈りの巫女
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「リョウ! ……どうしてこんなところにいるのよ!」
声に対する反応はない。顔を上げないリョウをあたしは眠っているのかと思った。
「早く起きて! 命の巫女たちには出発を待ってもらってるから」
リョウを起こすためにベッドのテーブルにランプを置いて近づいていく。肩に触れようとしたそのとき、不意に動いたリョウの手にあたしの手は弾かれていたの。この部屋でリョウが初めて目覚めたあの時と同じように。
「触るな! ……眠ってはいない」
「リョウ。……酔っ払ってるの……?」
足元にお酒のビンが転がっている。あたしは顔を伏せたリョウを覗き込むように膝をついた。リョウはベッドの足元の方にいたから、枕元に置いたランプの灯りだけでは位置を確認するのが精一杯で、リョウの表情まで見ることはできない。
「立ち上がれないの? だったらあたしが支えていくわ。早くしないとシュウが痺れを切らして帰っちゃうかもしれない ―― 」
「酔いなんかとっくに醒めてるさ! こんな酒、たった1瓶で朝まで持つ訳ねえだろ!」
リョウに怒鳴られて、あたしはやっとこの事態の異常さに気づいていた。リョウは目が覚めていて、今が真っ暗でもちゃんと朝だってことに気がついてる。それなのにリョウは神殿へは行かなかったんだ。どうして? だってリョウは昨日ちゃんと判ったって言ってたのに。 とにかくリョウを神殿まで連れて行かなきゃ。さっきのシュウはなんだか判らないけどすごく焦ってる様子だったんだもん。遅れて戻ったら2人とも出発したあとだった、ってことになりかねないよ。
「……じゃあ、1人で歩けるわね。まだ暗いからランプを持っていった方がいいわ。……そうか、リョウ、ランプをしまってある場所が判らなかったの? だったらもしよかったらあたしのを使って。あたしは明るくなってから帰るから」
これから神殿までの道のりをリョウと一緒に歩いて、神殿でリョウを見送ったらあたしは泣いてしまうかもしれない。それなら今ここで別れた方がいいと思った。
「あんまり命の巫女たちを待たせられないの。シュウにはすぐに戻るって言っちゃったから。だからできるだけ急いで支度して」
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「……おまえ、そんなに俺を行かせたいのかよ」
リョウがボソッと口を開いた。その低い声にあたしはまたドキッとする。……まさか、リョウは帰りたくないの? 今、命の巫女は帰ろうとしていて、リョウが自分の村へ帰れるチャンスは今しかないっていうのに。
「どうして? だって、リョウは自分の村へ帰れるんだよ。誰だって自分の村で暮らすのが1番幸せなことなんだもん。リョウだって言ってたじゃない。村人は村に根付いているものなんだ、って」
それはまだ命の巫女がくる前、影が村を壊しているときの会議の席の言葉だった。村人にとって村は命なんだって、リョウは神官たちに力説していた。あたしが根付いている村はこの村だけど、リョウが根付くべき村は命の巫女と同じ世界にあるんだ。
「あたしは影の世界にいるとき、ぜったいに村へ帰るんだって思ってた。あたしだってリョウと同じ立場なら自分の村へ帰りたいと思うよ」
「そういう意味じゃねえ! ……おまえは、俺が帰っても平気なのか? 本気で俺に帰って欲しいと思ってるのか?」
「あたしのことなら心配要らないよ。だって、村のみんながあたしを守ってくれてるんだもん。これから先、リョウが死んだ辛さがまたぶり返すかもしれないけど、この村にいればあたしは生きていける。だからリョウが心配してくれなくても ―― 」
「そういうことを聞きたいんじゃねえよ!」
リョウは膝を抱えるようにうずくまっていて、あたしがきてから1度もあたしの顔を見ることはしなかった。リョウが全身で拒絶していたから、あたしもそれ以上はリョウに近づくことができなかったの。いったいなにを苛立っているのか判らなかった。あたし今まで、リョウが帰るまで、って思ってやっと自分を支えていたのに。肝心のリョウが帰ってくれなかったらあたしの方が崩れてしまいそうだった。
「……ねえ、リョウ。もしも体調が悪いなら、命の巫女とシュウに頼んで出発を延期してもらおうか?」
リョウからの返事はなかった。あたし、平静なままこれ以上ここにいられる自信はなかった。本当にそうしようと思って立ち上がりかけたとき、いきなりリョウに手を掴まれてあたしは硬直してしまったの。
「頼む。逃げないでくれ。……怒鳴ったりして悪かった。なにもしないから怖がらないでくれ」
リョウの言葉にまたドキッとする。それは以前、あたしのリョウがあたしに対して言ったのとまったく同じ言葉だったから。
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「……怖がってないわ。あたし、リョウのこと怖いと思ったことなんかない。だから安心して」
この時リョウが初めてハッとしたように顔を上げたの。表情ははっきり見えないのに今にも泣き出しそうに思えて、あたしはまたドキッとしていた。今までとはまったく違う気持ちで。
リョウのことが好き。この人があたしのリョウだったら、今すぐにでも抱きしめて「大丈夫だよ」って安心させてあげるのに。
どうしてこの人はあたしのリョウじゃないんだろう。どうして彼は命の巫女の騎士で、別世界の村の人なんだろう。
こんなにあたしのリョウにそっくりなのに。誰にも判らなくたってあたしには判るの。このリョウはあたしのリョウと同じ心を持ってる。違うのは、この人が命の巫女を好きだってことだけ。
あたしは一生命の巫女の身代わりでいるべきなのかもしれない。だって、あたしにとっては、リョウが傍にいることが1番の喜びなんだから。
―― ううん、たとえリョウが身代わりを欲していたとしても、そのためにリョウにすべてを捨てさせるなんてことはしちゃいけない。
「リョウが優しい人だって、あたしは知ってる。だから怖いと思ったことなんかないわ。……恋人を亡くして、リョウのことを記憶を失った恋人だと思い込んだあたしに、リョウは黙って記憶喪失の恋人を演じてくれた。影の攻撃から精一杯守ってくれようとして、あたしが恐怖に囚われたときにはずっと傍にいてくれた。リョウはあたしが立ち直るための時間をくれて、その上あたしのために村へ残ってくれようとした。……もう、十分なんだよリョウ。これ以上あたし、リョウの優しさに甘えられないもん」
「……違う。優しいから俺はおまえの傍にいたんじゃない。俺は」
「ううん、リョウは優しい人だよ。だからあたしがリョウを怖がってるとは思わないで」
「からかってるのかおまえ! それとも俺が村に残ったらなにか都合が悪いことでもあるのか?」
……え? あたしがリョウをからかうって、どうしてそんな言葉が出てくるの? あたしがリョウをからかったりする訳ないのに。
「ほかに好きな奴でもできたのか? だから婚約者の俺が邪魔になったって訳かよ! そうだよな。俺はただおまえのリョウの身代わりで傍にいただけだからな。死んだ奴の身代わりなんて、ほかに好きな奴ができればお払い箱決定だよな」
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「そんな……そんなことないよ! あたしリョウのほかに好きな人なんて ―― 」
「昨日言ってた新しい恋人ってのがそれかよ! そのうちじゃなくて、既にそういう奴がいるってことなんだな? おまえ、タキのことが好きなのか? だから俺を追い出そうとしてるのかよ!」
リョウ、あたしがリョウを死んだリョウの身代わりにしてるって、そう思ってたの? あたしに新しい恋人ができたって……。
「リョウのことが邪魔だとか、そんなこと思ったことない」
「だったらなんでそんなに俺を帰らせようとするんだよ!」
「それは……だって、リョウはリョウの村へ帰るのが1番いいことだから。このままこの村にいたら、リョウは親しい友達や家族と永遠に別れなきゃならないんだよ?」
「俺に親しい人間なんかいない。両親もだ。……ここへ来る前に父親の葬式を出してきた」
影の世界でリョウの母さまを見たとき、あたしはリョウの母さまは既にこの世にいない気がしていた。リョウには父さまもいなかったんだ。だけど。
「命の巫女は? あたし、リョウが命の巫女のことを好きだって気づいてたよ。あたしが気づいてないとでも思ったの?」
あたしが命の巫女の名前を出したとき、リョウはハッとして動きを止めた。……やっぱりそうだったんだ。確かめたことなんかなかったけど、あたしはずっと感じていた。リョウは命の巫女のことが好きで、だからあれほどすんなり影と戦うことを決められたんだって。
「……確かにそうだったかもしれない。母親の病気が発覚して、子供の頃に過ごしたあの町を離れてから、俺は病気と戦う両親の姿しか知らなかった。楽しい思い出として残ってるのはユーナとあの町のことだけだった。だから成長したユーナと再会したとき、俺はあいつのことを守ろうと思った。たぶん好きだったんだろ。いつも一緒にいるシュウの奴が妬ましかったからな」
「……」
「だけどこの村にきて、俺はおまえに会った。脆いくせに一生懸命に強がって、両親や婚約者を殺されながら影と必死で戦ってるおまえに。……成長したあいつとは数えるほどしか話したことがないんだ。そんな奴のためにおまえと一生別れようなんて思えるはずがねえだろ」
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そう答えたリョウの声は少し恥ずかしそうな感じて、声しか聞こえないあたしにもリョウの表情が想像できる気がした。
……リョウ、さっきからいったいなにを言おうとしているの? もしかして、リョウはあたしのこと……?
「……歴史が、歪んじゃうよ。リョウがリョウの世界にいなくなったら、リョウと結婚するはずの女の子が困るって、タキが……」
「……あんのバカが!」
「違うわ! ごめんなさい。タキがそう言ったんじゃないの。歴史が歪むかもしれないっていうのはシュウがタキに話したことなの。命の巫女がライを連れて帰りたいって話をしにきたから。本当ならいるはずの人がいなくなったり、逆にいないはずの人が現われたりしたら、歪みがどんどん広がっていくんだ、って」
リョウが今にも殴り込んでいきそうな気配を見せたからとっさにごまかしていた。リョウは少しだけ考えて、やがて静かに言ったの。
「歪みなら、おまえが俺の命を助けた時点で既に歪んでるだろ。本来俺は死んでるはずの人間だったんだからな」
「だけどそれは影の世界での話でしょう? リョウを助けなかったらその方が歪んでたはずだよ」
「そっちじゃねえ。おまえが俺をこの村に呼び出したときの話だ。俺はあの時ヤケンの群れに喰い殺されるはずだったんだ」
―― あの時、ランドは言ってた。獣に襲われてあそこまで怪我をしていたら、本当はそのまま殺されてしまうのが普通なんだ、って。リョウはあたしの願いを受けた神様に連れてこられた。あの時神様は、本当は死ぬはずだったリョウの命を助けていたの……?
「おまえがこの村に俺を呼び寄せたりしなければ、俺はこの村にも自分の世界にも存在していないはずだった。つまり、俺はあの世界では既に死んでるはずの人間なんだよ」
それは、どういうこと? リョウには既に帰る世界はないってことなの……?
「おまえが俺の命を助けたんだ。そのこと自体は感謝しているが、俺がこの村に残ろうと思ったのはそれとは別だ。……それだけか? おまえが俺を帰らせようと思った理由は」
リョウに訊かれて、あたしは考えた。あたしがリョウを帰らせようと思った理由はもう1つだけあった。それはリョウにこのままあたしの婚約者のふりを続けさせたくないということ。でもそんなこと、リョウに直接なんて言えないよ。
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あたしが黙ってしまったからだろう。あたしの沈黙を勝手に解釈したようで、リョウは言葉をつないだ。
「だったらユーナ、俺にチャンスをくれ。……頼むから」
今日、初めて名前を呼ばれて、あたしの心臓が大きく鼓動した。切ないような声色。
「俺にはこんな方法しか思いつかなかった。10年……とは言わない。おまえとリョウが恋人同士だった2年間だけでいい。俺にもチャンスが欲しいんだ。……おまえがリョウを忘れていないのは判ってる。だけど、おまえは昨日、新しい恋人を見つけるって言ったな。だとしたらそれが俺になる可能性も少しはあるはずだ。そうだろ?」
「……」
「おまえが望むならこの家を出て行ってもいい。婚約者の思い出がある家だからな、他人に居座って欲しくはないだろ。だけどこの村に住むことだけは許して欲しい。もし……死んだ奴と同じ顔をした俺なんか2度と見なくないっていうならしょうがねえ。諦めて村を出て行く。ランドに習った狩人の技術があればどこででも生きられるだろう」
「……」
「だからって俺を村へ呼び出した責任を感じる必要はない。帰らないのは俺の意志だ。おまえにはなんの責任もないことなんだからな」
知らず知らずのうちに、あたしの目から涙があふれて零れ落ちていた。
―― リョウがなぜ帰ろうとしないのか。今までリョウが口にした言葉をつなぎ合わせて、やっとあたしにも理解できた。
あたしのためなんかじゃなかったの。リョウはリョウ自身のためにこの村へ残りたいと思ったんだ。自分が生まれた村よりも、命の巫女の存在よりも、ここに残ることの方を選んだの。この村に残って、あたしの傍にいたいって、リョウ自身が心から望んで。
あたしの婚約者としてじゃなかった。偽りの婚約者だった関係を白紙にして、すべてをここから始めたいって、そう思ってくれているの。リョウとあたしはまったく同じ気持ちでお互いを求めていたんだ。込み上げてくる想いがあたしに涙を流させていた。今まで、リョウと2人で過ごした時間が現われては消えていく ――
あたし、リョウを信じてもいいの? あたしと同じ気持ちでいてくれたんだ、って、リョウに縋って泣いてもいいの……?
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いつしかこの部屋にも朝日が差し込み始めていた。明るくなりかけた部屋の隅に座り込んだリョウの顔が見える。その表情はどこか恥ずかしそうで、でもそんなリョウの姿も自分が流した涙にかすんで見えなくなっていく。
心の中に引っかかっていたもの。それが、外れた。……ううん、壊れた。
「リョウなんか大っ嫌い!」
自分が何を叫んだのか自分でも判らなかった。リョウがハッと顔を上げる気配がある。
「さっさと帰りなさいよ! この家から出て行って! リョウがこの村に残るなんて許さないから!」
あたしを追い詰めないでよ。だって、どうしたらいいの? あたし。リョウが命の巫女よりもあたしを選ぶなんて ――
「バカ! バカバカバカ! リョウなんか大っ嫌いよ! どうしてこん……! さっさと帰っちゃえばいいじゃない! バカ! オタンコナス! クソッタレ! リョウのクソッタレ!」
思いつく限りの罵声を浴びせる。きっとリョウ、驚いて固まってる。
「早く出て行ってよ! この家からもこの村からも出て行って! もう2度とあたしの前に現われないで! リョウの顔なんか見たくない。……リョウの嘘つき。命の巫女のことが好きなんでしょう? だったら一緒に帰りなさいよ! これ以上あたしに関わらないでよ!」
「ユーナ……」
「そんな風に呼ばないで! あたしは命の巫女なんかじゃないんだから! ほら、さっさと動きなさいよ! 走って追いかけなさいよ!」
怖かった。認めてしまうのが。自分でも理解してたはずなのに、リョウが命の巫女よりあたしを選んだと知って認められなくなっていた。
未来への道を踏み出すことがこんなに辛いなんて知らなかったよ。リョウ、どうして過去にしがみついたままでいさせてくれなかったの?
リョウに呆れて欲しいの。あたしはこんなにわがままで、リョウのことなんか少しも好きじゃない。これから先リョウにはほんの少しだって希望なんかない。だから諦めて帰って欲しかった。
「未来なんか選ばなきゃ良かった。あの時、影に言われたとおりにすればよかった。死んだリョウを生き返らせてればよかったよ。あの時過去に戻ってたら出会わなくて済んだのに。……こんな、こんな思いしなかったのに ―― 」
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「……ユーナ」
「……嫌。リョウを忘れたくなんかない。……どこにもいなくなっちゃう。あたしのリョウがいなくなっちゃう……」
だって、あたしは10年もの間、リョウのことを好きだったの。いつもリョウのことを追いかけて、いつかリョウのお嫁さんになりたいって、ずっと想いを育ててきた。あたしにはリョウがすべてだったの。あんなに好きだった人のこと、忘れたりなんかできる訳がない。
あたしのために命を落としてしまったリョウ。あたし、あなたを裏切ることなんかできないのに。できるはずなんかないのに。
いつの間にか床にぺたんと座り込んで泣いていた。静まり返った部屋の中で、自分の嗚咽だけが聞こえる。しばらくの間、あたしは涙をぼろぼろ流しながら泣いていた。目の前にある答えを認めるのが怖くて。
あたしが黙ってしまったからだろう。ずっと動かずに見つめていたリョウが、そっとあたしを抱き寄せた。
「忘れる必要はない。……たぶん。俺にも判らねえけど」
―― 追い詰められていたあたしの心。それが、リョウのその言葉で出口を見つけたような気がした。
「忘れたくないなら覚えてろよ。それがおまえの大切なものなら忘れることはない。俺を嫌いでもいいよ。……だけど、俺は諦めねえから。せめて傍にいることくらい、許してくれ」
今、初めて、あたしはあたしのリョウとこの人とを切り離すことができた気がした。すごく良く似ているけれど、でもぜんぜん違う存在なんだ、って。あたしの心はとっくにこの人を選んでいた。あの日、影の誘惑を退けたときには既に。
この人に帰って欲しかったのは、今あたしの心の中にいるのがこの人なんだって、認めてしまうのが怖かったから。
あたしのために死んでしまったリョウを、本当の意味で裏切るのが怖かったから ――
「俺は、おまえの中にいるリョウと一緒に、おまえの傍にいたいんだ」
ほんの少し前までの、この人に対する気持ちとは、ぜんぜん違っていた。ずっと好きだと思っていた。だけど、今の気持ちとは違う。
涙を拭いて目の前にいる人を見上げた。まるで初めて見る人のような気がした。あたしはこの人に恋をしている。リョウという名前の、別の村からやってきたこの人に。
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目の前の世界が変わっていくのをはっきりと感じることができる。まるで世界が生まれ変わっていくみたい。ううん、本当は、変わったのはあたしの方なんだ。今が、あたしとリョウとの始まりの時なんだ。
ここから新しく始める。嘘ばかりだった婚約者としてじゃない。本当の恋人同士としての新しい関係を、今この瞬間から始めるんだ。
「リョウ」
名前を呼びながら、あたしは口元に微笑を浮かべてリョウを引き離した。少し不安そうな視線で見返される。
「前にシュウが言ってたことがあるわ。命の巫女はときどき凶暴でわがままなんだ、って。……きっとあたしも同じだと思う」
あたしがなにを言い始めたのか一瞬判らなかったのだろう。リョウが答えるまで少し間があった。
「……見てればだいたい判る。だけどそれがどうした。そのくらいのことで俺は前言を撤回したりはしないぞ」
「シュウにも惹かれてたわ。告白したけどもちろん相手にされなかった。あたし、婚約者がいるのに別の人を好きになることもできるの」
「あいつに幼馴染の面影を見ただけだろ。おまえが本気だったとは思ってない」
「それは命の巫女がいたからだわ。もしも彼女がいなかったら本気になってたかもしれない。本気になるのが怖かったから、早いうちに告白しようって思ったの。……あたし、同時に2人の人を好きになることができるのよ」
リョウはまた少し考え込んでしまう。本当にあたしが何を言いたいのか判らないんだろう。探るような目つきであたしを見つめている。
「軽蔑した?」
「……いや」
その答えはたぶん反射的なものだった。あたし今、言葉の駆け引きを楽しんでる。こんな恋愛の始まり方もきっと悪くないよ、って。
「よかったぁー。それならリョウは、あたしがこれから言うこと、軽蔑しないでいてくれるわ。安心した」
黙ったまま、リョウはあたしになにを言われるのかと思って身構えてる。素直に反応してくれるリョウがすごく愛しい。
「……あたしね、今、2人の人が好きなの。死んだリョウと、もう1人。 ―― 今、目の前にいる人」
そう、ささやくように口にした次の瞬間、あたしは驚くリョウに抱きついて、唇を触れた。
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最初、戸惑うように息を飲む気配がして、やがておずおずと応えてくる唇を感じた。一瞬だけ激しく押し付けたあと、あわてたようにリョウがあたしを引き離す。あたしを見つめるリョウの眼は驚きに見開いていた。ううん、たぶん驚き以外の感情もその中には含まれてる。
「2人が好きだって、どういう意味だ。身代わりとは違うのか?」
あたしの方が首をかしげちゃったよ。だって、たった今リョウが言ったばかりなのに。あたしは死んだリョウのことを忘れなくていい。リョウは死んだリョウと一緒にあたしの傍にいてくれる、って。
「違うよ。だって、リョウの代わりは誰にもできないもん。あたしは、これから先あたしと一緒に生きてくれるあなたが欲しい。この先、未来でどんなに変わっても、死んだリョウと別人のようになったとしても、あたしはあなたと一緒にいたいの」
タキと同じように、リョウにも判らないんだ。同時に2人の人に恋をする、って気持ちが。リョウは視線をそらしてため息をつく。たぶん、自分なりになにかを納得しようとしたんだろう。
「……つまり、リョウが死んだ今は俺だけだってことだな」
「そう思ってくれていいわ。あたしには今は目の前にいるリョウだけよ」
なんだか面倒になってそう答えた。確かにリョウがいなければこの人だけだもん。もし、万が一、死んだリョウが生きていたとしたら、今のあたしはどちらを選ぶこともできなかったかもしれない。……たぶん罪悪感に負けて死んだリョウの方を選んでいただろうけれど。
「……だったら、村を出て行かなくてもいいか?」
いまさら何を言ってるのかってちょっと首をかしげた。でもすぐに判ったの。リョウ、さっきあたしが泣きながら叫んだこと、まだ気にしてたんだ。
そんなのあたし、リョウが「大切なものなら忘れることはない」って言ってくれたことで忘れちゃってたよ。
「出て行ったりしないで。それからこの家も出なくていいよ。あたし、リョウがあたしのために建ててくれたこの家に住みたいもん」
そう言ったらリョウ、いきなり立ち上がってあたしを抱き上げて、ベッドの上に降ろしたの!
「おまえの気が変わらないうちに俺のものにする。……おまえ、この期に及んで逃げるなよ」
ベッドに横たわったあたしの靴を脱がせて、そのままあたしに覆いかぶさってくる。その仕草がちょっとだけ乱暴に思えて少し怖くなってしまった。リョウがしようとしていること、とっさに判らなかった。少し考える時間があれば判ったかもしれないけど。
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リョウがあたしを抱きしめたところで動きを止めてつぶやく。
「……眠い」
……そうだよね。リョウ、昨日はほとんど眠ってなかったはずだもん。あたしだって昨日はぜんぜん寝てなかったんだ。
「あたしも眠いみたい。このまま眠っちゃいそう」
横になったら急に眠気が襲ってきた。今まで気を張ってたからぜんぜん気づかなかったけど、たぶんほっとして気が緩んだの。
「だったらお互い眠らないうちにとっとと済ませるぞ。……リョウとの結婚式はいつの予定だった?」
「えっと、リョウが20歳になってからすぐにするって言ってたわ。秋祭りまで待たない、って」
「正式に決まってた訳じゃないんだな? リョウの誕生日は」
「9月20日」
「結婚式は9月2日にやる。予定より早いかもしれないが、今から1ヶ月あれば準備くらいできるだろ。なにか用意するものはあるのか?」
「神殿に予約を入れて……あたしの衣装は儀式用の巫女の衣装を手直しするくらいでいいと思うわ。リョウも狩人の仕事着に飾りをつけるだけだと思うし。あと、狩人が結婚するときは前日までにつがいのカザムをしとめて神殿に奉納するの。それが一人前の狩人だって証明する儀式になるんだって」
以前リョウに教えてもらったことを、働かない頭で必死に思い出す。だんだん言葉が危うくなっていた。でもそれはリョウも同じみたい。
「つがいのカザムか。今の状態だと何日かは泊まり込みになるな。……で、9月2日、俺と結婚してくれるか? ユーナ」
なんでいまさら? って思ったけど、すぐに気づいた。あたし、まだちゃんとリョウに返事してなかったんだ。
「9月2日にあたし、リョウのお嫁さんになりたい。でも、どうして9月2日なの? 20日じゃなくて」
「この村で俺は、死んだリョウが生き返ったことになってるから、誕生日は20日なんだ。だから2日を結婚記念日にする。そうでもしなかったら、俺は一生おまえに自分の誕生日を祝ってもらえないだろ ―― 」
そうか。9月2日はここにいるリョウの誕生日なんだ。死んだリョウとは違うリョウのことを1つ知ることができたんだって、疼くような喜びがこみ上げてくる。
でもあたし、この頃にはすっかり夢と現実との境があやふやになっていて、本当にリョウがそう言ったのかどうかはっきり判らなくなっていたの。どちらが先に眠ったんだろう。眠りにつく直前、命の巫女たちのことがふと頭をよぎったけど、それきりリョウの声も聞こえなかったからあたしは夢の中へと落ちていった。
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―― なにが正しいのかなんて、今のあたしには判らない。
1ヵ月後の9月2日、あたしとリョウは結婚して、やがて子供が生まれて、家族が増えていく。
その先の未来はあたしには判らない。あたしの選択が村をどんな運命に導くのかなんて、あたしには判らない。あたしは村の運命を歪めたのかもしれないんだ。今の運命の巫女にだって、100年後の未来すらも判らないだろう。
影は言っていた。このまま村が存続すれば、1000年後にはまた世界を破壊するほどの力がこの村に生まれてくるんだ、って。
その時代の祈りの巫女が世界を滅ぼすのか、それともそれより前に村が滅びるのか、結末は誰にも判らないんだ。
だけどあたしは、今ここでリョウの手を取ったことを後悔はしないだろう。
なぜなら、1人の人間が自分の幸せを求めることは、ぜったいに正しいことだと思うから。
あたしは祈りの巫女。村人の幸せを神様に祈って、みんなを幸せにすることがあたしの仕事。
でも、あたしが祈るのは自分が幸せになりたいから。村のみんなが幸せになってくれなかったら、あたし1人で幸せになることなんてぜったいにできないから。
1000年後、この村は大きな力を得て、やがて破壊の村と呼ばれるのかもしれない。
だからあたしは未来の祈りの巫女に伝えたい。人は独りでは幸せになれないけど、それは村も同じなんだって。
それは、祈りの巫女の禁忌を破ってしまったあたしだからこそ伝えられることだと思うの。周りの村を滅ぼしてしまったら、この村だけ幸せになることなんてぜったいにできないんだって。
なぜならこの村は、既に周りの村と助け合って生きているんだから。
あたしは祈りの巫女。村人の幸せを神様に祈って、みんなを幸せにすることがあたしの仕事。
だから、ずっと未来の村人にも幸せになってほしいって、願いを込めて祈り続けていく。
了
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