真・祈りの巫女



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 言い放って、リョウはもうあとも見ずにあたしの手を引いて、長老宿舎から連れ出してしまっていた。いきなりのことで驚いたのはあたしも同じだった。一瞬でも早く長老宿舎から離れようとしているかのように大股で歩いていたリョウが、神殿広場にかかる頃には歩みを緩めてくれたから、あたしもようやく口を開くことができたの。
「リョウ、ねえ、どうしたの? こんな、あたし大丈夫なのに」
「おまえ、自分が今どんな顔してるのか ―― ……いや。とにかく今日のところは休んでおけ。話をする機会ならこれからいくらでもある」
「……うん。リョウがそう言うならそうするけど」
 なんとなくみんなに悪い気がした。だって、命の巫女たちはきっと、あたしの話が聞きたいからあそこに集まってくれたんだもん。肝心のあたしが抜けてしまったんだから、せっかく集まってくれたみんなにはすごく迷惑だったと思うよ。
 再び口を閉ざしたリョウに手を引かれて歩きながら、あたしは不思議な非現実感を感じていた。あたし、今、リョウと2人で歩いているんだ。昨日までのあたしはリョウのことを必死で忘れようとしていた。でもリョウはいつの間にかあたしのそばにいて、あたしは違和感なくその状況を受け入れている。
 まるで夢を見ているみたいだった。もしかしたら、これは本当に夢なのかもしれない。本当のリョウはもうずっと前に村を離れてしまっていて、あたしはリョウが村にいる夢を永遠に見ている。あたしは既に夢の中の風景を現実として認識しているのかもしれない。
 ……それでもいい。リョウがいなくなった村に独り残されるくらいなら、あたしは永遠にリョウの夢を見続けたい。人から見たらそれはあたしが狂ってしまっているってことなんだと思う。でも、これから先ずっとリョウが傍にいてくれるのなら ――
 リョウが宿舎の扉をノックすると、中からカーヤが出てきてちょっと驚いた顔をした。
「あら、ユーナどうしたの? 会議は?」
 その質問にはあたしは答えられなくてリョウを見上げると、リョウもどう答えていいか判らないようだった。なんとなく顔を見合わせてしまって、そんなあたしたちの様子を見てカーヤが扉を大きく開けてくれる。
「いいわ。とにかく入って。2人とも久しぶりに会ったんだもんね。あたしは遠慮するから、中で話でもするといいわ」


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「いや、俺はすぐに帰る」
「どうして? 別に用事はないんでしょう? ユーナだって寝てばかりで退屈してるんだから。ね、ユーナ?」
「う、うん。あたし、元気だから。せめてお茶を1杯飲む間、リョウの話を聞かせて」
 カーヤに背中を押されて、リョウもそれ以上帰るって言えなくなってしまったみたい。きっとリョウはまた会議に戻るつもりでいたんだろう。もちろんあたしはリョウがいてくれる方が嬉しかったから、カーヤが2人分のお茶を入れて出て行くまでの間がすごく長く感じたの。
 カーヤが宿舎の外に出かけてしまうと、斜向かいに座ったリョウはお茶を1口飲んでから話し始めた。
「俺の話か。一昨日は、おまえと別れてから神殿で少しだけあの2人と話をした。さすがに全員疲れていたから、それほど長い時間じゃなかったけど」
 あの時、村のみんなはあたしの方に気を取られていて、リョウたちのことはあまり気遣ってあげてなかったみたい。みんな同じように影と戦って無事に帰ってきたのに。あたしはなんとなく3人に申し訳ないような気がしていたの。
「話って? 影の正体とか、神様のこと?」
「ああ。俺は訊いたんだが、シュウの奴は答えなかった。今それを村の人間に話しても理解できないから、って。ただ、今後のために本を残していくと言ってた。もしもこの村がこれから文化を発展させて、仮想空間について理解できるようになったとき、シュウが書いた本が役に立つかもしれない」
「……仮想空間? それはなに?」
「それが神を理解するために必要な理論なんだそうだ。俺にも説明できない。だが、これから何百年か何千年か後の村人には理解できるかもしれないからな。シュウが古代文字で書いたものを、未来の村人が翻訳することを願って残していくらしい。まったく気の長い話だ」
 何百年か、何千年か先の未来。シュウはそんな先のことまで考えることができるんだ。あたしには想像がつかないよ。この村がこれから先どんな風になっていくのかなんて。今のあたしには、たった数日後のことを考えることすらできないのに。
 シュウが本を書くのなら、少なくともあと数日くらいは村にいてくれる。でもそれほど長い時間じゃない。


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 シュウたちには自分の村での生活があるんだもん。きっとそう何日も経たないうちに帰っていってしまうのだろう。
「明後日だそうだ。2日後の早朝、神殿からシュウたちの世界へ次元の扉を開く。だからおまえも明日中には別れを言っておくんだな」
 リョウがそう言った瞬間、あたしの胸の中に何かが押し寄せてくるような気がした。目の前に黒い光が舞うような感じがあって、とっさにあたしは口元を押さえて台所の洗い場に突っ伏していたの。胃の中のものが逆流してくるのに耐えられなかった。あたしはそんな自分自身に驚いて、呆然としたまま洗い桶に吐き続けていたんだ。
「ユーナ! 大丈夫か」
 リョウがすぐに駆け寄ってきて背中をさすってくれる。胃の中のものがなくなって、あたしは全身が震えているのに気がついていた。大丈夫だって、リョウに言いたいのにダメなの。目を見開いたままで呆然と自分の身体の変化をもてあましていたんだ。
「落ち着けユーナ! 大丈夫だ。俺が傍にいる」
 何度か、リョウにそう声をかけられて、あたしはようやく呼吸を始めることができたみたい。それまでは吸った息を吐くことができなくて、身体が痙攣する寸前までいってたんだ。いったいどうしたのあたし。こんな、こんなこと今まで1度もなかったのに。
「いいから、無理をするな。おまえはまだあのときの話ができる状態じゃないんだ。……人の話なら聞けるだろうって、俺が甘く見すぎてた。悪かったな、ユーナ」
 あたし、いったいどうしたの? あたしに影の国の話ができないってどういうこと? リョウは、あたしがこうなるって知っていたの?
 やっとのことでリョウを見上げると、リョウは水を汲んであたしの顔をきれいにしたあと、口をゆすいでくれた。
「どうしてあたし、こんな……」
「おまえはまだ、現実を現実として受け止める準備ができてないんだ。命の巫女たちにとってはな、今回の出来事はしょせん異世界で起こったことだ。家に帰れば簡単に現実と切り離すことができる。だけどおまえは違う。この現実の中でこれからも生きていかなけりゃならねえ。影のことを過去の出来事として割り切るには時間が必要なんだ」
 リョウの話を聞きながら、あたしは今の自分が感じているものが恐怖なんだって、やっと気づいた。


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 でも違う。あたしが感じているのは、影に対する恐怖だけじゃない。だってあたしは、リョウが言った「明後日シュウたちが帰る」って言葉に反応してパニックを起こしたんだから。
「少しずつでいい。俺はずっとおまえの傍にいる。だからおまえは焦らなくていいんだ。長い時間をかけて、ゆっくり心の傷を治していけばいい。俺が傍にいる」
 リョウは言いながら、あたしを部屋のベッドへと促していた。リョウに促されるままあたしは自分のベッドに横になる。まだ、身体は震えたままで、横向きに寝転がって手足を縮めていることしかできなかった。見開いたままの両目にリョウが手のひらをかざしてくる。
「目をつぶって、少し眠るんだ。おまえは自分が思ってるよりずっと疲れてる」
 すぐに目を閉じられる気がしなかった。あたしはリョウの手を握って、目の前から動かしたあと、覗き込んでいるリョウを見上げたの。
「傍に、いてくれる?」
「ああ。おまえが眠るまでここにいる」
 そう言って、リョウがあたしに微笑みかけてくれた。その微笑を見てようやく目を閉じることができる。だけど、リョウの手は胸の前で握り締めたままで。
「大丈夫だ。おまえは1番安全なところにいる。もう影は襲ってこない。だから安心して眠るんだ」
 前にもこんなことがあった。あたしが、初めてセンシャを見て、シュホウに恐怖を感じた夜。あの時もリョウがいてくれなかったら恐怖を克服できなかった。今日も、もしもリョウが気づいてくれなかったら、あたしは会議の席でみんなに迷惑をかけていただろう。
 リョウはずっとあたしを見ていてくれる。そして、あたしが必要とするときには、必ず傍にいてくれる。リョウは本当に優しい人なんだ。きっと誰もが、リョウがあたしの婚約者だってことを疑いはしないだろう。
 眠りにつく直前、あたしはさっきリョウが言ったことを思い出していた。俺はずっとおまえの傍にいる、って。それは、リョウが命の巫女たちと一緒に帰らないってこと? これからもずっと、あたしの傍にいてくれるってことなの……?
 そのことを深く追求するより前に、あたしはいつの間にか眠りに引き込まれていった。


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 目が覚めたとき、リョウは既にあたしの部屋にはいなかった。窓の外から差し込む光は既に夕方であることを物語っている。リョウはきっと、あたしが眠ってすぐに部屋を出て行ったのだろう。もしかしたら長老宿舎での会議に戻ったのかもしれない。
 あたしはしばらく起き上がることをしないで、ベッドの中でぼんやりと考え込んでいた。さっきまでのリョウとの会話を思い出す。命の巫女たちは、明後日の朝には自分たちの村へと出発してしまうんだ。
 リョウはあたしの傍にずっといてくれるって、そう言ってた。はっきり訊いた訳じゃないけど、それはきっとリョウが命の巫女たちと一緒には帰らないってことだ。そう、リョウが口にしたってことは、リョウの中ではそれは決まっていることなんだろう。そうじゃなかったとしたら、たとえパニックを起こしたあたしを落ち着かせるためだって、リョウはぜったい言葉にしたりはしないはずだから。
 嬉しい、よりも怖かった。なぜなら、リョウはこの時を逃したら、一生自分の村へ帰ることはできないの。リョウは強い意志を持ってる人だ。そんなリョウが決めたのなら、リョウにはきっと一生をこの村で暮らしていく覚悟があるのだろう。
 だけど、本当にそれでいいの? 家族にも、親しい友人にも、誰にも会えない。今までリョウが持っていたもの、それをすべて捨てなければならない。リョウが自分の村で築いてきたもの、そのすべてを諦めなければならないの。ここへくるまでのリョウはきっとさまざまな夢を持っていて、そのために今までずっと努力してきていたはずだから。
 リョウ自身が決めたことだからといって、この先ぜったいに後悔しないとは言い切れないよ。リョウがそんな決心をしてしまったのは、すべてあたしのせいなんだ。あたしがしっかりしなかったから、優しいリョウはあたしを見捨てられなかった。リョウがいないあたしはこれからさき生きていけないって、リョウには判ったから。あたしの弱さがリョウを不幸にしてしまうかもしれないんだ。
 しっかりしなくちゃ、あたし。このままじゃリョウが帰れない。明後日ならまだ間に合うよ。だからちゃんと言うんだ。あたしはリョウがいなくても大丈夫だ、って。
 リョウがいなくても、あたしには祈りの巫女の仕事がある。村のみんながあたしの祈りで幸せになるんだもん。それがきっとこれからのあたしの支えになってくれる。そのうちに、あたしにもリョウ以外の大切な誰かが現われるかもしれない。
 ここはあたしの村なんだ。だからみんなが支えてくれる。リョウも、リョウを支えてくれる村へ帰るのが、1番いいことなんだ。


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 ようやく目が覚めた。あたしは、リョウの優しさに甘えてばかりじゃいけない。あたしがしっかりしなかったらみんなが迷惑するんだ。村のみんなだって、あたしがいつまでも立ち直れなかったら、いつまで経っても自分たちの幸せをあたしに願うことができなくなってしまうだろう。
 あたしは祈りの巫女。村の人たちの願いを神様に伝えて、みんなを幸せにするのがあたしの役目。あたし自身の幸せは、みんなを幸せにすることで自然についてくる。影の襲撃で傷ついたのはあたしだけじゃないんだもん。これからは、影につけられたみんなの心の傷をあたしが癒していくんだ。リョウがあたしにそれを気づかせてくれたの。
 あたしに優しさをくれたリョウだって、きっと同じように傷ついていた。でも、自分の傷を差し置いて、まずはあたしの傷を気遣ってくれたの。そんなリョウと同じことがあたしにできないはずがないよ。今度はあたしがリョウをリョウにとっての現実へ帰して、リョウの傷を異世界のものにしてあげるんだ。命の巫女たちのように、リョウも簡単に異世界と現実とを切り離すことができるように。
 そう、心を決めた翌日、あたしは久しぶりに自分から宿舎の外へ出かけていた。まずは守護の巫女の宿舎へ行って、昨日のことを謝ったの。リョウはあのあとやっぱり会議に戻っていたようで、リョウに様子をきいていた守護の巫女にかえってあたしを気遣わせてしまった。
 そのあと、命の巫女に会うために、あたしは神殿の書庫へ向かった。出発はもう明日に迫っていたから、今日のうちに本を完成させないといけないんだ。いったいどんな本を書いているのかあたしには判らないけど、今回の命の巫女は村に日記を残していないから、その代わりになるような物語を書いているのかもしれない。
 書庫の作業机で向かい合わせに座っていた2人は、あたしに気づいて顔を上げてくれた。
「おはよう祈りの巫女。体調はもういいの?」
「ええ、心配かけてごめんなさい。2人とも明日帰るっていうのに、ずっとお話もできなくて」
「無理もないよ。オレたちは明日帰っちまえば終わりだけど、君たちはこれからこの村を復興していかなければならないからね。途中で放り出すみたいでかえって気が引けてるくらいだ」
 シュウはいつもと同じ笑顔をあたしに向けてくれて、あたしにもリョウが言った異世界と現実との違いが判るような気がした。


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 ふと、目を向けて、あたしはシュウの腕の包帯に気づいていた。
「シュウ、怪我をしたの? もしかして影の世界で?」
 あたしの視線に気づいたシュウが腕を見せながら答えてくれる。
「ああ、これは影にやられたんじゃないよ。昨日ね、自分で傷つけた」
「自分で? どうして?」
「気になったからさ。オレたちの身体がちゃんと元に戻ってるかどうか」
 そうだ。あたしも気になってた。影の世界では中身が空洞になってしまっていたあたしたちの身体。元の村に戻ってきたけれど、本当に自分の身体が元に戻ったかどうか、あたしに確かめることなんかできなかった。
「んもう、シュウってバカでしょう? そんなことのためにわざわざ包丁で腕を切ったりするんだよ。しかもこーんなに長く」
 命の巫女が指で示した長さは、ほぼ10コントくらいに達していた。そんなに切って本当に大丈夫だったの?
「それで? 傷はどうだったの? 血は出たの?」
「ちゃんと出たよ。しばらくは痛いし血は止まらないし、2度とやるまいと思ったけどね。おかげでいい材料になった」
 シュウの答えにあたしもほっとしていた。シュウの身体が元に戻ってるってことは、きっとあたしやリョウの身体も元に戻ってるってことだから。
 それにしても、シュウって本当に神官なんだ。真実の探求のためになら自分の腕を切っちゃうんだから。
「シュウが本を書くって聞いたわ。命の巫女の物語を書いているの?」
「んまあ、そんなところだね。オレの文章はそんな立派なもんじゃないけど」
「シュウの文章はひどいのよ。時間があったら添削してあげるけど、そのままになっちゃったらごめんね」
 命の巫女が口を挟んで、いつもだったら言い返すシュウも今回ばかりは苦笑いを浮かべたまま黙っていたの。どうやら文章を書くことに関しては、シュウよりも命の巫女の方が上手みたい。完全に今までと立場が逆転していて、あたしは不思議に思ったんだ。


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「それじゃ、2人で書いているの?」
「ええ、そう。あたしがこの村へつくまでで、シュウがそのあと影を倒すまで。シュウはぜんぶ自分で書くって言ったんだけどね。シュウの文章じゃあたしたちの世界のことがぜんぜん伝わらないから」
「……悪かったな、文才ゼロで」
「あたしが一緒でよかったでしょ? シュウ1人だったら本を書くなんてぜったい無理だったんだから。感謝してよね」
 2人の前には既にたくさんの紙が重ねてあったのだけど、命の巫女はシュウの3倍は書いているみたい。2人ともボールペンを握ってるから、あたしが筆で書くよりもずっと文字は小さくて、見かけの紙の枚数よりもずっとたくさんの文章を書いているんだってことが判った。
「命の巫女は文章を書く仕事をしているの?」
「ううん、仕事じゃなくて、趣味。……どう言ったら判りやすいのかな。初めて文字を覚えた子供がね、楽しんで読めるような物語を書いているの。祈りの巫女は思ったことがない? 空を飛んでみたいとか、動物とお話をしてみたいとか」
「……そうね。思ってたかもしれないわ。小さな頃には」
 そういえば小さな頃、シュウといろいろ話したような気がする。森の木は葉ずれの音で会話しているんだって、一生懸命森の木に話しかけて、その声を聞き取ろうとしてみたり。その頃カーヤと友達だったらそんな空想も本物になっていたかもしれないけど。
「そういう、子供の純粋な願いをかなえるような物語を書くの。子供たちが物語の主人公になって動物とお話しするのよ」
「要するに、子供に嘘を教えるのがおまえの趣味ってことか。まさに悪趣味だな」
「あのねえ! せめて夢を与えるって言ってよ。ほんとにシュウって夢がないんだから!」
 そうして2人はまた言い合いを始めてしまう。あたしは笑いながらそんな2人を見ていたのだけど、あんまり邪魔をしても悪いから、そろそろその場を辞すことにしたの。
「明日の早朝、あたしも見送りに行くわ。夜明けの頃でいいの?」
「夜明けよりも少し前になるかな。でも、別に来なくてもいいよ。今日の夜には宿舎に挨拶に回るつもりだし」


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「できれば見送られたくないのよね。朝早くしたのもそういう理由だったし」
「そうなの? どうして?」
「やっぱりね、真面目に見送られても照れるから。別れの涙って苦手なの、性格的に」
「この村ではずいぶんよくしてもらったからさ。離れがたくてずるずる出発を遅らせちまいそうな気もするし」
 2人の言うこともなんとなく判った。その時がきたら、あたしも涙なしではリョウと別れられなくなってしまうだろう。
 命の巫女たちと簡単な会話を交わして神殿の書庫から帰ってきたあたしは、いったん宿舎に戻ろうと扉を開けた。と、そのとき、宿舎の中からいきなり出てきた人とぶつかりそうになっていたの。振り返ったのはカーヤで、ずいぶん驚いていたみたいだった。
「ごめんなさいカーヤ! 怪我はなかった?」
「あ、……ええ、大丈夫。……ごめんなさい」
 カーヤは不自然な動作で顔を伏せて、そのまま宿舎を走り去っていく。
 あたしは首をかしげながら扉を入ってみたの。そうしたら、オミの部屋のドアが開けっ放しになってたんだ。カーヤは普段ドアを開けたままになんかぜったいにしないから、もしかしたらオミとなにかあったのかもしれないって、そう直感した。
 開け放たれたドアから覗いてみると、ベッドに上半身を起こしたオミが壁を見つめているのが見えた。
「オミ」
 あたしが声をかけると、オミは慌てふためいてベッドから落ちそうになるくらい驚いたんだ。そのあと胸を押さえてうずくまってしまったから、あたしは思わず笑いを誘われてしまったの。
「ユーナ! ……脅かすなよ」
「普通に声をかけただけじゃない。それよりどうしたの? カーヤになにかしたの?」
 あたしの問いに、オミは目を伏せて真っ赤になっていた。やっぱり2人の間になにかあったんだ。オミはしばらくの間沈黙していて、あたしは辛抱強く待っていると、やがて聞こえるか聞こえないかのか細い声でそう答えた。


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「……キス、した」
 今度はあたしが驚く番だった。オミとカーヤ、いつの間にかそんなところまで進んでいたの?
「告白したの? いつ?」
「……してない」
「え?」
「告白、してない。……キスしたところで逃げられちゃったから」
 オミ、告白をしないでいきなりキスしちゃったの? あたしは半分あきれてしまって、大きくため息をついた。
「それじゃ逃げるよふつう。もっとほら、ちゃんと考えてから行動しなくちゃ」
 オミにもそのことは判ってたみたい。あたしが言うと、頭をかきむしるような動作をした。
 どうしてオミは考える前に行動しちゃうんだろう。父さまも母さまもすごく考え深い人だったのに、オミはいったい誰に似たのかな。
 頭をかかえてぶつぶつ独り言を言うオミが、なんだかすごく愛しく思えた。まだまだ子供だと思ってたのに、いつの間にか恋をして、知らない間に男の人になってる。今のオミ、すごくかわいいよ。きっと本人に言ったら凄まじい勢いで怒られると思うけど。
「……リョウは?」
「え?」
「リョウはどうだったの? ちゃんと考えてから行動してた?」
 訊かれて、あたしはあの頃のリョウのことを思い出す。 ―― 毎日、あたしと話すために宿舎に通ってくれた。あたしに嫌われたくないって、ずっと優しく接していてくれた。あの頃のリョウは優しすぎるくらいだったよね。そんなリョウにやきもきしていたことも、今はすごく懐かしく思い出せるよ。
「考えてたよ。考えすぎるくらい考えてた。あたしにプロポーズする前にはちゃんと家を建てて、仕事でも誰にも文句を言われないほどの成果を上げてね。じれったいくらいで、むしろあたしの方が ―― 」


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