真・祈りの巫女



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 そのとき、シュウがいきなり次元の扉を消したの。命の巫女の扉から怪物の腕がポロリと落ちて、次の瞬間怪物がすさまじい悲鳴を上げてのた打ち回ったんだ。
  ―― グワアアァァーーー!
「祈りの巫女! 君のことはオレたちでなんとか守る。早く扉を!」
 こんな次元の扉の使い方ができるなんて思わなかったよ。あたしはシュウにうなずいて、再び祈りに入った。
 トンネルの扉を通過して、あたしは次に目に入った黄緑色の扉を選び出した。そして、さっきと同じように扉の色を水色に変える祈りをする。次に赤色の扉。神様の視点はあらゆる方角から見ることができたから、1つの方向から見えている扉だけじゃなくて、すべての扉を選び出すことができる。
 あたしは、最後に残ったピンク色の扉を探した。これで最後だ。これさえ水色に変えてしまえば、影は2度とあたしたちの村へ来られなくなる。村が襲われることは2度となくなるんだ。
 その時だった。
「ユーナ、もうやめるんだ」
 とつぜん、あたしの耳元で声がしたの。あたしは驚いてきょろきょろ辺りを見回す仕草をした。聞こえてきたのは確かにリョウの声だったから。
「おまえはぜんぜん判ってない。影は過去を変えることができるんだよ。たとえばユーナ、オレが殺されたあの瞬間に戻って、オレが殺されなかった歴史に変えることもできる」
 この声、あたしのリョウだ。幼い頃からずっとあたしのことを愛してくれていた、あたしに優しさをたくさんくれた、幼馴染で恋人のあたしのリョウ。
「影は言ってる。もしもこの扉を元に戻せば、ユーナのために歴史を変えてくれてもいい、って。……ほら、さっきユーナが自分で思ったんだろ? オレがブルドーザに殺されたあの時、オレを生き返らせる祈りをすればよかった、って」


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「過去に戻ってオレを生き返らせる祈りをすればいいんだよ。そうすれば祈りの巫女に引き継がれた幸運も使い果たせる。影はそれで妥協するって言ってるんだ。ユーナが力を使い果たした時点で、もう村を襲うことはしない、って」
 いったい、なにを言っているの? 過去に戻ってリョウを生き返らせる……?
 本当にそんなことができるの? ……確かに、影は過去に戻れるって、そう言ってた。13代目の両親を殺すために過去に戻ったんだ、って。今、あたしがこの扉を元に戻せば、影は過去を変えることができるの? あたしは本物のリョウを生き返らせる祈りをすることができるの?
「オレだけじゃないんだよユーナ。あのあとの影の来襲で殺されたたくさんの人たち、その人たちを生き返らせることもできるんだ。壊された村もすべて元に戻る。おまえが人々の悲しみを癒す必要だってなくなるんだ」
 もしもリョウが死ななかったら、あたしは命の巫女のリョウを呼び出したりもしなかった。村の危機が去っていれば命の巫女とシュウも村へやってくることはなかった。過去に戻れば、本当に多くの人たちが救われる。あたしはただ、リョウを生き返らせる祈りをするだけでいいんだ。
 リョウの言葉には説得力があって、あたしはその言葉の魅力に引き込まれた。だって、本当にそうなったら、どれだけ多くの人が幸せになれるか判らないんだもん。あのリョウだってきっと、こんな危険な村へはきたくなんかなかったよ。あたしの恋人のふりをして、命の巫女とシュウが仲良くしてる姿なんかきっと見たくなかった。
「扉を元に戻したら、村のすべてを元に戻してくれるの?」
「すべてを、って訳にはいかない。ユーナの両親やマイラたちまでは元に戻せないからな。だけど、運命の巫女やセト、そのとき死んだ80数人の命は救われる。それだけでも十分だと思わないか?」
 そうだ。リョウが死ぬ前に死んだ人たちは元に戻らない。でも、それでも、村をあそこまで壊されないですむのならその方がずっといい。
「ユーナが決断するんだ。これから先、村を復興するのはものすごく大変なことだ。そんな村人たちの苦労もずいぶん少なくなるんだよ。ここでユーナが扉を元に戻すだけで、村人ぜんいんが何らかの形で幸せを得ることができるんだ」


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 村の人たちを幸せにする。それが、祈りの巫女であるあたしの仕事。
 リョウの言う通りにすればきっと村の人たちは幸せになる。それはあたしの仕事が成功したってことだよね。あたしは村のみんなの命を守って、幸せにすることができた、って。
 ……でもね、リョウ。あたしはどうしても影を信じることができない。影の言うとおり扉を元に戻して、たとえ過去に戻れたとしても、あたしがリョウを生き返らせたあとに再び村を襲わないでいてくれるとは信じられないの。だって、さっきあたしが力を使い果たしたときも、影は村への攻撃をやめてくれなかったんだもん。それに、たとえリョウがブルドーザに殺されたあの時、あたしがリョウを生き返らせる道を選択していたとしても、そのあと影が攻撃をやめたなんて思えないんだ。
  ―― 神様に祈りを捧げる。最後に残ったピンク色の扉を、水色に変えて欲しい、って。
 この祈りの力は、村のみんながあたしのために祈ってくれたその証。そんな大切な力を、影のために使うなんてことはできないよ。
「ユーナ、どうして。影の言うとおりにすればオレはずっとユーナのそばにいられたのに」
 リョウの声は不自然な響き方をしていて、あたしは影がこの世界に留まれなくなっているのだと知った。
「あたしもそばにいたかったよ。ずっと一緒にいて、リョウと2人の未来を生きていたかった。だけど……。あたしのリョウは死んだの。それが真実で、嘘は真実に変わったりしない。あたしはこれからも、リョウがいない時間を独りで生きていかなくちゃならない」
「歴史が変わるんだ! その歴史は嘘なんかじゃないんだぜ。今からでも遅くない。オレが生きている時間をおまえの真実にすればいい」
「リョウと話せて嬉しかった。影が変身したリョウは変なリョウばっかりだったけど、今のリョウはすごく本物っぽかったよ。声だけだったのが残念なくらい。……ありがとう、リョウ」
「ユ……ナ、どうし、て……」
「さようなら!  ―― そして、ごめんね」
 そう、言い残して、あたしはもう何も考えずに神様から離れた。


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 再び祈りから戻ると、その部屋では既に戦闘は行われていなかった。しんと静まり返っていて、シュウと命の巫女が呆然と崩れ落ちている。あたり一面真っ白にけぶっていてリョウの姿は見えなかった。あたしに気づいた命の巫女が顔を上げて、少し驚いた顔をする。
「どうしたの? 祈りの巫女。……なにか悲しいことがあったの?」
 頬に手をやって、あたしも命の巫女がなにに驚いたのか気がついた。勢いよく水滴をぬぐって笑顔を作る。
「なんでもないわ。……リョウは?」
「……ごめんなさい。今はあたし、立てなくて」
 命の巫女がものすごく消耗しているのが判った。ここは寒くて、あたしも手足が凍りそうになっていたけど、でもリョウのことが心配で必死に立ち上がったの。白い霧をかき分けながらリョウを探す。その部屋はものすごく広くて、少し時間もかかったけど、ようやく床に倒れているリョウを見つけたんだ。
「リョウ!」
 リョウはもう人の姿に戻っていたから、あたしは駆け寄って抱き起こした。声をかけても顔をたたいても返事をしない。唇から白い息がもれるのが見えたから、少なくとも死んではいないみたいだったけど、いつまでもこんなに寒いところにいたらほんとに死んじゃうよ。
 あたしは1度命の巫女たちのところに戻って、ぐったりしている2人の肩をゆすりながら声をかけた。
「さあシュウ、命の巫女、立って。もう影は来ないわ。扉の色をぜんぶ水色に変えられたのよ」
「それは良かった。おめでとう、祈りの巫女。……影が来ないならさ、もう少しだけ休ませてくれないか? オレもう1歩も動きたくない」
「どうして? そんなこと言ってたらここで凍えちゃうわよ。せっかく影を倒せたのに、こんなところで凍死しちゃってもいいの?」
「ユーナァ、炎の玉出せるかぁ?」
「……出せる訳ないでしょう? 力なんか、ぜんぶどころかマイナスまで使い果たしてるよ」
「ほら、オレたちは体力を力に変換してるようなところがあるから。ここまで疲れたらどうしようもないんだ」
 この分だと2人はぜんぜん頼りになりそうになくて、あたしは再びリョウを起こすために駆け出していった。


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 何度か顔を叩いたり、冷え切った手足をマッサージしてあげていると、ようやくリョウは少しずつ意識を取り戻してきたみたいだった。
「リョウ、気がついた? あたしのことが判る?」
 冷たい頬に手を当ててあたためてあげる。リョウは少しの間意識がはっきりしないみたいで、目の焦点を合わせるのも辛そうに見えた。
「……ユーナ。……生きてるの、か……?」
「大丈夫、生きてる。まだここは天国じゃないよ。……どうして? リョウ。どうしてあんな無茶なこと ―― 」
 そのときとつぜん、リョウがあたしの手を引っ張ったから、あたしはリョウの胸に倒れ込んでしまったの。リョウの身体が冷たい。震えることすらできないくらい冷え切ってしまった腕で、リョウがあたしを抱きしめる。
「無茶をしたのは誰だよ。……おまえ、まだ生きてるのか? これからおまえは死ぬのか……?」
 え? ……そうか、リョウはあたしに祈りの力が戻ったときに話を聞いてなかったんだ。もしかしてリョウが言ってる「生きてるのか?」って、リョウ自身のことじゃなくてあたしのことだったの?
「あたしは大丈夫だよリョウ。村のみんながね、あたしに幸運を分けてくれたの。あたしのために祈りを捧げてくれたの。みんなの幸運は限られた分しかないのに、それをあたしのために使ってもいい、って」
「……村人が……幸運を……?」
「うん。村のみんながあたしのために祈ってくれてる声が聞こえたの。だからあたし、死ななくてすんだ。もうあたしのことは心配ないよ。それに、みんなにもらった幸運で、扉の色を変えられたの。だからもう影が村を襲うこともないわ」
 話しながら、あたしはリョウの冷たい身体を抱きしめた。少しでもあたしの熱がリョウに伝わるように。
「リョウ、あたしたち、勝ったんだよ。……あたし1人じゃ勝てなかった。リョウがいて、命の巫女とシュウがいて、あと、村のみんながいたから勝つことができたの。……リョウ、やっと終わった ―― 」
 リョウの体温が戻ってくる。それにつれて、あたしも少しずつ実感し始めたのかもしれない。まるで固まっていた感情の糸がほぐれるように、心の端からしだいに広がってくるの。大きく息を吐き出したとき、あたしは自然に涙を流していた。


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 これで本当に終わらせることができたんだ。これで、本当に ――
「どうした。……泣いてるのか?」
 訊かれて、でも声が詰まってしまってすぐには答えられなかった。ほぐれた糸が絡まりあって、自分がいったいどうして泣いているのか、見えなくなってるみたい。きっと、すべてが終わったって安心感もあると思う。だけどそれだけじゃない。不安とか、恐れとか、後悔とか。言葉にできない感情がたくさん絡まってて、今のあたしには息を詰まらせて涙を流すことしかできないの。
 息を吐くように感情を言葉にして吐き出せてしまえばいいのに。言葉にできないことがもどかしくて、しばらくの間あたしは泣いていた。ずっと見守ってくれていたリョウは、やがて少しだけ身体を起こしたの。顔を上げたあたしにぎこちない微笑を見せる。
「リョウ?」
「前にも、こうしてたことがあった」
「え?」
「記憶のない俺が、初めて獣鬼と戦ったときだ。祈り台の上で倒れてたおまえを、目が覚めるまでこうして抱きしめてた。あの時は泣いてはいなかったか」
 覚えてる。あたしが初めて村へ降りて祈りを捧げたとき。リョウを死なせたくない一心で祈りを捧げて、再び禁忌を破ってしまった。もうあたしは以前の自分には戻ることができないんだって思い知らされたあの時。
「目が覚めたら、リョウの暖かさの中にいたの。リョウが心配してくれてたのがすごく嬉しかった」
「意識が戻るまではな。あの時、おまえの祈りがなかったらあんなに早く獣鬼を倒すことなんかできなかった」
 言葉を切ったリョウは少し目を細めるようにして、遠くを見ていた。そして、そのままの表情でつぶやく。
「……もう、思い出話もできるな」
 リョウがそう言った時、あたしは気づいたの。あたしが不安に思ってた答えの1つに。
 この災厄が去った今、もうリョウがあたしのそばにい続けてくれる理由は一切なくなってしまったんだ。


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 リョウがいなくなる。今この瞬間、あたしを抱きしめて思い出を語ってくれるリョウが。
 知らず知らずのうちにリョウの背中を抱く腕に力が入っていたみたい。リョウはちょっと驚いたように身じろぎした。
「ユーナ。ほんとにどうしたんだ? ……まさか、おまえの命が助かったってのは ―― 」
「ううん。それは嘘じゃないよ。村のみんなが助けてくれたからほんとに大丈夫なの。なんだかあたし今、混乱してて」
 リョウに誤解されたくなくてあわてて言うと、リョウは再び笑顔を見せた。今度はさっきみたいなぎこちない笑顔じゃない。リョウの身体がだんだん温まってきて、表情も少しずつ元に戻ってるんだ。
「そうか。……まだ、言ってなかったな。よくやったユーナ。おまえのおかげで俺の命も、村も救われた。感謝してる」
「そんな。あたしだけの力じゃないよ。リョウが必死で守ってくれたから、あたしは祈りを捧げることができたの。ありがとう、リョウ」
 やっとだった。このときになって初めて、あたしはリョウに笑顔を見せることができたの。それに伴って少しずつ実感がわいてくる。あたしは村を救うことができたんだ。祈りの巫女の役目を果たして、村のみんなの幸せに手を貸すことができたんだ、って。
 リョウの感謝の言葉が、複雑に絡み合ったあたしの感情の方向性を定めてくれたみたい。今のあたしはリョウの感謝の言葉を単純に喜んでいればいいんだ。リョウはいつもそうだった。たった1つの言葉であたしの気持ちを楽にしてくれる。
「ほっぺたが真っ赤だな。もうそれ以上泣くなよ。顔がしもやけになるぞ」
「ほっぺた、って。子供に言うみたいに言わないでよ。あたしもう16歳なんだよ」
「言われたくなかったらもう泣くな。おまえ、本当に子供みたいな顔をしてるぞ。この秋に結婚を控えた女には見えねえ」
 そんなリョウの言葉にちょっとだけドキッとして、そんな表情を隠すために自分の頬に手を当ててみた。ほんと、冷たくてガサガサしてて、リョウが言ったとおり赤くなってるのは間違いないみたい。
「早く帰って顔を洗いたい。リョウは? もう動けそう?」
「だいぶ動くようにはなってきたけどな。歩き出すには腹が減りすぎてる。俺の荷物は近くにないか?」
 あたしはきょろきょろ見回したけど、まだ霧は晴れていなくて、近くにリョウの荷物を見つけることはできなかった。


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「たぶん命の巫女たちが持ってると思うわ。あたし、もらってくる」
「悪いな。奴らはどうしてる。無事なのか?」
「2人とも疲れてぐったりしてるの。体力を限界まで使い果たしちゃったみたい。このままでいたら凍えて死んじゃうって言ってるのに動こうとしないの」
「だったら飯を食わせてやれ。腹が膨れれば寒さも和らぐだろう。……ほんとにな。あれだけ苦労して影を倒しておいてここで凍死したら喜劇だ」
 リョウがそう冗談を言って、あたしも微笑みを返しながらまた立ち上がって歩き出した。命の巫女たちのところまで行くと、2人とも身体を起こして自分たちだけ食事を始めていたの。あたしは簡単にリョウのことを報告したあと、食料が入った袋を1つもらってまたリョウのところへ戻った。それから2人で向かい合って食事を始めたんだ。
「ねえ、リョウ。リョウはやっぱりお腹が空くの? だって、リョウは肉体の限界を超えたんだ、ってシュウが言ってたのに」
「あいつの理屈はどうだか知らないけどな、どうやら腹は減る」
「ちゃんと教えて。あの時リョウはどうなったの? どうやって元に戻ったの?」
 リョウは少しだけ考えるそぶりを見せて、そのあと言葉を選びながら話し始めた。
「あのときのことはぜんぶはっきり覚えてる訳じゃない。……俺は、死んでたんだよな。たぶん、あのときに感覚が解放されたんだ。自分の感覚に刻まれた身体の情報を別のものに変化させる方法が判った気がした」
 あたしがリョウを殺した。あのときに、リョウは本当に死んでたんだ。感覚を解放するって言葉をあたし自身が実感することはできなかったけど、なんとなく想像することはできる気がしたの。
「だから影が怪物になったとき、俺も俺が知る生き物の中で1番強いものに変われる気がした。今それをやれって言われてもできないだろうが、あのときの俺にはそれができた。むしろ元に戻るときの方が大変だった。1度ドラゴンになっちまったら、人間の感覚の方を忘れてたんだ。必死で人間の感覚を思い出そうとして、だからだろうな、今ではもう自分以外の何かに変われるとは思えない」


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 淡々と話しながら、リョウは食事を口に運ぶ。そんなリョウを見ていたら、リョウがドラゴンと呼ばれる生き物に変わったなんて信じられないよ。すごくきれいで高貴な生き物だった。リョウの世界には、あんな生き物も存在するんだ。
「リョウが怪物に首を噛まれてるのを見たわ。傷はないの? 痛みは?」
「大丈夫だ。あの闘いの傷は残ってない。その瞬間は痛みもあったけどな、今は感じない」
  ―― 触れることが怖かった。あの時、あたしがリョウを殺した。
 リョウは自分を殺したあたしをどう思っているのか。もしかしたら、無意識にでもあたしを怖いと思ってるかもしれない。自分を殺したあたしを恨んでるかもしれない。今は普通に接してくれているけれど、ふとした瞬間からあたしを避けるようになるのかもしれない。
 リョウを生き返らせたこと、あのときのあたしは一瞬だけ後悔した。そんなあたしの心はリョウに伝わっていたかもしれない。それを確かめるのが怖いの。リョウが本当はあたしのことをどう思っているのか、って。
 恐れられて、恨まれて、嫌われるのが怖い。もう少し、ほんの少しの間でしかなかったけど、あたしがリョウのそばにいられる時間だけでもリョウの恋人でいたい。ほんの少しの時間。あたしはこの時間を守るために、あたしのリョウを切り捨てたんだ。
 幼い頃からあたしを愛してくれたあのリョウ。あたしのリョウが生きている時間と、今ここに流れている時間。目の前に2つの時間が提示されたとき、あたしはこの時間を選んだの。それはあたしが、今ここにいるリョウを選んだ、ってこと ――
「おまえは? 怪我はないのか?」
「うん、大丈夫。リョウも命の巫女たちもすごく大変な思いをしたのに、あたし1人だけ楽をして申し訳なかったくらい」
「楽ってことはなかっただろ。おまえはおまえ自身の戦いをしていた。俺にはおまえの戦いがどんなものだったのかは判らないけどな、それだけは理解してるつもりだ」
 そう言ってリョウは微笑む。少なくとも、リョウはあたしを理解しようとしてくれている。それは判ってた。だけど。
 ここに流れているほんの少しの時間。あたしとリョウとの間には、もうすべてを理解し合うだけの時間はないんだ。


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「……今、無理に話すことはないけどな。話せるようになったらいつでも聞いてやる。 ―― 命の巫女たちだ」
 え? もしかしてリョウ、今あたしが自分の戦いを話すのを待っててくれてたの?
 それで気づいた。あたし、リョウに詳しいことはなんにも話してない。それはあたしが無意識のうちに避けていたからだ。あの扉の部屋でのリョウとのやり取りを、このリョウに話すことを。
「やっぱりここにいたんだ。リョウ、無事だな?」
「どうにかな。おまえらも動けるようになったか」
「思いのほかこの身体は単純にできてるらしい。食事をしたらすぐに回復してくれたよ。とにかくこの寒い部屋から早く脱出しないと」
「次元の扉は開けないのか?」
「さすがにそこまでは回復してねえな。リョウ、あんたも動けるようなら協力してくれ。どこかに脱出できそうなところがあるはずなんだ。たとえば床に隠し扉の仕掛けがあるとか」
 いつの間にか近づいてきたシュウとリョウが会話している声が聞こえた。振り返るとそばに命の巫女もいる。2人とも寒そうに身体を震わせていたけれど、さっきみたいに1歩も動けないというほど疲れてはいないみたいだった。
「この霧の中で床の仕掛けを探すのか? しかもこんな広い部屋で」
「あのなあ。てめえがブリザードなんか吐くからここまで真っ白になったんだろうが。まるでオレが悪いみたいに言うなよ」
「あの怪物が寒さに弱いって言ったのはおまえだろ。ブリザード浴びてもまったく動きが鈍くなんかならなかったけどな」
「オレは奴が熱に強いって言っただけだ! こんなに広い部屋で気温を下げたらオレたちの方が凍るって、先に忠告もしただろ?」
「だったらほかにどんな作戦があったって言うんだ。左の騎士が適切な作戦を提示できもしねえで文句ばっかり言ってるなよ」
「文句を言ってるのはどっちだよ! リョウ、てめえこんなところまできて ―― 」
「ストップ! 2人ともそこまでよ。喧嘩が楽しいのは判るけど、今はそんなことして遊んでる暇なんかないんだから」
 そう、止めに入ったのは命の巫女で、2人とも一瞬あっけに取られたように口を閉ざした。


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