真・祈りの巫女
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助けてよ、神様お願い。あたしの祈りを聞き届けて!
「どうしてこんな言葉を。……シュウ、ほかの呪文を知らないの? あなたが影を肩代わりしたのでは何にもならないよ!」
小さなあたしの身体から靄が離れていく代わりに、小さなシュウを覆っていく。靄の呪縛を離れたあたしの身体がシュウによって岸に押し上げられる。振り返って呆然と佇むあたしにシュウが笑いかけた。いつも、あたしを安心させてくれた、ぼくがユーナを守ってあげるよって言ってくれた、あの同じ笑顔で。
『よかった、ユーナ。大丈夫? ちゃんと立てる?』
冷え切った身体でよろよろと立ち上がるあたしに、シュウは再びほっとしたような笑顔を向ける。身体はほとんど沼の水に沈んで、どうにか顔だけ水面に出しているような状態なのに。
『もし歩けたら、ここに母さんを呼んできて。待ってるから。ね?』
間に合わないことは小さなあたしにも判ってた。それでも、精一杯の力を振り絞って森の道を村に向かって駆けていく。あたしは12歳のときに記憶を取り戻したけど、このときのことはほとんど覚えていなかった。自分がどんな気持ちで森を離れて、マイラを呼びに走っていったのかも、そのあといったいなにが起こったのかも。
命の巫女も、あたしを抑えているリョウやシュウも、もうなにも言わなかった。静まり返った森の中に風に揺れる木々の囁きだけが聞こえていて、やがて沼に沈んでいく2人のシュウの心が伝わってくる。
―― ユーナを苦しめたくないんだ。ぼくのことを一生思い出さなくてもいい
そう望んだのは小さなシュウ。そして、大人のシュウが幼いあたしの記憶を消す呪文を唱えてくれたことが、あたしには判った。
―― あの災厄を前にして、オレには何もできなかった。だけどユーナが生きていれば必ず村を救うことができる。これでオレが生きていた時間は消えて、ユーナが生きていた時間にすりかわる。ユーナなら必ず村を救ってくれるだろう
―― ユーナ、君なら村を救えるって、オレは信じているから ――
そのあと、いつこの場面が終わって、どうやってその部屋を出たのか、あたしは覚えてはいなかった。
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「 ―― あのシュウはね、別の歴史を歩んだ未来の村から来たんだと思う。未来とはいっても、あの沼の時間から見れば未来ってことで、実際には祈りの巫女とほとんど同じ時間から。その歴史の中でもやっぱり村は災厄に襲われていて、でも祈りの巫女がいなかったために村は滅んでしまったの。だからあのシュウは歴史をさかのぼって祈りの巫女を助けようとした」
「だが、命の巫女がいなければあいつはここまでこられなかったはずだろう。祈りの巫女の騎士の力では命の巫女の力を操れないんじゃないのか? 左の騎士が歴史を変えられなければ、今ユーナも命の巫女もここにいなかったはずだ」
「つまりは予定調和だったんだ。オレたちがここにいるのも、この扉を開けてユーナが騎士の力を助けたのも」
―― 3人が話している声をあたしは聞いていた。だけどその声は遠くて、言葉の意味があたしの頭の中に入ってくることはない。
「予定調和? なんだそれは」
「原因と結果が時間軸を無視して存在していた、ってこと。原因が出現した瞬間には結果も既に存在しているんだ。左の騎士が過去へ戻ろうと決心したときに、その結果として生きている祈りの巫女とその祈りで呼び出されたオレたちが存在しているから、ユーナが騎士をあの時間へ呼び込むことができた。同時に、左の騎士が死ぬ結果も存在しているから、オレたちが幼いシュウを救うこともできなかった。要するに最初からこの結果が出ることは決まっていたんだ」
「あたしたちがここへ来ることも決まってたの? あの扉を開けることも?」
「そういうことになるかな。それどころか、本当はもしかしたらこの先の未来も決まってるのかもしれない。これからオレたちがどう行動して、結果村を救うことができるのか、それともここで殺されることになるのかも」
「そんな……」
リョウがあたしを抱きしめていて、時々心配そうに顔を覗き込んでくれる。あたしは目を開けていたけど、リョウと視線を合わせることはできなかった。死んでしまったシュウの言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
「時間に関してはオレにもエスエフショウセツ程度の知識しかないんだけどね。過去に戻って歴史を変えたらどうなるか、なんて命題はけっこう頻繁に扱われてるよ。だけどここでこんなにはっきり予定調和の実証例を見せられるとは思ってなかった」
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「未来だけじゃないんだ。沼で助かったシュウは確かに存在していて、その村が災厄に襲われるまでの人生を経験してる。そして彼が経験した10年間は祈りの巫女が助かる歴史に変わった時点で消滅してる。だけどこの歴史も祈りの巫女が助かるためには必要な歴史だったんだ。この消滅した歴史も予定調和の中にあることになる。……あのシュウは、過去に戻って祈りの巫女を助けるためだけに存在していた、ってことだ。まるで胎児の手にある水かきの細胞が、産まれる頃には自ら死滅するのと同じように」
「……」
「すべての歴史が予定調和の中にあるのなら、オレたちの過去も同じことになる。オレとユーナが同じ町に住んでいたことも、ユーナが4歳で引っ越してあの日偶然エキで再会したことも。……トツカ、あんたがヤケンに襲われたオレたちを助けて、この村へ飛ばされてきたことも」
―― シュウ、あたしを助けて死んでしまったシュウ。あたしはあなたを助けることができなかった。あなたの命も、信じているからって言葉も、あたしには重過ぎるよ。
「……なんのことだ。いったい誰と勘違いしてる。いいかげん、俺をトツカと呼ぶのはやめろ」
「まだ隠すつもりかよ。そっちこそいいかげん認めたらどうなんだ。おまえは祈りの巫女の幼馴染なんかじゃない。いったいなんだってあんなに善良な村人たちや祈りの巫女を騙すようなことをしてるんだよ!」
「やめなよシュウ! 祈りの巫女だっているんだよ」
「親切なふりしていったい何をたくらんでんだよ! 本当はおまえこそが村を滅ぼそうとしてるんじゃないのか!」
『パチン!』
意外に近くに聞こえた音と、やがて遠ざかっていく足音があった。でもシュウの言葉に呪縛をかけられたようで頭も身体も働かない。
「……ごめんなさいリョウ。シュウだって本気であんなことを言ったんじゃないの。あとでちゃんと謝らせるから」
「腹が減って気が立ってるだけだ。俺は気にしてない。……ユーナがこの状態だからな、しばらくここを動けないだろう。袋の中に食料が入ってるからてきとうに用意してくれ。食い物の匂いがすればあいつも帰ってくる」
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―― あたしはシュウを助けられなかった。せっかくあの時間に戻ることができたのに、あたしの祈りの声を神様は聞いてはくれなかった。どうしてシュウはあたしを助けようとしたの? あたしを死なせてしまった負い目を持っていたから? それとも、成長したシュウは神官になって、タキやセトのように巫女を守る役目を自覚したからなの?
「サンドイッチがある。これならリョウも片手で食べられるわね。……あたしたちの世界のパンよりもちょっと固めかな。祈りの巫女の顔に中身を落とさないように気をつけて」
―― 幼い頃、あたしを守ると約束してくれた、その約束を果たそうとしてくれたの?
「ああ、すまない。……ユーナ、おまえも腹が減ったんじゃないのか? 起き上がれそうなら食っておいた方がいい」
―― シュウは、自分にはできなかったことでも、あたしにならできるって言ってた。シュウは自分の命よりもあたしの命の方が重いと思ったの?
「まだ無理みたいね。仕方ないよ。目の前で幼馴染が死んだところを見せられたんだもん」
「そのうち起きる。こいつはいつまでも落ち込んでられるほど気が長い奴じゃない」
「信じてるんだ。リョウは誰かさんと違っていい恋人だね」
「……知っているだけだ。あいつもおまえのことなら判ってるだろう」
―― 答えが出ない疑問ばかりを繰り返していた。あたしを助けてくれたのがあの幼いシュウだと思ってた時なら、こんなたくさんの疑問を持たずに済んだのに。5歳のシュウは自分の死に対する恐怖なんかなかったかもしれない。だけど、あたしを助けてくれたのは、あたしと同じ16歳のシュウだったんだ。
―― 死にたくなんか、なかったよ、ぜったい。たとえ村が死んでもシュウは生きてたもん。これから先いくらだって生きることができたはずなのに。
「さっきね、小さなあたしを見たでしょう? あの頃のあたし、リョウチャンていう男の子のお嫁さんになろうと思ってたの。ほら、あの部屋で最後にチラッと出てきた男の子」
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「あのチビども、いったいいくつだよ。ずいぶんませたガキだなおまえ」
「そんなもんだよ子供なんて。……でね、あのあとしばらくしてリョウチャンは引っ越していって、あたしも別のところへ引っ越しちゃうんだけど、最近になって偶然再会することができたの。あたしの方はぜんぜん気づかなくて、でもリョウチャンの方は気づいてた。それなのにリョウチャンはあたしにそう言ってくれなかったの。シュウに口止めまでしてあたしに自分がリョウチャンだって隠そうとしたの」
―― たとえ村がなくたって、シュウにはその先の人生がすごく長くあったはずなのに。あたしを助けなくてもシュウは生きていけたよ。
「この説明じゃ判ってもらえないかな。でも聞かせて。リョウはどうしてだと思う? リョウチャンがあたしを無視してたのはどうしてだったと思う? シュウがあたしのことを好きだって知ってたから、リョウチャンはシュウの気持ちを考えてあたしを遠ざけようとしたの?」
―― シュウはどうして自分の命を捨ててまであたしを、村を救おうとしたの? 村のために自分を犠牲にしようとしたの?
「そいつの考えることなんて、俺には判らねえよ。だいたい人間は自分のために行動するもんだろ? それが誰かのための行動だなんて考える方が間違いだ。おまえが気にすることじゃねえよ」
この時、今まで聞こえていただけの声が、あたしの頭の中に直接響いた気がした。
リョウの声、言葉の意味が判る。かすかに身じろぎしたあたしをリョウが覗き込む。視線を合わせて、リョウが微笑んでくれる。
「腹が減ってないか? 今ならミイが作ったサンドイッチがある。これがなくなったらあとはハムとチーズだけの食事になるぞ」
「祈りの巫女?」
聞こえた声に顔を上げると命の巫女がいた。もっとはっきり身体を起こしてみる。相変わらず扉がたくさん並んだ風景は変わっていなくて、なぜかシュウだけがその場にはいなかったんだ。
「食事中? ……シュウはいないの?」
「1人で癇癪起こしてすねちゃったの。そのうち帰ってくるから心配は要らないわ。ほら、サンドイッチ、祈りの巫女の分もあるのよ」
「ぜんぶ食っちまってもかまわないだろう。食事時に帰ってこない奴が悪い」
リョウにサンドイッチを手渡されてぼんやり食事をしていると、不思議とさっきまでの疑問から自分が解放されていることに気づいたの。
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シュウのことは今でも判らない。だけど、それはあたしには最初から判らないことなんだ、って。
「ねえ、2人はさっきまで何を話していたの?」
あたしの質問にはリョウは答えてくれなくて、代わりに命の巫女が話し始めた。
「たいした話じゃないわ。あたしが昔の思い出話をリョウに聞かせていたの。さっきあたしが幼い頃の風景を見たでしょう? 最後にドアから出てきた男の子をあたしが好きだったって話」
あの男の子のことを、命の巫女はリョウチャンて呼んでいた。あれはきっと命の巫女の右の騎士で、今ここにいるリョウのことだ。つまり命の巫女はリョウに告白していたってこと?
「それで? リョウはなんて答えたの?」
「ませたガキだな、って。……祈りの巫女、前にあなたが言ってくれたこと、そのままお返しするわ。 ―― 安心して。あたしにはシュウがいるから、あなたの婚約者のリョウを取ったりしない。ぜったい」
命の巫女の言葉には、もちろんあたしも驚いたけど、リョウの方が驚いた顔をしていた。命の巫女にはあたしの気持ちが伝わってる。だってこの人は、もう1人のあたしだから。
「あたし、命の巫女にそんなこと言った?」
「言ったよ。初めてシュウがあたしと祈りの巫女を比べたとき。あたし、そのときすごく悔しかったからよく覚えてるの。チャンスがあったらぜったい同じことを言ってやろうって思ってた」
そう言って笑いながらチラッと舌を出した命の巫女を見て、あたしも彼女が言った悔しいって気持ちが判ったの。これって、リョウよりもシュウの方がずっとカッコいいって、そう言われてるような気がするんだ。
「シュウとリョウだったらぜったいリョウの方がカッコいいもん! 背が高くてたくましくて、それですごく優しいんだから!」
「優しさならシュウだって負けてないわよ。頭もいいしね。すごく頼りになるのよ」
そうしてあたしたちが恋人の褒め合いを始めたら、さすがに照れたのか、リョウがシュウを探すと言ってどこかへ行ってしまったの。
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リョウはしばらく戻ってこなかったから、2人を待っている間あたしと命の巫女はずっと話をしていた。
「さっきはごめんなさい、左の騎士を救えなくて。……こんなこと、謝っても済むことじゃないと思うけど」
「いいのよ。あたしはシュウを救いたいと思ったけど、シュウは現実に死んでるんだもん。決まってしまった運命を動かすことは最初からできなかったんだと思う」
「あの時ね、少しだけ左の騎士の記憶が流れ込んできたの」
見ると、命の巫女は何かを思い出そうとするように視線を遠くに向けていた。
「あのシュウは5歳の自分が祈りの巫女を助けられなくて、そのことにずっと負い目を持っていたの。あなたを守ってあげるって、ずっと助けてあげるよって言ってたのに助けられなかった、って。……ずいぶん後悔したみたいよ。そもそもあんなところで遊ばなければユーナは沼に落ちたりしなかったのに、とか。こんなに早く死んじゃうならもっともっと優しくしてあげればよかった、って」
あたしが覚えているシュウは誰よりも優しかった。本当に優しくて、それなのにシュウはもっと優しくしてあげればよかったって、そう思ってくれてたの?
「だからあなたが死んだあとのシュウはしばらくの間、まるで人が変わったみたいに落ち込んでた。でもその苦しみから立ち直って、あなたを守る代わりに今度は村を守る神官になったの。知識をたくさん得ることで村を守って、あなたに恥ずかしくない生き方をしよう、って。……だからね、最期にあなたを助けることができて、シュウは満足していたよ。やっと約束を守ることができた、って」
あたしが死んだ世界で10年間生きてきた、シュウの人生をあたしは知らない。でもそんなシュウの人生が無駄だったなんて思いたくない。短い時間の中でシュウはきっと精一杯生きていた。精一杯生きて、精一杯考えて、それで出した結論が過去のあたしを助けることだったの。
シュウの結論を否定することは、シュウの10年間を否定することなんだ。だからあたしが嘆いちゃいけない。あたしはあたしの左の騎士を誇りに思うよ。
シュウが信じてくれた祈りの巫女としてのあたしを、あたし自身も信じていかなければいけないんだ。
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会話が途切れて、しばらく互いが自分の思いに沈んでいたとき、シュウを伴ってリョウが帰ってきていた。
「お帰りシュウ、ずいぶん遠くまで行ってたみたいね」
「ちょっとね。扉を見ながら頭を冷やしてた。オレの分のサンドイッチ、まだ残ってる?」
「これが最後の1つ。食べないで取っておいてあげたんだから。感謝してよね」
シュウはなんだか機嫌が悪いみたいで、座り込むと憮然とした表情でサンドイッチを食べ始めた。そんなシュウと命の巫女が会話するのを見ていたあたしの肩をリョウがつついたの。あたしが視線を向けると、リョウは仕草で立ち上がるように言った。
そのままリョウがどこかへ歩いていったから、あたしもそのうしろについて歩き始めたの。リョウは手に持った紙と並んだ扉を見比べながら歩いていって、やがて1つの扉の前で足を止めてあたしを振り返ったんだ。
「だいたい1年前か。……これ以上探し回っても見つかるかどうか判らないからな、こんなもんでいいだろう」
「リョウ? いったいどうしたの? なにか探してるの?」
「シュウの奴が約束を破って扉を開けたらしい」
そう言ったリョウはほとんど無表情で、あたしはどう反応していいのか判らなかった。無言で答える。
「無事で戻ってきたからな、それについては俺も怒る気はないんだ。そのシュウの話によれば、扉の色はどうやら干渉の度合いを表わしているらしい。水色の扉が6割以上占めてるんだが、この扉の中は俺たちの干渉も、影の干渉も受け付けないんだ。だからこの扉の中は安全だってことになる」
リョウはさっき選んだ水色の扉をこぶしで1回たたいて、先を続けた。
「ほぼ1年前だ。俺とおまえが婚約して最初の夏。この扉の中には、記憶を失う前の俺とおまえがいる。干渉はできないから見るだけだ。……おまえ、扉に入ってみたくはないか?」
少しの間、あたしは意味が判らなくて呆然としていた。でもしばらくして気づいたの。この扉の向こうにはリョウがいる。そのリョウは記憶を失う前のリョウ。あの日死んでしまった、あたしのリョウがいるんだ。
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この扉の向こうに、あたしが小さいときから大好きだったリョウがいる。ずっとあたしを愛してくれたリョウ。命の巫女の騎士じゃない、祈りの巫女の騎士だった、あたしのリョウ。
扉を開ければリョウに会える。……会いたいよ。あたしは、本物のリョウに会いたい。
「シュウが何度か1人で入ってるからな、おそらく危険はない。1人で入りたいならそうしてもいい。俺はここで待ってる」
扉を見つめていたあたしは、リョウのその声で我に返ったみたい。……そうだよ。どうしてリョウがそんなことを言うの? だってリョウはずっとあたしに隠しているのに。自分が命の巫女の騎士だってこと。
あたしが気づいていることを、リョウは知らないはずなのに。リョウは判っているの? それとも、リョウはあたしを試そうとしているの……?
「どうして? リョウはどうしてあたしにこの扉を見せようとするの?」
リョウは少し戸惑っているように見えたけど、その答えは既に用意していたみたいだった。
「俺ひとりで見てもよかったんだが、俺が見たいならおまえも見たいだろうと思っただけだ。ここには俺の記憶がある」
……ああ、そうか。記憶を失ったリョウなら、過去の自分を見たいと思ってあたりまえなんだ。リョウがあたしに対して記憶喪失のリョウを演じてくれているなら。
もしもこの扉に入ったら、あたしは隠し通すことができるだろうか。リョウがあたしのリョウじゃないって気づいていること。……たぶん隠し通せない。この嘘が明るみに出てしまうだろう。
真実を隠し通している間だけ、リョウはあたしのリョウでいてくれるのに。
「……入らなくて、いいよ、リョウ。だってリョウはここにいるんだもん」
リョウは一瞬身体を硬くしたけれど、表情を変えることはしなかった。
「俺の記憶は? 戻らなくてもいいのか?」
「本当に戻るときがくれば自然に戻るよ。あたし、そう思うことにしたの。だからこんな風に無理やり戻そうとしなくてもいいよ」
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「そうか」
そう、一言だけつぶやいて、リョウはあたしの肩を引き寄せた。だからそのときのリョウの表情は見えなくて、あたしは自分が必死でついた嘘がばれたのかそうでなかったのか、判断できなかった。
リョウに連れられて戻っていく間も、あたしはうしろ髪を引かれる思いだった。あの扉の向こうにいたリョウ。あのリョウには、もう2度と会うことができないんだ、って。
リョウ、そしてシュウ。あたしはあたしのために失ったものを、これからどのくらい背負っていかなければならないんだろう。
やがてあたしは、今そばにいてくれるリョウさえも失うことになる。
再び命の巫女たちの元へ戻ると、食事を終えたシュウがまた床に何枚もの紙を広げているところだった。
「お帰り、祈りの巫女。 ―― もう大丈夫なの?」
シュウが言ったのは、おそらくさっきの扉でショックを受けたあたしを気遣っての言葉だったのだろう。
「ええ、大丈夫。心配をかけてごめんなさい」
「大丈夫ならそろそろ出発しよう。さすがにオレもこの扉だけの風景には飽きてきたところだ」
シュウが紙をまとめて立ち上がった。あたしは驚いてシュウを見上げたの。
「外へ出られる扉が判ったの?」
「正確にいえば判ってない。だけどおおよその見当だけはついたから、あとはもう足で探すしか方法がないんだ。祈りの巫女、この紙を持って、最初の2桁がこの文字で始まる赤か黄緑の扉を探して。おそらくそのどちらかが影の世界へと通じてるはずだから」
あたしは反射的に紙を受け取っただけだったけど、うしろにいたリョウが言った。
「間違いないのか? この数字は何なんだ」
「オレたちの世界が1900から2000番台、君らの世界が1400から1500。これはそのどちらにも当てはまらない、2100番台の扉だ。それ以外の数字がついた扉はここにはない。つまり、この扉はオレたちか、もしくは君らの未来の世界へ通じてるはずなんだ」
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