真・祈りの巫女



451
 足を止めたリョウはふうっと息を吐いて、うしろからついてきたあたしたちを振り返った。
「扉の中に入るたびにあれが始まるんだとしたら、ぜんぶの扉をしらみつぶしに探す訳にはいかないな。時間がかかりすぎる」
「二手に分かれるか? それだけでもずいぶん時間の短縮にはなるぞ」
「いや、それも避けたい。どちらか片方が正しい扉を見つけたとき、一緒にいなければ取り返しがつかなくなる可能性がある」
「……だったらやっぱ、この暗号を解読するしかないな」
 驚いたあたしたちににやっと笑ったシュウは、ポケットの中から小さな本を取り出していた。以前命の巫女が運命を見たときにメモに使った本だ。白紙のページに、今は2行の文字が書いてある。でもそれは村の文字でも古代文字でもなくて、誰にも読むことができなかった。
「扉の上の方に模様が見えるだろう? こいつはそれを写し取ったもので、上に書いてあるのが最初にオレたちが出てきた扉、次が今オレたちが入った扉だ。どちらも文字が8個書いてあるように見える。共通する模様が使われているから、これは文字である可能性が高い」
 シュウはいったん言葉を切って、覗き込むみんなの顔をひと通り眺め見たあと続けた。
「オレはもう少し進んだ予測も立ててるんだけど、ひとまずそれはおいといて、まずはデータを集めてみよう。扉の外側を見るだけなら別々に動いてもいいだろ? 仕切り屋のリョウ」
 シュウが意地悪く笑ってリョウを見上げたから、リョウもちょっとムッとした顔を見せたの。でも怒り出したりはしなかった。もしかしたら本当は文句の1つも言いたかったのかもしれないけど、リョウ自身、誰も気づかなかった扉の文字に気づいたことでシュウを認めたのかもしれない。
「紙はそいつを破ればいいだろうが、筆はあるのか? そんな複雑な模様を覚えてくる訳にはいかないぞ」
「オレとユーナはボールペンを1本ずつ持ってる。祈りの巫女は? なにか持ってる?」
「持ってこなかったわ。まさか筆が必要だとは思わなかったから」
「それじゃ、オレのを1本貸してあげるよ。リョウと2人で行って書いてきて。オレとユーナが別の扉を書いてくるから」
 そう言って、シュウはあたしにボールペンと、本を数枚破いて手渡してくれた。


452
「ここからまっすぐあの方角に向かって、歩いた道に沿った扉を10枚書いたところで戻ってきてくれ。それぞれ扉の色が違うから、それも文字の横に添えてね。くれぐれも無理はしないで。会えなくなったら困るから」
 シュウがあたしに指示したのは、あたしたちが最初に出てきた扉の向こう側に見える扉だった。シュウたちは反対側の扉を見ていくみたい。リョウは文字が書けないからあたしが紙とボールペンを持って次の扉の文字を書き始めたんだけど、あたしが書いている間リョウは扉をたたいて調べていたの。やがて扉の向こう側に回ったリョウが扉を突き抜けて戻ってきたから、あたしはびっくりしてしまった。だって、扉の表面からいきなり手が出てきて、そのあとリョウの顔や身体がまるで扉に生えてきたみたいに見えたんだもん!
「リョウ!」
「ああ、おどかして悪かった。確かめたかっただけなんだ。ちょっときてみろ」
 そう言うと、リョウはあたしの手を引いて、扉の裏側に回ったの。だけどそこには扉がなかったんだ。本当だったらこちら側からも同じ扉が見えるはずなのに。
「どうして? 扉はどこに消えたの?」
「ちゃんとここにあるさ。途中で立ち止まらないで歩けよ」
 リョウに手を引かれて数歩歩いた。そこで足を止めたリョウが振り返る。あたしもうしろを振り返ると、目の前には確かになかったはずの扉が出現していたの。たぶん今あたし、さっきのリョウと同じようにこの扉を突き抜けたんだ。手を伸ばして扉をたたいてみたけど、それは普通の硬さを持っていて、自分がこの硬い扉を通り抜けたことが信じられなかった。
「この扉は片側からしか見たり触ったりすることができないんだ。だから、今見えている扉のほかにも、見えない扉がおそらく2倍以上はある。自分で気がつかないだけで、今まで知らずに通り抜けてきた扉も中にはあるだろうな」
「それじゃ、影のところへ行く扉が見つからないかもしれないわ。今だって100以上も見えるのに、更に見えないものもあるなんて」
「シュウに暗号を解かせるしかないだろう。とりあえずこの方角に見える扉だけを順番に書いていこう」
 あたしたちは再び文字を書き写す作業に戻って、10枚書き終わる頃には、あたしにも扉の文字の法則性がおぼろげに見えてきていた。


453
 目印の開いた扉のところまで戻ると、そこにはシュウがうずくまるように座っていて、命の巫女の姿が見えなかった。
「シュウ、命の巫女は? 一緒じゃないの?」
「別の方角へ行ってもらってる。今のところは危険もないみたいだし、1人でも大丈夫そうだからね。祈りの巫女、悪いんだけど今度はあっちの方へ行ってみてくれる? また10枚分だけでかまわないから」
 あたしは今までの紙をシュウに手渡して、もう1度リョウと一緒に今度はさっき通った道筋と垂直になる方角へ歩いていったの。その最初にある扉の文字を見たとき、あたしは思わずつぶやいていた。
「あれ、違う」
「どうした?」
 あたしの声を聞きつけたリョウが顔を覗き込んだから、あたしもリョウを見上げて答えていた。
「さっきの文字と違うの。さっきはね、最初の2つか3つくらいの文字が同じ扉が多かったから。でもこの扉はぜんぜん違う文字から始まってる。……どうしてかな。リョウには判る?」
「さあな。俺には判らないことだ。……違うって、見たことがない文字なのか?」
「ううん、そんなことないよ。ぜんぶ書いた覚えがある。……それも変ね。これが文章だったら文字がこんなに少ないはずないもん」
 そのあたしの言葉にはリョウは答えなかったから、あたしもそれ以上考えるのはやめて、扉の文字を書き写すと次の扉に向かっていた。そうして何枚かの扉を写したあと、不意にリョウが苛立ったように言ったんだ。
「ほんとにこんなことをしてていいのかよ。こうしている間にも村がセンシャに襲われてるかもしれねえのに」
 リョウは村のことが心配なんだ。あたしもけっして村のことを忘れてた訳じゃないけど、でもここへきていきなりセンシャに襲われたかもしれないことを考えると、その時を少しでも先に延ばせたのはうれしいことだった。
「前に命の巫女が未来を見たときには、今日影が襲ってくる予言はなかったわ。この未来は確定してたはずだから、少なくとも今日が終わるまでは大丈夫のはずよ。それに、この場所を通らない限りセンシャは村へ行けないはずだもの」


454
「もしもリョウが心配なんだったらここでもう1度命の巫女に未来を見てもらってもいいし」
「おまえはここでも未来が見えると思うのか?」
「それは判らないけど、ここには神様の気配があるんだもん。試してみる価値はあると思うわ」
 未来を見るだけじゃない。ここには神様の気配があって、しかも村の神殿にいるときよりもずっと身近に神様を感じることができるのだから、あたしの祈りだって届くかもしれないんだ。
 そのあとはとりたてて会話もなく、扉の文字を10枚分書き写すと、シュウはやっとあたしたちをその作業から解放してくれた。
「で、なにか判ったのか?」
 リョウが残りの紙を放りながら訊くと、受け取った紙を丁寧に床に並べながらシュウがつぶやく。
「 ―― やっぱりそうか。だけどこれの意味が判らないな。……リョウ、重要なことがいくつか判ったよ。1つ目は、この世界ではオレたちの世界と同じくジュッシンホウが使われてるってこと。つまり、ここを作った知的生命体の指の数は片手5本ずつ、計10本だ」
「……それのどこが重要なんだ。敵の指が5本だったらここから抜け出せるとでもいうのかよ」
 一瞬絶句したあと、リョウが更に低い声で言ったの。あたしの方は、シュウの言葉の意味がさっぱり判らなくて、口を挟むことすらできなかった。
「少なくとも4本や6本よりは遥かに確率が高いさ。リョウ、この扉の文字は数字なんだ。オレの考えに間違いがなければ、最初の4桁で年号を、あとの4桁で月日をあらわしてる。そこまではまあ、データをとってもらう前にも予測できたんだけど、判らないのは扉についた色の方だ。いくつかのサンプルが欲しい」
「なんだ、サンプルって」
「扉に入って確かめたいんだ。扉の色があらわしてるものがいったい何なのか知りたい。最初にオレたちが出てきた扉がピンク色で、次に入ったのは水色だっただろ? そのほかの紫色と黄緑色と赤色の扉を確認するのが必要だと思うんだ。それでたぶん、扉の謎が解ける」
 リョウはしばらく黙っていたけれど、やがてシュウの意見を受け入れたようにうなずいた。


455
「判った。謎解きはおまえに任せる。次に入る扉を指示してくれ」
 シュウは床に散らばった数枚の紙を集めて、あたしとリョウが最初に調べた扉の方へ向かって歩き出した。あたしたちもシュウのあとについて歩いていく。シュウが足を止めたのは紫色の扉の前だった。
「祈りの巫女、1491年の3月28日にあった出来事を覚えてる? ……まさか覚えてないよね、10年も前のことなんて」
 あたしはゆっくりと記憶をめぐらせて、その日付の意味に気づいてドキッとしていた。
「シュウが死んだ日だわ。沼に落ちたあたしを助けて」
 とっさにシュウが動きを止めたのは、きっと自分の名前と死んだという言葉が一緒に耳に飛び込んできて、そのことに単純に驚いたからだったんだろう。やがて意味が飲み込めてきたのか、あたしの痛みをいたわるように目を細めた。
「だったらこの扉に入るのは祈りの巫女にとってつらいことになるかもしれないな。この日付に意味があることが判っただけでもオレの推測が間違ってないことは立証された訳だし、無理に見る必要はないよ。ほかの扉へ行こう」
 そう言ってシュウは歩きかけたけど、あたしはその扉の前を動くことができなかった。だって、もしもこの扉がさっきと同じように過去の場面を見せてくれるのなら、あたしはシュウに会うことができるかもしれないんだ。さっき小さな命の巫女に触ることができたってことは、もしかしたらシュウを助けることだってできるかもしれない。あの時はまだ小さな子供で、あたしには沼に沈んでいくシュウをどうすることもできなかった。でも今は大人になったんだもん。祈りの力も併せて使えば、シュウの命を助けて歴史を変えることができるかもしれないよ。
「この扉の向こうにシュウがいるかもしれないんでしょう? だったら会わせて。あたし、シュウに会いたい」
 扉を見つめたままのあたしは、既に歩き始めていたシュウが足を止めて振り返る気配を感じた。
「必ずしも君のシュウがいるとは限らないよ。もしかしたらこの日付はオレたちの世界での1491年を表わしてるのかもしれないし」
「いなくてもいいわ。でももしもシュウがいるのなら、あたしはシュウを助けたい。今のあたしならシュウを助けられるかもしれない」
 あたしの言葉は隣にいたリョウの気持ちを動かしたみたい。リョウが扉に手をかけて、シュウの返事を聞かないまま大きく開いていた。


456
「リョウ! おまえ勝手に……!」
「この扉を開けるかどうか、決める権利はユーナにある。それについておまえはどうこう言える立場じゃねえだろ。それに、最初にこの扉を決めたのはおまえだぜ、シュウ」
「……だけど、なにも人が死んだ場面を見る必要はない。紫色の扉はほかにもあるんだ」
「ユーナが見たいと言ってる。……責任は俺が取るさ。それでいいだろ」
 そう、シュウとの会話を終わらせると、リョウはあたしの手をとって扉の中へと導いていった。中はまた同じような石造りの部屋で、あたしたちが入ると自然に扉が閉じ始めたから、シュウと命の巫女もあわてて飛び込んできたの。ほとんど音もなく扉が閉じたあとは暗くなって、でもすぐに明るくなり始める。今度はあたしも判ってたから、景色の変化にわりあい早く目を慣らすことができた。
 子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。西の森の木々は春の若葉をつけていて、ややひんやりした気持ちのいい風が下草をなでていく。沼の近くで追いかけっこをしているのは小さな男の子と女の子。はっきり顔を見るまでもなく、それがシュウとあたしなんだってことが判った。
 まだ2人とも沼に落ちていなかった。今この2人を沼から遠ざければ、あの出来事をなかったことにできるかもしれない。最初にあたしが沼に落ちなければシュウが死ぬことはなかったんだ。
「ねえ、あなたたち。ここは危ないわ。遊ぶんなら森の外へ行った方がいいわよ」
 子供たちはあたしの声には気づかないようにおいかけっこを続けている。やっぱりあたしの姿は見えてないの? あたしは逃げている女の子の進路に立ちはだかって、その動きを止めようとした。でもあたしは女の子を止めることができなかった。女の子はあたしをすり抜けて、反対側へ走り去ってしまったんだ。
「え? どうして? さっきは触れたのに」
 うしろを振り向きながらつぶやいたその瞬間、あたしはすさまじい悪寒を感じて身体を震わせた。今女の子は沼の淵近くまで走って方角を変えようとしていた。その女の子に向かって、沼の中から黒い靄のようなものが襲いかかっていたの。その靄に実体はなくて、あたしにはあたしを殺そうとする影の邪念が形を取ったもののように思えたんだ。


457
「あ、だめ!」
「シュウ!」
 靄が女の子を沼に引きずり込もうとしている。シュウの名前を叫んだのはリョウで、あたしと女の子の間に立ちはだかって、あたしをうしろに突き飛ばしたの。倒れそうになった身体を背後から誰かが支えてくれる。リョウが今にも沼に落ちそうな女の子に手を伸ばす。あたしも助けたくて必死に前へ行こうとするのに、なぜか身体が動かなかった。
「祈りの巫女! 君は近寄っちゃダメだ! 一緒に引きずり込まれる!」
 リョウが女の子の手を掴んで引っ張る。だけどリョウの力でも女の子が沼へ落ちるのを阻むことはできなかったの。12歳の頃にあたしを沼から引き上げてくれたリョウの腕が、たった5歳の女の子を引き上げられないはずなんかない。それに、もしもあの靄がリョウを凌ぐ力で女の子を引っ張っていたのなら、たぶん女の子の腕は関節が抜けてしまっていただろう。でも女の子が腕を痛がる様子はなかった。
「駄目だ。俺たちの干渉は一切受け付けない。この世界に力で干渉するのは無理だ」
 リョウが諦めて女の子から手を離したように見えた。でもそうじゃなかったの。リョウの手はいつの間にか女の子の手をすり抜けていたんだ。さっきのあたしと同じように。
 沼へ落ちた女の子のもとに男の子が駆け寄っていく。必死で女の子に手を伸ばす男の子は、いずれこの沼に飛び込んで死んでしまう。あたしはただ黙ってこの光景を見ていることしかできないの?
「どういうことだ? オレたちの身体が透け始めてる」
 シュウの声であたしも気づいた。あたしとリョウが女の子に触れなくなったのは、あたしたちの身体がいつの間にか薄く透けてしまってたからだったんだ。かざした手の向こう側に風景が見える。と、そのとき声を上げたのは、今まで黙っていた命の巫女だったの。
「誰? ……あなたは左の騎士!」
 振り返ると命の巫女は片手で頭を押さえながら中空をじっと見つめていた。
「……あなた1人だけでは力が足りないよ。……あたしの声が聞こえていない? それでもいいわ。あたしが力を貸すから」


458
「あなたをこの空間へ引っ張ってあげる!」
 見えない誰かと話しているように見えた。だけど、命の巫女がそう言った瞬間、今まで何もないと思ってた中空に人影のようなものが現われたの。ゆっくりと辺りを見回すその人は、あたしたちと同じように透けてはいたけどやっぱりあたしたちのことは見えていないみたい。でもそんなことよりもあたしを驚かせたのは彼の顔だった。
「え? オレ、か……?」
 隣でシュウがつぶやく。命の巫女には彼の正体が判っていたみたい。シュウとあたしに近づいてきて言った。
「祈りの巫女の左の騎士だよ。こちら側にこようとして命の巫女の力を使ったの。だけど祈りの巫女の騎士ではこの力を完全に操ることはできなかったから、あたしが……!」
「だけどどうしてあいつが成長して……。そうか、オレたちが透けてるのもそういう訳か。でもそれなら ―― 」
「詳しい説明はあとでするからちょっと黙ってて! あたしは彼の力をサポートする。なぜか彼を通じてならこの空間に干渉できるの!」
 シュウと命の巫女が話している間、あたしはずっと『彼』の姿を追っていた。……間違いない。この人はあたしの『シュウ』だ。半分以上風景に溶け込んで、神官の服を着たその輪郭すらはっきりと見ることができなかったけど、その人が放つ優しい雰囲気が伝わってくる。小さな頃からずっと優しくて、いつもあたしを助けてくれたシュウ。5歳で時間を止めてしまって、けっして大人になれなかったはずのシュウが今、大人になった姿で目の前にいるんだ。
  ―― シュウ、あたしはここにいるよ。あなたが助けてくれたから、今あたしは村を守るためにここにいるの。
  ―― あなたに報いるために生きてきた。シュウが助けてくれた命を、けっして無駄にしちゃいけないんだ、って。
 どうしてここに大人のシュウがいるのか、そんな理屈はあたしにはどうでもよかった。ただ、ここでシュウに会うことができたって、そのことで胸がいっぱいになって、たぶん涙を浮かべてたと思う。シュウは周りを見回していたけど、あたしのことはぜんぜん気づかないみたいで、沼に手を差し伸べた男の子に近づいていったの。シュウはためらいもせず男の子の身体に自分の姿を重ねて、やがて小さな身体に吸収されるようにシュウの透けた身体は見えなくなっていた。


459
 知らず知らずのうちにあたしの膝は崩れて、下草の上に座り込んでしまっていた。小さなシュウとほとんど同じ目線で、斜めうしろから沼に落ちた自分を見ていたの。恐怖に歪んだ幼い自分の顔はまるで他人のように見える。その小さな身体を覆う黒い靄は、あたしがよく知る言葉を繰り返していた。
  ―― 祈リノ巫女ヲ殺セ。祈リノ巫女ヲ滅ボセ
 幼いシュウに吸収された大人のシュウは、手を伸ばすことしかできなかった幼い自分に知恵を授けていた。なにか掴まれるものを投げてやれと。その心の声を聞いて、小さな身体が蔓草を求めて森の中を走っていく。
 あたしは頭のどこかで納得していた。あたしを助けてくれたのはこの人なんだって。小さなシュウを動かして、自分を犠牲にしてあたしの命を救ってくれたのは、この大人になったシュウだったんだ、って。
 でも、本当はそれだけじゃなかったんだ。2人の心の会話は言葉として聞こえる訳じゃないから正確には判らなかったけど、あたしを沼の中から押してくれようとしたのは、間違いなく幼い方のシュウだったの。
  ―― ユーナが大好きだから。ぼくはユーナに生きていて欲しいんだ
  ―― 代わりにおまえが死ぬのにか? おまえは2度とユーナに会えなくなるのに
  ―― どうして? ぼくはユーナのことが大好きなんだよ ――
 幼いシュウには判ってなかったのかもしれない。人が死ぬのがどういうことなのか、ってこと。リョウが死ぬまではあたしにも判らなかった。あんな、自分が半分もぎ取られてしまったみたいな、あんな思いは2度としたくないよ。
「命の巫女! お願い、シュウを沼に飛び込ませないで!」
 ほとんど悲鳴のようなあたしの声に、命の巫女はずいぶん驚いたみたいだった。
「沼に、って。このあとシュウが沼に飛び込むの? まさか」
「沼の中からあたしの身体を押し上げてくれたの。それでシュウは死んでしまった。命の巫女、できるのならお願い。シュウの命を助けて。シュウを沼に飛び込ませないで!」


460
 2人のシュウの想いが伝わってくる。大人のシュウの脳裏に浮かんだものは災厄に壊され廃墟になった村。あたしに正確に判った訳じゃないけど、これもひとつの村の運命なんだ。シュウは村を救いたくて過去に希望を託した。そして、小さなシュウの胸にあるのはただ、今死にかけている小さなユーナを救いたいという想い。
 大人のシュウが思っているのは、あたしを助ければ村の歴史が変わるということ。だったら今シュウを助けられたらシュウは生きていたことになる。2人とも助けることができたら、シュウは今でもあたしのそばにいてくれる ――
「助けて命の巫女。お願い!」
「判ったわ。あたしの力が及ぶ限り努力する。でも覚えておいて。あたしにできるのはシュウが思い描いた呪文を増幅することだけなの。だから彼が知らない呪文の力は使えない」
 あたしは、この空間にも確かに存在する神様に向かって祈り始めた。今ここに存在するシュウを助けて欲しいと。でも、神様はあたしの祈りにほんの少しの反応も示さなかったの。それはまるで、神様にはあたしの存在が見えていないとでもいうかのように。
 まさか、ここにいる神様も同じなの? 幼いあたしやシュウのように、こちらから存在を感じることができるのに、干渉を受け付けてくれることはない。神様にとっても、あたしは存在していないのと同じなの?
 それまで片膝を立てて沼に手を伸ばしていたシュウが立ち上がる。
「命の巫女!」
「シュウが呪文を唱えてくれないの! たった一言でいい、影を攻撃する呪文を言ってくれさえすれば救えるのに」
「シュウ! お願い、あたしの声を聞いてよ! 行かないで!」
 あたしが見守る前で、シュウの両足は岸を蹴って、次の瞬間水音とともにシュウの身体は沼に吸い込まれていった。
「いやあぁぁーーー!!」
 自分が叫び声をあげたことすら気づいていなかった。あたしの身体は両側からシュウとリョウに抑えられていて、少しも動くことができなくなっていたの。それまで小さな自分を覆っていた邪悪な靄が、しだいにシュウの身体をも覆い始める。


扉へ     前へ     次へ