真・祈りの巫女
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出発の朝は命の巫女に揺り起こされて目を覚ました。用意しておいた服を着て、静かに準備を始める。リョウが3日間と区切っていたから着替えなんかはぜんぜん持たなかった。祈りに使うろうそくと水筒を袋に入れて、シュウと待ち合わせた神殿で聖火をランプに移した。
空にはまだちらほらと星が見える。やや明るくなってきた村までの道で、ようやくあたしたちは普通の声で話せるようになっていたんだ。
「さんざん世話になったからな、やっぱり挨拶くらいはしてきたかったよ」
本当に影を倒すことができたのなら、シュウと命の巫女は1度村に戻るつもりだった。だけど戻れるかどうかは判らない。シュウはそう思ってこの言葉を言ったんだろう。
「そんなに長い時間じゃないわ。もしかしたら今日中に帰ってこられるかもしれないじゃない」
「そうね。もしかしたらあたしたちが出かけたことすら気づいてもらえないかもよ」
「……開き直ると女ってつえーな。つーか楽天的すぎ」
シュウはちょっと沈み気味だったけど、あたしと命の巫女は明るかった。もちろんあたしだって怖いよ。でも、今ここで沈んでたっていいことなんかなにもないもの。西の森へピクニックに行くくらいの気分でいた方がいいような気がしたの。
村の人たちに姿を見られたくなかったから、街道は外れて南の森沿いに歩いていく。その頃になるとあたりもだんだん明るくなってきて、ひんやりした空気がものすごくさわやかだった。まるでこれから戦いに行くなんて信じられないよ。草原のブルドーザを横目で見て、また少し気分が落ちそうになってしまったけど、でも命の巫女とたわいないおしゃべりをしながらどうにか西の森までたどり着いていたの。
センシャの死骸を避けて沼まで行くと、リョウは既に来ていて草の上に何かを広げていた。
「おはよう、リョウ。早かったのね」
「ああ、おはよう。……おまえら朝食がまだだろ? 出かける前にここで食べていこう」
近づいてみると、リョウが足元に広げていたのは大きめのテーブルクロスで、その上にはミイが作ったらしい朝食が並べられていたんだ。
「なんかほんとにピクニックだな。緊張感のかけらもないじゃん。リョウまでこんなんでいいのかよオレたち」
シュウがため息混じりに言って、更にあたしと命の巫女の笑いを誘った。
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「悪いがのんびり食ってる暇はない。食事が片付いたらさっそく道を開いてもらうぞ」
どうやらリョウはピクニック気分とは程遠いみたいで、あたしたちを急かしながら自分も食事をかき込んだ。それからしばらくの間は全員言葉もなく食べ続けていたの。おそらくミイが作ってくれたこの朝食が、影の国へ出発するあたしたちにとって最後のまともな食事になるんだろう。
食べ終わった食器をテーブルクロスに包んで森の茂みに隠す頃には、あたしたちの緊張感も増していた。
「食料だ。全員分担して持ってくれ。ユーナ、そっちの荷物をよこせ。1つにした方がいい」
リョウはあたしの荷物を食料が入っている4つのリュックに分散させて、1番軽い荷物をあたしに持たせてくれた。それで出発の準備は整った。全員が荷物を背負うと、シュウと命の巫女がうなずきあって、まずはシュウが次元の扉を開いたんだ。
「次元の扉、出ろ」
シュウが作った扉はそれほど大きくなくて、高さと幅は人の身長と同じくらいだった。明るい日の光の中で直接扉を見るのは初めてだったんだけど、それは太陽の光に溶けることなく不思議な色に輝いていたの。虹の七色が揺らめくように現われて、でも全体的には黄色に近い色に見える。あたしがシュウの扉に見とれている間に今度は命の巫女が言葉を紡ぎ始めた。
「次元の扉、センシャの痕跡を辿って、影の世界までの道を繋いで」
命の巫女は何度か同じ言葉を繰り返して、やがて言葉を切ったとき、明らかにシュウの扉が変化したんだ。今まで黄色が強く出ていた扉の色が、今度は青色を強調して光り始めたの。
「つながったのか?」
「ええ、たぶん。向こうの様子は行ってみなければ判らないわ。でも、今までの経験からすると、意識のある状態で扉を通るのは不可能なんだ。突然の危険には対処できないけど、運を天に任せて意識を手放すしかない。下手に意識を持ってると扉に弾かれて怪我をするから」
命の巫女の説明にうなずくと、リョウはあたしの手をとって引き寄せた。……あたしたちが先に入るんだ。いいよ、たとえ扉を出た瞬間に影に襲われたって。リョウが一緒ならなにも怖くないもん。覚悟を決めて、あたしはリョウと一緒に扉へと飛び込んだ。
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「 ―― ナ……ユーナ!」
あたしを呼ぶ声と、身体をゆすられる感じに目を開けると、目の前にはリョウの心配そうな顔があった。一瞬あたしは何がどうなってるのか判らなかったけど、すぐに思い出したの。あたし、次元の扉を超えたんだ。リョウはほっとしたようにあたしの身体を助け起こしてくれたから、あたしはすぐに周りを見ることができた。
「リョウ、ここは……?」
「さあ、判らない。目が覚めたらここにいたんだ。……シュウ、命の巫女、起きろ!」
リョウが近くにいた命の巫女たちを起こしている間に、あたしは立ち上がって周囲を見回してみた。ここは石造りの四角い部屋だ。広さはたぶん、神殿と同じくらいはある。周りがすべて石の壁で囲まれていて、1箇所だけものすごく大きな扉がついている。
ここが影の国? あたしは更に感覚を研ぎ澄ませて、それで気づいたの。……どうして? どうしてこんなことがあるの? だって、ここが影の国なら、周囲は影の気配で満ちていて当然なのに ――
「祈りの巫女……?」
あたしより少し遅れて目を覚ました命の巫女は、周囲を見回しながら困惑した表情を浮かべていたの。きっと彼女の方が強く感じるんだろう。目を合わせて、あたしは命の巫女があたしと同じものを感じていることを知ったんだ。
「祈りの巫女、どうしてここに神様の気配があるの? あたし、間違いなく影の世界への扉を開いたはずなのに」
周囲を満たしているのは、あたしがいつも神殿で感じていた神様の気配だったの。祈りを捧げて意識を近づけていくと必ず感じていた神様の気配。今は祈りを捧げていないのに、神様の気配はそのときと同じくらいに強く感じる。どうして? 命の巫女が道を間違えたの? それとも、影は神様と同じ国からやってきていたの……?
「ここに神の気配があるのか?」
リョウは命の巫女を振り返ってそう訊いた。そのリョウの視線は強くて、見ていたあたしには命の巫女の心が揺らいだことが判ったの。こんなときなのにあたし、命の巫女に嫉妬してる。リョウに命の巫女を見て欲しくなかった。
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「なぜなのか判らないけど、ここには神様の気配があるの。それも、神殿で感じるよりもずっと強い気配が」
あたしの言葉に、リョウはあたしを振り返った。
「獣鬼の気配はないのか? センシャの気配は」
「今はないわ。……どうしてなんだろう。命の巫女は影の国への道を開いてくれたはずなのに」
それきり、あたしたちはしばらく自分の考えに沈んでしまっていた。シュウが一言も言わないところを見ると、シュウにもその理由は判らないんだろう。やがて、その沈黙を断ち切るように声を出したのはリョウだった。
「判らないなら考えても仕方がない。……全員怪我はないか?」
あたしたちがうなずくと、それを確認したリョウは扉のある壁に向かって歩き出した。
「どうやら出口はここだけだ。ひとまず外へ出てみるぞ。……ユーナ、俺のそばから離れるな」
あたしがリョウの背中へ寄り添うように近づいたとき、リョウは外開きの扉を押して大きく開いていた。
―― 外は中よりもずっと明るくて、一瞬目がくらんだあたしにはすぐに様子を見ることはできなかった。
リョウが外へ出る動作に合わせて足を踏み出すと、やがて徐々に目が慣れてきたあたしはその光景を見たの。扉の向こうは外なんかじゃなかった。風のまったくないそこはきっと想像を絶するほど大きな建物の中で、広い空間にはいくつもの扉が無秩序に乱立していたんだ。
異様な風景だった。だって、そこにあったのは巨大な扉だけだったんだもん。どこまで続いているのか判らないほど広い空間に、ただ扉だけがたくさん立っている。本来なら扉の向こうにあるはずの部屋は一切見えなかったんだ。
「……なるほど、そういうことか。ユーナ、うしろを見てみろ」
リョウに言われてうしろを振り返ったあたしは更に驚くことになった。今、あたしたちが出てきた扉。その扉の向こうには石造りの大きな部屋があったはずなのに、扉の両側には壁がなくて、ほかの扉と同じように扉だけが立っていたから。
「おそらく次元の扉の一種だ。扉のこちら側と向こう側とでは次元が違うんだろう。……意識を保ったまま通れるのが救いだな」
あたしにはリョウの言ったことがよく判らなくて、扉の隣の何もない空間に見えない壁を探して手を差し伸べた。
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「祈りの巫女、そんなことをしても無駄だよ。とりあえず先へ行こう」
シュウの声に振り返ると、リョウはここから1番近い扉に歩いていくところで、そのうしろを命の巫女が追いかけていた。どうやら命の巫女は扉の両側に壁がないことをすんなり納得したみたいね。1人だけ混乱したあたしはなんとなく恥ずかしくなって、今出てきた扉を閉めてあとを追おうとしたの。
「祈りの巫女。その扉は閉めないで。ほかの扉と区別がつかなくなるから」
「あ、はい」
シュウに言われて閉めかけた扉をもう1度開けて、シュウの隣に並ぶように歩き始めた。リョウと命の巫女は次の扉の前にいて、あたしたちがそこへ行くのを待っていてくれたみたいだった。
「ユーナ、神の気配はまだあるのか?」
リョウが扉を見つめたまま振り返らずに言ったから、あたしと命の巫女がほんの少し戸惑ってしまった。一瞬だけ、リョウがどちらのユーナに声をかけたのか判らなくなったの。でも命の巫女は遠慮したのか返事をしなかったから、あたしの方が答えていた。
「あるわ。さっきからずっと。相変わらず影の気配もない」
「そうか。……シュウ、ここを抜け出す手段が2つある。扉を1つ1つ確かめていくか、扉を無視してこの空間をどこまでも歩くかだ。おまえはどうするのがいいと思う」
シュウは辺りをきょろきょろ見回した。全体的に白い空間に、それぞれ違う色のついた扉が無数に立ち並んでいる。この空間がどこで途切れているのかその果てを見ることはできなかった。かなり遠くまで扉は続いていて、その先は白くかすんで見えなくなっていたの。
「もう1つあるぜ。ここに影が現われるのを待って、そいつらの痕跡を辿って新たな次元の扉を開く。ただ、来るかこないか判らない攻撃を何もしないで待ってるのも馬鹿な話だな。……オレは扉を開いて調べた方がいいと思う。おそらくこの空間に終わりは見つからない」
「どうしてそう思う」
「あそこに見えるからさ。さっきオレたちが出てきて、開けたままになってるひとつの扉が。……本物はうしろにあるのに」
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シュウが指差す方を、あたしは目を凝らして見てみた。本当にものすごく遠かったけど、確かにシュウが言う扉が見える気がしたの。外開きの扉は完全に開いていて、たぶんあたしたちが見ているのは扉を逆側から見た姿だ。……もしもあそこまで歩いていったらどうなるんだろう。あの扉を通り越したら、再び今立っているこの場所に戻ってくるのかもしれない。
「トラップか。……厄介な場所に出たな」
「一概にそうとも言い切れないさ。ユーナは間違いなく影の痕跡を辿ったんだ。ってことは、獣鬼やセンシャはこの扉を通って村へ来ていたことになる。奴らが日常的にこの扉を使ってたのなら、探せばセンシャたちがいる場所に続く扉もあるはずだ。だいたいオレたちがここへ来ることが奴らに判ってたかどうか」
「それもこれもぜんぶ憶測だ。だが、救いもある。この空間にいる限り影は攻撃してこない確率が高い。奴らにとっては時間稼ぎなのかもしれないが、情報と考える時間を与えられるのは今の俺たちには喜ばしいことだからな」
言い終えると、リョウは扉に手をかけた。一呼吸置いて今度は扉を引いたの。扉の中は薄暗くて、でも再び目が慣れてくると、そこがさっきの部屋と同じような石造りの部屋なんだってことが判った。天井が高くて、広くて、ほかには扉も窓も見つからない。
「入って大丈夫だ。ユーナ、ここにも神の気配はあるか?」
あたしは用心しながら、壁を伝ってリョウの近くまで歩いていった。だってあたしにはどうしても判らなかったんだもん。こんなにしっかりした部屋が中にあるのに、外からは触れることすらできないなんて。自分の手で確かめなければ納得することなんかできなかったの。
「ええ、ここも神様の気配に満ちてるわ。影の気配はまったくない ―― 」
そのときだった。いきなり扉が外から閉まって、部屋の空間が外部と隔離された。その瞬間、驚きに声を上げる暇もなく部屋の中が急に光で満たされたの。まぶしさに目を細めて、ようやく中の明るさに目が慣れてくる。最初に目に入ったのはいくつかの建物。それらは狭い場所にひしめくように建っていて、三方を建物に囲まれた場所の地面にはたくさんの細かい石と、空に色の薄い青空が広がっていたんだ。
今まで感じなかった風の流れが判る。でも空気の中にはかすかな悪臭があって、しばらくいたら息が苦しくなるような気がした。この場所には人の気配もあった。子供がはしゃぐ声に混じって、あたしがよく知っている気がする人の声もかすかに聞こえていた。
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「……なんで、部屋の中がいきなり……!」
うしろからはっきりと聞こえたのはシュウの声だった。振り返ると、そこには明らかに動揺した風に見えるシュウと、不思議そうな顔であたりを見回す命の巫女がいる。隣を見上げるとリョウも目を見張ってる。あたしにはまるで見たこともない風景に、少なくともシュウとリョウは何かを感じているんだ。そして、きょろきょろしていた命の巫女も、なにかに気づいたようにハッとしてシュウを見た。
「シュウ、ここってもしかして……?」
「ああ、おまえが引っ越す前に住んでた町だよ。そこの、右側にある家がオレの家だ。ユーナの家はその向こうのアパート ―― 」
『ダイチニイチャーン、もういっかいやってー!』
その甲高い声が耳に飛び込んできて、あたしは思わず声の方を振り返っていた。そこには1人の男の人と、小さな女の子がいたの。あたしは男の人の顔を見て驚いた。だってその人は、今のリョウよりも若い姿をしたランドそのものだったから。
小さな女の子は、たぶん遊び道具なんだろう、金属でできた車のようなものに乗っていたの。そのうしろで車を押してあげているのがランドに似た男の人で、その2人はあたしたちにはまるで気付かないように会話していたんだ。
『もういいだろ、ユーナチャン。ニイチャン疲れた』
『もういっかいだけ。もっとはやくやってー』
『じゃあ、あと1回だけな。そーれ、行くぞユーナチャン!』
『キャーッ! はやいはやいー! おもしろいよー!』
男の人がうしろから車を押してあげると、女の子は悲鳴を上げながら喜んでいた。男の人の服装は以前見たシュウたちの服によく似ていて、ようやくあたしにもここがシュウがやってきたのと同じ世界なんだってことが判ったの。ランドに似た男の人と、幼い女の子。
「あの子、あたし……?」
命の巫女が口にした言葉で、あたしは自分の考えを裏付けられた気がした。彼女の問いにはシュウが答える。
「だな。たぶんおまえがここにいる頃のエイゾウだよ。一緒にいるのはダイチサンだ。今でもその、正面の家に住んでる」
シュウの声もどこか虚ろで、目の前の風景に心を奪われているんだってことは判った。
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隣のリョウも目を見開いたままだった。今この3人の中にあるのは懐かしいって気持ちだ。その感情はあたしの中にはなくて、だからちょっと悔しかったのかもしれない。あたしは遊んでいる2人に近づいて、まずは幼い女の子の肩に手をかけてみたの。
「祈りの巫女!」
うしろからシュウの声が聞こえる。あたしはそれにはかまわずに触れると、手には確かに触れた感じがあった。でも女の子にはあたしの姿も見えないし、触れたことにも気づいてないみたい。男の人にも触れてみたけど、結果は同じだった。
「幻じゃないみたい。この人たち、ちゃんとここに存在してる」
駆け寄ってきたシュウにそう伝えると、シュウは1度2人を見て、また視線をあたしに戻した。
「いきなり触ったりして、もし何かあったらどうするつもりなんだ。場合によっては爆発する可能性だって ―― 」
『ユーナチャン、それ以上オニイチャンの邪魔しちゃだめよ』
とつぜん聞こえたその声に、あたしは心が凍りつくほどの衝撃を覚えた。振り返るのが怖かった。息が止まって、心臓がドキドキして、あたしはそこから少しも動くことができなくなっていたの。
『ああ、別に邪魔じゃないですよ。オレ小さい子大好きだし』
『お母さん、今ねえ、ダイチニイチャンがサンリンシャ押してくれたの。ビューンてね、すごくはやいの』
『そう、それは良かったわね。でもダイチクン、今日はいつもの彼女とデートじゃないの? ずいぶんのんびりしてるけど』
『あ、いけね。エキマエでミイと待ち合わせしてたんだ。間に合うかな。……ユーナチャン、今日のところはごめんね。また遊ぼうな』
『……うん、わかった。バイバイ、オニイチャン。またあそぼうね』
うしろで会話が交わされている間に、リョウがあたしに近づいてきて、そっと肩を抱いてくれる。きっとリョウには判ったの。あたしがどうしてとつぜん立ち尽くしてしまったのか。リョウに勇気をもらってようやく振り返る。そこには、あたしが覚えているよりもずっと若い姿をした、あたしの母さまによく似た人がいたんだ。
もう、2度と会えないと思ってた。姿を見ることもないって。
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あたしの母さまじゃない。この人はきっと命の巫女の母さまで、姿がよく似てるだけの別人なんだ。それでもあたしにはその人が自分の母さまに見えたの。知らず知らずのうちに、あたしの目からは涙があふれてこぼれ落ちていた。
「祈りの巫女……?」
あたしの急激な変化をいぶかしんで声をかけたシュウを、命の巫女が背中をたたいて制する気配がする。あたしはリョウに肩を抱かれたまま、生きて動く母さまに複雑なものを感じていたの。今、この人が生きていてくれたらどんなに良かっただろう。そのぬくもりを感じることができたのなら。
男の人を見送った小さな女の子が、母さまに似た女の人に駆け寄っていく。女の人は手に赤ん坊を抱いていて、頭の片隅であたしは、その赤ん坊が命の巫女の弟マサオミであることに気づいていた。
『お母さん、サンリンシャであそんで』
『マークンがおねんねするまでは無理ね。シュウチャンはいないの?』
『おでかけしてるの。カヤコチャンもおでかけなの』
『リョウチャンは? きっとおうちにいるわよ』
『うん、いってみる』
リョウの、あたしの肩を抱く手にほんの少し力が入る。女の子は駆けていって、その建物にいくつかある扉の1つの前に立って、ノックしながら声をかけたの。出てきたのはセイに良く似た、でもずっと若い女の人。あたしはリョウの手が震えているのに気づいていた。
『リョウクン、ユーナチャンがきたわよ。ゲームばっかりしてないで一緒にお外で遊んだら?』
『リョウチャン、くるまのせて。ユーナといっしょにあそぼうよ』
『ユーナチャンまだペダルに足届かないじゃない。ゲームもできないしつまんないよ』
『いいから外で遊んでらっしゃい! お母さんこれからお掃除するんだから』
セイに似た女の人に一喝されて、しぶしぶ扉から出てきたのは、まだ6、7歳くらいに見える小さな男の子だった。
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その男の子が出てきたとき、風景はいきなり気配をなくして、やがてすうっと消え去っていた。周囲が再び元の石造りの部屋に戻っていたの。変化があまりにいきなりすぎて、あたしたちはしばらくの間なにもしゃべることができなかった。ここで起きたほとんどの出来事があたしには理解できなかったけど、きっとほかの3人にとってこれは意味のある風景だったんだろう。
やがて、沈黙を破るのを恐れるように、声をひそめて言ったのは命の巫女だった。
「……思い出した。あたし、リョウチャンの車が好きだったの。あの頃はすごくかっこよく見えて。でもたまにしか貸してもらえなかった」
「車って?」
「レーシングカーみたいなおもちゃの車。シートの前の方にペダルがついてるんだけど、その頃はまだ足が届かなかったからほとんど寝そべってるみたいになっちゃって。うちのアルバムにリョウチャンが乗ってるシャシンがまだ残ってるよ」
そのとき、今まであたしの肩を抱いていたリョウがあたしから離れて、会話する2人のところへ歩いていった。
「思い出話はそのくらいにしろ。ここは俺たちが探してる部屋じゃない。1度外に出るぞ」
「なんだよ。強引だな。少し調べてからでも遅くないだろ?」
「またあれが始まってみろ。終わるまで外に出ることはできないんだぞ。次はもっと長い話だったらどうするんだ」
「……まあ、確かにな。判った、いったん外へ行こう」
シュウの答えを聞いて、リョウはもう振り返りもしないで扉の方へ歩いていった。まるで、この部屋にこれ以上一瞬でもいたくないと思ってるかのように。あたしは頬に流れた涙をふき取ってあとを追いかけた。歩きながら思ったの。あの時手を震わせていたリョウが見ていたのはセイに似た女の人だ。もしかしたら、リョウが逃げたいと感じているのはあの人なのかもしれない、って。
でもどうしてなんだろう。村で初めてセイに会ったとき、リョウは涙を流したってミイは言ってたのに。
―― 判った気がした。そのときリョウが涙を流した理由も、さっきあたしの肩を抱いてくれた理由も。
リョウの涙の理由は、きっとあたしの涙の理由と同じだったんだ。だからあたしの肩を抱いてくれた。振り返る勇気をくれた。
今、逃げ出そうとするリョウをあたしは責められない。あたしは扉の外に出たリョウに追いついて、そっと手を握った。
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