真・祈りの巫女



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「……唇にも傷があるのか?」
「うん、あるよ。……リョウ、あたしの唇にもある」
 2度目のキスはリョウの方から。リョウのキスはあたしに、自分が愛されてるって錯覚させてくれる。もしも影の国で死ぬなら、あたしは真実を見る必要なんかないよね。リョウに愛されたままでいいんだよね。
  ―― そうか、だからあたしは影の国へ行こうと思ったのかもしれない。リョウに愛されたユーナのままでいられるから。
 唇が離れて目を開けると、リョウがふっと視線をそらす。そのまま片手で抱き寄せられて、気づいたときあたしはリョウの左胸に頬を押し当てるようにしてもたれかかっていたの。
「ランドのこと、悪かったな。……失敗した」
 たぶんランドを怒らせてしまったことを言ってるんだろう。あたしが答えずにいると、リョウは先を続けた。
「怪我をさせるつもりはなかったんだ。ただ、ランドを言葉だけで説得するのは俺には無理だった。俺におまえを守れる力があるってことを見せてやる必要があったんだ。たぶん今ので納得してもらえたと思う」
 あの時、ランドはリョウを怒らせるようなことを言った。でもリョウは怒りに任せてランドと喧嘩した訳じゃないんだ。もしもリョウがランドと殴り合わなかったら、ランドはこんなに早く納得してくれなかったかもしれない。リョウの話でリョウが取った行動の意味は判ったんだけど、でもあたしは何かが違う気がしていたの。はっきり言葉にはできなかった。ただ、やっぱり大切な人を殴るのは良くないことだって。どんなに時間がかかっても、話し合いで解決した方が良かったんじゃないか、って。
「……俺が悪かった。2度としないと約束する」
 リョウはあたしの気持ちを判ってくれたのかもしれない。見上げると、リョウは痛みを堪えるような表情で正面を見据えていたの。
「影の国へは黙って行く。明日も今日と同じくらい早起きしてくれ。誰も起きていない時間に4人だけで出発する」
 あたしはリョウの言葉に驚いて見つめたけど、もう何も言えなかった。とつぜんあたしたちがいなくなったらきっとみんなを心配させちゃうだろう。でもあたしは、ランドのことでこんなにも傷ついて見えるリョウに、それ以上の負担をかけることができなかったんだ。


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 玄関から声をかけて、けっきょくランドの顔は見ないままリョウの家をあとにしていた。ランドの方もあたしに何も言わなかったから、リョウが言ったようにきっと納得してくれたんだと思う。神殿までリョウに送ってもらってる間も心がもやもやしたまま晴れなかった。近しい人になにも告げずにいなくなってしまうのが、まるで自分の居場所をなくしてしまうかのように思えたからなのかもしれない。
 少し前を歩くリョウの歩調はゆっくりだった。あたしに合わせてくれてるのか、それとも、リョウも神殿に辿りついてしまうことをほんの少し恐れているのかもしれない。あたしと同じように。
「 ―― ここは、静かだな」
 不意にリョウが口にする。あたしは前にも聞いたことがあった。生き返ったリョウが初めてあたしと口をきいてくれた日の夜。
 命の巫女と同じだ。リョウはここではないどこかを思い出してる。思い出して、比べている。やっぱりあなたも帰りたいの……?
「リョウが生き返る前にいたところはもっと騒がしかったの?」
 独り言のつもりだったのかもしれない。あたしの問いかけに振り返ったリョウは、少し驚いた顔をしていた。
「前にもそう言ってたわ、リョウ。でもこの森、ときどき獣の声もするし、遠くでせせらぎの音もするし、森を揺らす風の音もするから、リョウが言うほど静かじゃないと思うの。確かに人はいないけどね。リョウが前に住んでたところには人がたくさんいたの?」
 あたしが笑顔で続けると、自然に立ち止まっていたリョウは、道の両側にいくつか残ったままになっていた切り株の1つに腰掛けたの。そして、微笑を浮かべてあたしを隣の切り株へと導いてくれる。導かれるまま、あたしも隣に腰掛けた。
「人は、多かったな。だけど人よりもキカイの方が多かった。……前に、獣鬼は人間の味方だって話したな。俺がいたところでは獣鬼のほかにも人が作ったたくさんのキカイがあって、人間の生活を助けてた。獣鬼のような大きなものから、家の中で使えるような小さなものまで。そういうものが動く時に立てる音がいつも俺の周りにあふれてたんだ。……たぶんおまえには想像できないだろ」
 リョウの言うとおり、そのほとんどはあたしには想像できなかった。命の巫女が見せてくれたケータイデンワのほかには。
「……リョウは、帰りたいと思ってるの?」
 恐る恐るあたしが言った言葉に、リョウは笑顔で首を振った。


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「いや」
 リョウの答えは早すぎもせず、かといって遅すぎもしなかった。だから本当のような気がしたの。もしかしたらそれは、ただあたしがそう思いたかっただけなのかもしれないけれど。
 あたし、不安そうな顔をしていたのかな。リョウは片手を伸ばしてあたしの髪をなでながら続けた。
「おまえがここにいるのにどうして俺が帰るんだ? 連れて行けないのに」
 でも、同じ場所には命の巫女がいる。帰らないってことは、リョウが好きな命の巫女と永久に会えなくなるってことなんだ。
 訊かなければよかった。これ以上、リョウを追求したくない。リョウの嘘を聞きたくない。
 あたしが黙り込んでいる間、リョウもあたしに話しかけることはしなかった。その時間はずいぶん長くて、やがてあたしにもリョウがこれ以上嘘をつかないでいてくれるんだってことが判った。きっとリョウも沈黙の中で答えをごまかしたかったんだろう。そんなところだけ、あたしとリョウはよく似ていた。
 そのうちに、もう十分ごまかせたと思ったのか、リョウがゆっくりと立ち上がっていたの。あたしは顔を上げて、リョウが背後に広がる森の中を見つめていることに気がついたんだ。
「どうしたの?」
「この森の向こうには何があるんだ?」
 あたしも立ち上がって、リョウが見ているものを見ようと目を凝らした。
「さあ、判らないわ。興味もなかったから」
 反対側の森ならやがて神殿から村へ続く道へ出ることが判ってる。でもこちら側の森はあたしが知っているどんな場所にもつながっていなかった。
 振り返ったリョウの笑顔はまるで子供のようで、あたしはまた少しドキッとしちゃったんだ。
「寄り道する。おまえ、1人で帰れるよな。俺はこの森の向こうを見てみたい」


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 あたしは驚いて立ち尽くしちゃったんだけど、リョウはあたしの返事を待たないで森の中へ分け入っていこうとしたんだ。
「待って、リョウ! あたしも行く!」
 どうしてそんなことを言ったんだろう。まだそれほどじゃなかったけど、遠からず日が落ちて森は暗くなってしまうのに。
「足元が危ない。それに傷だらけになるぞ。おまえはこない方がいい」
「それなら余計に心配だもん。足手まといにはならないから一緒につれていって」
「……判った。俺のあとについてこいよ」
 あたしはリョウが歩いたところを正確に踏んで、リョウの背中について森の中へと入っていった。森はしばらくは上り坂で、リョウは獣道を捜しながら下生えをかき分けていく。ここは西の森よりも更に歩きにくくて、前にリョウがいてうしろを歩くあたしに注意をしてくれなかったら、本当に全身傷だらけになってしまいそうだったの。木の種類も曲がって絡み合うものが多くて、きこりもあまり足を踏み入れない場所なんだってことが判った。
 しばらくすると下りに変わって、あたしにもう帰れないかもしれないような不安を抱かせる。それでもリョウはずっと歩き続けていく。勾配が急なところを降りるときに振り返って手を貸してくれたリョウは、あたしの手を引いたままやがて言ったの。
「おまえ、つらいか?」
 ちょっと大変だけど、でもつらい訳じゃない。あたしが首を振ると、リョウはまた前を向いて言う。
「こういうのが俺なんだ。人が作った歩きやすい道をそれて、誰も行きたがらないようなところへ行こうとする。この先には何もないかもしれないのにな」
 リョウはこなければよかったと思ってるのかもしれない。帰り道のことを考えるとあたしも気が滅入るようだけど、でも後悔はしてなかったからちょっとだけ驚いたの。だってあたしは、リョウが行くところならどこにでもついていきたいと思ってるんだ。
「なにもなかったら戻ればいいわ。少なくともこの森の向こうにはなにもなかったってことが判るもん。あたしはそれで十分よ」
 笑顔でそう答えたあたしにちょっと驚いたような表情を見せたあと、リョウは再び歩き始めた。


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 リョウの背中を見ながら、あたしも思っていたの。これがあたしなのかもしれない、って。いつもリョウのことを追いかけて、たとえどんなところへ連れて行かれたとしても、ここにリョウがいるだけであたしは幸せなあたしになれる。
 いずれリョウは自分の世界に帰ってしまう。そのときあたしはどうなるんだろう。追いかける人が誰もいなくなったあたしは ――
「ユーナ!」
 リョウに鋭く呼ばれて、あたしははっとして顔を上げた。見るとリョウはいつの間にか少し先にいたの。あたしが追いつくと、リョウは足元に注意しながらあたしを引き寄せてくれる。その先には高さにして300コント、対岸までの奥行きが800コントくらいある断層がぱっくりと口を開けていたんだ。
 覗き込むのがちょっと怖かった。リョウが支えててくれなかったら吸い込まれてしまいそう。落ちないように気をつけながら更に目を凝らしてみる。向こう側の層の隙間から水が染み出していて、断層の底には小さな流れができていたの。
「ここ……ナクル川の支流……?」
 村の地形を思い出してそうつぶやいた。リョウにはあたしの言葉が判らなかったのだろう。少し首をかしげていたけれど、やがて言った。
「どうかな。この水の量だと川に注ぎ込む前に地下水になってるかもしれない。……下へ降りる道はなさそうだな」
 断層はこのすぐ近く、まだ見えるあたりから始まってるんだけど、その先がどのくらいまで続いているのかはここからでは判らない。もしかしたら先へ行けば下に降りる道もあるのかもしれないけど、そろそろ暗くなる頃でもあったし、今道を探していたら帰り道が判らなくなってしまうだろう。
「今日はこのまま帰った方がいいわ。興味があるならまたくればいいもの」
 あたしが言うと、リョウはあたしを振り返ってふと、微笑を漏らした。
「そうだな。またいつでもこられる」
 リョウの答えで判った。あたしがリョウに帰宅を促したのは、村への未練を残すことでほんのわずかでもリョウを引き止めたかったからなんだ、って。


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 帰りはのどが渇いていたこともあって、くるときよりも少しだけ息が切れるのが早かった。それで気づいたの。リョウが下へ降りたいと言ったのは、のどを潤す水が欲しかったからなんだ。
「大丈夫か? 疲れてないか?」
 リョウは時々振り返って、あたしに声をかけてくれる。それだけで十分だよ。リョウがけっしてあたしを忘れてないってことが判るから。
「一緒に行ってよかったね、リョウ。だって、この森の向こうにあんな場所があるんだってことが判ったもん。それだけで疲れなんか吹き飛んじゃうよ」
 答える代わりにそう言うと、リョウはまた少し目を見開いた。
「……そうだな。それが判ったな」
 そうつぶやいて、リョウはまた前を向いて歩き始める。きっとどんなに歩きにくい森だって、先になにもないなんてことはないよ。いつか森は途切れて、今まで見たことのない風景が広がっているんだ。
 道は様子が判っていた分、行きよりもずいぶん早く感じた。森を出ると見慣れたリョウの家の道に辿りつく。出た場所は森へ入ったときとほとんどずれていなくて、リョウが今まで狩人として養ってきた方向感覚の正しさをうかがわせた。
「おまえ、怪我しなかったか?」
 森を出てすぐに、リョウがあたしに訊いてきた。言葉に合わせて膝をついて、あたしの両足を探るように見つめたの。リョウは狩人だから膝下には怪我をしないように布を巻いている。でもあたしはスカートのままだったから、下生えで少し引っかき傷を作ってしまったんだ。
「たいした傷じゃないわ。帰って洗えば大丈夫」
 恥ずかしさもあって、あたしはできるだけ傷を隠そうとしたのだけど、リョウには通じなかったみたい。立ち上がったときには真剣な表情であたしを見つめた。
「このまま帰せないな。日が落ちるまでにはまだある。1度俺の家に戻るぞ」
 そう有無を言わせない口調で言ったあと、リョウは背を向けて歩き始めてしまったから、あたしは従うしかなかった。


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 あたしたちが森へ入っている間にランドは帰ってしまったようで、そろそろ暗くなりかけているリョウの家はしんと静まり返っていた。はじめに台所へ入って、2人分のコップを持って水場へ回る。そこであらかた喉を潤したあと、リョウはあたしを置いて再び家に入っていったの。戻ってきたときには小さな丸椅子と手ぬぐいを持っていて、その椅子にあたしを座らせたんだ。
「靴を脱がせるぞ」
 どうやらリョウはこのままあたしの怪我を治療してくれるつもりみたい。あたしは恥ずかしさに顔を赤らめてたんだけど、リョウは気にならないみたいで、うなずいたのを確認するとさっさと靴を脱がせにかかった。
 手桶で足に水をかけるリョウを見ながら、あたしはすごく変な気分になっていたの。だって、あたしもう子供じゃないんだもん。リョウにこんなことさせるのってすごくおかしい気がする。これがカーヤだったらこんな違和感はないと思うけど。
「ねえ、リョウ、もういいよ。あとはカーヤにやってもらうから」
 あたしの声にチラッと上目遣いで見上げたリョウは、なんだか少し怒っているように見えた。
「だったら今俺にやってもらっても同じだろ。いいからじっとしてろ」
 リョウが何を怒ってるのかよく判らなかった。でもあたしはリョウに足を触られているのがすごく恥ずかしくて、手当てが終わるまで黙っていることができなかったんだ。
「リョウとカーヤは違うもん。お願い、そのくらいで許して。……あたしもは、恥ずかしいから」
 再び顔を上げたリョウは、今度こそあたしの表情をちゃんと見てくれたみたい。ちょっと驚いたようにしばらく見つめたあと、やがて意地の悪い表情をして笑ったの。もしかしてあたし今、逆効果なことを言っちゃったの……?
「ここまでやったらあとは同じだろ。気になるなら俺をカーヤだと思えばいい。ほら、あとは水気を取って薬をつけるだけだ」
「……やっぱり変だよリョウ。大怪我ならともかく、こんな小さな怪我なのに。わざわざリョウに手当てしてもらうほどじゃないもん」
 あたしが言うと、リョウは下を向いたまま何かを口の中でつぶやいた。でもその声はあまりに小さくて、あたしの耳にまで届いてはこなかった。


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「なに?」
「いや。……村の記憶をなくす前の俺はどうだったのかと思ってな。おまえの怪我を手当てするようなことはなかったのか?」
 あたしはリョウの言うことがちょっと意外な気がして、すぐに返事をすることができなかった。リョウがトツカだと知らなかったときなら、あたしはリョウが以前のリョウを気にするのはあたりまえだと思ってた。でも今のリョウが以前のリョウを気にするのは不自然だと思ったの。……なんだろう。なにかが食い違ってる気がする。まさかリョウは本当に記憶喪失なの……?
「……小さな頃ならあったかもしれないわ。はっきり覚えてないけど」
 リョウは昔からすごく優しかった。小さな頃にあたしが怪我をしたなら、リョウはきっとこうして手当てしてくれてただろう。
「だったら何もおかしくないだろ。俺が昔と変わらないって言ったのはおまえだ。……終わった。靴は自分で履けるな」
 足元を見ると、リョウは既に傷薬を塗り終えていて、脛のあちこちが草色に染まっていた。
「あ、うん。ありがとう」
 そうして、靴を履いて立ち上がったあたしを確認したリョウは、コップと手ぬぐいを持って家の方へ向かっていった。あたしが椅子を運んで家の中に戻すと、リョウは再びあたしを神殿へと促した。
 リョウの背中を見ながら歩き続けている間、あたしは考えていた。あたし、リョウはトツカなんだって、今までそう思ってた。でも、リョウは本当にトツカなの? もしかしたら最初に思ったとおり、リョウはあたしのリョウなんじゃないの……?
 だって、リョウはだんだん昔のリョウに戻っている気がするの。記憶を失う前の、すごくあたしに優しくしてくれたリョウに。もしかしたらリョウは、昔の記憶を取り戻しているの?
「リョウ」
 声をかけると、前を歩いていたリョウは振り返って、あたしに並んでくれた。
「あのね、リョウ。……もしかして、少しは記憶が戻ってる?」
 恐る恐る訊ねたことが判ったんだろう。リョウは少し目を伏せるようにして、やがて静かに首を横に振った。


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「記憶は戻ってない。ただ……」
 いったん言葉を切ったリョウは、また首を振って続けた。
「……いや、自分でも本当はよく判ってない。だけど、おまえが言ってることが本当かもしれないって、そんな気がしてきたのは事実だ」
「あたしが言ってること? それってどのこと?」
「俺は以前、おまえの婚約者のリョウだった。死んだことで記憶を失ったけど、記憶を失う前の俺はおまえのリョウだった。……記憶は戻ってないんだ。だけど、ここに暮らしていてだんだんそんな気がしてきた。以前のリョウが自分と違うものだと思えなくなってきた」
 それっていったいどういうことだろう。今のリョウの言葉だけではあたしには理解できなかった。
「記憶は、戻ってないんでしょう? だったらどうしてそう思えるようになったの?」
「たとえばあの家だ。俺はここしばらくあの家に暮らしてみて、自分という人間があの家にぴったり合っていることに気がついた。……なにか探し物があるとするだろ? 他人の家ならどこに何があるのかなんて判らないはずなのに、この家の中に限っては欲しいものがどこにあるのかが自然に判るんだ。それは記憶で判るんじゃなくて、「俺ならここに置く」と思って探すと必ずその場所にある。あの家がまるで自分が建てた家のように思える。だから、あの家に住んでいたリョウも、他人とは思えなくなってきたんだ」
 リョウのその告白を、あたしは複雑な思いで受け止めていた。きっとトツカの存在を知る前のあたしだったら、これほど嬉しい告白はなかっただろう。だってこれはリョウが以前のリョウと同じだって、その証拠になるものだから。でも今のあたしはここにいるリョウがトツカであることを知っている。
 それとも、リョウは本当はトツカじゃないの? ……確かにリョウは自分がトツカだとは言ってない。命の巫女やシュウのことは知らないって態度をとり続けてる。だけど生き返ったときのリョウの傷や服装、持ち物はすべてリョウがトツカであることを示しているし、センシャと戦うリョウにあたしは命の巫女の騎士としての輝きを感じたんだ。その輝きは死ぬ前のリョウには感じなかった。
 もしも今ここで訊いたら、リョウは答えてくれるだろうか。ううん、きっと同じことを言われるだけだろう。前に訊ねたときと同じように「命の巫女のことは知らない」と。それが嘘か本当か、あたしには判らない。


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「 ―― えないか」
「え?」
 あたしは自分の考えに沈みこんでいて、リョウの言葉を聞き逃してしまったみたい。あわてて顔を上げて問いかけたけど、次にリョウが口にしたのはたぶん別のことだった。
「明日の朝、西の森の沼で待ち合わせしよう。命の巫女たちにはおまえから伝えておいてくれ。食料や水は用意するが、祈りに必要な道具があったらそれは自分で用意しろよ。くれぐれも、ほかの連中に気づかれないようにな」
「うん、判った。でも食料ってどう用意するの?」
「明日の朝食と一緒にミイに頼んでおいた。おそらくたいしたものはできないだろう。それに夏場だから3日分くらいしか持ち歩けない。だから3日以内になんとかする」
 そうか。村を離れるって、食事のことだけでもすごく大変なことなんだ。もしもリョウがいなかったら、今まで1度も村を離れたことのないあたしではそこまで頭が回らなかっただろう。
「3日で影を倒さなくちゃいけないのね」
「できればそこまで時間をかけたくない。3日でも多いくらいだ。体力勝負になるから今日は早めに休めよ」
 あたしがうなずく頃にはそろそろ神殿が見えてきていて、それ以上この話を続けることはできなかった。もうほとんど日が落ちていたから、リョウは宿舎まで送ってくれたんだけど、カーヤが夕食に誘ったのは断って帰っていったの。たぶんリョウはランドの家へ行くんだろう。宿舎にはシュウと命の巫女がいたから、カーヤがオミの部屋へ行っている間に2人にも話したんだけど、やっぱり黙って出かけることには引っかかるものを感じたみたいだった。
 カーヤに断って、今日もカーヤの部屋で命の巫女と寝床についた。あたしだけ眠る前に日記をつける。今度はいつこの日記を付けられるか判らない。もしかしたら、今日の日記が12代目祈りの巫女の最後のページになるのかもしれない。
 あたしは今日までに感じたさまざまなことを書き綴った。それと、明日影の国へ行くことを、この日記にだけ告白したんだ。


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