真・祈りの巫女



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 言葉をきいて、命の巫女とシュウとが顔を見合わせる。その表情は少し不安そうで、あたしには自分の言葉の何が2人を不安にしてしまったのかが判らなかった。
「どうしたの?」
「……いや、たいしたことじゃない。祈りの巫女には関係ないことだし、それに今思い悩んでも仕方がない。……そうそう、だったらさ、もしも聖櫃の巫女が死んだらどうするの? 新しい聖櫃の巫女の儀式をしないといけないよね」
 シュウが笑顔を取り繕って話題を変えてしまったから、あたしもそれ以上追求することはしなかった。
「聖櫃の巫女の儀式は守りの長老が執り行うことになってるわ。襲名の儀式そのものに聖櫃の巫女の力は必要ないの。だから神様の言葉を正確に発音できさえすれば、極端な話あたしでも儀式を執り行うことはできるのよ」
「ふうん、いろいろ勉強になるな。……祈りの巫女、ちょっとオミと話してきていいかな」
 そう言うと、食事を終えたシュウがすっと立ち上がったの。あたしはそんなシュウの急激な変化についていけなかった。
「え、ええ。あたしはかまわないけど。……オミがどうかしたの?」
「この村のガラス職人はオミだけなんだろ? じつはさ、さっきビオと話してて判ったんだけど、この村にはトツレンズがないんだ。星見やぐらにあれだけ正確なテンキュウズが作れるのに、テンタイボウエンキョウがないのはもったいないよ。オレたちは明日影の世界へ行けば戻ってこられるかどうか判らないからね。今のうちにオミに仕事を依頼していこうと思ってさ」
 あたしが意味不明って感じで見上げていたからだろう。シュウは苦笑いを浮かべて、命の巫女をチラッと見たあと手を振って奥へ歩いていった。シュウが去ってしまったあと、命の巫女が補足してくれる。
「ボウエンキョウってね、遠くにあるものがすごく近くに見える道具のこと。ガラスで作ったレンズを2枚組み合わせて作るの。ほかにもレンズっていろいろな使い道があるのよ。メガネが作れたら年をとってからでも小さな文字が読めるし。ケンビキョウなんか作れたら、たとえば人間の病気を引き起こす小さな生き物の姿まで見ることができるわ。きっと今までの世界観がガラッと変わるわよ」
 そのあと詳しい説明をしてくれたけど、あたしには自分の体の中に住んでる小さな生き物の話なんて、少しも信じることができなかった。


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 命の巫女はあたしの普段着だったけど、あたしは儀式用の衣装を着ていたから、食後は部屋に戻って朝の服に着替えた。再び食卓に戻ると、命の巫女と入れ替わりにカーヤが台所にいて食器の片づけをしていたの。オミの部屋の会話はきっとあたしには判らないだろう。少しの間1人になりたくて、あたしはカーヤに断って宿舎を出た。
 夏の日差しのまぶしさに目を細めて、周囲を見回しながら神殿の方へと歩いていく。神殿の天井と南側の壁はまだ崩れたままだ。崖側にある聖櫃の巫女の宿舎も半分は土砂に埋まっている。破壊のあとが痛々しくて、自然にあたしたちの心をも沈ませてしまうみたい。どんなに日常を取り繕っても、影が残した傷跡を完全に消すことなんかできはしなかった。
 あたしを殺すために現われたセンシャたち。あたしが影の国へ行ったら、センシャはチャンスとばかりにあたしを殺そうと殺到してくるのだろう。それが必要なことなんだって判ってたけど、やっぱりあたしは怖いよ。だって、センシャはたった2回しかシュホウを放っていないのに、80人以上の人たちの命を奪うことができたんだもん。影の国には村へ現われたよりもずっと多くのセンシャがいるのだろう。そのすべてに狙われたら、あたしが生きて村へ戻れる可能性なんかないのと同じなんだ。
 今日が村の見納めになる。今日があたしが村にいられる最後のときになる。だったら、できるだけたくさん村を見ておこう。そして、みんなの顔を見ておくんだ。お別れを言うことはまだできないけど、
 通る人たちと笑顔で挨拶を交わしながら、あたしは神官の宿舎へ向かっていった。扉を入ってタキの病室へと足を向ける。タキも昼食を終えたばかりで、あたしが顔を見せると笑顔で椅子を勧めてくれた。
「元気そうね。傷はまだ痛むの?」
「おとなしく寝てるからだいぶふさがってきてるよ。痛みの方はね、薬をもらってるからほとんど感じない。でもそろそろ薬を飲むのはやめようかと思って」
「どうして? 無理をするのは良くないわ」
「山で取れる薬草がだんだん少なくなってきてるはずなんだ。みんなオレには何も言わないけど、出かけてから帰ってくるまでの時間が長くなってるのはここにいても判るよ。山の奥の方にまで入り込んでるんだとしたら獣に襲われる心配もあるしね」


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「オレよりひどい怪我を負ってる人が避難所には何人もいるんだ」
 そうか、タキはこの部屋で寝たまま動けないのに、今でも村全体のことを考えることができるんだ。
「ローグは平等な人よ。もしも薬がたりなくなったら、ちゃんと必要な人に分けてくれるわ。タキが自分で薬をやめることはないわよ」
「そうは思うけどね。オレはむしろローグのことが気がかりなんだ。もともと丈夫な人じゃないのに、このところ怪我人の治療で忙しすぎる。祈りの巫女、今度神殿に入るときには、ローグのことも祈ってもらえないかな。……オレのことは適当でかまわないから」
 それまで深刻そうな表情をしていたタキは、最後の言葉を言ったときだけちょっとおどけたような笑顔を見せたの。つられてあたしも笑顔になる。もしかしたら、あたしもずいぶん深刻な表情をしていたのかもしれない。
「判ったわ。タキのことは適当にして、その分ローグのことを祈るようにする。しばらく顔をあわせてないのだけど、ローグはずいぶん悪いの?」
「顔色がね。普段でもそれほどいい方じゃなかったけど、それを差し引いてもかなり悪くなってる気がするんだ。オレもほかの人も少し休むようには言ってるんだけど、ああいう人だからなかなかね。現状が落ち着くまでローグの体力が持ってくれることを願うだけだよ。
 ところで祈りの巫女、そろそろリョウは君に話したんじゃない?」
 それまでの会話を終わらせるように、タキは口調を変えて言った。言われた瞬間あたしはタキの言うことが判らなかったのだけど、昨日のタキとの会話を思い出して不意に気づいたんだ。
「もしかして、影の国へ行く話?」
「そう。それでオレのところへ来たんじゃないの? リョウを引き止めて欲しい、って」
 そうか、タキはリョウが独りで影の国へ行くと思ってるんだ。リョウは昨日、タキにだけはこの話を打ち明けていたんだ。
「ううん、引き止めてもらう必要はないわ。だって、あたしも一緒に行くから」
「……ほんとに?」
 タキはうつぶせのまま身体を起こすような仕草をしたから、あたしはタキに反対されるかもしれないと思って、あわてて言葉を補足した。


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「その方が村のためにはいいと思ったの。あたしが村を離れればこれ以上村は襲われなくて済むかもしれないもの。それに、命の巫女とシュウが一緒だから。命の巫女たちがいないのにあたしだけ村に残ったりしたら、余計に村もあたしも危険にさらされることになるわ」
 肘で身体を支えながらあたしを見つめていたタキは、あたしの言葉が終わったとき、ふうっと大きく息をついた。
「……怖いな」
 そのタキの言葉の正確な意味がつかめなくて、あたしは首をかしげてタキの次の言葉を待った。
「君の話を聞いてね、納得してる自分が怖い。そうやって君はどんどん影との戦いに慣らされていく。オレも、君が影と戦うことを当然のように受け止めている。少し前のオレだったら、影の国へ行くなんてとんでもないことだ!って君を止めただろう。でも、今のオレには君を止めることができない。自分の価値観が歪んでいくのが……いや、歪んでいるのかそうでないのかすら判断できない自分が怖い」
 そうと聞いても、あたしにはタキの言っていることがまるで理解できなかった。
「あたしを止められない自分が怖い、ってどういうこと? あたし、タキが止めないでいてくれるならうれしいわ。だってそれは、タキがあたしの言うことを理解してくれたってことでしょう? 反対されて行くより、理解されて行く方がずっといいもの」
 あたしの話を聞きながら、タキが自嘲のような表情を見せたから、あたしは驚いてしまった。
「怖いよ、祈りの巫女。……リョウはどうして君を連れて行こうなんて思えるんだろう。シュウは、命の巫女は、どうして影の国へ行こうとするんだろう。オレは君を止めることができないけど、君を理解してる訳じゃない。いや、理解はできるしそれしか方法がないことも判る。だけど疑問が残るんだ。……それは本当にオレの考えなのか。今、ここで君を止められなかった自分を、未来のオレは本当に許すことができるのだろうか、って」
  ―― たぶん、タキの話はあたしが理解できる範囲を超えていたのだと思う。まるで違う世界の言葉を聞いているようで、言葉の1つ1つの意味は判るのに、タキが表現しようとしていることが判らないの。あたしが何も答えずにいると、気づいたのかタキがふっと微笑んだ。
「ごめんね。こんなこと、今の君に話すべきことじゃないのに。オレが止めても止めなくても君は影の国へ行く。今のオレは、君の勇気ある選択を賞賛することができるよ。……祈りの巫女、影の国へ行って、君がすべきことをしておいで」


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「担当のオレがついていけなくて本当に申し訳ないと思ってる」
 もしかしたらタキは、あたしが2度と村へ戻ってくることがないって、悟っていたのかもしれない。しばらく2人の間に沈黙があって、お互いに口を開くきっかけを探していたあたしたちは、ほとんど同時に外の騒がしさに気がついたの。あたしがうしろを振り返った次の瞬間、外側からドアが開かれて、本来ならここにいるはずのない人が駆け込んできたんだ。
「ユーナ! おまえ、影の国へ行くってのはほんとか!」
 いきなり両肩を掴まれてあたしは声も出すことができなかった。目の前には怒ったランドの顔。そして、そのうしろからリョウが駆けてきたのがチラッと視野に入る。
「どうなんだよ!」
 ようやくあたしがうなずくと、舌打ちしてあたしから手を離したランドは改めてベッドのタキに気づいたみたい。今度はベッドに手をついて怒鳴ったの。
「おいタキ! おまえ、ユーナのこと止めたんだろうな! 今すぐ馬鹿なことはやめさせろ! あんな得体の知れないところへ黙って行かせる気かおまえ!」
 あたしはうしろを振り返って、リョウと目を合わせた。リョウの困ったような表情を見て、あたしにもやっと状況が飲み込めた。リョウがランドに影の国へ行くことを話したんだ。どういういきさつでそうなったのか判らない。だけど、それを聞いたランドはあたしを説得するためにここへ乗り込んできたんだ。
「ランド、少し落ち着いてくれないか? ここにはオレのほかにも怪我人が ―― 」
「これが落ち着いていられるか! オレはなあ、ユーナのことはこーんなチビの頃から知ってるんだよ。こいつの両親が死んだ今、オレは言ってみればこいつの親代わりなんだ。それをなんだ! 生きて帰れるかどうか判らないようなところへ一緒に連れて行くっていうんだぞ、この大馬鹿野郎が! 行きたきゃてめえ1人だけで行けよ! オレのかわいい娘を巻き込むんじゃねえ!」
 そう、思い切りよく叫んであたしたちをにらみつけたランドに、3人ともあっけにとられて何も答えることができなかった。


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 少しの沈黙のあと、不意にタキが笑い出したの。そうしたらあたしも緊張が解けたみたい。顔の筋肉が緩んで、思わず笑顔になっていた。
「……なんだよ。ここ、笑う場面かよ」
 あたし、うれしかった。だって、ランドがあたしのことを娘だって言ってくれたんだもん。ランドがそんな風に思っててくれてるなんて、あたし知らなかった。両親を失ったあたしの親代わりだと思っててくれたなんて。
「いや、すまない。あなたの言う通りだよ。確かにここは笑う場面じゃない」
 そうランドに謝りながらも、タキは必死に笑いをこらえていた。その様子を見ていたらあたしも笑いがこみ上げてきちゃったの。でもほんとに笑う場面じゃなかったから、あたしはできるだけ冷静になるように自分に言い聞かせていた。
「ランド、ありがとう。あたしのことを娘だって言ってくれて」
 あたしの言葉に、ランドも少しだけ冷静さを取り戻したみたい。もしかしたら自分が口走ったことを覚えてないのかな。照れたように言い訳めいたことを口にしたあと言った。
「……ああ、本題はそっちじゃねえ。ユーナ、おまえ、ほんとにこいつと一緒に影の国へ行く気か? そんな危険なことやめろ。おまえが行ったところでたいして役に立ちゃしねえ。死にに行くようなもんだろ。……タキ、おまえも黙ってねえで説得しろ。こういうときに止めに入るのがおまえの役目じゃねえか」
 それでタキもさっきまでのあたしとの会話を思い出したみたい。やっと笑い顔を引っ込めて、真面目な表情でランドに答えた。
「残念だけど、オレには祈りの巫女を止められない。止めたいならランド、あなたが自分で止めてくれ」
 ランドは信じられないような顔でタキを見て絶句する。そのあとリョウを見て、あたしを見て、どうやらここには自分の味方が1人もいないってことを悟ったみたい。再びタキに掴みかからんばかりに顔を寄せて言ったんだ。
「どうしてだ! おまえら全員おかしいぞ。なんでユーナが死ぬって時にそんなに冷静でいられんだよ! ユーナが心配じゃねえのかよ!」
「ランド、あなたの言うことは間違ってない。正しいのはあなたの方だ。だからオレの方がお願いしたいよ。ランド、祈りの巫女を止めて欲しい。オレには祈りの巫女を止められるだけの言葉がないんだ」


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「なに訳の判らねえことを言ってやがる! だからおまえら神官は信用できねえんだ。リョウ、おまえもだ。最近神官じみてきやがって」
 リョウは部屋に入ってからずっと黙ったままだったんだけど、このとき初めて声を出していた。
「ユーナのことはオレが守るって言ってるだろ。最初から死なせるつもりなんかねえよ」
「今日やっとカザム1頭倒せた奴がいきがってんじゃねえ! その程度の腕でユーナを守れるとでも思ってんのか!」
「あんたも見てただろ! 俺はセンシャを3体倒してるんだ」
「敵の力を利用して同士討ちさせただけじゃねえかよ! あれはおまえの実力なんかじゃねえよ。そういう姑息なやり方がオレは大嫌いなんだ!」
 そのランドの言葉を聞いた瞬間、リョウの表情が変わっていた。あたしが息を飲む暇もなかった。リョウがランドの胸倉を掴み上げて、まるで搾り出すような声で言ったの。
「表へ出ろ、ランド」
「……ああ、望むところだ!」
 ランドがリョウの手を振り払って、ほんの一瞬にらみ合ったあと、2人は瞬く間に部屋を出て行っちゃったんだ!
「リョウ! 待って! ランド! ……どうしよう。ねえ、タキ、どうしよう!」
 とっさに追いかけることができなくて助けを求めるようにベッドを振り返ると、タキは大きなため息をついて枕に突っ伏した。
「どうしよう、って。……オレはこの通りだし、君1人であの2人が止められるとも思えないし、放っておくしかないと思うけど」
「どうしてそんなこと言えるの? あたし、あんな険悪な2人を見たの初めてだよ。止められなくても止めなきゃ」
「そう思うんだったら止めておいで。オレのことは気にしなくていいから」
 あたし、タキにはほんとに悪いと思ったんだけど、一言謝ってから部屋を飛び出した。いきなりのことでランドがどうしてあんなに怒ってるのか、正確なところは判らない。だけどあたしのことが原因だってことははっきりしてるもの。あたしのことでリョウとランドに喧嘩なんかして欲しくない。昔からあんなに仲が良かったのに、こんなことで仲違いするなんてぜったい良くないよ。


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 宿舎を飛び出したあたしは周囲を見回してみたんだけど、近くに2人の姿を見つけることはできなかった。きょろきょろと探し回りながら通りかかった神官に声をかけて訊いてみたの。姿を見ていた神官はあたしに、2人がリョウの家の方へ向かったことを教えてくれた。
 転ばない程度に慎重に、でもできるだけ急いで、あたしはリョウの家への坂道を駆け下りていく。それにしてもどうして2人はリョウの家にまで行ったんだろう。神殿の敷地の中では喧嘩なんかできないから? いったいどんな喧嘩をするつもりなの? まさか子供みたいに掴み合ったりしないよね。この坂を下りている間にお互い少し冷静になって、話し合いで決着してくれるといいのに。
 でも、そんなあたしのかすかな希望は、リョウの家の庭で2人の姿を見た瞬間に消し飛んでいた。
「キャーーーーッ!」
 掴み合い、なんかじゃなかった。庭の真ん中で、リョウとランドは互いを殴り合っていたの。既に2人とも無傷じゃなかった。何も考えずに駆け寄ったあたしは、ちょうどランドに拳を当てられてうしろに飛ばされたリョウに巻き込まれて、一緒に転がされてしまったんだ。
「さがってろ馬鹿!」
 一瞬振り返ったリョウに怒鳴りつけられて息を飲んだ。すぐに立ち上がったリョウは再びランドに殴りかかっていったけど、あたしはそれきり2人を見ることができなくなっていたの。だって、どうして2人が殴り合わなくちゃいけないの? 話し合いで解決できないものが、殴り合いで解決できるはずなんかないじゃない!
 その場にしゃがみこんだまま両手で両目を覆っていた。聞こえてくるのは2人の息遣いと声、そして互いを殴り合ってるらしい、ぞっとするような音。恐怖に身を縮めていた時間はきっとそれほど長くなかったと思う。やがてどちらかが倒れるような音とかすかなうめき声が聞こえたあと、不意に殴り合いの音が消えて、2人の息遣いだけが大きくなっていったの。
「……ぅっクッ……なん、で……」
 聞こえてきたのはランドの声だった。怖かったけど、あたしは恐る恐る両目を開ける。こちらに背を向けて立っていたのはリョウだった。
「このオレが……おまえなんかに負けるんだよ……!」
 あたしにはどちらが勝ったかなんてどうでも良かった。それよりも、とにかく殴り合いが終わってくれたことだけにほっとしていた。


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 少しずつ身体を動かして、ようやく立ち上がって2人に近づいていく。倒れたランドを見下ろしていたリョウも少しランドに近づいて、その場に膝をついていた。
「あんたは、人間と戦うことに慣れてねえ。カザムと人間は動きが違う」
 2人とも傷だらけだった。唇から流れた血をぬぐうこともしないで、ランドはお腹を押さえて身体を起こそうとする。
「……リョウ、おまえは慣れてるっていうのか……?」
「あんたよりは慣れてる。人間にも、獣鬼やセンシャにも」
 リョウも額から血を流している。気配を感じて振り返ったリョウにあたしは言った。
「リョウ、お願い。ランドを手当てして。……どうしてこんなになるまで ―― 」
「ランド、立てるか?」
「……勘弁しろ。もう少し休ませてくれ」
「判ったわ。水を持ってくる」
 あたしはリョウの家に入ってコップを2つ用意して、リョウの家の裏手に向かった。ここに近くの川から水が引いてきてあるの。コップをいっぱいにして2人のところへ持って行ったあと、今度は桶を1つ水で満たして、手ぬぐいと一緒に運んでいったんだ。その頃にはランドも身体を起こすことができたみたいで、2人とも地面に直接座って何かを話していたようだった。
「ランド、大丈夫?」
 あたしは桶を2人の間において、手ぬぐいを絞ったあとランドの傷を拭いてあげた。唇が切れてて、あと頬にうっ血したようなあとがある。リョウ、いったいどんな力で殴ったんだろう。さっきからお腹を押さえているし、たぶん身体のあちこちに痣ができてるだろう。
「リョウは自分でやるのよ。……ランド、痛かったでしょう? こんなにひどく殴るなんて、死んじゃったらどうするのよ」
「……死ぬような殴り方してねえよ」
 リョウがうしろでボソッと言った声が聞こえたけど、あたしは無視してしばらくの間ランドの頬をぬぐい続けていた。


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「ユーナ、そのくらいでいい。ありがとう。あとは自分でやる」
 そう言って、ランドはあたしの手から手ぬぐいを取ると、頬に当てて立ち上がっていた。そのままリョウの家の方へ歩いていく。
「1人で大丈夫なの? あたし、手伝うよ」
「そんなにオレの裸が見たいのか? そこまで言うなら見せてやってもいいぜ、オレの肉体美」
 はっと気づいて顔を赤くしたあたしに意地の悪い笑みを見せて、ランドはリョウの家の扉を入っていった。振り返るとリョウが背中を向けて座っていたの。あたし、このあいだリョウの上半身を見たときのことを思い出して、心臓がドキドキしてきちゃったよ。ちょっと頭を振ってそんな妄想を追い出したあと、なんとか平静を装ってリョウの隣に膝をついていた。
「……リョウも傷だらけじゃない。ほら、ちゃんとこっち向いて」
 リョウの傷はまだ手付かずで、あたしは手ぬぐいを絞ったあと、額の血をぬぐい始めた。ちょっと痛そうに目を細めたリョウは遠くを見たままだ。もしかしたら、あたしが意地悪なことを言ったから怒ってるのかもしれない。でも起き上がれなくなるまでランドを殴るなんて、やっぱりリョウの方が悪いよ。
「このくらいでいいかな。……薬をつけなくちゃ。あたしの宿舎へ行けば少しはあるけど」
「……こんなの舐めときゃ治る」
「どうやって舐めるの?」
 傷は額にあるんだもん。なにも考えず正直に疑問を口に出すと、リョウはやっとあたしと目を合わせてくれたの。そしてすごくやさしい表情で微笑んでくれたんだ。まるであたしの心の中も暖めてくれるみたいな笑顔。きっと今あたしも同じ笑顔でリョウを見つめている。
「以前タキが作ってくれた薬がいくらか残ってる。ランドはぜんぶは使い切らないだろう。心配しなくても大丈夫だ」
「……じゃあ、それまではあたしが舐めてあげる」
 膝立ちのまま少し戸惑うリョウの頭を抱えて、あたしは額の傷にキスをした。それから、鼻の頭にキスして、唇。リョウもあたしを引き寄せてキスに答えてくれる。胸の奥が熱くなる。そして、小さな痛みも。


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