真・祈りの巫女
411
それ以上どうすることもできない。あとはリョウの機転に任せるしかなかったんだ。
「いったいなんの話だ?」
「あたしたちね、ちょっと早く起きすぎちゃったの。だから命の巫女たちとお散歩してたところなのよ」
「やあ、おはようリョウ」
「……ああ、おはよう」
追いついてきたシュウが笑顔で挨拶するのに、戸惑った様子でリョウが挨拶を返す。それはとても平和な朝の風景を切り取ったようだったのだけど、あたしは気が気じゃなかったの。だって、リョウの時間がずれていることがシュウに判ってしまったら、リョウがトツカだって確信がますます深まってしまうんだもん。
「リョウ、こんなに朝早くからどうしたんだ? まだ神殿の人間は誰も起きてないぜ」
「……いや、そんなことより、おまえら今暇なのか? 散歩してたくらいだから忙しい訳じゃないんだろ?」
そのリョウの答えに、張り詰めていた分あたしは拍子抜けしちゃったんだけど、シュウの方も驚いたみたい。だってリョウはずいぶん切羽詰まった感じで、今にもシュウに掴みかかりそうな表情をしていたから。
「あ……ああ、別に忙しくはないけど」
「ちょっと話が……いや、頼みたいことがある。どこか落ち着いて話ができるところへ付き合ってくれ」
シュウはリョウに頼みごとをされたことで本当に驚いてしまったみたいで、話をする場所に神殿の書庫を提案したあとはほとんど口をきかなかった。シュウは最近ここで過ごすことが多いらしくて、中の様子に詳しいシュウが先に立って歩いていく。その部屋に入る前に、あたしは席を外そうかってリョウに訊いたの。でもリョウはあたしにも聞いてほしいって、4人がけの隣の席にあたしを座らせたんだ。
リョウの正面にはシュウがいる。なんとなく、あたしはシュウがこの席に座ったことを後悔してる気がして、ちょっとおかしくなった。
そんなシュウと命の巫女を等分に見つめたあと、すごくまじめな顔でリョウは切り出したの。
「頼む。おまえたち2人の力で、次元の扉を開いてくれ。入口は西の森の沼。出口は……影がやってくる世界だ」
412
リョウの言葉を聞いて、あたしは一瞬呼吸を止めてしまった。その瞬間は言葉の意味を正確に掴むことができなかったのだけど、忙しく頭を回転させてすぐに理解する。リョウはシュウや命の巫女たちと同じことを考えているんだ。西の森から影の痕跡を辿って、影の世界へ乗り込もうとしているの。
リョウが今ここで頼み込むまでもなく、シュウはそのつもりだった。だから目の前で真剣な表情で頭を下げるリョウの姿にこっけいさを感じたんだろう。部屋の雰囲気が微妙に変わって、シュウの唇がわずかにゆがんでいるのが判る。ほんのちょっとしたきっかけがあったらシュウは吹き出していたかもしれない。
でも、シュウの目の前でにらみつけるように見つめるリョウは隣にいるあたしが見ていてもものすごく怖かったから、シュウは吹き出す寸前の表情を必死でなだめようとしていたんだ。そんなシュウの様子に気づいているのかいないのか、リョウは先を続けた。
「もちろん一緒に来てくれとは言わない。どんな危険なことが起こるか判らない場所だ。影の世界へは独りで入る。おまえたちはただ道を開いてくれさえすればいい。命の巫女の力なら、影が残した道を辿ることができるんじゃないのか? それともそいつは俺の買いかぶりか? できないならさっさとそう言ってくれ」
ちょっといらだったようなリョウの様子に、シュウはようやく自分を律することができたみたい。余裕をはらんだ笑顔をリョウに向けた。
「あんたの頼みは判ったよ。だけど、その答えを聞く前に、まずはオレの……オレたち3人の話を聞いてくれ」
リョウは驚いたように一瞬だけあたしを振り返ったけど、すぐにそんな表情のままシュウに向き直ったの。
「なんだ?」
「実は今日にも話そうと思ってたんだ。昨日、オレとユーナは書庫で歴代の命の巫女の物語を調べていてね。自分たちが持っている能力の複合的な使い方についてずいぶん勉強したんだ。もともとこの力は古代文字 ―― オレたちにとってはふだん日常で使っている文字の中の『カンジ』というヤツなんだけど、その筆跡を頭の中で辿ることによって発動する。そのカンジを組み合わせてジュクゴを作ることで能力の組み合わせがけっこう自在にできるんだ。だからオレも、影の痕跡を辿って影の世界へ行く手段については、ある程度考えに入れていた」
それはあたしにはほとんど理解できない話だったけど、リョウは言葉の意味を噛みしめるようにシュウの話を聞いていた。
413
「昨日の夜、オレとユーナは祈りの巫女にその話をしてね。単に報告だけのつもりだったんだけど、そのとき祈りの巫女が言ったんだ。自分も影の世界へ一緒に行きたい、って。最初は反対したんだけど、彼女の話を聞いているうちに、その方が村のためにもなるんじゃないかって考え直した。……先にこの話をするべきだったのかもしれない。リョウ、あなたの大切な婚約者を、命の危険があるかもしれない影の世界へ一緒に連れて行くことに、あんたは同意してくれるか?」
話の途中から、リョウは驚きに目を見開いていた。そして、シュウの話が終わったあと、再び勢いよくあたしを振り返ったの。それから少しの間、リョウはあたしを見つめていた。まるであたしの心の中を見透かすみたいに。
やがて、視線をはずして深いため息をついたリョウは、シュウに向き合ったときにはもう心の中にある感情を表に見せてはいなかった。
「出発はいつにするつもりだ」
「守護の巫女には今日話をするつもりだから、早くても明日になる。説得に手間取ったとしてもできれば明日の朝には出発したいね。オレたちも早いところ片づけて元の世界に帰りたいし」
「……こいつが1度言い出したことを諦めさせるのは至難の技だ。同意するしかねえだろ。ただし、俺も一緒につれていくことが条件だ」
「いいよ。こうなる覚悟はできてたから。まさかあんたに先を越されるとは思ってなかったけどね ―― 」
このあと、リョウとシュウとは表面的には穏やかに、今後のことを少し話し合ってから別れた。命の巫女たちが出て行って、書庫で2人だけになったとき、リョウはまたため息をついて横目であたしを見たんだ。
「おまえ、心臓に悪い」
なにを言われるのかと思って身構えていたあたしは、リョウの言葉にきょとんとした表情をしたみたい。リョウが笑顔を漏らしたから、あたしはすごく暖かい気持ちになっていたの。
「怒らないの? リョウに相談しないで決めちゃったこと」
「それについては俺も同じだからな。おまえだけ責めるつもりはねえよ。……影の世界はどんな危険があるか判らない。おまえ、自分の身は自分で守れよ。その覚悟がないなら今からでも遅くない、影の世界へ行くのはやめろ」
414
リョウは……以前のリョウはいつも言っていた。ユーナのことは必ずオレが守るよ、って。今のリョウも言ってくれたことがある。おまえのことは守りたいと思ってる、って。
今、リョウがあたしに自分で自分を守れと言うのは、きっとそれだけ影の世界が危険に満ちているからなんだ。リョウはあたしにその自覚を持って欲しいと思ってる。それは裏を返せば、あたしを信頼してくれてるってことなんだ。
「影に狙われてるのが自分だってことは判ってるわ。危険も承知してるつもりよ。でも、あたしが行かなければ村がどんどん壊されていくんだもん。あたしはこれ以上だれの命も犠牲にしたくないの」
タキは祈りの巫女を王にたとえていた。村の人たちのために一生を捧げるという王。きっとリョウも同じことを思い出したんだろう。
「……おまえが生きて帰ることを心の底から望んでる人間がいるんだってことを忘れるなよ」
それだけ言って、リョウはあたしの頭をくしゃっとかき混ぜたの。それは以前のリョウがよくやっていた仕草で、あたしは驚いたと同時に、ちょっとだけ恥ずかしいような気持ちになっていた。
―― いつでも、忘れちゃいけないって思ってる。リョウにとってあたしは、命の巫女の身代わりなんだ、ってこと。
でもリョウがやさしく振舞うたびに忘れそうになるの。だからもう1度、忘れないようにって心に刻み込んだ。視線を上げてリョウを見ると、目が合ったとたんリョウの微笑が消えて、一瞬視線を泳がせる。行き場を失った片手をもてあますように背中のうしろに隠して。
リョウは、人をだまして平気でいられるような人じゃない。ちょっとした仕草の中にリョウの罪悪感が見え隠れする。だからそれには気づかなかったふりをして、あたしは笑顔を見せていた。
「忘れないけど。……でもあたし、リョウが一緒にいてくれるのが1番うれしい。だって、影の国へは3人だけで行くと思ってたから」
リョウが影の国へ行くことを決めたのが、たとえ命の巫女を早く帰してあげたいっていう、彼女のための行動だったのだとしても。
「俺はシュウを信用してない。奴は、自分とあの女のためなら他人を傷つけても気にしない人間だ。おまえを任せられる訳がないだろう」
そのリョウの言葉に反発を覚えたのだけど、不意にあたしは思い出したんだ。シュウが以前、ヤケンの群れから自分たちを助けたトツカを見捨てて逃げた事実と、センシャに殺されかけた時にあたしを囮に使って、あたしの心にシュホウの恐怖を植えつけた事実とを。
415
早朝に神殿の敷地を歩いていたリョウは、本当はランドの家に向かう途中だったみたい。神殿の書庫を出る頃には宿舎の人たちも活動を始めていたから、リョウは最初の予定通り村へ続く山道を降りていった。あたしはまっすぐに宿舎へ戻ったのだけど、そこには命の巫女もシュウもいなくて、目覚めたカーヤが身支度をしてるところだったんだ。あたしは簡単に今朝のことを話したあと、準備をして神殿へ祈りに行った。
今までの災厄で怪我をした人たちのことを祈り終えて神殿を出ると、扉の前にセリが立っていたの。どうやらあたしの祈りが終わるのを待っていたみたいで、気づいてさっそく声をかけてきたんだ。
「お疲れさま、祈りの巫女。今日は午前中に運命の巫女の襲名儀式があるからって、さっき宿舎に知らせが回ったんだ。カーヤに訊いたらここだって言われたから」
「おはよう、セリ。……でもそれならカーヤに言伝してくれればよかったのに」
「まあね、でも用事はそれだけじゃなくて。祈りの巫女は知らないかな、命の巫女とシュウの居所」
「まだ帰ってないの?」
「君の宿舎にも、神官宿舎にもいなくてね。まあ、食事時には戻るとは思うけど、一応彼らにも儀式には出席してもらわなきゃならないから。もしも2人を見つけたら引き止めておいて。あと、居所が判ったら一言オレに伝えてくれると助かる」
「ええ、判ったわ」
セリは忙しいみたいでそのまま石段を駆け下りていった。……そうか、ノエが運命の巫女になるんだ。儀式前の巫女には食事は許されていないし、儀式前に禊も済ませなければならないから、午前中のうちに儀式をぜんぶ済ませるなら今頃はもう各宿舎へのあいさつ回りが始まってるのかもしれない。セリにもきっと細かい用事が割り振られているんだろう。
宿舎でカーヤにセリと同じことを言われて、出来上がった食事をテーブルに並べるのを手伝っていたとき、命の巫女は帰ってきた。
「命の巫女、シュウは一緒じゃなかったの?」
あたしが早口で訊いたからだろう、命の巫女は驚いて少し身構えてしまったみたいだった。
416
「山の上へ散歩に行ったの。そうしたら変わった建物があったから、シュウが興味を持っちゃって。帰ろうって言うのにぜんぜん動かないから先に帰ってきちゃったのよ。……シュウに用事があったの?」
山の上の建物、ってことは、きっと星見やぐらのことだ。あたしは巫女になったときに1度だけ案内されたことがあるけど、特に興味もなくてそれきり1度も行ってない。でも、神官たちはけっこうあの場所が好きだって聞いたことがあるから、きっと神官のシュウが興味を惹かれる何かがそこにはあったのだろう。
「たいしたことじゃないのよ。シュウがいなくても誰も困らないけど、呼ばなかったらきっとシュウ本人が悔しがるわね。だって、星見やぐらはいつでも見られるけど、巫女の儀式はそう頻繁には見られないもの」
あたしは命の巫女に簡単に説明して、そのあと神官宿舎にシュウの居場所を言伝してから、再び宿舎に戻って食事を始めたの。そうしてカーヤと3人だけの食事が終わる頃、聖櫃の巫女に連れられてノエが宿舎にやってきたんだ。
巫女の襲名の儀式は、こうして新しい巫女が宿舎を回って、先輩の巫女たちに挨拶をするところから始まる。あたしのときにはこの挨拶は神殿の儀式より10日以上前に行われたけど、今回は時間がないからすべての儀式を今日の午前中に凝縮してしまうみたい。実際の年齢よりも少し幼く見えるノエは、まだ自分が運命の巫女に選ばれたことが信じられないようで、普段よりもずっと幼く見えた。
「おはよう、祈りの巫女。突然だけど、今日の午前中に運命の巫女の襲名儀式を行うことになったの」
「ええ、聞いてるわ。これから禊に行くのね」
「そうよ。正式な儀式は後日行われるから、今は簡単に済ませていいわ。……祈りの巫女、ノエが運命の巫女を名乗ることを認める?」
「認めるわ」
「命の巫女、あなたは?」
命の巫女は、まさか自分も訊かれるとは思ってなかったみたい。あたしが振り返って笑顔で促すと、ようやくうなずいて言う。
「ええ、認めます。……これでいいの?」
緊張したノエよりもずっと不安そうに答えた命の巫女に、あたしと聖櫃の巫女は笑いを誘われていた。
417
「命の巫女の儀式も見たかったわね。この程度で緊張しているのだから、神殿に入ったとたんに凍りついていたかもしれないわ」
聖櫃の巫女が命の巫女をからかうように言う。あたしはカーヤがお茶を入れている間にすばやく食卓を片付けて、今まで立ったままだった2人を椅子へ促した。命の巫女が低く抗議の言葉をつぶやいたことに不審を抱いたんだろう。座ることで少し落ち着いたらしいノエが初めて声を出していた。
「どうして命の巫女の儀式をしなかったの? 影の襲撃があったから?」
ノエは身体の小さな巫女で、小首を傾けて聖櫃の巫女を上目遣いで見つめるとまるで子供のようにあどけない。カーヤはオミの食事の介助をしに奥へ行ってしまったから、聖櫃の巫女も気兼ねなく答えていた。
「命の巫女はこの災厄が去れば自分の村へ帰ってしまう巫女だからよ。儀式をしたら誰も彼女を手放したくなくなるわ。だからあえて命の巫女の儀式は行わないことにしたの」
ノエはちょっと驚いたみたい。あたしもこの話は初耳だったけど、命の巫女が儀式を受けないでいたことはなんとなく納得していたから、少しだけノエの感覚の違いに驚いていた。
「そんな。命の巫女がいなくなっちゃうなんて。……2人ともずっと村にいてくれると思ってたのに」
ノエの言葉には予想した以上の落胆があって、思わずあたしと命の巫女は顔を見合わせてしまったの。命の巫女も、まさか自分がこれほどノエに残念がられるとは思ってなかったみたい。視線で疑問を投げかけたあたしに小さく首を振って答えた。
「もちろん影の脅威が去るまではいてくれるわ。それよりノエ、2人ともあなたを認めてくれたのだから ―― 」
「ああごめんなさい! ……ええっと、認めてくれてありがとう。自分が巫女になれると決まる前から、運命の巫女になるのはあたしの夢だったの。だからその夢がこんなに早くかなうなんて今でも信じられない。先代の運命の巫女にはまだまだかなわないけど、でもこれから一生懸命に勉強して、少しでも先代に近づけるようにがんばるわ。どうか長い目で見守っていて」
そう、姿勢を正して言ったあと、ノエはぴょこんと頭を下げた。その動作がまたあたしたちの笑いを誘う。そんなノエの様子に、あたしは3年前の自分の姿を重ねていた。
418
祈りの巫女になったばかりのあたしは、今のノエよりもずっと幼くて、頼りない巫女に見えたことだろう。それでも周りのみんなは温かい目で迎えてくれた。今度はあたしが先輩になって、ノエの成長を見守っていくんだ。
「ノエはきっと、あたしよりもずっと優秀な巫女になるわね。ね、そう思わない? 聖櫃の巫女」
「さあ、それは私の口からはなんとも言えないわ。ぜひそうなって欲しいとは思うけど」
「教育係はまた聖櫃の巫女がつとめることになるの?」
「最終的にはそうだけど、今は非常時だから、当分は私と神託の巫女が交代であたることになると思うわ。今は命の巫女が未来を見てくれているけど、いつまでも頼る訳にはいかないもの」
あたしは明日影の世界へ行くことを思い出して、そう口にしそうにもなっていたのだけど、まだ誰にも話していないことだったからあわてて口をつぐんだ。リョウとシュウは書庫で、あたしたちがすんなり影の世界へ旅立つための作戦を話し合っていた。リョウは昨日もずっと根回しに奔走していたの。今あたしが余計なことを言ってリョウの努力を台無しにする訳にはいかない。
ノエと聖櫃の巫女が帰っていったあと、命の巫女はちょっと不機嫌そうな顔で考え込んでいた。あたしの視線に気づいて顔を上げる。
「彼女、気が強そうな子ね。話をしたのは初めてだけど」
「どうかしたの?」
「前に1度だけ、シュウと一緒にいるところを見たことがあるの。……巫女はよく書庫に出入りしているものなの?」
「そうね。ノエは若いから書庫へ行く機会も多いと思うわ。今はまだいろいろ勉強する時期だし。シュウも書庫は好きなようだからノエと顔見知りでもおかしくないわね。それが何か?」
「……ううん、なんでもない」
命の巫女は表情を変えないまま、そのあと支度をして神殿へ行ってしまったの。運命を見に行くと言って。あたしは不思議に思ったけど、少しだけ考えて判った。命の巫女は、シュウが帰ると聞いたノエが不自然なくらいがっかりしたことが気になって仕方がないんだ。
ノエはシュウに恋をしたのかもしれない。本当のことは判らないけど、あたしは再びノエと自分の未来とを重ね合わせていた。
419
セリに呼ばれて宿舎の外に出たときには、既に神官たちの多くが神殿前広場に集まっていた。避難所にいるのは多くは怪我をした人たちだったけど、中には家族を失った子供たちもいて、窓から外の様子をうかがっている。あたしと命の巫女はセリの指示に従って、両側に道を作る神官たちに混じっていたの。その中にはシュウもいて、わざわざ命の巫女の隣まで移動してきていた。
やがて、聖櫃の巫女に先導されたノエが、周りに多くの巫女を従えて坂を上がってくる。ややうつむき加減のノエがさっきよりもずっと緊張してるんだって、見ているあたしにもよく判ったんだ。ノエはあたしたちの前を通ってすぐに共同宿舎に入ってしまう。ノエが運命の巫女の衣装に着替えている間、あたしと命の巫女は神殿の方へ移動することになってるんだ。
正式な儀式だったから、あたしは祈りの巫女の衣装に着替えているのだけど、とうぜん命の巫女は儀式用の衣装なんかもっていなかった。命の巫女の色は赤で、だからあたしの服の中からできるだけ濃いピンク色の服を選んで、赤い飾りを胸と髪につけることで代用していたの。
「まるでソツギョウシキか何かみたいだな。妙に間延びした感じがする。巫女の儀式っていつもこんな感じなの?」
シュウが訊いてくる。本当なら儀式の最中におしゃべりするなんてほめられたことじゃなかったけど、あたしも小声で答えていた。
「いつもは村人が集まっているから少し違うわ。今あたしたちがいるところは村の人たちがびっしり埋めているの」
「だったら少しは緊張感があるかな。音楽でも流せばもっと盛り上がるだろうけど」
確かにシュウの言うことももっともな気がした。神官や巫女たちだけではあまりにひっそりとしすぎていて、まるで儀式の練習をしているみたい。今はこんな時期だから盛大な儀式はできないけど、これほどまでに簡素な儀式で運命の巫女にならなければいけないノエが少し気の毒に思えた。
祭壇に向かって右側、あたしと命の巫女は並んでノエの儀式を見守る。儀式までの時間が少なかった割にはノエの所作は堂々としていて、不安なところはまったくなかった。最後に若葉を編み込んだ冠を授かる頃には笑顔も見えて、あたしはどうして守護の巫女がノエを推したのかが少しだけ判る気がしたの。彼女は困難や逆境に驚くほど強いんだ。きっと運命の巫女の重責も彼女なら乗り越えてくれるだろう。
ノエの若さに不安を抱いていた人がぜんぜんいないとは思わない。でも、今のノエを見てみんな納得しただろう。儀式が終わってからのあたしたちの賛辞は心からのものだった。すべての人が笑顔で彼女に声をかけた。「おめでとう、運命の巫女」と。
420
儀式が終わると本当なら村人たちに祝い料理が振舞われて、村をあげての盛大なパーティが始まるのだけど、今回それらはすべてなくなっていた。でも昼食の炊き出しにはそれを匂わせる材料をいくつか使っていて、守護の巫女の心遣いを感じさせる。影の襲撃からまだ2日も経っていないんだもん。あれだけ多くの人が死んだ直後に、すぐそれと判るような祝い料理を出すことなんかできないんだ。
「 ―― 途中、聖櫃の巫女の口上で不思議な言葉があっただろう? あれはどういう意味だったんだ?」
シュウは昼食をあたしの宿舎でとっていて、その間中ノエの儀式についてずっとあたしに質問していたの。あたしも食事中だから逃げることなんかできなくて、苦笑いを浮かべながら答えを返していた。
「神様の言葉と言われているわ。正確な意味はあたしにも判らないけど、新しい運命の巫女が選ばれたことを神様に報告しているの。その言葉を神様が聞き届けて、新しい運命の巫女を認めなければ、神殿で所作を行っても運命は見えない。神様にノエを運命の巫女と認めてもらうために必要なの」
「守護の巫女が決めれば誰でも未来を見られる訳じゃないのか。だからたとえ簡素なものでも儀式が必要なんだな」
「ええ、そう。神様が認める運命の巫女は常に1人だけなの。だからあの言葉で先代の任を解いて、同時にノエが襲名する。この村の巫女はそうやって世代をつないでいくのよ」
そのとき、今までほとんど黙ったままだった命の巫女が口を挟んだ。
「あたしは? 儀式を受けてないけど力を使えるわ。どうして?」
「おまえの場合はあれだよ。常識外、ってこと」
「なによそれ! シュウ、あたしにケンカ売ってる?」
「命の巫女は生まれたときから神様に認められているのよ。だから改めて認めてもらう必要がないの。それは祈りの巫女も同じだから、シュウの言葉を借りればあたしも常識外ってことね。だからその任を解かれることもないわ」
あわてて険悪になりかけた2人の間に割って入る。今までの経験から2人の言い合いは仲がいい証拠なんだってことは判ってるの。でも、あたしの周りでそんな愛情表現をする人たちってぜんぜんいなかったから、いつまで経ってもあたしは慣れることができないでいた。
扉へ 前へ 次へ