真・祈りの巫女
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「神託の巫女、それはどういうこと? 彼女が探求の巫女じゃないって……」
「ちょっと待って!」
神託の巫女は守護の巫女の言葉をさえぎると、再び驚く探求の巫女の手を握り締めた。それからの神託の巫女の緊張感はシュウのときとは格段に違っていた。もちろん見守るあたしたちも緊張でいっぱいだったの。そんな空気を感じたんだろう、探求の巫女の表情も硬くこわばっていた。
探求の巫女の手を握っている間、神託の巫女は何度も表情を変えた。それも今まであたしが見てきた神託とはずいぶん違っていた。やがて神託の巫女が目を開けると、守護の巫女はとうとう席を立って2人に近づいていったんだ。
「教えて神託の巫女。探求の巫女じゃないならいったい彼女はなんなの?」
神託の巫女は振り返って守護の巫女を一瞥しただけで、その問いには答えずに探求の巫女を見つめる。その目はさっきよりもずっと穏やかだったから、探求の巫女も少しだけ表情を緩めていた。
「……あなたは、自分の名前を知っているの? 知っているのならどうして最初にそう名乗ってくれなかったの? ……今、あなたには判っているはずよ。だってあなたは私と同じ力を持ってる」
神託の巫女の言葉に、周りで見守るみんなが息を呑んだ。なぜなら、ここにいるみんなは知ってるから。神託の巫女と同じ力を持っている巫女って ――
「その名前がこの村でどれだけ大切なものか、それが判らなかったの? だからあなたは偽りの名前を名乗ったの?」
「偽りなんかじゃないわ。だってあたしはずっと探求の巫女って呼ばれてたもん。おまえは道を求める探求の巫女なんだ、って」
「そう、ではその名前も本当の名前なのね。……安心して。あなたが辿ってきた道は間違っていないわ。ここがあなたの求めてきた場所。だから本当の名前を名乗って」
「 ―― 道を求め、やがて辿り着いたとき、探求の巫女は命の巫女になる ―― 」
そう答えたのは、探求の巫女ではなくてシュウだった。
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命の巫女、それは4人の巫女たちのすべての力を合わせ持って、更に多くの力を持った巫女。その力はあまりに大きすぎるから、この村でもめったに生まれてはこないんだ。彼女が生まれてきたのは大きな災いが村を襲ったときだけで、歴史上にもたったの3人しかいなかった。その命の巫女が探求の巫女その人だったなんて。
それからのみんなのはしゃぎようったらなかった。みんな興奮して口々に何かを言い合っていて、守護の巫女でさえ声が上ずっていたの。すぐに我に返ってみんなをなだめたけど、それでも浮ついた雰囲気はぜんぜん去らなかった。あまりの扱いの違いに命の巫女自身が呆然としてしまったくらい。みんなが興奮していたから、リョウが独り静かに席に座っていたことには、おそらく誰も気づいていなかっただろう。
みんなはもうすぐにでも災厄を退けられるような気分でいたみたいだけど、守護の巫女は命の巫女をどう扱ったらいいのか判らなくなってたようだった。どうにか騒ぎを鎮めたあと、改めて命の巫女を歓迎する言葉を述べてから、議題を変えてしまったの。運命の巫女は、影が今日も襲ってくる予言をしている。時刻は日没よりも少し前で、あたしはその時間また村で祈りを捧げることになってるんだ。
「 ―― 狩人たちの配置についてはリョウに一任するわ。かがり火などの準備は昨日と同じでいいかしら」
「ああ、大丈夫だ。今回は獣鬼の死骸が柵の役目をするだろうから、前回と同じようなタイプの獣鬼なら十分撃退できるだろう。狩人も昨日の戦いでずいぶん慣れたはずだ」
「それは頼もしいわね。……祈りの巫女、あなたも昨日と同じように祈りを捧げて。影の攻撃にはくれぐれも注意するのよ」
「ええ、判ったわ」
探求の巫女が命の巫女だってことが判ってからも、守護の巫女は会議を淡々と進めていって、彼女の存在を頭数には入れていないみたいだった。みんなも不自然さを感じていたようだったけど、不思議に思いながらも会議の進行を妨げることはしなかったんだ。昨日の報告から始まって、村人の避難や、物資について、そのほかさまざまなことが守護の巫女によって指示されていく。最初に守護の巫女が言ったとおり今日の議題は多くて、すべてをこなさないうちにお昼になってしまったから、そこで守護の巫女はいったん休憩を言い渡したの。
会議が中断すると、あっという間に命の巫女とシュウはみんなに囲まれてしまった。守護の巫女は命の巫女を昼食に誘ったみたい。あたしも誘われそうな予感がしたから、席を立ったリョウに近づいて、そそくさと長老宿舎をあとにしていた。
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リョウを伴って、あたしは自分の宿舎へと帰ってきていた。宿舎では相変わらずカーヤが忙しく立ち働いていたんだけど、あたしが命の巫女とシュウを連れてないのを見て、明らかにほっとしたような表情で迎えてくれたの。昼食の支度はまだだったから、あたしとリョウは食事ができるのを待ちながらテーブルに座っていた。リョウはカーヤに挨拶したあとはずっと無言で少し機嫌が悪いようにも見えた。
やがて昼食が出来上がると、カーヤは気を利かせてくれたのか、オミの部屋へ食事を届けに行ってしまったの。あたしはリョウの横顔を見つめていて、なかなか食事が進まなかった。
「リョウ、何か考えてるの?」
「……いや、別になにも考えてない」
リョウは言葉では否定したけど、あたしには判った。リョウが今、命の巫女のことを考えてる、って。
―― 命の巫女と最初に出会った神殿で、シュウがあたしの顔を見てその名前をつぶやいた瞬間に気づいた。同じ場所で目を覚ましたリョウがあの時呼んだのは、あたしの名前じゃなかったんだ、ってこと。
命の巫女はリョウに惹かれている。リョウ、あなたも、命の巫女に惹かれているの……?
「それにしても驚いたわね。探求の巫女が命の巫女だったなんて。……そうか、リョウは命の巫女のことを知らないのよね」
「……」
「命の巫女はね、名前のついた巫女たちの、守護の巫女を除いた4人の巫女の力をすべて持っているの。そのほかにも時間や空間、人の心なんかを操る力も持ってる。だから本当に正しい心を持っていないとその力は扱えないの。命の巫女は、この世の中で1番純粋な心を持った女性なのね」
大きな力を授かった命の巫女は、それだけ大きな責任をも課せられている。……あたしは違った。既に禁忌を犯してしまったあたしは、命の巫女のような純粋な存在ではありえない。
「……あんなにあたしにそっくりなのに、あたしとはぜんぜん違う」
そのときリョウは、初めてあたしを振り返った。
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リョウは、何を考えているか判らない表情をして、まるで探るようにあたしを見つめた。いったいあたしに何を見ようとしてるんだろう。今のあたしには怯えがある。リョウに怯えてるんじゃない。リョウを含めた周りの人すべてに、あたしは怯えている。
リョウは、命の巫女のことを「覚えがない」って言っていた。 ―― あたしが守らなきゃならないのは、リョウの「嘘」だ。
それを守りきれなくなったとき、あたしはリョウを失う。
「あいつら、本当におまえが呼んだのか?」
リョウに訊かれて、あたしはそれまでの間に考え付いたことを話し始めた。
「あたしは命の巫女やシュウを呼ぶための祈りをした覚えはないわ。でも、ずっと村のことを祈り続けていた。神様はね。そういう漠然とした祈りに対しては、それを達成するための手段を勝手に選んでしまうの。だから、もしも命の巫女を呼び寄せることが村を救うために最適だって神様が判断したのだとしたら、あたしが呼んだと言い換えても間違いじゃないかもしれない。シュウが言ってた「不思議な出来事を起こした力の1つ」っていうのは、あたしの祈りを実現しようとした神様の力なのかもしれないわ」
リョウの顔が、ほんの一瞬苦痛に歪められた。もしもまばたきをしてたとしたら気づかなかったくらい、ほんの一瞬。
「そうか。 ―― だとしても俺には関係ないな」
―― また、嘘。
「あいつらがどんな力を持ってるかは知らないが、判らないものをあてにしてもしょうがない。俺たちは昨日と同じ作戦でいく」
「うん、判った」
リョウがどうして命の巫女との関係を隠すのか、あたしにその理由は判らない。だけどそれをリョウに直接訊くことなんかできなかった。ほんとはすごく訊きたかったよ。だって、あたしはリョウのことなら何でも知りたいと思ってるから。
嘘をつくことがリョウの行動に歯止めをかけていることが、あたしには判っていたの。最初にあたしに言った「覚えがない」という言葉にリョウは縛られてる。この嘘を守ろうとしている間だけ、リョウはあたしのリョウでいてくれる。
あたしは、あたしの周りにいるすべての人たちから、リョウの嘘を守り通さなければならないんだ。
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守護の巫女が会議に休憩を入れたのは、もしかしたら命の巫女と直接話してみたかったからなのかもしれない。食後リョウと一緒に長老宿舎へ行くとすぐに会議が再開されて、その席で守護の巫女から、命の巫女が今日の影の襲来のときに村へ降りることが告げられたの。
「 ―― これは命の巫女とシュウ、2人の希望でもあるの。村では祈りの巫女と行動を共にすることになるわ。祈りの巫女、リョウ、タキ、2人をお願いね」
「ええ、判ったわ」
あたしは笑顔で了承したけど、心の内は複雑だった。あたしはできるだけ命の巫女をリョウに近づけたくはなかったから。
午後の会議はさほど長い時間ではなくて、最後に守護の巫女が全員の役割を確認して無事に終了した。ほかのみんなは自分の役割を果たすためにそそくさと宿舎を出て行ったから、あたしとタキが命の巫女に近づく頃にはほとんどあたしたちだけになっていたの。
「2人ともお疲れさま。……シュウ、眠そうね。居眠りしなかった?」
「なんとか踏み止まったよ。でも限界。タキ、頼むから宿舎の空きベッド手配してくれよ」
「なんだよ、たった1回徹夜したくらいでだらしないなあ。オレより5歳も若いくせに」
そういえば、シュウが徹夜したってことは、タキだって徹夜してるはずなんだ。シュウとタキはすっかり打ち解けてしまっていて、笑い合いながら宿舎を出ていく。あたしたちもあとについて外に出たんだけど、その直後にリョウが声をかけてきたんだ。
「俺はいったん家に戻る。おまえはどうするんだ?」
「そうね、あたしも宿舎に戻るわ。でも準備があるから少し休んだらすぐに村へ行かなくちゃ。リョウもでしょう?」
「ああ。……だったら宿舎に迎えに行く」
そう言って、リョウは命の巫女の視線を無視するように森の家への坂道を降りていった。あたしはいくぶんほっとしながらリョウのうしろ姿を見送って、命の巫女を振り返ってにっこり笑いかけたあと、前を歩くタキとシュウに声をかけたの。
「ねえ、2人とも。あたしとリョウはすぐに村へ降りなきゃならないの。だからシュウのお昼寝には付き合えないわ。タキ、悪いけどシュウのお昼寝が終わったら、命の巫女とシュウを村へ案内してくれる?」
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タキはちょっとだけ考えて、すぐに答えてくれた。
「残念だけど、オレは祈りの巫女付きの神官だからね。君が村へ降りている間はやっぱり傍にいないとまずいよ。……守護の巫女も、探求の巫女が命の巫女だって判った時点で担当の神官を付けてくれればよかったのに」
「命の巫女の神官はシュウよ。その役目は左の騎士以外には考えられないでしょう? 守護の巫女もそう思ってるのよ。だから、シュウが村に慣れるまでの間はタキに代わりをお願いしたいの」
「……判った。それじゃ、影が現われる頃になったら2人を神殿まで迎えに来るよ。それまでは祈りの巫女と一緒に村にいる」
タキにしてみればそれでもずいぶん譲歩してくれてたみたい。でも、その間独りで宿舎に残されちゃう命の巫女は不安そうな顔をしていたの。せめてカーヤがもうちょっと2人に打ち解けてくれてたらよかったんだけど。そんなことを考えて、不意にあたしは思いついたんだ。
「そうだ! シュウ、あなた国に弟はいる?」
「……いや。オレは1人っ子だよ」
「この村にはシュウの弟がいるの。怪我をして動けないでいるから、お昼寝の前にぜひ会ってあげて。シュウはライの本当のお兄さんと同じだもの。ライだってきっと元気付けられるわ」
シュウはちょっと驚いた風で、神官宿舎へ向かいながらも「新しい発見だ……」とかぶつぶつ呟いてたんだけど、命の巫女が視線を向けるとちょっと照れたように微笑んだの。この2人、いつの間にかすっかり仲直りしてしまったみたい。それとも一時的に休戦してるのかな。本当のところは判らなかったけど、それはあたし自身にとっても歓迎できることだったから、あたしは蒸し返すようなことはしなかった。
ライと会うのが、あたしは少し怖かった。だから今までずっと忙しさを理由に遠ざかってたんだけど、この2人と一緒なら会えるような気がしたの。だから本当は、シュウとライを会わせたかったっていうよりも、あたしの方がライと会う理由が欲しかったんだ。
運良くローグは宿舎にいて、あたしたちにライの状態を説明してくれた。怪我の方はだいぶよくなってはいるけど、足を固定してるからまだ抱き上げたりはしないで欲しいって話だった。そのローグに付き添われて、あたしたちはライの病室に入った。
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ドアを開けると、まずはローグがベッドに近づいていった。あたしはそのすぐうしろからついていって、だからローグを見つけたときのライの表情から見ることができたの。ライはローグになついているみたいで、ニコニコ笑いながら両手を動かしている。あれほど痛々しかった包帯もほとんど取れていて、あたしは少しだけ気分が明るくなっていた。
「こんにちわ、ライ。今日は機嫌がよさそうだね」
「こんにちわ」
あたしが声をかけると、今度はあたしを見て笑ってくれたの。でも、怪我をする前と比べるとずいぶん表情が違うのに気づいたんだ。ライの笑顔はどことなくうつろで、ローグが以前言っていた「自分の力ではどうにもならないことを知ってしまった」と言う意味が少しだけ判った気がしたの。
「ライ、あたしのことを覚えてる? ユーナだよ。今までお見舞いに来られなくてごめんね」
そう言って手を伸ばすと、ライはあたしの指を握ってくれた。……なんだか今まで怖がってた分拍子抜けしたくらい。いったいあたし、何を怖がってたんだろう。ライはまだこんなに小さくて、今はあたしの祈りよりもこうして触れ合うことの方がずっと大切だったのに。
いつの間にか隣にいたローグがうしろに下がっていて、さっきまでローグがいた場所にはシュウが立っていた。
「ライ、初めまして」
静かに声をかけたシュウを、ライは振り仰いだ。ちょっと不思議そうにシュウを見つめてる。
「祈りの巫女が言うにはね、オレはライのお兄さんなんだって。オレもまだぜんぜん実感が湧かないんだけど、ライと出会えてすごく嬉しいよ。これからはオレとも仲良くしてくれるかな」
シュウの伸ばした手に、ライはニコニコしながら両手を差し伸べた。ライにはきっとシュウの言葉の意味は判ってなかったけど、シュウの声に含まれる優しさに反応したんだ。もしも本当のシュウが生きていたら、両親を失ったライはどれほど心強かっただろう。
「やっぱりどことなくシュウに似てるね。……この子、連れて帰れないかな。あたしたちの世界なら傷も治してあげられるかもしれない」
うしろから覗き込んでそう言った命の巫女の言葉には、誰も答えることができなかった。
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小さなライの姿はやっぱり痛々しくて、あたしたちはそれほど長い時間触れていることはできなかった。ライがニコニコ笑ってることで余計に胸をえぐられる気がするの。病室を出てからのみんなは無言で、シュウを部屋に案内する間必要な会話以外ほとんど交わさなかった。
そこであたしと命の巫女はいったんシュウとタキに別れを告げて、祈りの巫女宿舎に戻ってきていた。その道のりを歩きながら、あたしはようやく本題に入ったの。
「実はね、あたしにも弟がいるのよ。ほら、カーヤが奥の部屋に食事を持っていってたでしょう?」
「あたしにもいるわ、弟! 3歳違いでマサオミっていうの」
「マサオミ? あたしの弟はオミよ。やっぱり3歳違いだし、あたしたちみたいに似てるのかしら」
「シュウがね、この村はあたしたちの世界とはパラレルの関係だから、ほかにもそっくりな人がいるはずだって言ってたの。きっとオミはうちのマサと似てるわね。会わせてもらえるの?」
命の巫女はあたしの思惑には気づいてたみたいで、ことさらはしゃいでくれる。本当だったらあのライを見たあとだもん、ためらう気持ちがあって当然なんだ。オミは今怪我をして寝たきりになっている。もちろん命の巫女はそのことには気がついているはずだし、そんなオミに会いたいと言ってくれるのは、あたしが安心して村へ降りられるように考えてくれてるからなんだ。
宿舎の扉をノックして開けると、カーヤがちょうど洗濯に出かけるところだった。テーブルの上には見慣れないものがいくつか置いてある。あたしにはそれが、命の巫女のポケットから出てきたものなんだってことがすぐに判ったの。
「お帰りなさいユーナ。……探求の巫女、訊いてからにしようかとも思ったんだけど、このままって訳にもいかないから、あなたの服も一緒にお洗濯させてもらうことにしたの。ずいぶん汚れているようだし。かまわないかしら」
「ええ、ありがとう。……本当にごめんなさい」
「カーヤ、言い忘れてたわ。さっきの会議で探求の巫女が命の巫女だってことが判ったの。それと、誕生の予言を受けてくれたから、命の巫女とシュウはもうこの村の一員になったのよ」
カーヤはずいぶん驚いたようだったけど、このことで少しだけ2人の距離が近づいたようにあたしには思えたんだ。
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カーヤが洗濯に出かけてしまうと、命の巫女はテーブルにあった自分の持ち物を今着ている服のポケットに移した。手のひらに乗るほどの大きさの金属でできたものと、細長い形をした何か。それと、布でできた入れ物のようなものだった。
「それは何?」
「ケータイデンワとボールペンとオサイフ。でもこの村で使えそうなものはないわね。しいて言えばボールペンくらいかな」
「ボールペン? それは何をするものなの?」
「文字を書くの。……この紙でよければ書いて見せるけど」
命の巫女が指差したのは、あたしが昨日ポケットに入れて、そのまま忘れていた怪我人のリストだった。カーヤが出しててくれなかったら持っていくのを忘れるところだったよ。あたしがその紙を広げると、命の巫女はまじまじとその紙を見つめたの。
「……不思議な文字。話し言葉はあたしたちとほとんど同じなのに文字は違うんだ。これには何が書いてあるの?」
「人の名前よ。あたしが祈るときに必要なの。この紙でかまわないわ。書いて見せて」
「それじゃ、これがあたしの名前」
そう言って命の巫女が書いた文字は、あたしたちが使っている文字よりも少し複雑な形をしていたの。……この文字、見覚えがある気がする。そう、今から1400年以上前に使われていた古代文字に似てるんだ。
「筆よりも細い線が書けるでしょう? それに、墨を持ち歩かなくていいから便利なの」
「もっと書いて見せて。シュウの名前はどう書くの?」
「シュウの名前は……」
そう言いながら命の巫女が書いてくれた文字を見て、あたしは確信した。その中にはあたしが覚えている文字があったから。
「命の巫女、これ、『風』じゃない? それとこれが数字の『1』」
「……まさか、読めるの?」
「ついこの間書庫で見たばかりだから。でも今この文字を使ってる人たちはいないはずなの。1500年も昔の文字なのよ」
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それまで、あたしはなんとなく2人が未来から来たような気がしていたの。2人が住む国の文明はすごく進んでいて、だからたぶん命の巫女もそう思ってたんだと思う。でも、2人が使っている文字は過去の文字なんだ。あたしはこの新しい事実に、また混乱し始めていたの。
「……んもう、肝心なときに役に立たないんだから」
しばらくの沈黙のあと命の巫女がそうつぶやいた。あたしが顔を上げると、命の巫女は気づいて笑いかけてくれる。
「あたし、難しいことはよく判らないから。こういうことはぜんぶシュウに任せてるんだ。ねえ、祈りの巫女、もしよかったら明日にでもその書庫を見せてもらえないかな」
「ええ、いいわ。命の巫女はもう村人と同じだもの。巫女や神官が書庫に入るのに遠慮はいらないわよ」
「ありがとう。……だったらこのことはそれまで保留ね。よかったら弟さんに会わせて」
命の巫女はもう文字のことは忘れることに決めたみたいで、さっぱりした笑顔であたしに言った。命の巫女って、あんまり細かいことにこだわらない人みたい。それとも、今まで旅をしてくる間にいろいろなことがありすぎたから、そうならなければやってられなかったのかな。その開き直りはうらやましくも思ったけど、その分シュウが大変な思いをしてきたかもしれないって思って、ちょっとだけシュウに同情したんだ。
そろそろリョウが来るはずだし、あまり時間もなかったから、あたしはすぐに命の巫女を連れてオミの部屋へ行った。いきなり入って驚かせてもいけないから、まずはあたしが部屋をノックして開ける。オミはあたしの顔を見ると大げさにがっかりしたような顔をしたの。
「……なんだ、カーヤじゃないのか」
「あたしで悪かったわね。オミ、突然だけど昨日ついた探求の巫女の話は聞いてる?」
「カーヤに聞いてるよ。不気味なくらいユーナにそっくりな女の人と、変な男の人が来たって。それがどうしたの?」
「あんまりめったなことは言わない方がいいわよ。……命の巫女、入ってきて」
そうあたしが声をかけると、会話を聞いてたらしい命の巫女は照れ笑いを浮かべながら顔を出した。途端にオミの顔がこわばる。
「オミ、あなた退屈してるでしょう? しばらくの間命の巫女の話し相手になってあげて。かまわないわよね?」
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