真・祈りの巫女
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あたしが自分の考えに具体的な結論を出せずにいるうちに、獣鬼の死骸がある南の草原まで辿り着いてしまっていた。そこにはタキがいて、あと何人かの狩人が既に集まってきていたんだ。
「やあ、お帰りリョウ、祈りの巫女」
「待たせたようだな」
「少しね。まだ5人しか集まってないけど、順次くるはずだよ。彼らにはある程度説明はしといた。全員集まってからにするの?」
「いや。時間がもったいないからすぐに始める。タキ、おまえはこいつを宿舎まで送っていってくれないか?」
リョウに「こいつ」と指差されたあたしは抗議の声を上げかけたけど、タキに先を越されてしまっていた。
「そうだね。もう暗くなるし、その方がいい。……さ、祈りの巫女、帰ろう」
「え? だって……リョウ!」
「明日な。 ―― それじゃ、みんな集まってくれ。まず全員名前を聞かせてくれないか ―― 」
リョウは憎たらしいくらいそっけなくて、あたしはリョウが狩人のみんなを集めているのを、取り残されたような気持ちで見ていたの。だって、今日はほんとにいろいろあって、それなのに幕切れがたった一言なんてあんまりだよ!
あたし、それでも少しは期待してリョウの背中を見つめてたんだけど、それきりリョウは振り返る気配がなかったから、タキに促されて仕方なく歩き始めたの。タキはそんなあたしの気持ちを察したみたい。しばらくは何も言わなかったんだけど、やがて草原が見えなくなった頃、少し気を使いながら声をかけてくれた。
「リョウはずいぶん必死だね。今は影を倒すことしか頭にないみたいだ」
……あたしだって、ぜんぜん判ってない訳じゃないの。今のリョウには影を倒すことしか頭になくて、ほんのちょっとあたしに気を使うことすらできないんだってこと。
「実際、オレは不思議で仕方がないよ。リョウにはこの村で生まれ育った記憶なんて一切ないんだ。それなのにどうしてあんなに必死になれるんだか。……この村で、ものすごく大切なものでも見つけたのかもしれないよ。 ―― ね、祈りの巫女」
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あたしを宿舎に送り届けたあと、タキは再び草原に戻ったようだった。
リョウに追い返されたことがちょっと悔しくて、あたしはひとしきりカーヤに愚痴をしゃべったあと、食卓のテーブルに肘をついて膨れていたの。カーヤは夕食を作りながら、そんなあたしを笑った。
「 ―― ユーナにはそれ以上できることはなかったんでしょう? だったらリョウが遅くなる前にユーナを帰らせようって思ったとしても当たり前だと思うわよ。そんなに機嫌を悪くすることないのに」
「でも、それならあたしに一言言ってくれればいいじゃない。そうしてくれたらちゃんとリョウにお別れも言えたよ」
「ユーナったら、ずいぶんリョウに厳しいわね。さては、リョウといいことでもあったの?」
カーヤに核心を突かれて、あたしは自分の顔が熱くなるのを感じた。カーヤ、鋭すぎるよ。それともあたしが態度に出しすぎてるの?
「キス……してくれたの。それと、あたしと一緒に村を守るって、俺を頼っていいって。そう言ってくれた」
「どうしてそれを先に言わないのよ。……でも、よかったわね。たとえ記憶がなくても、リョウはちゃんとユーナを覚えているのね」
あたしはカーヤに向かって微笑んだけど、言葉ではカーヤに肯定することはできなかった。
どうしてなのかな。なんとなく、違和感がある。リョウの態度があたしを不安にさせる。自分が本当にリョウに愛されてるのか判らなくなるの。一緒にいたあのときまでは、そんなこと思わなかったのに。
タキは、リョウが村のために一生懸命になるのは、村に大切なものを見つけたからだって、そう言った。きっと、リョウがあたしを大切に思ってるって、そう言おうとしたんだと思う。でも、それはたぶん違うよ。今のリョウが大切にしているのはあたしじゃない。
あたしが黙り込んでしまったから、カーヤは料理に最後の仕上げをして、テーブルに並べてくれた。
「ほら、ユーナ。あんまり考え込んでちゃダメよ。おなかが空いてると考えがどうしても暗い方へ行っちゃうんだから。同じ考えるんだったら、おなかがいっぱいになってからの方がいいわ」
カーヤはその哲学を、今までも何度か披露してくれていた。そして、あたしはカーヤの料理にその哲学を裏切られたことなんてないんだ。
「リョウは、明日会おう、って言ったんでしょう? それって、明日もユーナのことが必要だって、そういう意味だと思わない?」
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その草原は薄暗くて、おそらく周りにはたくさんの人たちがいるはずなのに、気配だけで姿を見ることはできなかった。
あたしの目の前にはリョウが立っている。自信に満ちた表情をしているのに、あたしは不安になるの。だって、ブルドーザは恐ろしい獣鬼だから。リョウはそのブルドーザを倒すために今ここにいるから。
「来たな」
短く言って、リョウが草原を駆けていく。その向こうにはブルドーザがいる。大きく咆哮を上げて、すさまじい勢いでこっちに向かって走ってくるはずなのに、あたしには止まっているようにしか見えない。急にあたしは恐ろしくなる。だって、あの獣鬼に殺されたのは、今走っていったリョウなの。リョウはあの獣鬼に殺されて、バラバラになっちゃう。リョウだと判らないくらいに潰されてしまう。
「リョウ、お願い戻って!」
「大丈夫だ! 俺は死なない!」
ううん、リョウは死んじゃうの! あのリョウは自分が死んじゃうことを知らない。でもあたしは知ってるの。だから戻って欲しいの。だって、リョウは死んじゃうんだもん。あたし、リョウが死んじゃうことを知ってるんだもん!
祈らなきゃ。祈りでブルドーザの足を止めなきゃ。でも、神殿でもあたしの祈りは通じなかった。それに、止まっているように見えるブルドーザを、どうしたら止めることができるの? どうしよう、あたし、リョウを助けるために何もできないよ。
焦りだけが心の中を支配する。それ以上、あたしはその光景を見ていることはできなかった ――
気がついたとき、あたしはベッドの中にいる自分を見つけた。一瞬何が現実なのか判らなくなる。リョウは獣鬼に勝つことができたの? ……ううん、リョウはまだ獣鬼と戦ってない。あたしは夢を見ていたんだ。
夢の詳細を思い出して、あたしはぞくっとしたの。もしも、もしもあたしの祈りが通じなくて、獣鬼の足を止めることができなかったら、あたしを信じて任せてくれたリョウはどうなるの? 獣鬼の動きが止まって、リョウが近づいた瞬間、再び獣鬼が動き出したとしたら。
あたしはまたリョウを死なせてしまうかもしれない。判っていたはずなのに、その不安が急に現実味を帯びて、あたしの身体を震わせていった。
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窓の外には強い雨が降っていた。いつもの夜明けよりも薄暗いのはそのせいね。身づくろいを終えて部屋を出ると、カーヤが顔を洗っているのが見えた。
「おはよう、カーヤ」
「おはよう。今日はずいぶん早いのね。まだ眠ってても大丈夫よ」
「うん、でも起きちゃったから。……今日は1日雨なのかな」
カーヤと入れ違いに、あたしも顔を洗う。雨の日は外に出るのがついおっくうになっちゃうから、あんまり好きじゃないんだ。そういえば遠くで雷が鳴ってる音がかすかに聞こえる。
「さっきまですごい雷だったのよね。あたし、それで起きちゃったの。ユーナも?」
「ううん、雷は気がつかなかったわ。……そうか。それであんな夢を見たんだ」
あたしが夢の中で聞いた獣鬼の咆哮は、きっと雷の音と雨が屋根を叩く音が混じりあったものだったんだ。 ―― 嫌な夢。怖い、よりも、すごく嫌な夢。
「夢? 何か怖い夢でも見たの?」
「……ううん、なんでもない」
ごまかすように、あたしは窓の傍まで歩いていって、少しだけ隙間をあけてみた。雨足はずいぶん強くて、でも風があるからもしかしたらそれほど長い時間は降らないかもしれない。今日もきっといろいろあるから、雨がやんでくれるとすごく助かるもん。
「すぐに通り過ぎてくれるかな。……いっそ雨なんか降らなければいいのに」
「このところ降ってなかったものね。雨は神殿では嫌われてるけど、あたしは嫌いじゃないわ。なぜなら、雨が降ると畑に水をやらなくてすむから。巫女になる前は雨の日くらい嬉しいものはなかったのよ。……でも、道がぬかるんで坂道が滑るから、今日はユーナもリョウの家には出かけない方がいいわね」
確かに村の畑には恵みの雨なのかもしれない。でもカーヤにそう言われて、あたしは余計に雨が嫌いになった気がした。
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雨が降ると、神殿ではほとんど動きがなくなる。今は非常時だから多くの神官や巫女は神殿に常駐しているけど、普段のときだったら朝雨が降ってると誰も山を登ってこないの。よほど緊急の用事がない限り、宿舎を出る人はいなくなる。雨が嫌いだってこともあるけど、道かぬかるんだり崖が崩れたりして危険だっていう理由の方が大きかった。
今日の雨は午前中で止みそうだったから、あたしも用事はぜんぶ午後に回して、ずっと宿舎の中ですごしていたの。カーヤの仕事を手伝ったり、オミの食事の世話をしたり、部屋で日記を読み返して細かいことを付け加えたりしていた。そうして、ようやく空が明るくなってきた頃、ノックの音がしてタキが姿を見せたんだ。
「どうしたの? タキ。雨が止んだの?」
「いや、まだ少し降ってるよ。……祈りの巫女、雨の中ほんとに悪いんだけど、ちょっと守りの長老宿舎まで来てもらえないかな。どうも君抜きでどうこうできる事態じゃなくなってきそうなんだ」
「とにかく中に入って。身体を拭いた方がいいわ」
タキはカーヤが差し出した手拭いは断って、ここまでかぶってきた大き目の布で簡単に水滴を払ったあと、食卓の椅子に腰掛けた。
「どうかしたの? あたしのことでなにかあったの?」
「ちょっとね。とりあえず最初から話すよ。……昨日、リョウはずいぶん遅くまで狩人たちと話していたんだ。その場でもかなり活発な意見交換ができたみたいだよ。いつの間にか誰かが食料やお酒なんかを持ち込んで、最後はほとんど祭りのようになっちゃってね。けっきょくオレも最後まで付き合ってたんだ」
そう話し始めたタキは心なしか楽しそうで、あたしは羨ましくなっちゃったの。だって、あたしが宿舎に帰ったあと、そんな楽しいことがあったなんて。独りだけのけ者にされた気分だよ。
「それでまあ、ずいぶん遅くなっちゃったんだけど、昨日はリョウとランドはリョウの家へ帰ってね、オレは自分の宿舎に帰ったんだ。で、今朝早くリョウが突然オレの宿舎にやってきて、守りの長老に会いたいって言うから取り次いで。そのあと守護の巫女も交えて今もずっと話してるんだけど、平行線をたどっててね。守護の巫女に君を呼んでくるように頼まれたところなんだ」
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カーヤがいれてくれた熱いお茶を飲んで、タキは話に一区切りをつけた。
「それで? リョウは守護の巫女に何を話しているの? あたしが村に降りたいって言ったこと?」
「もちろんそれも含めた、明日の影の襲来に備えた狩人たちの配置なんかについてだよ。昨日リョウが独断で狩人たちに働きかけたことについては、守りの長老を通して守護の巫女には伝わってたみたいなんだけど、具体的に聞いて守護の巫女はずいぶん驚いててね。更に明日祈りの巫女が村で祈るなんて話をしたから、彼女自身どうしていいか判らなくなってるんだ。リョウを村の救世主にしたのは守護の巫女なんだけど、正直ここまでリョウが救世主としての行動をとるとは思ってなかったんだろう。とにかく、誰かに相談したくてしょうがないんだね。本当は名前を持った巫女を全員招集したいんだけど、運命の巫女からはセトを通じて休養願いが出てるし、雨も降ってるから、ひとまず当事者である祈りの巫女を呼んだ、って訳」
タキの話で、守護の巫女の戸惑いは手に取るように判った気がした。実際、あたしは昨日ずっとリョウと一緒に行動していたのに、それでもリョウの行動にはかなり戸惑ったもん。記憶喪失で、2日前まで怪我人だったリョウがいきなりこんなことを言い出したら、誰だって戸惑うと思う。しかも、リョウは影を完全に殺すことができるんだ。今まで誰にも判らなかった影のことが判ったってだけで、守護の巫女を戸惑わせるには十分だった。
あたしは、本当はすぐにでも長老宿舎に向かわなければいけないのだろうと思ったけど、1つだけ気になってタキに尋ねた。
「タキはどうなの? あたしが村へ降りて祈ることをどう思ってるの?」
あたしの質問をタキも予想していたみたいだった。
「昨日はね、話を聞いた直後でオレも反対するつもりでいたし、実際反対してた。でも、昨日から今日にかけてのリョウの情熱にオレも感化されたみたいでね。……今はもう反対するつもりはないよ。その代わり、オレはずっと傍にいて、危険だと思ったらすぐに祈りを中断してでも君を逃がすから」
「……それじゃ、あたしの味方になってくれるのね?」
「祈りの巫女が最大限の安全を確保できる、ってことが条件だけどね。それだけは誰がなんと言おうと曲げるつもりはないよ」
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あたしが長老宿舎へ着いたとき、リョウはテーブルの上に広げた紙に何かを書いていて、守りの長老と守護の巫女がリョウの手元を覗き込んでいるところだった。あたしはリョウの邪魔をしないように、最低限の動作だけで挨拶して、テーブルのいつもの席に腰掛ける。リョウも気づいたようだったけど、特に何の反応もしないまま、その作業を続けていた。
リョウは扱いづらそうに筆を握っていたけれど、描いている線は意外にきれいだった。普通、神殿以外の人は文字を読めなかったし、たとえば漆職人のような仕事ででもなければ筆の扱いを習う機会もほとんどない。だからリョウも筆を使ったことなんかないんだ。それなのに、こうして見ている間にもリョウはどんどん筆の扱いに慣れてきていたの。太い線と細い線の使い分けも自在にできるようになって、描いているものがだんだん形を成していった。
やがて、リョウが詰めていた息を吐いて筆を置いたとき、守護の巫女が話しかけた。
「それが祈り台の絵図面? どう見ればいいの?」
「こっちが下だ。この部分に板があって祈りの巫女が座る」
リョウが差し出した紙をあたしも覗き込んでみる。そこに書いてあったのは、長い4本の足がついた建物のようなものだった。4本の足は上の方にも伸びていて、屋根がついてるみたい。そして、あたしが座る場所だとリョウが言った板の周りには別の板が囲ってあって、たぶんろうそくが消えないような風除けになってるんだ。
「材料さえあれば俺でも作れるかもしれないけどな。立てる場所が不安定だから、できればちゃんとした技術のある奴に頼みたい。だがそれほどしっかり作る必要もないだろう。半日くらいで何とかなるか?」
「大きさにもよるわ。高さはどのくらいなの? 台の広さは?」
「台までの高さは俺の胸くらいでいい。広さはどのくらい必要だ?」
何の説明もないままいきなり振られて、あたしは戸惑ってしまっていた。
「ええっと、あたしが座るだけなら30コント四方もあれば十分だけど、ろうそくを置かなければならないから、最低80コント四方は欲しいわ。……それに、あたし1人じゃこんな高い台に上れないよ。梯子をつけてもらわなきゃ」
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「梯子はうしろ側につければいい。……80コントが判らない。どのくらいの長さだ?」
リョウに問われて、あたしはタキと顔を見合わせてしまった。なんとなく、リョウがこういう常識的なことは忘れていないような気がしていたの。考えてみれば、記憶喪失のリョウが長さの単位を忘れていてもおかしくはないんだけど。
タキは親指と人差し指をちょうど直角になるように開いてリョウに見せた。
「オレの親指の先から人差し指の先までが、だいたい10コントだ。80コントならこの8倍だな」
そう言って、タキはテーブルに指を這わせて、80コントを示して見せる。
「そうか。……俺が思ってたよりも広いな」
「ああ、それから、オレの身長が103コントだよ。守護の巫女は? 100コントくらい?」
「ええ、ちょうど100コントよ。立ってみた方が判りやすいわね?」
守護の巫女とタキが立ち上がったから、リョウもテーブルを回って2人の身長を自分と比べた。特に守護の巫女の身長を自分の感覚に刻み込んでいるみたい。それからあたしの方にも視線を向けてくる。
「おまえは? 90コントくらいか?」
「え? う、うん。ちょうど90コント」
「だいたい判った。ありがとう。……祈り台の広さは80コント四方で、高さも70から80くらいでいい。風除けの板の高さは30コントもあれば十分だろう。正面から見て反対側の風除けを30コントあけて、そこに梯子を取り付ける。屋根は雨よけだから形は任せる。……俺は文字が書けないから代わりに書いてくれないか?」
リョウに頼まれたタキが絵図面に数字を書き込んでいった。すべて書き終えたあと、再びテーブルに着いた守護の巫女にタキが訊ねたの。
「こんなに具体的に話が進んでるとは思わなかったよ。祈りの巫女が村に降りるのは既に決定したのか?」
「そういう訳ではないわ。でも、可能性としては悪くないと思い始めたの。……実際、リョウの言うことはもっともだわ。このさき影のなすがままになってても事態は変わらない。まずは影に一矢報いることが先決だと思うようになったのよ」
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リョウの情熱が、守護の巫女を動かしたの? 彼女はただ村を守るとしか言ってなかった。影を追い返すことしか考えていなかったのに。
リョウが変えているんだ。守護の巫女も、タキも、それからたぶん、守りの長老も。
「とにかく、話は全部聞くわ。この祈り台はどこへ置くことになるの? 祈りの巫女の安全は確保できるの?」
「昨日村を回ってだいたいの地形は頭に入った。俺が考えてるのは北西にある崖の上だ。あの場所なら西の森も見えるし、村の西半分は見渡せる。西の森から遠くないから、俺がこいつに獣鬼の名前を伝えてから現場に走ってもあまり時間がかからない。万が一こいつが祈りの途中で襲われても、背後の森に逃げればかなり時間が稼げるだろう。獣鬼が村にいるのはそれほど長時間じゃないらしいし、獣鬼ならあの崖を上って森の木をなぎ倒して追いかけるほどの力はないからな」
「もしも、今あなたが思っている獣鬼以外の影が現われたら?」
「そのときは最初に俺が警告してさっさと逃がす。……俺の婚約者だ。死なせはしねえよ」
リョウがそう言った次の瞬間、その場になんとも言いがたい空気が流れたの。でも、あたしはリョウがどんな顔をしているのか、見ることさえできなかった。だって、こんな公衆の面前で、いきなりそんなことを言われたら恥ずかしいよ。下を向いてるしかないじゃない!
ちょっと含み笑いを漏らすように言ったのは守護の巫女だった。
「……そうよね。祈りの巫女はあなたにとって、祈りの巫女である前にたった1人の婚約者なのよね。1番彼女を心配しているのがあなた自身なんだってことを忘れてたわ。……続けて。影が出てきたあとはどうするの?」
「獣鬼が何体出てくるのかは判らないが、まずは森の手前の穴で止まる。俺はそのすべてが出てくるまで待って、こいつに名前を伝える。森の中にも狩人を配置しておくが、おそらくそう簡単には殺せないはずだ。その場で動き回って撹乱してくる。その間に、穴を突破される」
「あの穴では獣鬼を完全に止めることはできないってこと? あの穴は無駄になるの?」
「いや、無駄じゃない。少なくとも俺があの森へ行くまでの時間は稼げる。その間にこいつの祈りが獣鬼の動きを止めれば、そのうちの何体かは狩人が殺せるはずだ。穴の手前の獣鬼をすべて殺したら、あとは穴を突破した獣鬼を祈りで止める。だから多少の被害は覚悟しておいてくれ。今の段階で完璧な作戦は立てられないんだ」
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リョウの話を聞いていると、あたしの役目がものすごく重要なんだってことが意識されて、しだいに不安が募っていった。同じことを守護の巫女も感じたみたいだった。
「もしも、万が一祈りの巫女の祈りが通じなかったらどうするの? あの穴が時間稼ぎにしかならないのだとしたら、今までと同じことが繰り返されるだけだわ」
「そうだな。あんたの言う通りだ。おそらく獣鬼の数は今までより増えてるだろうから、更に被害が広がるのは間違いない」
「打つ手がないってことね」
「ああ。ない」
リョウがそう断言したから、その場の空気が一気に重くなっていった。それでも、守護の巫女が黙り込んでいたのは、そう長い時間じゃなかった。
「今まで、祈りの巫女は目に見えた成果を出してはいないわ。でも、それは祈りの方法に問題があったのかもしれない。それに、守りの長老は言ったわ。祈りはけっして届いていない訳ではない、って。実際リョウを生き返らせる祈りは神様に届いて、こうして今私たちを助けてくれているんだもの。今回の祈りが届く確率はそれほど低くはないはずだわ」
「同じやり方をしていてもその後の展望はない。何でも試してみるしかないんだ。今回のやり方で祈りが通じないなら、また別のやり方を試せばいいだろう。そんなに悲観したものでもねえよ」
「……そうね、あなたの言う通りだわ」
「あんたが決断するんだ。祈りの巫女が村に降りれば影に殺される可能性はある。だがこのまま同じことを繰り返していれば、いずれは村が滅びる。早いか遅いかだけだ。そして、早く決断すればそれだけ多くの人間が助かる可能性もあるんだ」
まだ決断を迷っているらしい守護の巫女に、リョウは続けて言った。
「祈りの巫女は村のために俺をよみがえらせた。神だかなんだかは祈りの巫女の祈りをかなえて、俺をここへ呼んだ。俺は死んでいた間に多少の知識を得たが、今の俺にできるのはこれが精一杯だ。右の騎士は身体の騎士、頭を使うのは苦手だからな」
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