真・祈りの巫女



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 リョウ、あなたはあたしのリョウじゃないの? ……でも、リョウは両親と会って涙を流したんだって、ミイが言ってた。カーヤを見てどこかで会ったような気がするって言ったよ。それに、初めて神殿で目を開けたとき、はっきりあたしの名前を呼んだ。神託の巫女だってリョウが本人だと認めたじゃない。リョウが別人のはずないよ!
 あたしがリョウの言葉に衝撃を受けたのは、あたしの心のどこかにリョウを疑う気持ちがあったからなんだってことに気づいたの。この気持ちは、リョウに伝わってしまってるんだ。きっとリョウは信じるものがなくて不安で、まわりの人たちの気持ちにすごく敏感になってるはずだもん。だからこんな風にあたしを試すようなことを言うんだ。
 あたしがしっかりしなきゃいけないんだ。今のリョウはあたしの心を映す鏡のようなもの。あたしの不安を、リョウに映しちゃいけないんだ。
「リョウ、リョウは覚えていない? 初めて神殿でリョウを見つけたとき、リョウはあたしの顔を見て「ユーナ」って言ったのよ」
 リョウはちょっと目を丸くして、あたしが言ったその時のことを思い出そうとしているみたいだった。
「その時あたし、リョウの名前だけ必死に呼びかけてた。もちろんリョウに名乗ったりしなかった。今はあたしのことを思い出せないけど、そのときのリョウはちゃんとあたしのことを知ってたの。それに、神託の巫女はリョウの魂を見て、はっきり以前のリョウと同じだって認めたわ。だからリョウが別人のはずはないよ。あたしはリョウが以前のリョウと同じだって信じてるし、記憶がなくてもリョウのことは婚約者だって思ってる」
 あたしの話を聞いているときのリョウは、さっき一瞬目を見開いた以外、ほとんど表情を変えることはなかった。だからあたし、リョウがあたしの言葉にも心を動かされなかったことが判ったの。前にも……ううん、リョウはいつも、あたしの言葉には動かされない。そんなリョウを感じて、あたしはいつもリョウに認められてないことを感じて落ち込んだんだ。
 不意に、手に触れる感触があって、あたしはハッとした。いつの間にかリョウは右手を伸ばして、あたしの手首を掴んでいたの。しばらくじっとリョウはあたしを見つめていて、そのあと、口の中でぼそっと呟いた。
「……右の騎士……」


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「え……?」
 そう言ったまま、あたしは少しの間絶句してしまった。だって、リョウが右の騎士のことを知ってるはずない。本人には知られちゃいけないことだったから、もちろんあたしは以前にも何も言わなかったし、タキが話したとは考えられないもの。
「……どうして? どうしてリョウが右の騎士のことを知ってるの? いったい誰に聞いたの?」
 リョウの答えが予想できなくて、怖くて、あたしは心臓がドキドキしてるのを感じたの。もしかしたらリョウは別人なのかもしれない。そう思ったら怖くて、でも、リョウの答えはあたしの想像を遥かに超えていたんだ。
「……俺はそんなことは言ってない。今初めて聞いた言葉だ。おまえ、なにか聞き違いでもしたんじゃないのか?」
「え? だって、今リョウが言ったんだよ。右の騎士、って。……あたしの聞き違いならほんとはなんて言ったの?」
「もう覚えてない。たぶんたいしたことじゃなかったんだろ」
 リョウはそう言うと、この話は終わりだとばかりに立ち上がった。いつの間にかあたしの手を掴むのはやめていて、あたしもそれ以上は何も訊けなかったんだ。……今のリョウの言葉、本当に聞き違いだったの? あたしが神託の巫女の予言を思い出したから、似ている言葉を「右の騎士」だと思ってしまったの?
 確かにリョウははっきりした口調で言わなかったから、聞き違いをする可能性はあるけど ――
「もう十分休憩したな。そろそろ村を案内してくれないか? ……俺の記憶が戻るかもしれないんだろ?」
 あたしは混乱してたけど、リョウはもう歩き始めていたから、再びリョウについて川辺をあとにしたんだ。
 坂を降りていくと、しばらくして視界が開けて、遠くに村が見え始める。最初に目に飛び込んでくるのはマーサの家。あたしは何も考えずにそちらへ向かおうとしたのだけど、その時ずっと黙ったままだったリョウが口を開いた。
「草原ていうのはどこにあるんだ? 村にあるって言ってたよな」
「……草原?」
「ああ、俺が死んだ草原だ。……影の死骸があるって言ったな。俺は俺を殺した影とやらの死骸を見てみたい」


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 リョウの言葉を聞いて、あたしの足は震えていた。頭の中が真っ白になってしまった。気がつくと、あたしはその場に座り込んで、両手を胸の前で揉み絞っていたの。
「おい、急に……」
「……ダメ。草原だけはダメ……」
「どうした。……震えてるのか?」
 リョウは膝をついてあたしの顔を覗き込もうとしてたみたい。でもあたしは自分のことで精一杯で、リョウの動向にまで気を配る余裕はなかった。……リョウを草原に連れて行きたくない。リョウは草原で影に殺されたの。草原に残ってる影の死骸は、もしかしたらまだ生きてるのかもしれない。もし万が一、リョウが影に近づいた時に生き返ったら、リョウはまた影に殺されちゃうよ!
 だって、影はあたしの命を狙ってるかもしれないんだ。あたしが近づけば、影は目を覚ますかもしれない。でもリョウ1人だけなんてぜったいに行かせられない。リョウがどんなに行きたいと言ったって、あたしはもうリョウを失いたくないの。
「ダメよ、リョウ。……草原は今、立ち入り禁止になってるの。誰も近づけないわ……」
「どうしてだ? 影は死んで、危険はないんだろう?」
「影のことは誰にも判らないの。あたしたちには死んでるように見えても、もしかしたら眠ってるだけかもしれない。それに、影はあたしを殺すのが目的なの。あたしが近づいたらそれだけで生き返るかもしれないわ」
「それならそれでどうとでもなる。……おまえは近づかない方がよさそうだな。俺1人なら逃げられても、おまえがいると足手まといになる。ここで待ってろ」
 場所も判らないのに、リョウは森に沿って西へ歩き始めたの。それは紛れもなく影がいる草原の方角だった
「リョウ! どこへ行くの? 草原の場所が判るの?」
「狭い村だ。適当に歩いてもいつか辿り着く」
 リョウは本気だ。理屈もなにもなくそれが判った。あたし、震える足を何とか立たせて、リョウの背中を追いかけた。


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「リョウ! 待って!」
 しばらくの間、リョウはうしろも見ないで歩き続けていたのだけど、いつまで経ってもあたしの声が遠ざからないことに気がついたんだろう。ようやく立ち止まって、あたしが追いつくのを待ってくれた。
「はあ、やっと追いついた。……リョウ足速いよ」
「ついてくるなよ。影が怖いんだろ?」
「影よりもリョウがあたしの知らないところで死んじゃう方がよっぽど怖いよ」
 あたしはまだ膝がガクガクしてて、いつも以上に息も切れていたから、リョウも気を遣ってくれたみたい。あたしを木陰まで連れてきて少し休ませてくれたの。周囲を見回したけど、あいにく川はなくて、リョウも水は諦めて休んでいた。リョウはまだ疲れたようには見えなかったから、たぶんあたしに飲ませてくれるつもりだったんだ。
「影の死骸がある場所を教えてくれ。ここから遠いのか?」
 あたしはまた少しためらったけど、リョウに諦める気配はなかったから、しかたなしに答えていた。
「この森の向こう側よ。このまま森に沿って歩けば見えてくると思うわ」
「判った。……おまえ、ほんとにここで待ってろ。立ち入り禁止のところに入ったらおまえの立場も悪くなるんだろ? なにか問題になったら、俺が勝手に迷い込んだことにすればいい」
「そういう訳にはいかないもん。村の決まりは知らなかったで済まされるようなものじゃないんだから。……正直に言うわね。今、あたしとリョウが影に近づいたら、罰せられるのはあたし1人だけだわ。リョウはたぶん咎めを受けない」
 リョウは少し不思議そうにあたしを振り返った。あたしはそんなリョウの腕をしっかり掴んだの。ちょっとのことでは離れないように。
「守護の巫女はね、狩人と許可を受けた神官だけが影に近づくことを許したの。リョウは狩人だから、ほんとは近づいてもいいの。でも、1人で行くって言うなら、あたしこのままずっとこの手を放さないから。たとえ決まりに背いたって、リョウを1人でなんか行かせない」
 リョウはたぶん、今足を止めたことを後悔したんだと思う。少し目を伏せて、やがて大きな溜息をついた。


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「……先にタネを明かす奴があるか。ほんとに判らねえ女だな」
 そう言ってリョウが立ち上がったから、あたしはリョウの腕にぶら下がるようにして続いた。
「見るだけよ。だって、リョウは狩りの道具も持ってないし、病み上がりなんだもん。ゆっくり近づいて、もしも影が少しでも動く気配を見せたら、すぐに逃げるのよ。ぜったい戦っちゃダメなんだから」
 あたしが必死に訴えると、リョウは少し目を細めてあたしを見て、空いている方の手でちょっと頭をなでたの。ドキッと、あたしの胸が鳴る。だってその仕草は、記憶を失う前のリョウにそっくりだったから。
 リョウの腕にぶら下がったまま森を大きく迂回すると、やがて広い草原が顔を見せた。夏の盛りの今は草が長く生い茂っていて、あたしだと膝のあたりまで埋まってしまう。リョウが先に立って草をかき分けながら歩いて行くと、やがて遠くになにか大きなものが見えたんだ。黄色みを帯びた岩のように見えたそれは、近づくにつれてその歪な形をあらわしていく。複雑な直線を組み合わせて生み出される輪郭。まるで全身が凶器でできているかのようで、こんなに遠目でありながら、あたしは次第に恐怖に支配されていったの。
「まさか……ジューキ……?」
 そう呟いて思わず駆け出していきそうになったリョウをあたしは強引に引き止めた。
「リョウ! 待って! 今なんて言ったの? リョウはあれを知ってるの?」
 振り返ったリョウは信じられないような驚きに支配されていた。リョウの頭の中で何かが忙しく行き交うのが見つめていたあたしには判ったの。
「こんなところにあいつが……。……あれは獣鬼だ。俺はあいつを知ってる」
「獣鬼……? リョウ! あの影の名前は獣鬼というの?」
「……俺はあいつに殺されたのか……!」
 リョウはもうあたしの言葉なんか聞こえないみたいで、必死に引きとめようとするあたしの力にも気づいてないみたいだった。あたしは、記憶がないはずのリョウが影の名前を知っているかもしれない事実に、半ば呆然となりかけていた。


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 不意に気をそらした瞬間、あたしの両腕の間からリョウの腕が引き抜かれていた。ハッとしてそちらを見ると、リョウは既に駆け出していたんだ。
「リョウ! 行かないで! ダメーッ!」
「そこにいろ! 俺は同じ奴に2度も殺されたりしない」
「戻ってリョウ! いやあぁーー!!」
 それから、あたしはずっと訳の判らないことを叫び続けていたような気がする。1度あたしに声をかけたあとはもうリョウは1度も振り向こうとしないで、あたしから十分離れたあとは警戒しつつ、自らが獣鬼と呼んだ影に近づいていった。あたしは恐怖のあまりその場から動くことすらできなくて、ただリョウを引き止めたくて、ずっと叫んでいたの。でも、リョウの耳にはたぶん、あたしの叫びは届いていなかった。すぐ傍まで近づいていったリョウは、少し影を見上げたあと、影の死骸に手をかけてその身体に登り始めたんだ。
 あたしの驚きと恐怖は最高潮に達しようとしていた。だって、まさかリョウが影の死骸に登るなんて思ってなかったから。リョウの行動を止めたくて、でもあたしは影に近づくことだけはどうしてもできなかった。どうしたのか、いつの間にかリョウは影の甲羅の間に入り込んでいたの。そして、次の瞬間、凄まじい咆哮を上げて、影が目を覚ましたことがあたしにも判ったんだ。
「キャアアァァーーーーー!!」
 今まで1度も聞いたことのない影の咆哮は、少し雷が落ちた時の音に似ていたかもしれない。あたしの悲鳴は影の咆哮にかき消されてたぶんリョウには届いてなかった。もちろんこの影の目覚めにリョウが気づいてない訳ないよ。影の身体が震えていることが遠目でもはっきり判るんだから。でもどうしてリョウは逃げてくれないの?
 あまりの恐怖に、あたしはもしかしたら正気を失いかけていたのかもしれない。気がついたとき、あたしはその場に崩れ落ちて、リョウに両肩を揺すられていたの。いつしか影の咆哮は止んでいて、あたりはふだんの静けさに包まれていた。
「 ―― おい、大丈夫か? しっかりしろ! もうあいつは動かない」
 リョウの表情には焦りが見えて、あたしを心配してくれているのがはっきり判ったから、あたしは思わずリョウにしがみついていた。


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「……いや、怖い……やめて……嫌……」
「落ち着け。大丈夫だ。あいつは2度と動かないから」
「リョウ……影が……」
 リョウの胸にしがみついたまま、あたしは半泣きになりながら恐怖に震えていたの。自分が何を口走ってるのか、それより自分がなにか言葉を発していることすら、あたしの意識にはなかった。リョウがここにいるのに、あたしの震えは止まらなかったんだ。
 リョウの服を握り締めたあたしの手に手を重ねて、そのあとリョウはあたしを抱きしめた。突然のことであたしは驚いてしまって、うまく呼吸することができなくなってしまったの。リョウの匂いがする。リョウの汗の匂い。
「……悪かった。俺が死んで、おまえは傷ついてたんだよな。こんなにおまえが取り乱すと思ってなかった。ごめんな」
 間近に感じるリョウの気配。リョウの匂いと声が、次第にあたしを落ち着かせていった。いつしか身体の震えは止まって、でも、今度は恐怖ではない別の何かにドキドキし始めていたの。だって、リョウの腕は久しぶりだったんだもん。忘れそうだったリョウの感触を全身に感じて、あたしの胸は高鳴りを増していた。
 あたしがリョウの背中に腕を回すと、不意に驚いたようにリョウが腕の力を抜いた。顔を上げると、あたしを覗き込んでいる視線と合う。少し目を見開いて、ちょっと恥ずかしそうで、その表情はあたしがよく知っているリョウと同じだったの。
 心臓の音がリョウに聞こえちゃいそうだよ。少し目を伏せると、リョウの顔が近づいてくるのが判った。その一瞬あと、なにかに追い立てられたようなリョウのキス。少し強引で、不器用で、あたしは驚いたけど、でもすごく幸せだった。
 リョウ、大好き。たとえ記憶がなくて、あたしが知らない顔ばかりを見せてくれるリョウでも、あたしはリョウを好きでいることをやめたりできない。リョウ、あなたも、あたしのことを好きだって、思ってくれる? ランドが言ったように、あたしに惹かれる気持ちは変わってなかったって、そう信じていいの……?
 唇が離れて、目を開けると、リョウは少し不安そうな表情であたしを見つめていた。あたしの反応が気になるみたい。だからあたしは、自分が1番気に入っている笑顔で、リョウに微笑みかけたんだ。


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 キスのあとのリョウは無言で、あたしを引き離して立ち上がったあと、あたしも立たせてくれて、そのまま左手であたしの右手を掴んで歩き始めた。振り返らないリョウの背中を見ながらあたしは、初めてリョウがキスしてくれた時のことを思い出したの。あたしがまだ14歳だったあの時、やっぱり無言で背中を向けていたリョウは、そのあと振り返って「自分に驚いてた」って言ったんだ。同じ雰囲気を持つリョウは、もしかしたらあの時と同じく、自分の行動に驚いてるのかもしれない。
 リョウは背中を向けていたけど、歩き方はゆっくりで、あたしに合わせてくれてる。気を遣ってくれてるのがすごくよく判ったの。だから、背を向けててもぜんぜん無視されているようじゃなくて、むしろ大切にされているって、あたしは嬉しかった。まるで心の底から突き上げてくるみたい。リョウのことが愛しいって、それだけで心の中がいっぱいになるの。
 リョウも今、同じ気持ちだよね。あたしの記憶なんかなくても、ちゃんとあたしを選んでくれたんだよね。だって、こんな気持ち、止められないんだもん。同じじゃなかったらキスなんかしてくれないよね。
 しばらくの間、沈黙したまま歩き続けていたリョウは、だんだん速度を緩めてやがて立ち止まった。
「……おまえ、本当に俺でいいのか……?」
 あたし、今までずっと幸せな気分でいたから、思いがけないリョウの低い声にすぐには反応できなかった。
「俺はおまえの婚約者だったリョウとは別人かもしれない。……それで、おまえはいいのか?」
「……どうして? リョウはあたしのリョウよ。さっきも説明したじゃない。リョウ、あたしの言うことが信じられないの?」
「俺が死んだリョウと同じ人間の可能性があるってことは判ってる。おまえが言うことは間違ってないし、俺自身もおまえの覚えてるリョウが自分かもしれないって思う。だけど、そのほかにも確かなことがある。……俺は、おまえと過ごした時間を覚えてないんだ。これから先、思い出を語り合うことができない恋人を、おまえは好きでいられるのか? 俺がおまえの記憶の中にいるリョウとぜんぜん違う行動を取ったとしたら、それを許すことができるのか?」
 もし、これからのリョウが、今までのリョウからは考えられない、ぜんぜん違うことをしたとしたら ――
 リョウの言うことは、今のあたしにはまるで想像もつかないことだった。


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「リョウがどうしてそんなこと言うのか判らないよ。たとえあたしを覚えてなくても、リョウはリョウだもん。あたしは今までのリョウだけを好きになったんじゃないよ。今のリョウも、これからのリョウも、全部のリョウを好きなの。だって、リョウは今までだってずっと変わり続けてたんだから。リョウがいろんな一面を見せてくれるたびにあたしは嬉しくて、知れば知るほど好きになっていったの」
「だけど、それは過去の俺がおまえの中にいるからだろ? 1人の人間が違った一面を見せるのと、まるっきりの別人になるのとじゃ違う。記憶がない俺はおまえが知ってるリョウにはなれないんだ。これからの俺は、死ぬ前までの俺とは別の人間になる」
 あたしは、リョウの言葉が理解できなかった。
 ううん、言葉は理解できるの。だけど、リョウがどうしてこんなことを言うのか、それが理解できないんだ。リョウはどうしてこんなことを言うの? リョウはいったい何を考えているの?
 あたしは知ってる。今のリョウは、死ぬ前までのリョウと同じだってこと。だって、さっきまで背中を向けて手を引いてくれてたのは、間違いなくあたしのリョウだったんだもん。たとえばタキだったらこんな感じにはならない。ランドでも同じことはしないよ。ほかの、あたしが知ってるどんな人だって、リョウとはぜんぜん違ってるんだ。今のリョウだけが、死ぬ前のリョウと同じなの。
 でも、今まであたしが見てきたこのリョウは、以前のリョウとは違うところもあった。同時にそれを思い出したからなのかもしれない。あたしはリョウに、死ぬ前のリョウと同じだって、自信を持って伝えることができなくなっていたんだ。リョウの言うことも間違ってないのかもしれないって思ったから。もしかしたらこのリョウは、以前のリョウとはぜんぜん違う人になっちゃうのかもしれない、って。
 リョウはあたしに何を言って欲しいの? そう思ってリョウを見上げたけど、内心のおびえを隠すように固く唇を結んだその表情を見ているだけでは、リョウが欲する言葉を読み取ることはできなかった。リョウが昔と変わっていないってことを言って欲しいの? それとも、リョウがこれからどんなに変わっても、あたしがリョウを好きなのは変わらないってこと?
 でも、今あたしがどんなに言葉を尽くしても、今のリョウには伝わらない気がしたんだ。リョウはあたしのことを本当には信じてくれていない。それを肌で感じてしまったから。
 リョウとあたしの間に、今まで存在したことがないほどの大きな壁を感じた。


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 今のリョウには何を言うべきなのか、あたしには判らない。でも、リョウが未来を不安に思ってるってことは、少なくともあたしを好きでいてくれてるってことだよね。それだけはあたし、信じていいよね。
 会話が途切れてしまったからだろう、リョウは再びあたしに背を向けて、ゆっくりと歩き出していた。リョウとの間に壁を感じてしまったから、あたしもそれ以上は何も言えなくなって、黙ったままリョウのあとをついていく。その沈黙はさっきとは比べ物にならないほど重苦しくて、不意に泣きそうになるの。あたしはリョウのことが好きなのに、リョウもきっとあたしを好きでいてくれるのに、思ったように気持ちが通じなくて。
 そうしてしばらく歩き続けて、やがてリョウは再び神殿への坂道を登り始めたの。もう散歩は終わりにするみたい。さっき休憩した河原までたどり着いて、リョウは森の日陰に腰をかけた。
 あたしが隣に座ると、振り返らずにリョウは言った。
「守りの長老と話をさせてくれ」
 リョウの横顔に、さっきまではなかった決心のようなものが現われていた。ここまでの道程でリョウは何かの結論を出したみたい。
「どうして? ……何を話すの?」
「次に獣鬼が襲ってくるときには、俺も狩人と一緒に戦う。そのことを話したいんだ」
 あたしは、恐れていたことがとうとう現実になったことを知った。
「ダメ! お願い、リョウはもう戦わないで! リョウは戦っちゃダメなの!」
「俺は村の救世主なんだろ? あいつを倒せるのは俺だけだ。このままだと被害はどんどん大きくなる」
「ダメよ! だってリョウは一度死んだんだもん。またリョウが死んじゃったらあたしどうしたらいいのか……」
「だったらこれ以上無関係の村人が死んでもいいって言うのか? おまえだって見ただろう。俺は獣鬼の殺し方を知ってる。俺はこの村ではそれを知ってる唯一の人間なんだ」
 そう言うとリョウは、驚き戸惑ったあたしの目の前に、小さな何かを差し出したの。


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