真・祈りの巫女



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 リョウとランドは立ったまま、ミイが出してくれたお茶を一気に飲み干した。それで人心地ついたみたい。2杯目は2人とも椅子に座って、ゆっくり味わっていた。あたしはそんなリョウにずっと見とれていたの。久しぶりにベッドから起き上がったリョウはすっかり健康を取り戻したようで、額から頬を伝って流れ落ちる汗がきらきらして、あたしの目を釘付けにした。
 リョウはあたしの視線に気がついて、ほんの少しだけ見返したけど、でもそれだけであとはずっとランドと話していたの。リョウはひと通り持っている道具の使い方を教えてもらったみたい。しきりにランドに質問して、ランドも実践での使い方なんかを丁寧に説明していたんだ。
 休憩時間はほとんどそれだけで過ぎていった。あたしはリョウのあまりの熱心さに声をかけることができなくて、ミイとランドもあたしに気を遣って話題を変えてくれようとしたんだけど、リョウの勢いには口を挟む隙間すらなかったんだ。しだいにあたしは疎外感を覚えるようになっていったの。今、リョウの興味は狩りにしかなくて、あたしのことなんかどうでもいいんだ、ってことが判ったから。
 リョウが動けるようになったこと、あたしは嬉しかった。でも、今までそれほど感じてなかった疎外感をより強く感じるようになった。これからのリョウは、好きな時に好きなことができる。あたしはもう、ベッドのリョウを独り占めすることができないんだ。
「 ―― ずいぶん長居しちまった。リョウ、続きはまたあとにしてくれ。……ミイ、弁当は?」
「できてるわよ。はい、これ。気をつけて行ってきてね」
「待てよ。どこへ行くんだ?」
 席を立ったランドをリョウが呼び止めていた。自分の思いに沈んでいたあたしも気がついてランドを見上げたの。
「仕事だよ。そうそうおまえに付き合ってばかりいられねえんだ。村の台所がカラになっちまう。……ユーナ、悪かったな。今度またゆっくり話そう」
「あ、うん、ありがとう」
「俺も一緒につれてってくれ! 実践でこいつを使ってみたいんだ」
「バカ言うな。怪我人は村でおとなしくしてろ。これ以上無茶しやがったらもう来てやらねえからな」


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「怪我なんかもう治ってる ―― アウッ!」
 ランドがリョウの肩のあたりをちょっとつねると、リョウは悲鳴をあげて、それきりもうなにも言えなくなってしまったの。ランドはあたしとミイに手を振って、扉を出て行った。ミイもリョウも見送ろうとしなかったから、あたしは1人だけ追いかけていったんだ。
「ランド、気をつけてね。それからありがとう」
 坂道の階段の手前で振り返ったランドは、空いている方の手であたしの肩を抱いて言った。
「リョウはすっかりガキの頃に戻っちまったな。狩人の修行を始めた時のリョウがあんな感じだったよ。オレの都合なんかまるで考えてねえの」
 あたしはその頃のリョウを知らない。一緒に遊ばなくなって、すごくさびしかったことだけ覚えてるの。その時のあたしの寂しさなんて、今のあたしの寂しさとは比べ物にならないよ。だって、今のあたしには、リョウに愛されてた時の記憶があるから。あたしが目の前にいるのに狩りのことしか考えてないリョウなんて、お互いの気持ちを打ち明けてからは初めてだったんだ。
「気にするな、ユーナ。今のあいつは狩りのことしか見えてねえけど、そのうちおまえの存在にも気づくだろ。リョウもおまえもなにも変わってないんだ。心配しなくても、リョウは必ずおまえを好きになる」
「……リョウは変わってないって、そう思う? あたしのことを好きになってくれるって」
「ああ。リョウを信じていろよ。……おまえ、リョウにはもったいない女になったな。あのヘチャが」
 ランドがからかうようにそう言ったから、あたしはちょっとむくれたの。そのまま笑いながらランドは仕事に行ってしまって、再び家の扉を開けると、あたしと入れ替わりにリョウが家を出るところだったんだ。
「リョウ、どこへ行くの?」
「……別にどこにも行かない。心配するな」
 あたしは一瞬ミイと目を合わせて、それからリョウを追いかけていったの。


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 リョウが言ったことは嘘じゃなくて、あたしがここへきたときにランドと一緒に立っていた場所で、再び狩りの練習を始めてたんだ。先に鉤のついたロープの中ほどを持って、ぐるぐる回しながら木に向かって投げると、鉤を枝に引っ掛けていた。あたしはしばらくリョウの練習風景を見ていたの。最初の頃は2回に1回くらいしか成功しなかったけど、そのうちみるみる上達して、ある程度上手になったところで高い枝に目標を変えていた。
 見ているうちに、あたしはリョウが地道に練習しているところなんて、今まで見たことがないことに気がついた。もちろんリョウが腕のいい狩人だってことは知ってたけど、あたしはリョウが狩りをしているところも、その練習をしてるところも、見たことがないんだ。それはすごく地道な練習で、でもけっして飽きることはなかったの。リョウの上達は早かったから、すぐに高い枝でも失敗しなくなった。
「そんなところで見てても面白くないだろ。家に入ってろよ」
 とつぜんリョウが言って、それがあたしに話し掛けたのだと気づくのに、ちょっと時間がかかってしまった。
「ううん、そんなことないわ。見てるだけでも面白いよ」
「……せめて日陰に座っててくれ。そこに立ってられると気が散るから」
「うん、判った」
 あたし、リョウがあたしのことを気にしててくれたのが嬉しくて、自然に顔がにやけていたの。それからちょっとあたりを見回して、午前中は家の陰になるところに木製の踏み台を引いてきて腰掛けた。
 そのあとリョウは弓の練習を始めて、しばらく経ったときだった。玄関からミイが出てきてあたしを見てにっこり笑ったの。
「ユーナ、ここにいたのね。そろそろお昼にしようと思うの。もちろん食べていくわよね」
「ええ、できればそうさせて。あたしも手伝うわ」
「もうほとんど終わりだから大丈夫よ。ありがと。……リョウ、昼食にするから片付けて!」
 ミイが言うと、リョウはちょっとむっつりしながらそれでも素直に片付けていて、あたしはなんとなくリョウがミイの子供になってしまったような錯覚を覚えたんだ。


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 食事中、リョウはほとんど話をしようとしなかったから、あたしはときどきリョウを横目で盗み見ていた。リョウの代わりにミイがずっとしゃべっていて、あたしは相槌をうったり、ミイが気にしない程度に会話を盛り上げるのでちょっと忙しかったの。だから食事もそれほどスムーズには進まなくて、半分くらい食べたところでリョウが席を立とうとしたんだ。ごちそうさまを言ったリョウに、ミイがすかさず声をかけていた。
「リョウ、今日はもう練習しちゃだめよ。午前中だけだってランドに言われたでしょう?」
「自分の身体のことはよく判ってる。ランドには黙っててくれ」
「なに言ってるのよ。あたしがランドに隠し事なんかできる訳ないじゃない。そんなことより、リョウはまだこの家の周りしか見てないでしょう? せっかく動けるようになったんだから、散歩でもしてらっしゃい。もちろん狩りの道具は置いてよ。……ユーナ、時間は大丈夫? あたしが一緒でもいいけど、リョウだってきっとユーナと一緒の方が嬉しいと思うの」
 ミイはまるですごく楽しいことを思いついたんだという風で、もちろんあたしは嬉しかったからすぐに了承したんだけど、リョウはちょっと戸惑ってるようだった。どうやらリョウがミイに逆らえないのは記憶をなくした今でも変わってないみたいね。けっきょくリョウも承諾してくれたから、あたしの食事が済むまでちょっと待っててもらって、一緒に散歩に出かけることにしたの。
 扉を出ると、リョウが先に立って神殿への上り坂を歩き始めた。歩調はゆっくりで、あたしはいつでもリョウの隣に並ぶことができたはずなのに、ずっとうしろからついていったの。どうしてなんだろう。なんとなく、リョウに拒絶されているような気がしたから。もしかしたらリョウはあたしと散歩なんかしたくなかったかもしれない。ミイに言われたから仕方なく一緒に歩いてるだけなのかも。そんなことを考えちゃったら、心が重くなって、足が進まなくなっちゃったんだ。
 リョウに嫌われたくない。タキは婚約者なんだから自然に接すればいいって言ったけど、今のあたしは以前リョウとどんな会話を交わしていたのか、思い出すことすらできなくなっていたの。そんなあたしの戸惑いを、もしかしたらリョウは感じていたのかもしれない。ふと歩く速さを変えて、あたしに並んでくれたんだ。
「この道はどこへつながってるんだ?」


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 リョウが歩み寄ってくれた。それが嬉しくて、あたしの表情はずいぶん明るくなってたと思う。
「この道はね、村の神殿につながってる道なの。神殿にはあたしの宿舎もあるわ。もともとはすごく細い道だったんだけど、リョウがあの家を建てたあと、自分で広くしたのよ。階段や手すりも、小川にかけた橋も、リョウがぜんぶ自分で作ったの」
 リョウが時間をかけて、あたしのために広くしてくれた道。ふだん森の中を歩き回ってるリョウにはきっと必要がなかったと思うのに、ただあたしのためだけに作ってくれた階段。それを思うといつも、心の中があたたかくなるの。この道を歩くたびに、リョウに愛されてるんだって、実感することができるから。
「あの家の周りにはほかの家がぜんぜんないな。この村の人間はみんな、こんな風に森の中に1人で住んでるのか?」
 あたしはリョウの言葉にちょっと驚いていた。
「ううん、そんなことないわ。森の中に家を建てたのはリョウが初めてよ」
「そうか。……なら、俺は本当におまえのことが好きだったんだ」
 あたし、急にそんなことを言われて、思わず足を止めちゃったの。今まであたしが考えてたこと、リョウに見抜かれたような気がしたから。だって、リョウのこのセリフって、ちょっと会話の流れから外れてて、予想がつかなかったんだもん。
 立ち止まったあたしに振り返って、リョウは真っ直ぐな視線であたしを見つめて言った。
「おまえ、俺の婚約者だったんだろ? あのタキとかいう神官も言ってた通り、いずれ俺はおまえと一緒にあの家に住むつもりだった。だからおまえのために道を整備したんだ。そのくらいのことは判るよ」
 まるで自分の時間が止まってしまったみたい。記憶のないリョウから婚約のことが出るなんて思ってもみなかったから。あたしはもう何も言えなくて、リョウの視線を受け止めるだけで精一杯だったの。
「さあ、歩きながらもっと教えてくれよ。昨日会議があったんだろ? 1度死んで生き返った俺は、神殿ではどういう扱いになったんだ? 1人で森に住んでた俺は変わり者か、ほかの人間に嫌われてでもいたのか? この村で俺はちゃんと歓迎されてる存在なのか?」


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 リョウの言葉に、あたしはハッと我に返った。慌てて足を動かしてリョウの隣に並んだの。
「みんなリョウのことを歓迎してるわ。それに、前だってぜんぜん嫌われてなんかなかったのよ。リョウは腕のいい狩人で、村のみんなにも親切で優しかったもん。森に住んでたのは、もしかしたら少しリョウが変わってたのかもしれないけど、村でどこに住まなきゃいけないなんて決まりはないもの。リョウが家を建てたのは3年前で、神殿のみんなが手伝いに行ったの。だからリョウは誰にも嫌われてなんかいなかったわ」
 あたしが一気にそう言うと、リョウはちょっと驚いたように目を見開いていた。やがて、少しまぶしそうに目を細めたかと思うと、ほんの少し微笑んだの。
 リョウが記憶を失ってから、あたしが初めて見たリョウの笑顔だった。それはほんの短い時間だけで、すぐにリョウは笑顔を引っ込めてしまったけど、その表情はかつてのリョウとぜんぜん変わってなかったんだ。
「リョウ、今笑った。……どうしてやめちゃうの? もっと笑っててよ」
「……なんだよ。俺が笑ったからなんなんだ? どんな顔しようと俺の自由だろ?」
「あたし、笑ったリョウが大好きなんだもん。もちろん怒ったリョウも、ほかのリョウも大好きだけど、でも笑ったリョウが1番好きなの。リョウが笑ってくれると元気が出るの。落ち込んでてもね、もう1回頑張ってみよう、って思うの」
 リョウはちょっと変な顔をして、唇を結んで、視線をそらしてしまった。それきり振り返ってくれなかったから、あたしはなにか悪いことを言っちゃったのかと思って、ちょっと焦っちゃったんだ。
「リョウ、ねえ、あたし変なこと言った? リョウ怒っちゃったの? あたしが悪いんなら謝るよ。あたしリョウのことが大好きなんだもん。リョウに嫌われたくないよ ―― 」
 そうして、あたしが思いつく限りの謝罪の言葉を並べると、リョウはやっと足を止めて振り向いてくれたの。
「おまえ、変な奴。……なんとなく判った。以前の俺がどうして森の中に家を建てたのか」
 あたしが見ている前で、リョウは再び笑ってくれたんだ。


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 神殿につく前に、リョウが村の救世主として村人に発表されたのだということをリョウに伝えた。リョウはちょっと驚いてたから、あたしは必死にリョウに訴えたの。リョウは今のままで十分で、村を救うことなんか考えなくてもいいんだ、って。あたしはリョウに影と戦って欲しくなかったから。リョウが死んだ時の、あんな悲しみ、もう2度と味わいたくなんかなかったから。
 リョウが何も言わなかったのは、もしかしたらあたしの気持ちを察したからなのかもしれない。昨日、あたしが恐怖に混乱して口走った言葉を思い出したのかな。だから、本当はリョウがどういうつもりでいるのか、まだ影と戦うのが自分の使命だと思っているのかいないのか、あたしには判らなかった。
 神殿の敷地内に入ると、あたしは一応案内係としてリョウに建物を説明しながら、敷地中央の神殿前までやってきた。外は暑いからそれほど人の気配はなかったんだけど、数少ない通る人たちに挨拶すると、みんなちょっと驚いたようにリョウを見上げて、でもたいていは笑顔で歓迎してくれた。それまで、たとえリョウが自分の立場を不安に思ってたとしても、その不安は解消できたと思うんだ。
 リョウは何もかもが珍しいみたいで、特に神殿の建物には興味を惹かれていた。あたしは石段を上がって扉の中も見せてあげたし、階下の書庫にも案内したの。こんなところ、記憶がある頃のリョウだって入ったことがないんじゃないのかな。リョウは本にも興味を示して、文字が読めないリョウのためにあたしは背表紙の文字を1冊ずつ読んであげたりもした。
 神殿を出て、巫女宿舎を順番に案内して、やがて祈りの巫女宿舎のところまできた。あたしが扉をノックすると、間もなく中から返事があって、カーヤが顔を出したの。
「あら、ユーナ。……リョウ?」
 カーヤもほかのみんなと同様、リョウを見上げてちょっと驚いた顔をしたの。でも、すぐに笑顔になって、扉を大きく開けてくれた。
「リョウをつれてきてくれたのね。さあ、入って。今お茶を用意するから」
 意見を求めてリョウを振り仰ぐと、リョウはかなり動揺しているように見えたの。だからあたし、カーヤに言った。
「あ、いいわ。ちょっと顔を見せに寄っただけだから。まだお散歩を始めたばかりなの。またあとでくるわ」
 そうして2、3の言葉を交わしたあとリョウを振り返ると、一時の動揺はいくぶん落ち着いたようで、ちょっと目を伏せていたんだ。


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「リョウ?」
 少しだけ心配してあたしが声をかけると、リョウの方から話し始めてくれた。
「……今の人、名前はなんていうんだ?」
「カーヤよ。リョウはカーヤのことを覚えてるの?」
「いや、覚えてる訳じゃない。……カーヤ、カーヤ。ぜったいどこかで会ってる気がするんだ。……気のせいかもしれない」
「気のせいじゃないわ。リョウはほとんど毎日のようにカーヤとも顔を合わせてたのよ。強く印象に残っててもあたりまえだわ」
 リョウはあたしの意見を聞いていたようには見えなかった。……どうしてなのかな。リョウはあたしのことはまったく思い出さないのに、ミイやカーヤを見たときには何かを思い出すような仕草をするの。リョウは婚約者のあたしよりも、カーヤの方を気にしている。リョウにとって、あたしはそんなに印象の薄い人だったの……?
 リョウは少しの間自分の中に沈んでいて、でも不意にすべてを投げ出したように顔を上げたの。
「考えてても判らないものは判らないな。次はどこを案内してくれるんだ?」
 リョウに請われて、あたしは最後に残った避難所の説明をしたあと、こんどは村を案内するために坂道を降り始めたんだ。
 神殿から村へ続く道は比較的なだらかで、途中くねくね曲がってはいるけど人が踏み固めた一本道だから、まず道に迷う心配はなかった。先に立って歩くリョウのうしろを、ちょっと足元に注意しながらついていく。あたしが黙り込んでたからだろう。とつぜんリョウは振り返って言ったの。
「どうした? さっきの元気がなくなっちまったな。疲れたのか?」
「……うん、少しだけ疲れたかもしれない」
「日中は意外に暑いからな。少し休もう。……水を持ってくればよかった」
「もう少し行くと川があるわ。あたし、案内する」
 それからはあたしが先に立って、少し下ったところで道を逸れて更に歩くと、せせらぎとともにキラキラ輝く水面が顔を見せた。


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 リョウと一緒に辿り着いたのはシシ川の支流で、以前あたしが巫女の儀式前に禊ぎをした場所だった。よく神殿の儀式に使われる川だったから、村でも神聖視されていて、ここには漁師も足を踏み入れることがほとんどないの。別に立ち入りを禁止されている訳じゃなかったから、リョウに水と言われて思わず案内しちゃったんだけど、あたしはなんとなく近寄りがたく思ってたんだ。だから川の手前で足を止めたんだけど、リョウは何もこだわらずに河原を歩いていった。
「水がきれいだな。……来ないのか?」
 水面に手を差し入れたリョウは、隣にあたしがいないことに気づいたみたい。振り返って言った。
「あとで行くわ。ちょっと木陰で休ませて」
 リョウはそれほど気にならなかったみたいで、川の水で手を洗って、片手ですくって水を飲んでいた。1度立ち上がって、ちょっと考えるようにしたあと、もう1度しゃがんで両手で水をすくったの。それからゆっくりと戻ってくる。その頃にはすでに木の根元に座っていたあたしが見上げると、リョウはおもむろに両手を差し出した。
「飲むか? 手は洗ったから汚くないぞ」
 あたし、ちょっと驚いてしまった。……そうだよ。リョウはすごく優しい人だったんだもん。あたしが疲れて座ってたら気にならないはずがないんだ。あたしはさっきまであった心の寂しさが少しずつ消えていくのを感じて、自然に笑顔になっていったの。
「ありがとう」
 そう言いながら、リョウが運んできてくれた水に直接口をつけた。喉を潤す水は格別に甘くて、今まで飲んだどんな水よりもずっとおいしい気がしたの。ほとんど飲み干してしまって、顔を上げようとしたとき、リョウはいきなり両手を動かしてあたしの顔に残りの水をかけたんだ。
「キャッ!」
 水はあまり残ってなかったから、服までは濡れなかったけど、でもこれはちょっといたずらが過ぎるよ!
 そう思って少し怒った顔でリョウを見上げると、あたしの反応が面白かったのか、笑顔で見つめるリョウの視線とあった。


210
「ちょっと……なにするの? ひどいよ!」
「怒るな。少しは涼しくなっただろ?」
「だからって普通はいきなりこんなことしないもん!」
「……だったら、俺のこと嫌いになったか?」
 そう言ったリョウはこれ以上にないさわやかな笑顔を浮かべてた。……ずるいよ、リョウ。あたしがリョウのこと嫌いになるはずなんかないのに。リョウって、すごく意地悪。
「……なってない。大好き……」
 あたしが答えたら、リョウは少し表情を曇らせて、視線を外してしまったの。
 まるであたしのその答えを予期してなかったみたい。膝を立ててあたしの隣に座っていたリョウは、両膝に腕を投げ出して、下を向いたまま動かなくなってしまった。あたし、またなんか変なことを言ったの? でも、あたしはリョウの質問に答えただけだよ?
 そのまま声をかけられなくてじっと見つめていたら、やがてリョウは少し真剣な面持ちであたしを振り返った。
「……俺は、おまえのことも、婚約のことも、何も知らない。おまえが好きだったリョウとは別の人間なのと同じだ。それなのにどうして、こんなにはっきり俺を好きだって言えるんだ?」
 リョウ……そうだよね。リョウは記憶がないんだもん。見知らぬ人がいきなり婚約者だって言って、リョウを好きだって言っても、戸惑うだけだよね。でも……
「あたし、リョウの記憶は戻るって信じてる。だからリョウも信じて。不安なのは判るけど、リョウはリョウだもん。リョウはあたしの婚約者なの。だからぜったい嫌いになったりしないもん」
「……別人、なのかもしれないぜ。俺はおまえの婚約者のふりをして、おまえを騙してるのかもしれない。そうは思わないのか? ……リョウは1度死んでるんだ。リョウにそっくりな人間が、リョウに化けてるのかもしれないって、おまえは少しも疑わないのか?」
 あたしは、リョウ本人からその可能性を指摘されて、心臓を引き絞られているかのような衝撃を味わった。


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