真・祈りの巫女



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 再びあたしはリョウの部屋へと戻ってくる。うしろからは守護の巫女、神託の巫女、タキと続いていて、リョウは順番に見ながら少しだけタキに視線を止めた。リョウの寝室はそれほど狭くはないのだけど、5人も入ると少し圧迫感があるみたい。まずはあたしがリョウに近づいて、2人を紹介したの。
「リョウ、さっき話した守護の巫女と、神託の巫女よ。タキのことは知ってるわよね」
「……守りの長老は来ないのか?」
「ええ。高齢だから最近はあまり出歩かないの。守りの長老に会いたいのなら、リョウの身体が治ってから会いに行けばいいわ」
「祈りの巫女」
 うしろから守護の巫女に声をかけられて、あたしは場所を譲った。
「こんにちわ、リョウ。あなたに再び会えて嬉しいわ。先日3回目の影の来襲で、あなたは影の命と引き換えに自分の命をなくしてしまった。もしもあなたに再び会えることがあれば、私は真っ先にお礼を言いたかったの。……リョウ、本当にありがとう。あなたの犠牲がなかったら、村はもっとずっと大きな被害を受けていたかもしれないわ」
 リョウはすぐには答えずに、いくぶん警戒しながら守護の巫女を見つめていた。守護の巫女も笑顔でそう言ったあとは何も言わなかったから、しばらくの間のあと、根負けしたようにリョウが答えたの。
「残念だが、俺にはこの村の記憶は一切ない。1度死んだって話も今朝聞いたばかりなんだ。今の俺にそんなことを言われても困る」
「そうだったわね。ごめんなさい、あなたを試すようなことを言って。もう祈りの巫女に聞いていると思うけど、祈りの巫女の婚約者で、狩人のリョウは1度死んだわ。それも、本人を目の前にして言うのはなんだけど、身体がバラバラになるような大怪我を負って、何かの拍子に息を吹き返すなんてことがありえないくらい完璧な死に方だった。だから今、目の前にあなたがいるのに、私には信じることができないのよ。それは判ってもらえるかしら」
「ああ。俺があんたの立場だったとしても信じないだろう。疑って当然だ」
「判ってくれて嬉しいわ。……あとのことは神託の巫女に聞いてちょうだい。あなたの質問にもすべて答えてくれるわ」


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 守護の巫女はベッドの枕もとにあった椅子を動かして、そこに神託の巫女を座らせた。これからは彼女が主役になるのだとリョウに知らせるように。神託の巫女は視線で守護の巫女にお礼を言って、リョウに向き直った。その表情には、いつもの彼女の優しい笑みが浮かんでいたの。
「こんにちわリョウ。身体の具合はどう? 傷は痛むの?」
「いや。薬がよく効いているから痛みはない。……俺に触れるってきいたが、子供にほどこすようなものだから痛くはないんだろうな」
「ええ、もちろんよ。痛みも違和感も、人が感じるほどの変化は何もないわ。本当に普通に触れている感触があるだけよ。安心して」
 リョウは最初の頃のような、警戒心を全面に押し出すような表情をすることはなかった。ずっと穏やかで、ずいぶん打ち解けてきているように思えたの。リョウ自身がだんだん変わってきてるんだ。タキやミイと話をしたことで、リョウは人を信じる心を少しずつ取り戻してきているのかもしれない。
「俺に触れて何を見るんだ? 俺の記憶も見えるのか?」
「いいえ、残念ながら記憶は見えないわ。リョウの記憶を取り戻す手助けもできない。私に見えるのは、その人の魂のあり方だけなの。その魂が持つ宿命や運命、方向性なんかを見るのね。それを予言に置き換えるの。……人間の魂はね、その人が生きる道筋のほとんどを知っているわ。例えば、身体を動かすことを得意としていて、人や村を守る相が出ている魂が、将来神官になることはないわ。物静かで探究心旺盛な魂が狩人になることもない。そういう個々の魂が持つ色と寿命、あと、対になるべき魂の場所を感じて、それらを総合して私は誕生の予言を行うの。でも、ごく稀に、特別な宿命を持った魂と出会うことがあるわ。 ―― 例えば祈りの巫女のような」
「……」
「祈りの巫女は数10年か数100年に1人しか生まれてこないの。その魂の色は本当に特別で、その他の要素をすべて消してしまうくらい強烈な色を発しているわ。もしもあなたが同じような特別な宿命を持っていたら、私にはあなたの運命も、結婚相手も、何も見ることができないでしょうね」
 リョウは右の騎士だった。神託の巫女はたぶん、リョウよりもむしろあたしや守護の巫女に聞かせたくて、この話をしたのだろう。


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 神託の巫女が言葉を切ったあと、リョウは右手を神託の巫女に差し出した。
「話はだいたい判った。要するに、俺の魂の形を見て、俺が生まれたときに受けた誕生の予言と比べるってことだな。痛みも違和感もないし、無差別に頭の中を引っ掻き回す訳でもないらしい。それなら構わないからさっさとやってくれ」
 リョウのその態度には、神託の巫女の方が少し戸惑ってしまったようだった。ちょっと投げやりにも見えて、あたしはリョウが疲れてしまったのかと思って、少し心配になったの。だって、リョウはまだ身体の怪我が治ってないんだもん。そうして上半身を起こしているのだって、リョウの身体に負担をかけてるのかもしれないんだ。
「……判ったわ。それじゃ、少しのあいだ手に触れているから楽にしていて」
 そう言って、神託の巫女はリョウが差し出した右手を取った。
 神託の巫女は両手でリョウの右手を包み込んで、静かに目を閉じた。ほんの少し、まるで静電気を浴びた時のようにリョウが目を細めたけど、それもほんの一瞬のことであとはじっと神託の巫女の顔を見つめていたの。逆に、神託の巫女にはほとんど表情と呼べるものは現われなかった。いったいリョウから何を読み取ってるのかな。あたしは気になって、たぶんまわりのみんなも同じ気持ちだったんだろう。神託の巫女の集中を妨げないように誰もが無言で、呼吸をする音すら聞こえてこなかった。
 その沈黙の時間はかなり長いあいだ続いた。やっと、神託の巫女が大きく息をついて目を開けたとき、周りにいたみんなもいっせいに溜息をついたの。それになんだか笑いを誘われて、場の緊張が一気に解けていった。神託の巫女も笑顔を浮かべていた。
「協力してくれてありがとう、リョウ。おかげでいろいろ判ったわ」
「なにが判ったんだ?」
「ごめんなさい。今すぐには教えてあげられないの。これから守護の巫女や祈りの巫女と相談して、あとで祈りの巫女を通じて、すべてとは言わないけれど多少のことは聞かせてあげられると思うわ。少し別の場所で相談してきてもいいかしら」
「ああ、好きにしてくれ。……出て行くついでにミイを呼んでくれないか?」
 神託の巫女は請け合って、寝室を出てミイに声をかけたあと、あたしたちを玄関の外まで連れ出してしまったの。


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 リョウの家を出て、家から少し離れた森の木陰まで来た時、それまでじりじりしながら待っていたらしい守護の巫女が言ったの。
「さあ、結論を先に言ってちょうだい、神託の巫女。彼は右の騎士なの? それとも違うの?」
 神託の巫女はちょっと戸惑ったみたい。あまり歯切れのよくない口調で答えた。
「そうね、右の騎士がリョウであるという図式を信じていいのなら、間違いなく彼はリョウ本人よ。あのリョウは右の騎士だったわ」
「本当に?」
 とっさにそう声を上げたのは、守護の巫女じゃなくてタキだった。タキは、守護の巫女が神託の巫女を連れてくるように言った時から、ずっと落ち着きがなかったの。たぶんリョウが本人だってほんとに信じてなかったんだ。もちろんあたしは信じてたから、神託の巫女に任せることも、リョウの機嫌を損ねるんじゃないかってこと以外はぜんぜん不安に思っていなかった。
「その予言に間違いはないのでしょう? どうしてあなた自身は信じていないような口ぶりなの? 先代の誕生の予言に間違いがあったとでも言うの?」
 リョウの誕生の予言をしたのは、とうぜん今の神託の巫女じゃない。今30代の彼女はリョウが生まれたときにはまだ10代だったもの。もちろんあたしの誕生の予言も先代の神託の巫女が行ってるんだ。でも、その記録は書庫の戸籍にちゃんと残っているから、今の神託の巫女だって目を通してるはずなんだ。
「私の予言にも、先代の予言にも間違いはないわ。私は先代の日記を……当時は物語の執筆が途中だったから日記の方を読んだのだけど、リョウが生まれた日の日記に右の騎士の記述があったのはちゃんと覚えているの。だからそういうことではなくて……。
 私は誕生の予言を言葉として読み取るのではないわ。その人の魂の形、色、そういうものを感じて、それを言葉に置き換えるの。その解釈という作業をするためには知識と経験が必要なのね。知識というのもけっきょくは昔の神託の巫女の経験から学ぶものだから、今まで私たちが経験していない魂の形や色を解釈することは難しいのよ」
「……つまり、どういうことなの? リョウの魂には、代々の神託の巫女が誰も経験していないような色や形があるとでもいうの?」
「誰も経験していないかどうかは判らないわ。でも、少なくとも私は初めてだし、先代がこの予言に一切触れていないのも確かなのよ」


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 あたしは、正直言って魂の形や色と言われてもピンとこなくて、だから2人の会話に口を挟むことができなくて、ハラハラしながら見守っていただけだった。でも、タキは違ったみたい。タキはたぶん神託の巫女の物語もいくつか読んでいて、あたしよりもずっとはっきりイメージすることができたんだ。
「ちょっと待ってくれ。……神託の巫女、あなたも含めて、過去の神託の巫女は1度死んだ人間の魂を見たことなんてなかったんだろう? だったら、その経験したことがない魂の色というのも、リョウが1度死んだことで変化した部分じゃないのか?」
 タキの言葉で、神託の巫女も気づいて考え込んだようだった。
「そう、ね。確かにその可能性もあるわ。私は死んだ魂がどうなるかなんて知らないもの」
「リョウが右の騎士なのは間違いないんだろう? だったら、右の騎士がほかにいない以上、彼がリョウ本人だと考える方が自然だよ。だって、間違いなく右の騎士なんだろ? 例えばだけど、左の騎士だって可能性はないんだろ?」
「ええ、左の騎士ではないわ。右の騎士と左の騎士とでは魂に現われる色がまったく違うの。この2つを間違えることはありえないわ」
「それならなんの問題もないよ。1度死んだことで記憶を失って、魂も多少変わったけど、彼はリョウ本人なんだ。死ぬ前と同じ右の騎士の宿命を持っていることがその証明になる。守護の巫女、リョウを認めるのにそれ以上の証拠が必要なのか?」
 理論的な話を始めるとタキはすごく生き生きとしていて、この間もそうだったけど、たとえ相手が守護の巫女だろうとぜったいに言い負けたりしない。あたしが思った通り、守護の巫女は少しだけ迷って、でもきっぱりと言ったの。
「ええ、タキの言う通りよ。リョウを認めるための証拠は揃ったわ。……これ以上は私の出る幕じゃないわね。祈りの巫女、神託の巫女、午後から会議を開いて、ほかの巫女と主要な神官たちにリョウのことを報告することにするわ。タキ、あなたも出席して」
「ああ、判った」
「神託の巫女」
 守護の巫女が神託の巫女を促すと、神託の巫女は笑顔で首を振った。
「私はもう少し祈りの巫女と話があるの。よかったら先に帰っていて。忙しいのでしょう?」


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 神託の巫女の言葉に、守護の巫女はちょっと首をかしげた。
「ええ。これから帰って運命の巫女の話も聞かなければならないの。祈りの巫女に話って? 私には内緒のこと?」
「いいえ、いつもの話よ。初めての子供を持った両親にする話」
「それなら私は聞く必要がないわね。判ったわ。それじゃ、また午後に」
 守護の巫女は笑いながらそう言って、急ぎ足で神殿へと戻っていった。それを見送って、神託の巫女はあたしに振り返ったの。
「神託の巫女、リョウはあたしの子供じゃないのよ」
「そうね。でも同じだわ。だって、リョウの誕生の予言を聞いたのはあなたなんだもの。リョウは今初めて生まれて、誕生の予言を受けることでこの村の人間として認められたのよ。だから、これからリョウを世話していくあなたが、リョウの誕生の予言について責任を負わなければいけないのよ」
 あたし、リョウの母親になっちゃったの? リョウはあたしより3歳も年上で、しかもあたしはリョウの婚約者なのに。
 そんなことを思って、目を白黒させたあたしを、神託の巫女は笑った。
「変な想像はしなくていいわ。ただ、誕生の予言は神聖なものだから、これも1つの儀式のようなものだと思って聞いてくれればいいのよ。 ―― まず、誕生の予言の中身については、基本的に本人には話してはいけないものよ。今回は出ていないけれど、寿命や将来の職業、結婚相手、すべてにおいて両親の胸の内にしまっておくの。例えば万が一、子供の結婚相手が別の人と結婚したとしても、子供自身が別の人と結婚しようとしたとしてもね。誕生の予言は、親が子供の人生を邪魔するために行うものではないのよ」
 あたし、最初は神託の巫女が言うことがあまりピンと来なかったけど、少し考えて思い当たることがあるのに気がついたの。あたしの両親は、あたしがリョウと結婚することを反対したりしなかった。リョウの両親も。
「でも、あたしは両親にずっと言われていたわ。おまえは将来祈りの巫女になるんだよ、って」
「それはあなたが特別だったからよ。祈りの巫女は、自分で希望してなれるような職業じゃないもの。今回のリョウには右の騎士の相が出ていたけれど、もちろんこれも本人には内緒にしなければならないわ。理由は判るわよね」


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「でも、それじゃリョウには何を話せばいいの? さっきリョウと約束したのに、話せることが何もないわ」
「以前と同じ予言が出てきたことを話してあげればいいわ。リョウが本物のリョウだと認められた、って。それと、村の人間として認められたのだから、とうぜん村人としての権利や義務も出てくるわ。例えば、村のどこでも動き回ることができる権利や、ごく普通の生活をするための物資を受け取る権利。あと、村の決まりを守る義務や、村のために何かの仕事をする義務ね。このあたりはリョウが動けるようになったら少しずつ話してあげるといいわ。……もちろん、村を出て行く権利もあるってことを言い忘れないで」
 あたし、この神託の巫女の言葉を聞いて、はっと息を飲んだの。だって、子供の頃のリョウは村を出て行ってもおかしくないような子供だったから。今のリョウが、子供の頃のリョウに似ているのなら、記憶を失ったまま村を出て行ってしまう可能性もあるんだ。
「権利や義務のことならオレにも教えられるよ。適当に時期を図ってオレが話しておく。今のところリョウはかなり友好的だし、常識的でもあるから、それほど無茶な振る舞いはしないと思うよ」
「ええ、それは私もそう思うわ。記憶がないことは本人も認めていたし、実際にそうなのでしょうけど、今のリョウは記憶をなくしていることが信じられないくらい常識的でもある。たぶん、そういう感覚が根付いてしまっているのでしょうね」
「ほら、大丈夫だよ、祈りの巫女。……神託の巫女、ほかに話がなければオレと祈りの巫女は戻るけど」
「……ええ、そうね。私も神殿に戻るわ。リョウの誕生の予言を忘れないうちに書き留めておかなければならないもの」
 そうして、神託の巫女が歩き去ってからも、あたしは呆然としたまましばらく立ち尽くしていたの。リョウはもう、1人の村人として認められてしまった。これからはリョウはどこへ行くのも自由だし、記憶がない以上、あたしと結婚してくれるかどうかも判らない。それどころか、この村を出て行ってしまうこともありうるんだって気づいたから。
 ここにいるリョウは、もうあたしの庇護を必要としてない。例えばあたし以外の人を好きになることだって、十分ありうるんだ。
「祈りの巫女、オレたちも戻ろう。リョウに今の話を聞かせてやらなければならないんだろ?」
 タキの声にあたしが振り返ると、タキはずいぶん驚いたようだった。
「祈りの巫女。……どうしたの? リョウが本物だって確かめられたのに、どうしてそんな顔をしてるんだ?」


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 あたし、タキがそんなに驚くような表情をしてるのかな。自分ではよく判らなくて、それでなんとか微笑を浮かべようとしたの。
「なんでもないの。……あたし、リョウが本物なのは判ってた。だからぜんぜん不安じゃなかったわ。でも……リョウの記憶が戻らなかったら、たとえ本物でももう1度あたしを好きになってくれるかどうか判らない。……今、それに気づいたの」
 話している途中で、あたしはタキとこういう話をするのが初めてなんだってことに気がついた。タキは目を見開いたままで、少し戸惑ってもいるみたい。だからちょっとだけ話したことを後悔し始めたんだけど……。
 あたしが言葉を切ったあと、タキは少し怒ってるようにも見える表情で言ったんだ。
「 ―― それはさ、祈りの巫女。君にも言えることなんじゃないのか?」
 声の調子は穏やかで、あたしにはタキが怒ってる訳じゃないってことが判ったけど、タキに正面から見つめられて自分でどうしたらいいのか判らなくなってしまったの。
「……あたし……?」
「ああ。今ここにいるリョウは死ぬ前と同じリョウなんだってことが証明されたけど、彼には今までの記憶が一切ないんだ。幼い頃から祈りの巫女と過ごしたという想い出もないし、あまり彼のことを知らなかったオレにだってずいぶん印象が違うように見える。まるでリョウと同じ姿をした他人に見えるよ。……祈りの巫女、これからリョウがなにも思い出さないでいたら、君は本当にリョウを好きでいられるの? あのリョウは、祈りの巫女にとっても、初めて出会う他人と同じなんじゃないのかな」
  ―― 思いがけないタキの指摘に、あたしは答えることができなかった。
 あたしはリョウのことが好き。たとえリョウが記憶喪失になって、あたしのことをぜんぜん思い出してくれなくたって、あたしはリョウを好きでいることをやめたりしない。ずっと傍で見守って、リョウの記憶が戻る手助けをするの。だって、リョウはずっとそうしてくれたんだもん。幼い頃の記憶をなくしたあたしを、記憶が戻るまでの7年間、黙って見守っててくれたんだもん。
 だけどあたし、タキに自信を持ってそう告げることができなくなっていたの。タキの言葉で自信が揺らいでしまったの? ……ううん、違うよ。あたしは自分の心に自信がなかったから、リョウの心にも不安を持ってしまったんだ。


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 あたしはリョウのなにを好きなんだろう。優しいところ? でも優しくないリョウのことだってあたしは好きだった。リョウがあたしのことを好きでいてくれるから? でも、リョウがそっけなくしてた頃だって、あたしはリョウを好きでいることをやめたりしなかったよ。
 リョウを好きだと感じた瞬間のことを、あたしはたくさん思い出せる。抱きしめてくれる腕も、キスしてくれた唇も。あたしをいつも元気付けてくれた手。その微笑みや、照れたようにそっぽを向いてしまったその背中だって ――
 今、あたしのことをすべて忘れてしまったリョウには、あたしが好きだったリョウがなにもない。ううん、少しはあるけど、でもあたしが1番好きだったリョウの笑顔さえ、あたしはまだ見ていないんだ。
「……なんか、オレはまた余計なことを言ったみたいだな」
 あたしが黙り込んでしまったからだろう、ちょっと緊張を解くように微笑んで、タキが言った。
「自分が卑怯なのは知ってるけど、でもまったく罪の意識を感じてない訳じゃない。……祈りの巫女、オレが言いたかったのはつまり、君1人だけが婚約にこだわることはないんじゃないかってことなんだ。リョウには他の人を好きになる権利があって、もしかしたらそういうことも起こるかもしれないけど、同じ権利は祈りの巫女にもある。だから万が一、君がリョウを好きでなくなったとしても、誰も君を責めたりはできないと思うんだ」
 あたしはなにも答えられなかった。だってそんなこと、考えたくもないことだったから。タキが言ってることが正しいって、あたしには判るのに、あたしはそんな話を聞きたくはなかったの。
「だけどさ、祈りの巫女。リョウも君も、生まれたときからお互いを好きだった訳じゃないだろ?」
「……」
「まず出会いがあって、そのあと交流があって、少しずつ惹かれていった。気持ちがしだいに育って、お互いになくてはならない存在だと思うようになった。それと同じことを、これからの2人が繰り返す可能性もあるんじゃないのか? 君とリョウは、ここをスタートラインにして、もう1度恋人同士になればいいんじゃないのかな」


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 神託の巫女は、今ここに初めてリョウが産まれたんだって、そう言った。タキは、ここをスタートラインにして、新しい恋人関係を築いていけばいい、って。でも、そうしたら今までのリョウはどうなるの? あたしは今まで一緒に過ごしたリョウのこと、忘れなければいけないの?
 そんなの嫌だよ! だって、あたしはずっとリョウと一緒にいたの。リョウがいなければ今のあたしだっていなかった。あたしがリョウを忘れるなんて、そんなことできるはずがないよ。
「……リョウの記憶は戻るわ。あたし、そう信じてる」
 そう言って、あたしは強引にタキとの会話を終わらせて、リョウの家へと戻っていった。タキはもうあたしに声をかけることはしないで、うしろから黙ってついてきていた。ノックのあと家の扉を開けて、ミイがまだ寝室にいることを知って、寝室のドアをノックしたの。中からミイの「はーい」って返事が聞こえたから、それを入っていいという意味だと解釈して、あたしは寝室のドアを開けた。
「あっ! ま……」
 その時目に飛び込んできた光景に驚いて、あたしはすぐにドアを閉めてしまったの。
 リョウは上半身を起こして、あたしを見ると焦ったように声を上げて目を見開いた。身体の包帯をぜんぶほどいていて、上半身だけほとんど裸だと言っておかしくなかったの。あたし、服を脱いだリョウなんて今まで見たことがなかった。だからびっくりして、ドキドキして、その瞬間に頭の中が真っ白になっちゃったんだ。
「どうしたの?」
 タキの問いかけにもどう答えたらいいのか判らずに顔を赤くしてると、中からドアが開いてミイが顔を覗かせた。
「ごめんなさい、ユーナ。うっかりしてたわ。あたしってほんとにおっちょこちょいね。よくランドに呆れられちゃうの」
「なに? どうかしたのか?」
「リョウの包帯を替えるついでに身体を拭いてあげてたのよ。お嫁入り前の女の子には刺激が強すぎたわよね。ほんとにごめんなさい」
 あたしはなにも答えられなくて、タキが傷の具合を診るといって寝室に入ってからも、しばらくドキドキが治まらなかったんだ。


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