真・祈りの巫女



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 自分ではどうすることもできない苛立ちに、あたしは半泣きで立ち上がっていた。あたしを落ち着かせるように隣のタキが肩を叩く。でも身体の震えを抑えることはできなかった。運命の巫女は目を伏せてしまって、代わりに神託の巫女が引き継ぐ。
「あの時はリョウの未来も不確定だったのよ。祈りの巫女、判ってちょうだい。あなたやあなたの周りにいる人たちの未来はどんどん変わっているの。先代が行ったリョウの誕生の予言は、実際にリョウが歩んだ人生とはまったく違っていたわ」
「だったらリョウが生きている可能性もあったってことじゃない! それを教えてくれれば、リョウは生きてたかもしれないじゃない!」
「できなかったのよ。……もう言ってもいいわよね、守護の巫女、守りの長老」
 守護の巫女と守りの長老が哀しげにうなずくと、神託の巫女はゆっくりと言った。
「祈りの巫女、リョウはね、騎士だったのよ。祈りの巫女のために生まれてくる2人の騎士のうち、リョウは右の騎士だったの」
  ―― 時間が、止まったような気がした。
 2人の騎士は、祈りの巫女を守るために生まれてくる。でも歴代のすべての祈りの巫女にいる訳じゃなくて、1人だけのこともあるし、まったくいないこともある。祈りの巫女の近くにいる男性がほとんどで、多くの場合その運命は悲劇的なんだ。祈りの巫女を守って、祈りの巫女よりも先に死んでしまって、例外は2代目セーラの右の騎士だったジムただ1人だけ。あたしに騎士がいるってことは、以前守りの長老が教えてくれていたけど……。
「祈りの巫女が村の未来を担っているのと同じように、騎士も村の未来に多大な影響を与えているの。騎士の行動が村の未来を決めるのよ。だから、たとえ騎士が死ぬことが判っていたとしても、私たちはそれをどうすることもできなかった。……許してちょうだい祈りの巫女。私たちは、あなたが騎士の運命を変えてくれることを願うことしかできなかった ―― 」
 リョウ、あなたを殺したのは、あたしだ。
 あたしが祈りの巫女として生まれてしまったから、リョウが持っていた本当の運命を変えてしまった。リョウを騎士に仕立てて、リョウを死に追いやってしまった。あたしのリョウ。もしもあたしが祈りの巫女じゃなかったら、あたしはリョウとずっと一緒にいられたの?
 ううん、そもそもあたしが生まれたことがいけなかったんだ。あたしが村に災厄を運んで、リョウを殺してしまったんだ。


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 災いを運んできたのはあたし。もしもあたしが生まれなければ、そもそもあたしを殺すために現われたあの影だって、村にやってくることはなかっただろう。どうしてあたしは生まれてきたの? あたしが生まれなければ、村はずっと平和なままだったかもしれないのに。
「祈りの巫女、リョウのことも村のことも、あなたにはなんの責任もないわ。あなたが今どんなに辛いかは判るつもりよ。恋人を、家族を失って、希望まで失ってしまうのも判らないでもない。……お願い、祈りの巫女。自棄にだけはならないで。自分ひとりで影に殺されに行ったり、西の沼に飛び込んだりはぜったいにしないで。今、村に希望があるとしたら、あなたの存在だけなのだから」
 守護の巫女はいつも村のことを考えてる。ただ村のことだけを。彼女にとっては、リョウも数字なんだ。狩人が1人死んだ、ってそれだけ。……あたしもだ。ユーナじゃなくて、祈りの巫女っていう記号。
「……ごめんなさい。会議を続けて」
 あたしが席に座ると、少し心配そうな視線を向けながらも、守護の巫女は会議を再開した。
「とにかく、影に近づくのは私が許可を出した神官と、何人かの狩人だけにして、巫女と狩人以外の村の人は一切近づかないこと。幸いにして民家の近くじゃないから好んで近づく人はいないと思うけど、子供には注意するように村の人にはきつく言っておいてちょうだい。これから4日間は影の来襲はないけれど、もちろんこれで終わった訳ではないわ。みんなもゆっくりと身体を休めて、でも気は抜かないで欲しいの。それは村の人たちにも伝えておいて。……祈りの巫女」
 あたしが顔を上げると、守護の巫女はいたわるように微笑んだ。あたしは微笑み返すことができなかったけど。
「もし、ほんの少しでも気力が戻ってきたら、その時はできるだけ祈りを捧げてちょうだい。……たぶんそれはあなたにとっても救いになるはずよ」
 なんとかうなずくと、守護の巫女は視線を移して再び話し始める。
「聖櫃の巫女は少し残って、あとのみんなはひとまず身体を休めて、そのあとは日常の仕事に戻ってちょうだい。次の会議はまたその時に連絡するわ。……特に運命の巫女、ぜったい無理はしないで。今あなたに倒れられたらみんなが困るわ」
 中でも特に疲労の色を見せていた運命の巫女が苦笑いで答えて、会議は散会した。


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 誰にも話し掛けられたくなくて、あたしは長老宿舎を出たあとすぐに、神官宿舎の裏手に回りこんだ。そのままぼんやりと歩いていると、うしろからタキが追いかけてきたの。あたしは振り返ることすらしなかった。
「祈りの巫女、疲れたんじゃないのか? 少し宿舎で休んだ方がいいよ」
 すべてが煩わしくて、タキの心配そうな声を聞いているだけで苛々した。タキにはあたしの気持ちなんてぜったい判るはずないもん。いったい何に怒ったらいいのか判らないよ。リョウが死んだのはあたしのせいで、さびしくて悲しくて、本当はもう一瞬だって生きていたくないのに誰もあたしを死なせてすらくれない。
「祈りの巫女、宿舎へ帰ろう ―― 」
「放っておいて! あたしを1人にしてよ!」
 そのまま振り返らずに駆け出した。タキは驚いて立ち止まったみたいだったけど、今のあたしにはどうでもいいことだった。
 神官宿舎の裏手には、リョウの家に続く坂道がある。再び歩き始めたあたしは自然にその道を下っていったの。この道は、もともとあった細い獣道を、リョウが時間をかけて広げていったもの。ところどころにリョウの手が入っていて、リョウの気配に満ちていて、まるでリョウがいなくなったことが嘘のような気がする。
「リョウ」
 そう、声に出して呼びかけたら、木の陰からひょっこり顔を出してくれそう。あたしはリョウの姿を求めて、キョロキョロしながらやがてそこにたどり着いた。リョウの家。神殿のみんなが手伝って建てて、そのあと暇をみてはリョウが住みやすく改良していった、やがてはあたしも一緒に住むはずだった家。
  ―― 扉を入ると、リョウの家は何も変わらずそのままあった。
 このところ何日か帰ってなかったから、テーブルにはうっすらと埃が積もっていたけれど、それ以外何も変わってない。狩りに使う道具は壁にきちんと並べられていて、その多くはリョウが村へ行く時に持っていってたはずだから、もしかしたらランドがきれいに整備して戻してくれたのかな。横目で見て、あたしはリョウの名前を呼びながら、家の奥へと歩いていった。


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  ―― リョウ、あなたはここにいるの?
 心の中でそう声をかけながら、あたしはリョウの気配に満ちた家の中を進んでいく。右手にベッドルーム。そう、このベッドで、あたしは初めてリョウにキスしたの。あの時のようにベッドの脇に膝をついて、そっと頬を寄せると、かすかにリョウの匂いがした。そのリョウの匂いを夢中で吸い込んだ。リョウのこと、もっとたくさん感じたくて。
 いつしかあたしはリョウのベッドにもぐりこんでいた。そうしていると、全身がリョウの匂いにくるまれて、まるでリョウに抱きしめられてるみたい。勝手に涙が出てきて、でも今は誰も見てないからそのまま放っておいたの。あふれて流れた涙は枕に吸われて、いくらも経たないうちに枕がぐっしょり濡れてしまった。
  ―― リョウの嘘つき。ずっと一緒にいるって、ぜったいどこへも行かないって、そう約束したのに。どうして独りで死んじゃうの? どうしてあたしを一緒に連れて行ってくれなかったの?
  ―― あたしを守ってくれるって言ってた。あたしの家族も守ってくれるって。リョウは、あたしの父さまと母さまを守れなかったから、死に急いでしまったの? それとも、あたしの結婚相手がリョウじゃないかもしれないって聞いて、ショックを受けてしまったの?
  ―― あたしがリョウと結婚したいと言ったその言葉を、あなたは疑ってしまったの……?
 リョウが傍にいるだけで幸せだった。離れていても、リョウがあたしのことを想ってくれてるって、そう思うだけで幸せだった。ずっと傍にいて、あたしが悩んでいる時は話を聞いてくれて、リョウが悩んでいる話を聞くことができたら。そうやって2人だけの時間を積み重ねていけるんだったら、それだけでよかったの。誕生の予言も、騎士の宿命も、そんなものどうだってよかったのに。
 リョウ、お願い助けてよ。あたしは今が1番リョウの助けを必要としてるの。苦しくて、苦しくて、どうすることもできないの。たくさん泣きなさいって、カーヤは言ったけど、泣いたってぜんぜん苦しくなくならないよ。
 泣いたら、リョウを忘れられる? どのくらい泣いたらリョウを忘れるの? ……忘れることなんかできないよ。今までリョウのことを好きだった10年間分泣いたって、リョウを忘れるなんてできない。
 せめて夢の中でも会いたい。そう、思ったのかそうでなかったのか、いつの間にかあたしはリョウのベッドで眠りについていた。


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 目が覚めたとき、あたしは少し落ち着いていた。あたりは暗くなっていて、夕暮れよりも夜に近いみたい。いつもと違う目覚めに戸惑っているうちに思い出したの。ここがリョウの家で、あたしはとうとうリョウの夢を見ることができなかったんだ、って。
 夢にすらリョウは現われてくれない。まるで、早く忘れろって、もう思い出すなって言われてるみたいだよ。そんなことできるはずないのに。あんなにたくさんの未来を描いて、それがいきなり「もうリョウは死んだんだよ」って言われたって、あたしの中にあいた大きな穴をすぐに埋めることなんかできないよ。
 泣きながら眠ったからなのかな。身体を起こすと、ちょっとだけ頭が痛いことに気がついた。
 ここにずっといたら、またカーヤやタキを心配させちゃう。宿舎に帰らなきゃ。ベッドから降りて、リョウの家を出て、あたしはゆっくりとその坂道を上り始めた。足取りは重くてぜんぜん進まない。たぶんあたし、今は人に会うのがすごく怖いんだと思ったの。
 リョウが死んだこと、あたしはすごく悲しくて、苦しくて、傷ついてる。すごく混乱して、自分で自分が判らなくなってる。あたしも初めてのことだったし、あたしの回りにいる人たちだって、同じ体験をした人なんてほとんどいないんだ。だからみんな戸惑ってて、いったいどうやってあたしに接したらいいのか、判らなくなってるの。
 普段と違う振る舞いをするみんなが怖い。みんなの反応の予想がつかなくて、まるで知らない人に囲まれてるみたいで、それが怖いんだ。あたしのことを心配してくれるみんなの気持ちは嬉しいと思うし、心配させちゃいけないって思うけど、でも今はみんなのところに帰りたくないよ。こんなに暗くなるまで帰らなかったら心配させちゃうのは判ってる。でもあたし、できるだけその時を先に延ばしたくて、これ以上できないってくらいゆっくりと歩いていったの。
 それでも、着実に神殿への距離は縮まっていって、気がつくと森の出口はすぐそこだった。お日様はすっかり沈んでいて、月もまだ登っていない時間で、あたりはほとんど真っ暗闇に近い。かろうじて様子が判るのは、神官宿舎に灯りが入った部屋があるからだ。それもポツリポツリといくつかあるだけで、ほとんどの宿舎は寝静まっているのが判る。
 祈りの巫女宿舎はまだ灯りがついていた。カーヤはあたしのことを待ってるのかもしれないけど、あたしはまだ宿舎に帰る決心がつかなかった。もう少しだけ時間が欲しくて、あたしは神殿への石段を上り始めた。


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 神殿の扉を入る頃には、あたしは宿舎に帰らなかった言い訳を考えることに成功していた。守護の巫女はあたしに「できるだけ祈りを捧げて欲しい」って言ってたんだもん。あたしは帰りたくなかったんじゃなくて、守護の巫女のいいつけを守ろうとしてたの。でも、祈るための道具を何も持たずにきてしまったから、それはすごく苦しい言い訳にしかならなかった。
 聖火を絶やさないためのろうそくだけは祭壇に常備してあったから、あたしは長いろうそくを1本だけ選んで火を移した。その前で膝をついて、祈りの姿勢をとる。何もかもが略式で、それでなくても今は気持ちが不安定だったから、あたしはなかなか祈りに集中することができなかった。
  ―― 影は、あたしを殺すためにこの村に現われた。それは祈りを捧げるあたしが、神様に寄り添うことで意識を広げて、それで感じることができた影の執念。影はなんて言ってただろう。そう、影は「祈りの巫女を殺せ、祈りの巫女を滅ぼせ」って言ったんだ。
 祈りの巫女、はあたしの名前だけど、厳密にはあたしだけの名前じゃない。今この村にいる祈りの巫女はあたし1人だったけど、過去には11人の祈りの巫女がいて、それぞれ別の名前をもってるんだ。影は「ユーナ」ではなくて、あくまで「祈りの巫女」と言ってた。「祈りの巫女が我らの世界を滅ぼす」って。
 不意にその考えに行き当たって慄然とした。もしかして、影は単にあたしを狙ってきたんじゃないのかもしれない。影はあたしを殺そうとしてるんだと思ってたけど、もしかしたらそれだけじゃなかったのかもしれないよ。だって、あたしが死んだって、何10年か何100年か先には、また新しい「祈りの巫女」がこの村から生まれてくるんだもん。
 それとも、あたしよりも前に生まれた11人の祈りの巫女のうち、影の世界を滅ぼした誰かがいたの? ……ううん、影は「我らの世界を滅ぼす」とは言ったけど「我らの世界を滅ぼした」とは言わなかった。それは過去に起こった出来事じゃなくて、現在起こっているか、あるいは未来でこれから起こる出来事なんだ。
 もしもそれが現在起こっていることで、知らない間にあたしが影の世界を滅ぼそうとしていたのなら、あたしが祈ることを止めれば影は襲ってこなくなるのかもしれない。もしもあたしが影と意識を通じさせることができて、影に「もう2度と祈らない」と約束すれば、この先誰も犠牲にならずに平和を取り戻すことができるかもしれない。


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 影と和解することなんて考えもしなかった。でも、あたしは本当にそうすることができるの? リョウを殺して、父さまと母さまを殺して、オミに消えない傷を残した影と。
 あの、言葉で言い表せないほどの悪意と邪念を秘めた影の気配。あの影と意識を通じさせて、影の願いを聞くことなんか、あたしにできるの?
  ―― できない。あたしはぜったいに影を許すことなんかできない。
 だって、影はあたしのリョウを殺したの。あたしが、世界で1番大切に思ってた、あたしの世界そのものだったリョウを殺したの。リョウが死ぬ前だったら……ううん、それでもあたしは影を許せない。だって、影はあたしの大切な両親を殺して、大切なマイラを殺して、大切なライとオミをあんなに辛い目にあわせたんだもん。
 あたしの中に、大きな憎しみの心が育っていることに、あたしは気づいた。今まであたしは誰かを憎んだことなんかなかった。だから誰かを憎むことがどんなことかなんて、あたしは知らなかった。でもそれは紛れもなく憎しみの心だった。
 同時に気づいたの。どうやったらリョウがいない心の穴を埋めることができるのか、って答え。この空白を影への憎しみで埋めたらいいんだ。たくさん憎んで、その憎しみの力で影を倒すことができたら、あたしはきっとこの悲しみから立ち直ることができるよ。
  ―― だってリョウがいないんだから。あたしの心の中を愛情で満たしてくれていたリョウは、今はもういないの。この空っぽの心の中を満たしてくれるものって、リョウの愛情がなかったら、もう憎しみしかないよ。……影だけじゃない。あたしは自分自身だって憎まずにいられないんだ。
 今、判った。悲しみよりも憎しみの方が、人に力を与えてくれるんだ、ってこと。誰かを憎む心は重くて、苦しくて、すごく醜いけど、でも今あたしを生かしてくれるのは憎しみだけなんだ。今まではどうして人が憎しみを持つのか判らなかった。人の愛情から遠ざかって、孤独になって、それでも憎しみを捨てられない人がどうして存在するのか。
 愛情を失った空白を、憎しみは埋めてくれる。新しい生きる力をくれる。そして……やがてあたしも思うのだろう。この憎しみを失って、生きる意味を失うことこそが恐ろしいと。


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 リョウ、今のあたし、すごく醜いだろうね。きっとリョウが好きでいてくれたユーナとは別人みたいだと思う。でもね、あたしはそれでもいいと思うの。だってあたしはもう誰にも愛される必要がないんだもん。リョウがいなくて、それでも生きていかなければならないあたしには、影を憎む以外に生きる道が見つからなかったんだもん。
 それでもね、リョウ。あたしはリョウが恋しい。リョウのことを好きだって、その純粋な想いだけで生きてた自分が愛しい。……きっと、愛しいと思う気持ちが強ければ強いほど、憎しみも強くなるんだね。心の空白が大きければ大きいほど、影を憎む気持ちも大きく育っていくんだ。
 ……リョウ、どうして? どうしてあなたがいないの?
 あたしのことを嫌いになったの? ……そんなはずないよね。あたしがリョウのことを好きなのと同じくらい、ううん、少なくともあたしの半分くらいは、リョウもあたしのことを好きでいてくれたよね。それなのに、どうしてリョウが死んじゃうの? どうしてあたしのところに帰ってきてくれないの……?
 リョウ、お願い、あたしのところに帰ってきてよ。だってあたし、リョウがいなかったらぜんぜんダメなんだもん。祈りの巫女にも、普通の女の子にも、なんにもなれないんだもん。このまんまじゃあたし、どんどん嫌な子になっちゃうよ。
 誰か、リョウをかえして。誰でもいいからリョウをかえして!

 リョウをあたしにかえしてよ!!

  ―― その時、不意に目の前のろうそくの火が消えた。
 あたしはハッとしてあたりを見回した。それまであたしは自分が神殿にいることすら忘れていて、だから少し驚きもあったのだけど、でもそれよりももっと奇妙な感じがあたしを捉えたの。なんだかいつもの神殿と違う。月はまだのぼっていなくて、ろうそくが消えて周囲は真っ暗になってたけど、でもそんなあたりまえの変化じゃない変化が神殿に起こっていたの。
 どこかで低いうなりが聞こえる。足元から凍りつくような冷たい空気が流れて、何か見えない気配が徐々に周囲を覆っていく。暗闇が次第に密度を増していく。


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 凍りつく空気の流れに足がすくんだ。自分が今なにをしていたのか必死に思い出そうとした。でもその時、まるで村中に響くかと思われるような、圧倒的な声があたしの頭を貫いたの。
  ―― おまえの願いをかなえる ――
 その声が聞こえた瞬間、いきなり闇が消えて、あたりは巨大な光に包まれた。
 あたし、両手で頭を抑えて悲鳴を上げたと思った。でもたぶん実際はわずかな声も出ていなかった。巨大な光のあまりの眩しさに目を閉じて、ほとんど驚きに支配された頭で思い出したの。あたし今祈りの途中だった。たとえ略式でも祈りの炎を灯して神様の前で祈った。リョウをあたしにかえして欲しいって、あたしは自分の願いを神様に祈っちゃったんだ。祈りの巫女の禁忌に触れちゃったんだ!
 でもそんなことを思ったのは一瞬で、驚愕にそのほとんどを覆い尽くされた頭の中のほんの片隅でのことだった。あれは神様の声? 神様の声を聞くのは初めてだった。そして神様は、あたしの願いをかなえる、って言ったんだ。
  ―― 目を閉じて、耳をふさいで震えていたあたしにも、次第に周囲の気配が元に戻りつつあることを感じることはできた。やがてほとんどの気配が去って、あたしが恐る恐る目を開けると、あたりは既に元の暗闇を取り戻していたの。身体は硬直してのろのろとしか動かなくて、でもようやく周囲をゆっくり見回すことができた時、あたしは今まで存在しなかったなにかの気配を背後に感じたんだ。同時に、その何かが立てたわずかな音と、小さなうめきも。
「リョウ!」
 神殿のほぼ中央に横たわるもの。あたしはそれに向かってそう叫んで、ほとんど這いずるような感じで駆け寄ったの。でもそれが何なのか、突然の光で眩んでしまったあたしの目では確かめることができなかった。周囲は月明かりもない真っ暗闇だったから、あたしはさっき消えてしまったろうそくを手探りで探して、祭壇の聖火を移して再び戻ってくる。胸の高鳴りを抑えることができなかった。横たわるそれが何なのか、確かめるその瞬間まで。
「リョウ……?」
 明かりを近づけて覗き込む。あたしの目に映ったのは、ボロボロになった服を身にまとった、身体にたくさんの傷を負った男の人。
 その人は、紛れもなく、あたしのリョウの顔をしていた。


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 リョウの顔を見た瞬間にあたしを襲ったのは、自らの内から生まれてくる恐怖の感情だった。言葉にするなら、自分が何かとんでもないことをしてしまったかのような、取り返しのつかない失敗をした時のような、そんな恐怖。もう後戻りができない、今の時間をなかったことにはできないんだって、そんな恐怖。この先の未来がまったく予測できなくて、次の瞬間に自分がどう行動していいのかぜんぜん判らない、そんな恐怖。
 目を見開いたまま時を止めていた。そんなあたしの目の前で、リョウは小さくうめきながらかすかにまぶたを開いた。一瞬ろうそくの炎の眩しさに目を閉じて、再び細く目を開けたそのとき、リョウの唇が動いたの。
「ユ……ナ……」
 かすかな空気の流れが声を運んできたその瞬間、あたしの恐怖はまったく違う感情に変わったんだ。リョウが生きていることを信じられない驚きから、生きているリョウが目の前にいる喜びに!
「リョウ! ……リョウ!」
 戻ってきてくれた! ……本当に戻ってきてくれたんだ。やっぱり死んだなんて嘘だったんだよ! だって、リョウがあたしを残して死ぬはずなんかないんだから!
 あたし、思わずリョウを抱きしめてしまいそうになって、でも全身傷だらけで痛みにうめくその声を耳にして、リョウがこのままここに置いておいていい怪我ではないことを悟ったの。
「リョウ! しっかりして! 痛いの? いったいどこが痛いの?」
 まるで、さっき目を開けてあたしの名前を呼んだ、そのことこそが奇跡だったみたい。痛みにときどき身体を痙攣させて、苦痛に歪む額にあぶら汗をかいたリョウは、ふと目を離したら今にも息を引き取ってしまいそうに思えたの。
  ―― ダメ! 今度こそぜったいにリョウを死なせたりしない! あたしがリョウを死なせない!!
 目を離すのは怖かったけど、でも勇気を振り絞って、あたしは神殿から飛び出した。


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