真・祈りの巫女
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台所に戻ると、カーヤは今度はオミの夕食を用意していた。あたしがこんなに早く病室から戻ってくるとは思ってなかったみたい。あたしは祈りの準備をして、カーヤを置いて1人で宿舎の外に出たの。外はすっかり日が落ちて、星がちらほら見え始めていた。
空を見上げていると、今この村が影の脅威にさらされていることなんて、まるで嘘のような気がしてくるの。だって、空は何も変わってないんだもん。神殿には避難所が次々に増えて、村も影に壊された家や畑が風景を変えているのに、空だけは変わらない。きっと何1000年も昔から、空は少しも変わっていないんだ。ずっと昔の、初めてこの村に生まれた予言の巫女や、2代目祈りの巫女のセーラも、今のあたしと同じように空を見上げたんだろう。
神様、あなたは覚えているの? ずっと昔、あなたに祈りを捧げたセーラや、あなたの神託を受けた予言の巫女のことを。
あたしのことを覚えていてくれるの? 村の禁忌を犯して、一生誰にも言えない言葉を背負ってしまったあたしのことを。
神殿に入って、ろうそくに聖火を移しながら、あたしは今まで思いもしなかったことを考えていたの。あたしは深く考えたことがなかったんだ。この村は、ものすごく長い時間をかけて、たくさんの人たちの手で作り上げてきたんだってこと。
空の時間から見たら、神様の時間と比べたら、村の命もあたしたち人間の命もものすごく短い。それでも精一杯生きて、自分ができなかったことを次の世代に託して、今ここに1つの村が生きてるんだ。見慣れた村の風景も、ぜんぶ小さな命の積み重ねでできてる。そんなたくさんの命に支えられて、大切に育てられてきたこの村を、影は一瞬で破壊しようとしてるんだ。
今なら判る気がする。歴代の祈りの巫女たちが、自分の命を削ってまでも村を守ろうとした理由が。
この村は、今生きている村人だけじゃなくて、過去に生きてきた1人1人の想いの結晶なんだ。川も、木も、家も畑も、人が愛して育んできた。そんなたくさんの人たちの想いが散るくらいなら、自分の命を捧げても悔いはないって、そう思ったの。だって、祈りの巫女には村を守る力があるんだもん。祈りの巫女は、村に属した1つの命なんだもん。
自分の祈りが通じなかったあの時あたしは、役に立たないなら死んでもいいって、そう思った。今はそんなことは思わないよ。だって、こんな大切な村を守るために役に立たないまま死ぬなんて、そんなことできるはずない。祈りの巫女としての役割をきちんと果たして、それからでなければあたしは死んだりできないんだ。
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祈りを神様に届けたい。これほど純粋にそう思ったことって、今までなかったような気がする。神様の理を人が理解することはできない。守りの長老が言ったように、もしかしたら神様はあたしの願いをかなえてくれないかもしれないけれど、でも祈らなければ祈りを届けることすらできない。祈りが届くならば、あとはすべて天命に従うよ。滅びるのが村の運命なら。
でも、そんなことはありえないって、あたしは信じてる。最初からそう信じればよかったんだ。だって、運命の巫女は、祈りの巫女の祈りが村の運命を紡いでいくんだって、そう言ってたんだから。
そうして、1つの祈りを終えたあとも、神様はあたしに語りかけることはしなかった。でも不思議と失望感はなかった。きっと神様には神様の都合があって、そうたびたび声を聞かせてくれるなんてできないって思ったから。
ろうそくを片付けて扉の外に出ると、まだいくぶん温かみを残した外気に包まれた。……どうしてだろう。なんだか世界がすごく愛しく感じるの。空気の暖かさなんて、少し前まではまったく感じることができなかったのに。
何がきっかけだったのか、思い出すこともできないけど、あたしは今まですごく頑張ってきたんだってことが判った。あたしは祈りの巫女だから、みんなの期待を背負ってるんだから、何があっても祈りの巫女の使命を全うしなくちゃいけないんだ、って。あたし、頑張りすぎてたみたい。だから会議のちょっとしたことで動揺して倒れるくらい、気持ちが脆くなってたんだ。
たぶん、タキの思い遣りや、オミの悩み、いつもと同じように振舞ってたカーヤを見て、あたしの中で何かが変わったの。自分1人で張り詰めてることがばかばかしく思えたのかもしれない。だって、みんな自分のことで一生懸命で、こんな時なのにちゃんと生きてるんだもん。
あたしはもっと力を抜いててもいい。みんなと同じように一生懸命生きていたら、きっと神様は助けてくれる。祈りがかなえられないからって、焦らなくていいの。だって、あたしにはいつかみんなの願いをかなえる力があるんだから。
宿舎の扉を開けると、カーヤが食器の片付けをしているところだった。
「ただいまカーヤ。……ねえ、今日、カーヤの部屋で一緒に寝てもいい?」
カーヤはちょっと首をかしげたけど、やがて呆れたように笑って、あたしのわがままを許してくれたんだ。
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眠るまでの間、あたしは自分の部屋でこのところずっと滞っていた日記をつけた。ずいぶん溜めてしまったから、詳細にという訳にはいかなかったけれど、ひとまず今日の分までは追いつくことができたの。それにずいぶん時間がかかってしまったから、あたしがカーヤの部屋を訪れた時には、いつもの眠る時間をかなりすぎてしまっていた。
カーヤの部屋にはベッドが2つあって、宿舎の住人が増えた時にはこの部屋は2人部屋にできるようになっている。村には新しい怪我人は出ていなかったけれど、カーヤは空いているベッドがいつでも使えるように整えてくれていたから、ふだん使っていない方のベッドもそれを感じさせないくらい快適だった。こんな風にカーヤと2人で寝るのって、実は初めてのことだったの。あたしはなんとなくワクワクして、少し興奮気味で、カーヤも呆れてしまったみたいだった。
「子供の頃にね、何日間かアタワ橋の東にある親戚の家に行ったことがあるの。あんまりはっきり覚えてないんだけど、たぶんオミがちょっとした病気にかかって、治るまでの間あたしだけ預けられたのね。その家にはあたしよりも少し年上の女の子がいて、その子の部屋で毎日一緒に眠ったの。父さまや母さまに会えなくてさびしがってたあたしに、その子はいろいろな物語を聞かせてくれたのよ」
暗闇の中、あたしは目を閉じて、その時のことを思い出していた。さびしかった思い出よりも、その子が話してくれた物語がとても面白かったことの方を思い出すの。あの時はしばらく我慢したら両親に会えると思ってた。でも、今はもう2度と両親に会うことはできない。
あたしは今、カーヤに甘えることを自分で許していたの。オミにはあんなことを言ったのに、あたし自身はまるっきり反対のことをしていたんだ。
「……物語は、あんまり知らないわ。あたしはユーナのような体験はしてないもの。その代わりに野菜たちの話を聞いて育ったのよ」
「例えば今回のような時、野菜はどんなことを言うの? 自分たちの畑が影に踏みにじられて、育ててくれた人は助けてくれなくて、自分で逃げることもできない。そんな時、野菜はどんな言葉をしゃべるの? 悲鳴を上げたりするの?」
「そうね、あたしはこの災厄で野菜の声は聞いてないけど、嵐の時の声は聞いたことがあるわ。……悲鳴を上げる野菜もいた。でも、多くはただ黙って、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つのよ」
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あたしは、畑の中で嵐に怯えながら震えている野菜たちを想像して、ちょっと胸が痛くなった。でも、その痛みで気づいたの。その時の野菜たちの怯えや絶望は、今の村人たちに共通するものがあるんだ、って。
野菜はカーヤにいろいろ訴えて、手を加えてもらって、いい環境を手に入れる。それって、あたしが神様に祈るのと似てるんだ。カーヤはすべての野菜の声を聞くことができて、今は畑にカーヤはいない。そういう違いを探せばたくさんあるけど、野菜たちにとってのカーヤが、あたしたちにとっての神様だってことは、すごくよく判ったの。
「それで? カーヤはどうするの?」
「ほとんど何もできないわ。川の水があふれて流れ込まないように板を立てるくらいよ。でも、そんなものはほとんど役には立たないわ。風で倒れて、鉄砲水に流されて、泥の中に埋まってしまうの。嵐が引いたときにはもう野菜の声は聞こえない。すべて死んでしまうのよ」
「……」
「あ、でも誤解しないで。そんなひどい嵐はこの村にはめったに来ないから、ほとんどの場合はちゃんと耐えてくれるわ。それに、たとえすべてが流されてしまっても、あたしたちは諦めたりなんかしない。また1から種を植えて、新しい野菜を育てるのよ」
1度似てると思ってしまったからだろう、あたしはカーヤの話を村の災厄と重ねていた。ただ黙って災厄が通り過ぎるのを待つ村人たちと、何もできない神様。そして、村が滅びてしまえば、またそこに新しい村を作り始める神様。……ううん、あたしたちは野菜とは違う。だって、みんな影と戦える。リョウは影を殺すことができたし、それができない村の人たちは西の森に穴を掘ることができる。それに、あたしたちは動けるんだもん。影から逃げることだってできるんだ。
たとえ神様が影にかなわなくても、あたしたちはまた村を1から作り上げることもできる。……そんなの、まだ考えちゃいけないよ。神様はきっと影より強いもん。祈りの巫女のあたしは、少なくともあたしだけは、神様を信じていなくちゃいけないんだ。
神様を信じるのも祈りの巫女の仕事だよ ―― そう、リョウが言ってくれたのはいつだろう。もうあんまり思い出せない。なんだかすごく、リョウの存在が遠い ――
でも、そう感じたのはたぶん眠かったからで、いつしかあたしはすっかり寝入ってしまっていたの。
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あたしの身体は、いつもよりもたくさんの睡眠を必要としていたみたい。昨日は午後もずっと眠っていたのに、今朝起きた時には既に朝食の時間になっていたの。カーヤに声をかけられて、目覚めた瞬間は戸惑ったと同時にちょっともったいなく思ったんだ。せっかくカーヤと一緒に寝たのに、あんまりお話できなかったから。
「ほんとにすぐ眠っちゃったわね。ずいぶん疲れてるみたいよ。大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。今日はたくさん眠ったもの。それに、カーヤのおいしい料理もたくさん食べたし」
そんなあたしの言葉に、カーヤは微笑んで、朝食が並んだ食卓へと案内してくれた。
食事の間はたわいない会話を交わして、食べ終わって少しくつろいでいると、宿舎にはタキとローグが連れ立ってやってきたの。ローグはこのところ毎日午前中にオミの様子を診てくれていて、診察にはカーヤが付き添ってしまったから、あたしは食卓でタキと少し話をしたんだ。
「 ―― 明後日の影の襲撃についてはカーヤに話しておいた通りで、ほとんど付け加えることはないんだ。また前回と同じように村人を神殿の敷地に避難させて、祈りの巫女には神殿で祈ってもらうことになってる。運命の巫女は定期的に未来を見てるから、明後日の午前中はまた会議があるよ。でも、それまでは自由だから、居場所さえはっきりさせておけば宿舎にいる必要はないね」
「それじゃ、今日もリョウのところへ行って大丈夫なのね」
「ああ。リョウは今では村の救世主だし、君がリョウのところへ行くのに反対する人はいないよ。もちろん、祈りの巫女として毎日の祈りを欠かして欲しくはないけどね。実際、君のリョウに関する祈りを疑ってる人がまったくいない訳じゃないから」
そうか。嘘は真実にはかなわない。必ず真実に辿り着いてしまう人はいる。守護の巫女がどんなに巧みに嘘をついたとしても、それを嘘だと見破ってしまう人が出てくるのはしかたがないことなんだ。
「リョウのところへ行く前にちゃんと祈りは済ませるわ。それに、今はミイがいてくれるから、あたしが泊り込む必要もないし。夕方帰ってきてからもう1度祈りを捧げられると思う。もちろん明日も、明後日もよ」
タキは微笑んでいたけれど、あたしがそう言っただけではタキの心配事をすべて解消することはできないみたいだった。
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「 ―― ねえ、祈りの巫女。君は本当に信じている? ……リョウが村の救世主だ、って」
少し言いづらそうにタキが言って、あたしを驚かせた。
「信じるわ。だって、リョウはあたしに言ったから。俺は影を村から追い出すために生き返った、って」
「本当に?」
あたしがうなずくと、タキは信じられないように目を見開いたの。
「それを守護の巫女に話したのか? いつ?」
「話してないわ。でも、リョウはもともと右の騎士なんだもん。リョウがそう言ったとしてもぜんぜん不思議じゃないし、守護の巫女がそういう判断を下したのも当然だと思う。だからあたし、リョウが村の救世主だってカーヤに聞いて、すごく納得できたの」
タキは本当に疑り深いみたい。あたしがそう言っても、少しも納得したようには見えなかったの。あたし、リョウが影と戦うのはすごく心配で、できれば村の救世主なんかじゃなければいいと思ってる。でも、リョウ自身がそうあることを望んでいるのなら、あたしは何も言えないよ。あたしにできることは、リョウが無事でいるように祈りを捧げることだけなんだ。
「……なんか、オレが知らない間にずいぶんいろんなことが進んでたみたいだな。実際そんなに離れちゃいなかったはずなんだけど」
「それだけよ。あとはぜんぜん変わってないわ。リョウの記憶も戻ってないし」
「オレもまたリョウに会わないといけないな。祈りの巫女と一緒に行きたいけど、午前中は用事があるから午後になるか」
最後の方はほとんど独り言のようだったから、あたしは返事をしなかった。……タキって、自分がなんでも知ってないと気がすまないようなところがあるみたい。その探究心旺盛なところや知識の豊富さにはずいぶん助けられてるから、今まではなんとも思ってなかったけど、これからのことを思うとちょっとだけ不安な気がしたの。
ちょうどその時、ローグが診察を終えて部屋から出てきたから、あたしたちも話を止めてローグとカーヤを迎えた。
「オミのことでは本当にありがとう。あんなにひどい怪我だったのに、これほど早く元気になったのはローグのおかげだわ」
ローグは微笑を浮かべて、おそらくあたしにオミの状態を説明するため、食卓のあいている椅子に腰を下ろしたの。
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カーヤが自然な動作でお茶の用意を始めたから、それはカーヤに任せることにして、あたしはローグに向き直った。
「まあ、ひところよりはずいぶん元気になったね。でも、オミは肋骨を傷めてるから、今でもけっこう苦しいはずだよ。自分で起き上がれるようになるにはもう少しかかりそうだ。しばらく様子を見るけど、もしも起き上がれそうなら徐々に歩き回っても大丈夫だよ」
そう、ローグの話を聞いて、あたしは心配が増したと同時に少しだけ安心することができたの。オミの怪我は、時間が経てばちゃんと元の通りに治るから。ベッドにつぶされて足の骨を砕かれてしまったライよりはずっと運がよかったんだ。
「よかった。安心したわ。……ライはどう? 少しは元気になってるの?」
「ライ、か。……そうだな、身体の方は少しずつよくなってるよ。食事の量も増えてきたしね。ただ、表情に生気がないんだ。なんと言うんだろうね。世の中には自分の力ではどうにもならないことがあるんだってことを、あの幼さで知ってしまった。そんな痛ましさを感じるよ。……まだたったの2歳で、言葉すらしゃべれないのにね」
あたし、しばらくライに会いに行ってなかったことを後悔した。すぐにでも会いに行きたかったけど、でもなんだか気持ちが萎えてしまって、そんな気になれなかったんだ。どうしてだろうって、ちょっと考えて気づいたの。前に会った時、ライはあたしの顔を見て大きな声で泣いていた。自分では気づいてなかったけど、あの時あたしは少なからず傷ついていたんだ。
「ローグ、ライのことをお願い。たくさん優しくしてあげて」
「祈りの巫女は、まだライに会う勇気は出ないかな?」
ローグは相変わらず鋭くて、あたしをドキリとさせたの。詳しい経緯を知らないタキとカーヤも、ちょっと驚いてあたしとローグを見比べた。
「ライはまだ自分自身の人間関係が狭いからね、少しでもライと顔見知りの君がきてくれると、それだけでも元気が出ると思うんだ。もしも勇気が出せたら、いつでもかまわないからぜひ見舞ってあげて欲しい。……実際、祈りの巫女くらいしかいないんだよ。ベイクの家の近くに住んでいた人たちはみんな被害にあって、他人の子供を心配するどころじゃなくなってるから」
ローグの言うことは理解できたけど、あたしはまだローグにはっきり約束することはできなかった。
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タキとローグは、来た時と同じように連れ立って帰っていった。あたしはオミの顔を見に行って、少しねぎらったあと、タキとの約束どおり神殿へ祈りに行った。祈りを終えていったん宿舎へ戻ってから、オミの世話をカーヤに任せて再びリョウの家へと向かったの。その間にも日はだんだん高くなっていて、自然に足が速くなるのが自分でも判った。
リョウの家近くまで来た時、いつもなら割と静かなはずのこのあたりで、人の声と何か物音が聞こえるのに気づいたの。更に道を降りていくと、音と声はだんだん近づいてきて、やがて視界が開けた時、あたしはその光景にちょっと驚かされていた。
「ランド、……リョウ!」
リョウの家の周辺はけっこう広く整地されていて、庭のようになってるんだけど、そこで今ランドとリョウが立って何かをしていたの。あたしの声に2人は気づいて振り返った。リョウは両手に狩りに使う道具を持っていたんだ。
「よう、ユーナ。ずいぶん早いじゃないか。神殿の方は片付いたのか?」
ランドはにこやかにあたしを迎えてくれたけど、リョウは一瞥を投げただけで、すぐにあちらを向いてしまった。
「なにをしてるの? リョウ、もう動いて大丈夫なの?」
「本人は大丈夫だって言ってるな。タキも今日から動いていいって言ったそうじゃないか」
「……ランド、続けてくれ」
あたしの方へ歩いてこようとするランドを、うしろからリョウが苛立った口調で引きとめたの。ランドはちょっと苦笑して、呆れたように腕を広げて戻っていく。でも、それだけではあんまりだと思ったんだろう。リョウの方を向いたままあたしに声をかけてくれた。
「中にミイがいるから詳しいことは聞いてくれ。これだけやっつけたら少し休憩できると思うから」
それからはもうあたしがいることなんか忘れたように、2人は話しながら今までしていたことの続きを始めたみたい。リョウは狩りの道具を握っていて、ランドがその使い方を説明しているように見えたの。あたしは2人の邪魔にならないようにうしろを通って、リョウの家の扉をノックした。
ミイが扉を開けてくれる間にもう1度振り返ると、リョウは真剣な表情で立木に向かって何かを投げたところだった。
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ミイは汗をかいて休憩しにくる2人のためにたくさん沸かしたお茶を冷ましていて、あたしにも1杯ご馳走してくれた。
「リョウは急にどうしたの? あんなに動いて、傷の方は大丈夫なの?」
だって、リョウは昨日までベッドで寝ていたの。確かにタキは今日から動いていいって言ってたけど、それはたぶん日常的な動作のことで、狩人の仕事をしていいって意味じゃなかったはずだから。
「傷のことはね、あたしもよく言い聞かせたから、たぶん大丈夫だと思うわ。ランドも、少しでも無茶したら2度と教えないって、リョウと約束したみたい。リョウは昔からあたしたちに逆らったことなんてないのよ。怒らせたら怖いって、よく知ってるの」
「でも、リョウは記憶喪失なの! 昔のことはぜんぜん覚えてないのよ」
「頭で考えて判らなくても、身体のどこかできっと覚えてる。あたしとランドはね、昨日そのことを確信したの。……ちょっと長い話になるけど、昨日の夜から順を追って話してあげるわね」
ミイは、どこから話そうかちょっと思い巡らすようにお茶を飲んで、やがて静かに話し始めた。
「昨日の夕方、ランドがここへきたの。あたし、ランドにリョウのことを任せて、村にリョウの両親を迎えに行こうと思ってたのね。でも、そろそろ暗くなりそうだったから、あたし1人じゃ危ないって。疲れてるのにランド、代わりにもう1度村へ降りてくれたのよ」
ミイの話はそんなノロケから始まったから、聞きながらあたしは思わず吹き出しそうになってしまった。
「ランドが帰ってきたときにはずいぶん暗くなってて、あたしはリョウの食事だけ先に済ませて、ランドの分は用意だけして待ってたの。ランドはタカとセイを一緒に連れてきてて、事情の方は道々話してくれてたみたい。あたしが先にリョウの部屋に入って、両親がきていることをリョウに話したの。それからランドが2人を連れて部屋に入って、タカとセイはすぐにリョウの傍に駆け寄った。……セイは終始泣きじゃくってたわ。リョウのベッドに突っ伏して、時々リョウの顔を見上げて、言葉になってなかった。タカはずっとリョウの肩を抱いてたの。リョウはしばらく呆然としてたんだけど、そのうちね、こらえきれないように涙を流したの。『ごめんなさい。俺はあなたたちのことを覚えてない』って言って」
あたしは、その時のリョウの様子が手に取るように判る気がした。
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「セイがずいぶん取り乱してたから、落ち着いた頃にまたくるって言って、2人ともそれほど長い時間はいなかったの。セイのね、リョウが死んだ時の絶望も、生きてると知ったときの喜びも、記憶がないと知ったときの絶望も、あたしは判る気がするのよ。でも、あたしは昨日1日リョウのことをずっと見てたでしょう? だから、リョウがあんな風に泣いたって、それだけで2人は十分報われてるように思う。……リョウってね、昔からあんまり両親としっくりいってなかった。相性が悪かったのかな。でも、あたしたちに愚痴をこぼしたことなんてないのよ。リョウはリョウなりに必死で両親とうまくやろうと頑張ってた」
あたしは前にリョウが言ってたことを思い出した。子供の頃、あたしはリョウが両親とうまくいってないなんてぜんぜん知らなかったの。なぜなら、リョウはいつも両親のことを「好きな人たち」と呼んでたから。あたしが祈りの巫女になることで悩んでいた時も、「オレの好きな両親やユーナを守るために狩人になった」と話してくれたんだ。
「あとでランドと話したとき、ランドも同じような印象を持ったって言ってたの。リョウはきっとどこかで両親のことを覚えてるんだ、って。もしも2人のことを覚えてなかったら、あんな風に泣いたりしなかったと思うもの。だって、リョウは人の涙につられて泣くような、そんな可愛い気のある子じゃなかったでしょう?」
あたし、そんなミイの言い方に、思わず笑いを誘われていた。ミイにとっては、きっとリョウも小さな頃とあんまり変わってないんだ。ランドがあたしを子供扱いするみたいに。
「それじゃ、リョウが記憶を取り戻す可能性もあるってことね。リョウの記憶は完全に消えちゃった訳じゃないんだ」
「両親のことであれだけ心を動かされたんだもの。ユーナのこともすぐに思い出すわ。ランドもそう思ったから、リョウに狩りの仕方を教えることにしたのよ。両親が帰ったあとにリョウとランドはずいぶん長い間話をしてた。ランドなんか、お夕食食べるのも忘れて話してるんだもん。片付かないったら」
あたしはまた笑って、そのあとミイがランドとのおノロケを披露してくれるのを、ずっと笑いながら聞いていたの。
しばらくそうして話していると、それまで外で狩り道具の使い方を練習していた2人が戻ってきたんだ。リョウは久しぶりに身体を動かしたせいでちょっと疲れて見えたけど、でも表情はベッドに寝ていた頃よりもずっと晴れやかだった。
―― 以下、後半へ続く ――
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