真・祈りの巫女



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 神殿前広場は避難所が立ち始めていて、だいぶ狭くなってしまっていたけれど、そこには今もたくさんの人たちがいて情報を交換しあっていた。次々と運ばれてくる怪我人たちを、神官や巫女の宿舎の空いているベッドに振り分けている。そこにはカーヤもいて、あたしを見つけると駆け寄ってきたの。たぶんカーヤはあたしのことを探していたんだ。
「ユーナ! ……両親のことは聞いたわ。あたし、なんて言ったらいいか……」
 あたしはそれ以上聞きたくなくて、唇を固く結んで激しく首を振った。そんなあたしの反応はたぶん異常だった。カーヤもそれを感じたようで、あたしにそれ以上両親の話をしようとはしなかった。
「怪我人がどんどん増え続けてるの。今回は火事で家を無くした人も多かったから、怪我をした人のほとんどはここへ運ばれてくるわ。今はまだ共同宿舎で間に合うけど、いずれは祈りの巫女の宿舎にも怪我人を運び込まなければならないかもしれない。あたしもできるだけ他へ回してもらうようにするけど」
 あたしの宿舎には、空いているベッドが2つある。おそらくカーヤも他の巫女もかなり混乱しているのだろう。あたしが怪我人を受け入れることを拒むはずなんかないのに。
「その時はいつでも来てもらって。いちいちあたしに断らなくてもいいから」
「判ったわ。守護の巫女にもそう伝えておくわ」
 カーヤと話している間にタキは用事を済ませたようで、すぐに戻ってきていた。
「ランド、祈りの巫女の弟はもうすぐにでもくるのか?」
「ああ、もうくる頃だな」
「年はいくつになるんだ?」
 どうしてタキがそんなことを訊くのか判らなかった。ランドもそう思ったようで、不思議そうな顔で返事をした。
「確か13か4か……。それがどうかしたのか?」
「13歳だともう子供じゃないな。……今見てきたら、神官の共同宿舎のベッドがないんだ。明日になればいくつか空けられるんだけど」


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 神官の宿舎に怪我人用のベッドが不足している。あたしがそれを聞いて、そう言い出すのは、ごく自然な流れだった。
「オミはあたしの宿舎に運んで。あたしの弟だもの。あたしが看てあげたいの」
 タキはちょっと驚いたようだった。
「祈りの巫女、いくら弟でも、オミはもう13歳なんだろう? 子供ならいざ知らず、大人の男が巫女の宿舎に寝泊りするのは困るよ」
「どうして? だってオミは弟なのよ。それに大きな怪我をしているの。動けない怪我人が間違いなんか起こさないわ」
「そうよね。……タキ、あたしからもお願い。祈りの巫女を弟の傍にいさせてあげて」
 タキは当惑した様子で、しばらく返事をためらっていた。タキの言うことも判るの。神殿には秩序が必要で、たとえ弟だからといって成人した男性を巫女の宿舎に寝泊りさせることが、この先どんな波紋を広げるのか予想できないから。
 だけどあたしは、たとえ神殿の秩序を破ってでも、オミを傍に置きたかったの。今なら神官の宿舎にベッドが足りないことを理由にできる。祈りの巫女の責任よりもオミの方を大切に思ったんだ。
 あたしの精神のバランスが崩れている。普段のあたしだったら、こんな強引なことはぜったいにしないはずだから。たぶん、周りで見ているみんなにもそれが判ったんだろう。カーヤはあたしの意見を受け入れて、タキもしばらくの沈黙のあと、心を決めたようにそう言ったから。
「……判ったよ。オレの一存ではなんともできないことだから、守護の巫女に掛け合ってくる。オレが戻るまではオミを勝手に宿舎に入れたりしないって、約束してくれ ―― 」
 タキが再び駆けていってしまうと、ほとんど入れ違いくらいのタイミングで、オミを乗せた担架が坂を上がってきたんだ。
 あたしは担架に駆け寄って、動きつづけている担架を覗き込んだ。オミの怪我は応急処置は施されているものの、かなりひどくて、傷口を縛った包帯から血がにじみ出ているのが判る。あたしが声をかけると、オミは目を開けてしっかりあたしを見た。
「……ユーナ。……ごめん、ユーナ。……父さんと母さん、守れなくて……」
 そう言ったオミはすごく痛々しくて、あたしはこれからぜったいオミのことを守ろうって、そう決心していた。


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 タキが戻ってきたとき、うしろには守護の巫女が一緒についてきていた。そこでもひと悶着あって、怪我人のオミをはさんであたしは必死で守護の巫女に食い下がった。途中でローグが他の怪我人の治療を終えてやってきて、オミをひと目見て言ったの。
「死ぬほどの怪我じゃないが、こんなところにいつまでも放置しておいていい怪我でもない。早くベッドに案内してくれ」
「神官のベッドがいっぱいなのよ。だから今相談しているの」
「ベッドならあたしの部屋にあるわ」
「だったら早く祈りの巫女のベッドに寝かせてやるんだ。相談が長引けば、死ななくてもいい男が1人死ぬことになるぞ」
 けっきょく、この問答に決着をつけたのは、ローグのこの一声だったんだ。ローグはほとんど強引にオミをあたしの勉強部屋へと運んで、そこで傷の具合を診てくれたの。最初にローグが言ったとおり、オミは擦り傷や切り傷は多かったけれど、それが治れば普通に生活できるだろうって話だった。
 ローグを見送るために扉近くまで来たとき、ローグはいったん足を止めた。
「祈りの巫女、オミの様子をずっと見ていてくれるかな。……もちろん、君の仕事の合間で十分なんだけど」
 あたしは最初からそのつもりだったから、ローグに大きくうなずいた。
「オミの話をよく聞いてやって欲しいんだ。もう、オミには君しかいない。君がいなければオミはたった1人になってしまうんだよ」
 判ってたから、あたしはローグを安心させるように、少しだけ微笑んだ。そうしてローグを見送って、再びオミの病室に戻ってくる。あたしの勉強部屋が今日からオミの病室だった。たぶん、またカーヤに苦労をかけてしまうけれど、あたしはオミが傍にいてくれることがすごく嬉しかったんだ。
 オミの寝顔を、あたしは勉強机の椅子を引いてきて、そっと覗き込む。そうしてしばらく見ていたら、不意にその姿勢が、昼間リョウがきていたときと同じだということに気が付いた。リョウもこんな風に、あのあと寝付いたあたしの寝顔を眺めたのかもしれない。
 この日夜が明けるまで、あたしはオミの寝顔を見つめつづけていた。だからあたしは、両親のことも、祈りのことも、影のことも村のことも、何も考えずにいられたんだ。


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 翌朝、あたしは少しベッドの脇でうとうとしてしまったみたい。目を覚ましたときには日もずいぶん高くなっていて、午前中は日が当たらないこの部屋にも少しだけ光が差し込んできていた。ベッドのオミは寝息も穏やかで、あたしがいることには気づいていないようによく眠っている。宿舎の入り口の扉が開く音がして、かすかにタキの声がしたから、どうやらあたしはタキが来たときのノックの音で目覚めてしまったらしかった。
 カーヤがタキを招き入れている声も小さく聞こえた。たぶん2人とも、あたしとオミに気を遣って、声を潜めてくれているんだ。
「祈りの巫女は? まだオミの部屋?」
「ええ、昨日から1歩も出てこないわ。もしかしたら眠ってるのかもしれない」
「カーヤ、……改めてお悔やみを言うよ。……弟さん、残念だった」
 あたし、聞くつもりはぜんぜんなかったけど、いつのまにか2人の会話を聞いてしまっていた。カーヤ、昨日の災厄で弟を亡くしていたんだ。あたしは自分のことだけに夢中で、カーヤの家族のことは聞きもしなかった。
 一気に目が醒めたようになって、あたしは椅子から立ち上がって、部屋のドアを開けようとした。その時またタキの声が聞こえてきて、あたしの名前を口にしたから、あたしは思わず足を止めてしまったの。
「祈りの巫女が眠ってるならいいんだ。守護の巫女も、目を覚ますまではそのままそっとしておくようにって言ってたから。……カーヤ、君は、祈りの巫女の様子、気にならなかった?」
 部屋を出るタイミングを逃してしまって、そのままドアの向こうの声に耳を傾けた。
「……ええ。どこがどう違うって、はっきり言えないのだけど、昨日はいつものユーナじゃなかったわ。……そう、まるで、両親が死んだことを信じていないみたい。普通なら自分の両親が死んだらもっと悲しむと思うの。……ユーナ、悲しんでなかった ―― 」
 2人の会話は、聞こえてはいたけれど、あたしの中に深く入ってくることはなかった。なんだか考えるのが面倒だった。そんなことよりもあたしには考えなければならないことがいっぱいあるんだもん。
 あたしはわざと音を立てて椅子を動かした。そして、ドアを開けて、2人がいる食卓へと向かった。


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 食卓に向かい合わせに座ったカーヤとタキは、あたしが部屋から出て近づくのを息を飲んで見つめていた。そんな2人を交互に見て、笑顔を浮かべて挨拶する。
「おはよう、カーヤ、タキ」
「……おはようユーナ」
「おはよう、祈りの巫女」
 一瞬遅れて、2人も挨拶を返してくれる。あたしが2人の会話を聞いていたかどうか探ろうとしているみたい。さっきまで2人が話していたことなんて、あたしが聞いていたとしてもどうってことないのに。
「オミのことでは心配をかけてごめんなさい。ローグが痛み止めをくれたから、ずっと静かに眠ったままだったわ。傷が深いからまだしばらくは起きられないと思うけど、ローグも傷が治れば元のように生活できるだろうって言ってたから、心配はいらないと思うの。あたし、これからはできるだけオミを看病するわ」
 そう言いながらテーブルの自分の席に腰掛けると、カーヤは台所からお茶を1杯運んできてくれた。
「ユーナ、オミの世話はあたしに任せて。あたし、人の看病は慣れてるから」
「え? でも……」
「動けない人の看病って、慣れていないとなかなかうまくいかないわ。ユーナには祈りの巫女の役目もあるから、オミの世話をぜんぶやるのは無理よ。それに、慣れない人に看病されるのは、オミの方も大変だと思う。ね、あたしに任せて」
 カーヤはそう言ってくれて、あたしは嬉しかったけど、少し後ろめたい気持ちにもなっていたんだ。でも、カーヤが言う通り、あたしがオミの世話をしていたらどうしても祈りの巫女の役目がおろそかになる。この村にはあたしのほかに祈りの巫女はいないんだもん。これからの村のことを考えたら、カーヤの提案はもっともなことだった。
「……カーヤにお願いしちゃってもいいの?」
 カーヤはにっこり微笑んで、あたしの甘えを許してくれた。


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 カーヤはさっそくオミの世話に必要な道具を用意するために宿舎を出て行って、間もなくあたしとタキに朝食を運んできてくれた。それを食べながら、タキは昨日話せなかった影のことや、村の現状なんかを話してくれたの。その間にもカーヤは宿舎を出たり入ったりして、オミのためにいろいろなものを用意してくれたんだ。どうやらカーヤが人の看病に慣れているというのは嘘じゃないみたいだった。
「 ―― 影が現われる直前には、狩人が村のあちこちにいた。西の森にいたのはそのうち3人で、彼らの話によると、影はやっぱり沼から現われたそうだよ。だけど、その現われ方が不思議なんだ。オレは直接話を聞いてきたんだけど、今でも信じられない」
「沼の中からそれほど大きな生き物が出てきたら、沼の水であたりが濡れるはずだって聞いたわ。でもどこも濡れてなかったって」
「水の中から出てきたんじゃないんだ。影は沼の真上、空中にいきなり現われて、周りの木をなぎ倒しながら森の外に走っていったんだ」
 沼の真上って……。影は何もないところから出てきたの? そんなのタキじゃなくたって誰も信じられないよ。
「空を飛んできたとか、落ちてきたとか……?」
「いや、狩人たちは影は空を飛んでないって断言してる。いきなり沼のすぐ上に姿を現わして、それからゆっくり岸に降り立って、そのあと凄まじい唸り声を上げて走り去ったって。3人の狩人のうち2人はすぐに影を追いかけていったんだけど、1人はそのまま動くことができなかったから、2つ目の影が現われるところも見たんだ。その影の現われ方もまったく同じだった。ただ、姿は少し違うように見えたって、その狩人は証言してる」
 あたしはもう何も言えなくなってしまって、黙ったままタキの話の続きに耳を傾けた。
「最初に現われた影は森から出ると村を北側に回り込むように走っていって、北側にあった畑と近くの家に襲い掛かったんだ。なにしろすごい唸り声がしたから、北側に住んでいた人たちはかなり遠くからでも影が近づいていることには気づいて、家を捨てて逃げ惑った。でも、そのうち何人かの人は逃げ遅れて、家の下敷きになったり、影に踏み潰されたりして命を落とした。……カーヤの弟のクニもその1人だよ」
 ……そうか、カーヤの家は畑を作ってるんだって、前に聞いたことがある。村の北側には畑を作る人たちが多く住んでいたんだ。
「そして、その影に気を取られていた隙に、もう1つの影が現われて、村の南側に回り込んだんだ」


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「前の日の夜に初めて現われた影を目撃した人は、この2つ目の影がその影と同じだったような気がするって言ってた。今回現われた2つの影は、姿もかなり違っているんだけど、足跡もずいぶん違うんだ。今朝明るくなってから足跡を見て、この2つ目の影が前日に初めて現われた影と同じ足跡だったことが確認されてる。昨日この影は村の道に沿って東に進んでいって、祈りの巫女、君の家の近くまできて突然進路を変えて、君の家を踏み潰した」
 タキの言葉を聞いて、あたしは昨日自分で思ったことをまた思い出したの。影が、最初からあたしの両親を狙って現われたんじゃないか、って。今のタキの話し振りを聞いてたってそうとしか思えなかった。だって、2つ目の影は他の家には見向きもしないで、あたしの家を潰しにきたんだから。
「……最初からあたしの家族が狙われていたの? ……それとも、影はあたしがそこにいると思って、あたしを狙ってきたの……?」
 考えたくない。考え続けていたら、あたしはいずれその答えにたどり着いてしまうから。
  ―― 父さまや母さまが死んだのは、あたしが祈りの巫女として生まれたせいなんだ、って答えに ――
 タキは、あたしの問いへの答えを、既に用意していたみたいだった。
「影が獰猛なだけの獣なのか、それともなにか目的があって襲ってくるのか、今の段階ではまだ何も判ってないんだ。だから最初から君の家を狙っていたように見えても、実際は単なる偶然なのかもしれないよ。それまではただ走ることだけで満足していたのに、その時急に家を踏み潰したくなって、手近にあった家を目指したのかもしれない。オミや君の両親はすぐに家を飛び出したから、自分の家の下敷きにはならなかったけど、逃げた方角が偶然にも影の行きたい方向で、両親はたまたま影の進路に逃げてしまったのかもしれない」
 そして、オミは影に崩された別の家の下敷きになって、父さまと母さまは影に踏み潰されてしまった。
 それは確かに事実なのだろうけれど、あたしはその事実をただの言葉としてだけしか受け止めることはできなかった。
 考えたくない。それ以上考えたら、あたしは何かを認めなければならなくなる。あたしは認めることを恐れている。
  ―― 父さまと母さまの死を認めたとき、あたしはその「何か」も認めずにはいられなくなるだろう。


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 タキは1枚の紙をあたしに手渡しながら言った。
「今回の災厄で死んだのは19人、その中には祈りの巫女の両親や、カーヤの弟も入ってる。あと、主だったところでは守護の巫女の母親と、運命の巫女の娘か。名前はここにまとめて書いてあるとおりだ」
 紙に書いてある父さまと母さまの名前を、あたしはまだ信じられない思いで見ていた。……守護の巫女の母さまも死んでいたんだ。昨日会ったときには、そんな素振りは少しも見せていなかったのに。
「守護の巫女と運命の巫女にお悔やみを言わなくちゃ。……カーヤにも」
「うん、そうだね」
「……マティも怪我をしたのね。お店はどうなったのかしら」
「さあ、そこまでは判らない。次に村に降りた時に見てきてあげるよ。今朝は怪我人の名前を調べるだけで精一杯だったから」
 そうか、タキは明るくなるとすぐに村に下りて、あたしの目が覚めるまでにって、これだけの名前を調べてきてくれたんだ。タキはたぶん昨日からほとんど眠ってない。あたしは紙から視線を上げて、タキの顔を見つめた。
「タキ、ありがとう。疲れたでしょう? あたし、これからまた神殿で祈りを捧げるわ。その間に少しでも休んで」
 そう言って微笑みかけると、タキは少し照れたように頭をかいた。
「オレのことはいいんだけどね。祈りの巫女は? 弟の看病でほとんど寝てないんじゃないの?」
「そうでもないわ。だってさっきまで眠ってたんだもの」
 その時、ちょうどカーヤが宿舎に帰ってきたから、あたしは椅子から立ち上がった。カーヤはあたしたちの会話を邪魔しないように、ずっと声をかけないで出入りしていたんだ。
「お帰りなさいカーヤ。オミのことでは忙しい思いをさせてごめんなさい」
「え? いいのよ、そんな。改まってそんなこと言わないでよ」
「それから……弟さんのこと聞いたわ。ごめんなさい、あたしの力が足りなくて……」


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 カーヤは持っていた荷物を床に降ろして、あたしの肩に手を置いた。
「ユーナ、あなたが謝ることじゃないわ。だって、ユーナが影を連れてきた訳じゃないもの」
 あたし、一瞬自分の顔がビクッと引きつったのが判った。
「もともと身体の弱い子だったの。そんなに長く生きないだろうとは思ってたけど、まさかこんな形で死ぬとは思ってなかった。でも、クニのことは家族みんなある程度覚悟してたから。……ユーナ、あなたに比べたら、あたしの悲しみなんてたいしたことないわ」
 ……なんだかあたし、カーヤの話すことがちゃんと聞き取れなかった。うつむいたまま動きを止めてしまったあたしを、カーヤが不審そうに覗き込む。タキも立ち上がって、あたしを覗き込んだあと、カーヤと顔を見合わせた。
「……それじゃ、ユーナ。あたしオミの様子を見てくるわね」
 あたしは返事ができなくて、カーヤはもう1度あたしの肩を叩いたあと、床の荷物を持って宿舎の奥へ歩いていく。あたしは気配だけでカーヤを見送った。 ―― だめ、深く考えたらいけない。そう、なにかに囚われそうな自分を必死で引き離していたら、タキはいつのまにかあたしのうしろにいて、あたしの両肩を引いて椅子に座らせてくれたんだ。
「祈りの巫女、やっぱり少し眠った方がいいよ。運命の巫女は今夜も影が襲ってくる予言をしてるんだから」
 椅子に崩れ落ちたあたしの前にひざまずいて、タキはあたしに微笑みかけた。それでようやくあたしはその呪縛から解き放たれたの。
「……でも、それならなおさら眠ってなんかいられないわ。あたしにはやらなければいけないことがたくさんあるんだもの」
 その時、たった今オミの病室に行ったはずのカーヤが、再び部屋から出てきたの。
「ユーナ、すぐに来て。オミの目が覚めたのよ」
 あたしは一瞬タキと顔を見合わせて、すぐに立ち上がった。そのドアまでの短い距離で急に胸がドキドキしてくる。タキもうしろからついてきてくれて、カーヤはドアを開けたままで待っててくれる。オミの怪我に触らないようにそっと顔を覗かせると、目を開けたオミは視線を天井に向けたままだったから、あたしはゆっくりとベッドに近づいていった。
 まだ目が覚めたばかりで、いくぶん混乱している風のオミは、あたしの顔を見つけるとわずかに唇の端を上げた。


80
「オミ、目が覚めたのね」
「……ユーナ」
 オミの声はかすれていて、この前会った時とはぜんぜん違っていたけど、でもそれよりもあたしはオミがあたしの名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
「ここは……?」
「あたしの宿舎よ。身体がよくなるまで、あたしがオミの傍にいる。だから安心して。痛いところはない? 欲しいものは?」
「……水、もらえる?」
「判ったわ。すぐに持ってくる」
 あたしが立ち上がろうとすると、いつのまにかすぐ傍にカーヤが来ていて、枕もとの小さなテーブルの上に用意してあった水差しを取ってあたしに手渡してくれたの。カーヤはちゃんと用意していてくれたみたい。受け取ったあたしが水差しをオミの口元に当てて傾けると、やり方が悪かったのか、オミは咳き込んでしまったんだ。
「ユーナ、あたしがやるわ」
「ええ、お願い」
 あたしはカーヤに場所を代わって、カーヤは上手にオミに水を飲ませてくれて、また場所をあけてくれる。オミはちょっと不思議そうな顔をしてカーヤを見上げていたの。
「……誰……?」
「あたしの世話係のカーヤよ。これから先しばらくオミのことを世話してくれるわ」
「具合の悪いところがあったら遠慮しないでなんでも言ってね。オミのことは自分の本当の弟だと思って世話するわ。オミも、あたしのことを本当の姉だと思っていいのよ。……もちろん、あなたにとってのユーナの存在には不足だと思うけど」
 そう言ったカーヤはもしかしたら、災厄で亡くしてしまった弟の姿をオミに見ていたのかもしれないって、あたしは思ったんだ。


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