真・祈りの巫女
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「祈りの巫女!」
あたしの肩に乗せた手に力を入れてゆすりながらカーヤが元気付けるように言う。死者のために祈るのはあたしじゃなくて聖櫃の巫女の役目なんだ。祈りの巫女の祈りは、今生きている人たちが幸せになるための祈り。あたしのマイラのための祈りはもう終わったんだ。
―― マイラ、あなたは幸せだったよね。こんなに若くて死んでしまったけれど、ライを産んで育てたことで、ライがいなかった時よりもずっと幸せになれたんだよね。あたしの祈りは無駄じゃなかったんだよね。
そう思わなければ耐えられなかった。そうやって無理矢理にでも自分を納得させなかったら、あたしの心は突然のマイラの死に押しつぶされてしまいそうだったから。
「ありがとうカーヤ。……タキ、まだ家の下敷きになってるのは誰と誰? 名前を教えて?」
「オレには判らないや。ちょっと待って。今すぐ訊いてくる。少しだけ待っててくれ」
タキが人だかりの方に駆けていくのと入れ違いに、気力を振り絞って神託の巫女がやってきた。
「祈りの巫女、さっきはごめんなさい。私、取り乱して……」
まだ目を赤くしていたけれど、神託の巫女はいつもの気丈さを取り戻していた。
「神託の巫女が辛かったのは判ってるわ。……ずっとあたしには黙っていたけど、マイラが死ぬことを知っていたのでしょう?」
「ええ、ライの誕生の予言をした時に、ライが両親のいない子になるということが判ったの。戸籍に残ってるマイラの誕生の予言にもこの死は書かれていたわ。……でも、祈りの巫女の祈りはもしかしたら未来を変えるかもしれないって、私はそう思ってたのよ」
神託の巫女の必死の思いを感じて、あたしは心臓の高鳴りを意識した。
「……あたしは、未来を変えられるの……?」
「祈りの巫女は既に人の運命を変えているのよ。マイラが2人目の子供を産むなんて、マイラやベイクの誕生の予言にはなかったのだから。ライはね、祈りの巫女、あなたが祈りで運命を変えた結果生まれた子供なの。あなたの祈りは常に人の運命を変え続けているのよ」
祈りが人の運命を変えることができる。あたしは、これから死ぬ人を生き延びさせることができるかもしれないんだ。
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もう少し早く神託の巫女がマイラの死を教えてくれていたら、あたしはマイラを救えたかもしれない。でも、祈りの巫女が自分のことを祈っちゃいけないように、神託の巫女も人の寿命を直接他人に話すことはできない。2年前、ライが生まれた時に神託の巫女はちゃんとヒントをくれていたのに、あたしは察することができなかった。マイラはもう生き返らないけれど、これから死ぬ人を1人でも少なくすることならできるはずなんだ。
悲しむことも、後悔することも、あとからだってできる。タキが崩れた家の下敷きになっている人の名前を教えてくれたから、あたしはすぐに神殿に駆け込んで祈りを捧げたの。ひとりひとり、心の中で名前を呼びながら、神様に無事を祈る。自分でも不思議に思うくらい祈ることに没頭して、やがて祈りを終えて振り返ったら、うしろにはカーヤのほかにタキも見守ってくれていたんだ。
「祈りの巫女、終わったの?」
あたしはまだちょっとだけ現実に焦点が合っていなかったから、カーヤの問いかけにはうなずくことで答えた。
「あれからまたいくつか情報が入ってきてるわ。ライが無事に助け出されたのよ」
そう言ったカーヤの表情には悲しみが多く混じっていたから、ライの無事だけを素直に喜んでいられないんだって察することができた。
「……死んじゃった人もいるのね」
「ええ。……あれから更に6人が見つかって、ライ以外はみんな亡くなってたわ。でもまだ希望はある」
あたしが2人に近づいて、力を落としたカーヤの肩に触れた時、隣にいたタキがあたしに話し掛けてきた。
「祈りの巫女、守りの長老が呼んでるんだ。宿舎へ行くことはできる?」
祈りにはいくつかの手順があって、長時間同じことを祈ったからといって必ずしも効果がある訳じゃないんだ。あたしがうなずくと、タキは先に立って神殿の扉を開けてくれる。
「君が祈っている間にいろいろなことが判って、神殿の体制も徐々に整いつつあるんだ。詳しいことは守りの長老や守護の巫女から説明があると思うけど。オレは祈りの巫女の補佐をするように言われたから、これからしばらくは君のそばにいるよ」
そんなタキの言葉は、あたしにはとても心強く響いた。
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神殿から出ると、カーヤはあたしに別れを告げてどこかへ去っていった。あたしが祈っている間に神殿は秩序を取り戻していた。相変わらずざわざわしてはいたけれど、神官も巫女も無目的に動き回ったり、感情もあらわに泣き崩れていたりはしなかった。ひとりひとりが目的を持ってきびきび動いて、この突然の災厄にできる限りの力を尽くそうと必死になっている。神殿前の広場では、小屋を建てる目的を悟ったきこりたちが、一瞬でも早く小屋を完成させようと躍起になっているみたいだった。
タキは守りの長老の宿舎入口に立つとドアをノックして、中からの返事は待たずにドアを開けた。中にいたのは守りの長老と守護の巫女、そして運命の巫女と、幾人かの神官たちだった。守護の巫女と神官の1人は、あたしが入ってきたことには気付いていないように会話を続けている。緊急事態だったから、あたしも礼儀は無視して、空いている椅子に腰掛けた。
「 ―― 狩人たちにはくれぐれも深追いしないように伝えてちょうだい。もしも影の本体を見つけてもぜったいに近づいてはいけないわ。必ず複数で見張りをして、ときどき神殿に報告を入れて欲しいの。今必要なのは影を退治することじゃなくて影の情報なんだ、って、必ず伝えて」
「ああ判った。狩人の様子はオレたちが交代で定期的に報告にくることにする。オレは昼までに1度戻ってくるよ」
「お願いね」
守護の巫女にうなずき返して神官の数人が宿舎を出て行くと、守護の巫女はやっとあたしに気付いたように微笑んだ。
「待たせたわね、祈りの巫女、タキ」
「あたしの方こそごめんなさい。ずっと神殿で祈ってたら遅くなっちゃって」
「いいのよ。祈りの巫女のおかげでライの命が助かったんだもの。これから先も祈りの巫女はできるだけ祈りに専念して欲しいわ」
そう言って力強く微笑みかける守護の巫女はいつにも増して堂々としていて、あたしはそんな彼女をとても頼もしく思った。
「祈りの巫女、もうタキに聞いているかもしれないけど、これから先はタキが様々な情報や指示をあなたに伝えるわ。あなたはタキと連携して、今回の災厄に対処してちょうだい。 ―― まずは現状を簡単に説明するわね」
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守護の巫女が説明を始めたと同時に運命の巫女は宿舎を出て行ったから、部屋の中には守りの長老、守護の巫女、タキとあたしの4人だけになっていた。
「夜明け前、西の森の方から唸り声のようなものが近づいてきたの。周囲の人の証言では、今まで1度も聞いたことがないような恐ろしい声だったそうよ。その声で目覚めた人たちが窓から外を覗いてみたら、かなり大きな音がして、まずは森にいちばん近いベイクの家が崩れていった。恐ろしい声を持つ影はつぶれた家を乗り越えて、あっという間に坂を降りてきてチャクの家を同じようにつぶしたの」
家を押しつぶすほどの大きな獣。あたしにはぜんぜん想像がつかなかった。
「神託の巫女も影と言っていたわ。それは本当に影なの? それとも獣のようなものなの?」
「なにしろ夜明け前だからあたりは暗くて、村の人にも大きな影しか見えなかったの。でも実体のない靄のようなものではないわ。足跡も残っているし、おそらく大きな獣のようなものだと思っていいわね。チャクの家がつぶされる頃には近所に住む人たちはかなり目覚めていたから、すぐに家を飛び出して逃げた人は全員助かってる。でも、そのあとも影はいくつかの家をなぎ倒して、逃げ遅れた人は家の下敷きになってしまったの。この影に壊された家はぜんぶで6軒、下敷きになってしまった人は13人で、今のところ9人が還らぬ姿で見つかってるわ。ライは助け出されたけど、かなりの重傷を負ってる。残りの3人は今のところ発見されてないわ」
守護の巫女はそうしてあたしに村人の人数だけを教えてくれた。たぶん彼女には、その人が誰なのかというよりも、何人が被害に遭ったのか、その数字の方が重要なんだ。
「実際に影が暴れまわっていた時間はそれほど長くないと思うの。唸り声がしなくなったことに村の人たちが気づいた時にはもういなくなっていて、やがて明るくなってきて見ると、家の残骸と奇妙な足跡だけが残されていた。影はそれきり現われていないわ。報告を受けて、神殿からはすぐに神官を派遣して、怪我をした人の手当てと情報集めをしているの。狩人にも協力してもらって影の正体を探ろうとしているけど、狩人たちもあんな足跡を見るのは初めてで、影の正体はまったく判らないわ」
「守護の巫女、影は家をつぶしただけなの? 人を襲ったり、食べようとしたりはしなかったの?」
「ええ、逃げ惑う人には目もくれないで、ただ家だけをつぶしていったの。だから私にはそれが普通の獣だとは思えないのよ」
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村が獣に襲われるのは、今までもまったくなかった訳じゃない。周囲の山の天候がおかしくなって、食べるものが減ってしまえば、肉食のリグの群れが村人を襲いに現われることもあった。2代目セーラの物語でも村は怪物に襲われた。でも、リグも怪物も、村人を食料にしようとして村に襲ってきていたんだ。
夜明け前に現われた影は、家だけをつぶして、逃げる村人には関心を持たなかった。だから守護の巫女はこの影を獣と呼ばないんだ。この影はいったいどうして村を襲ったの? ただ家だけをつぶして歩く生き物なんて、あたしにはぜんぜん理解できないよ。
「現在のところ影がどこからやってきて、どこへ消えてしまったのか、まったく判ってはいないわ。狩人が足跡を辿っているけど、西の森の中ほどあたりで途切れてしまっていて、そこから先が見つからないの。影を見た人たちの証言はあいまいで、中には大きさが家の3倍もあったという人もいたけど、それは大げさにしても家をつぶすくらいだからかなりの大きさなのは間違いないわ。そんな大きな生き物が隠れる場所なんて西の森にはないし」
狩人ときいて、あたしはリョウのことを思った。リョウは今ごろ何をしているんだろう。他の狩人と一緒に、影の正体を探るために頑張っているのかもしれない。
「ただ、これから先また襲ってくることも考えられるから、特に村の西側に住んでいる人たちは不安に思っているわ。今神殿前広場に避難所を作っているけど、村人全員を避難させることは無理だから、1棟完成したらせめて村の子供たちだけでも避難させようと思っているの。もちろん、神殿が必ずしも安全な場所だとは限らないのだけど」
守護の巫女が言葉を切って、だいたいの説明が終わったことが判ったから、あたしはさっき思ったことを話してみることにしたんだ。
「守護の巫女、お願いがあるの」
あたしが言うと、守護の巫女は少し驚いたように目を開いた。
「これから先、またその影が襲ってきて、家の下敷きになってしまう人がいるかもしれないわ。あたしがその人たちの無事を祈るためには、その人の名前が必要なの。極端な話、名前さえ判れば、その人の顔も性別や年齢や職業もあたしの祈りには関係がないくらいなのよ。その人がどういう状況にいるのかは判らなくてもいい。ただ、名前だけはあたしに伝えて欲しいの」
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祈る時、祈りの巫女はその人を特定するために名前を使う。なぜなら、人の名前は一生変わらなくて、その人の過去も未来もぜんぶ表わしているものだから。例えば他の村の人が来て、その人の娘の病気を治すために祈りを捧げて欲しいと言ったとしても、名前さえ教えてもらえばあたしは祈ることができるの。娘さんの姿かたち、病気の種類や様子を知らなくても、どこの村のなんという名前の人だと教えてもらいさえすれば、祈りを神様に届けることができるんだ。
今、村の戸籍にはルールがあって、生まれた子供に現在生きている人と同じ名前は付けてはいけないことになっている。だから、名前さえ判ればその人を特定することができるの。そんな祈りの巫女の祈りの特性を、あたしは他のぜんぶの人たちに早く教えておかなければならなかった。
「そうか。それでさっきオレに名前を聞いたんだね」
今までずっと黙ったままだったタキが言って、その言葉を引き継ぐように守護の巫女も口を開いた。
「判ったわ、祈りの巫女。これから情報を集める時には必ず人の名前も報告するように、みんなに申し伝えるわ。タキ、あなたも、祈りの巫女に必ず名前が伝わるように気をつけてちょうだいね」
「了解。任せてくれ」
「祈りの巫女ユーナよ、未だ家の下敷きになっている3人は、ガロン、シュキ、テサ。ただし3人とも定命は尽きておる」
突然、守りの長老が重い口を開いたから、あたしたちは驚いてしまった。
「守りの長老! 人の寿命は祈りの巫女にさえ軽々しく明かしてはいけないはず。……いいえ、それよりどうして名前を知っているの?」
守護の巫女の言葉で、あたしは彼女がその人たちの名前を把握していなかったことを知った。
「ずっとここに座っていたからな。影につぶされた家と、死んだ者の名前を知ればおのずと判ろう。祈りの巫女ユーナ、この3人のために再び祈るか」
あたしがうなずくと、守りの長老は重々しい口調で言った。
「祈りは、自らが神より与えられた幸運を他者に分け与えることと心得よ。……むろん祈りの巫女でさえも例外ではない」
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以前、あたしはタキに言われたことがあった。祈りの巫女は人々の幸せを祈るけれど、祈りの巫女の幸せを祈る人はいない、って。その時あたしはショックで、でも2代目祈りの巫女のセーラの物語を読んで、セーラの日記を読んで判ったの。人は自分に与えられた大切な役目を全うしないうちは、ぜったいに幸せにはなれないんだ、って。
この祈りであたしは多くの幸運を失うかもしれない。だけど、もしも今村の人たちのために祈らなかったら、これから先たとえ多くの幸運が訪れたとしても、あたしは自分を許すことができないだろう。あたしはセーラのように死んでしまうのかもしれない。それでも、祈ることをしないで生き延びるより、ずっと正しいことなんだ。
「守りの長老、心配してくれてありがとう。でも、祈ることがあたし、祈りの巫女の役目なの。あたしが祈ることでガロンとシュキとテサを救えたらあたしも幸せだわ。……守護の巫女、あたしはこれから家の下敷きになっている人のことと、村の災厄を退けるための祈りをする。それ以外にあたしがしなければならないことはある?」
守護の巫女は、あたしと守りの長老のやり取りに、かなり驚いたみたいだった。当然かもしれない。あたしが祈りの巫女になる前にはこの村には120年も祈りの巫女がいなくて、祈りの巫女がどんな巫女なのか、誰も知らなかったのだから。
「そうね……今のところはそれで十分よ。これから先、必要なことが出てきたら、タキを通じてあなたに知らせることにするわ。……タキ、あなたは私と祈りの巫女の連絡役として、常に所在を明らかにしておいてちょうだい。たいへんだろうとは思うけど」
「判ってる。守護の巫女、祈りの巫女のことはオレに任せてくれ。そのくらいの覚悟がなかったら最初から志願したりしないよ」
タキはあたしの連絡役に、自分から名乗り出てくれてたんだ。小さなことだったけど、あたしはそのことをすごく嬉しく思った。
「祈りの巫女、あなたも所在は必ずタキに知らせておいてね。……今日は実家に帰る予定だったようだけど、それはキャンセルしてちょうだいね。せっかくリョウとの結婚の話がまとまるところで残念だったと思うけど」
あたしはまたチラッとリョウのことが頭をかすめたけど、それについては考えないようにしようと思った。
「こんな大きな出来事が起こったんだもの。リョウもあたしの両親もちゃんと判ってくれていると思うわ。心配してくれてありがとう」
あたしはちょっとだけ苦笑いを浮かべて、タキと一緒に守りの長老の宿舎を出た。
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守りの長老の宿舎を出たあと、あたしはタキを伴って、再び神殿に向かった。その道々でタキが話し掛けてくる。
「祈りの巫女、今日は実家に行く予定だったの?」
「ええ。……でも、村の有事の時には巫女が神殿を離れられないのはみんな知ってることだもの」
「異変がこれで終わる可能性はないのかな。だって影は見つからないんだろう? もう村の近くにはいなくて、これから先2度と現われないかもしれないよ」
あたしが返事をしなかったのは、村の異変がこれで終わるなんてぜんぜん思えなかったから。あたしだってタキの言うとおりだったらどれほど嬉しいか判らないよ。たぶん、村の巫女たちはみんな感じてる。これが始まりで、これから先もっと悲惨な運命が村を襲うことになるんだ、って。
あいまいにタキにごまかして、神殿前の石段を登ると、扉の前には神官のセトが立っていた。
「祈りの巫女、神殿に祈りに来たの?」
「ええ。中に誰かいるの?」
「オレは運命の巫女を担当してるから、祈りの巫女も覚えておいて。今中で村の運命を見ているところだよ」
さっき、運命の巫女はあたしが守りの長老を訪れたとほぼ同時に宿舎を出て行った。そうか、たぶん運命の巫女は、あたしの祈りが終わるのを長老の宿舎で待っていたんだ。
運命の巫女の予言はあたしも気になったから、それからしばらくの間、扉の前で運命の巫女が出てくるのを待つことにした。
「ここから見ても、村の様子は判らないね。神殿の屋根に登れば見えるかな」
セトの言葉であたしも村の方を振り返ってみる。目に入るのは森ばかりで、たとえ屋根に登ったとしても村が見えるとは思えなかった。
「セトの家は確か村の東寄りだったよな。今回影が現われたのは西の方だし、そんなに心配することはないと思うよ」
「このあと影がどこから現われるかなんて判らないだろ? ……タキ、おまえも家族を持てばオレの気持ちが判るよ」
2人のやり取りを聞きながら、あたしは村の人たちがセトと同じくらい不安に思ってるだろうことを感じていた。
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やがて神殿の扉を開けて運命の巫女が出てきた時、あたしとタキとセトは思わず食い入るように運命の巫女を見つめてしまった。運命の巫女はちょっと驚いたみたい。でも、あたしたちが待っていた理由はすぐに判ったようで、1つうなずき返して話し始めたの。
「影は今夜また現われるわ。時刻は今回よりも少し早いくらいかもしれない。ただ……場所がはっきり特定できないの。午後になったらもう1度見てみるわ」
今夜また影が現われる。その予言に、あたしは足が震えてくるのが判った。
「影はまた同じように家を崩していくの?」
「ええ、多くの家が壊される情景が見えたわ。そしてまた何人かの人が犠牲になる」
目を伏せて悲しみに耐えるようにそう言った運命の巫女は、いつもよりもずっと小さく見えた。あたしの祈りは寿命が尽きた人をまだ1人も救えていない。たとえたった1人でも救うことができたら、運命の巫女の絶望も少しは和らげることができるのに。
まだ見つかっていない3人のことを早く祈りたくて、運命の巫女の脇をすり抜けようとした時、運命の巫女はあたしを呼び止めたんだ。
「祈りの巫女、建物の下にいる人たちのことを祈るの?」
「ええ。今祈ればまだ間に合うかもしれないもの」
「聞いて、祈りの巫女。……過去の祈りの巫女も、その何人かは人の寿命を変えようと祈りを捧げたわ。このことはたぶん、祈りの巫女の物語にはないはずだけど」
運命の巫女の言う通り、祈りの巫女の物語には、人の寿命に関する祈りの記述はなかった。
「祈りの巫女は人の寿命を知らないから、その祈りが寿命を変える祈りだったことには気が付かなかったのね。私は予言の巫女の物語を読んでいるから、人の寿命と祈りの関係についても知ってる。……私が読んだ物語では、祈りの巫女はたった1度しか人の寿命を伸ばしたことはないわ。この1500年の間、たった1度だけよ」
過去11人いた祈りの巫女。その中で、人の寿命を変えられた巫女はたった1人しかいなかったの……?
「2代目祈りの巫女セーラ。彼女だけが、恋人ジムの命を助けることができたの。……自分の命と引き換えるように」
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「あたしが人の寿命を延ばそうとするなら、命をかけなければならないのね」
祈りの巫女が命をかけなければ、人の寿命を変えることはできない。運命の巫女の言葉は絶望のようにあたしには聞こえた。
「祈りの巫女、私が言いたかったのはまったく逆のことなの。祈りの巫女がどんなに命がけで祈ったとしても、人の寿命を変えることは難しいわ。むしろ、あなたには別のことを祈って欲しい。……例えばライのこと」
「……ライの……?」
「ええ。ライは命だけは救われたけど、かなり大きな怪我をしていると聞いたわ。詳しい様子は判らないけれど、きっと小さな身体で痛みに耐えて、苦しんでいると思うの。その苦しみを和らげて、少しでも早く怪我を治してあげて欲しい。祈りの巫女の祈りは、命が助かった人にこそ必要なのよ」
運命の巫女に言われて初めて気がついた。そうよ、ライは今でも痛みに苦しんでるんだ。両親を失って、見知らぬ人たちに囲まれて、ライはきっと心細い思いをしてる。そんな心の傷を癒してあげることだって必要なんだ。あたしには、祈ることでライの心と身体の傷を癒すことができるんだから。
「運命の巫女ありがとう。あなたが話してくれなかったら、あたしはライの事を祈るのを忘れてしまったかもしれないわ。タキ、あたしはこれから神様に祈りを捧げるけど、その間に怪我をした人の名前を調べて。それと、大切な人を失って悲しんでいる人のことも。たいへんだと思うけどお願い、タキ」
タキは少し呆然としてあたしを見つめていたけれど、あたしの熱意が伝わったのか、ちょっとだけ笑顔を見せた。
「判ったよ。村まで行くからちょっと時間がかかるかもしれないけど、午後には戻ってこられると思う。祈りの巫女は神殿か宿舎にいてくれる?」
「たぶんそのどちらかにいるわ。万が一神殿を離れる時には必ず守護の巫女に伝えていくようにする」
「オレがいなくなっても無理はしないで、できれば少し宿舎で眠っておくといいよ。どうやら明日もたいへんなことになりそうだから」
そう言って手を振りながら石段を降りていくタキを見送って、運命の巫女にもう1度お礼を言って、あたしは再び神殿の扉を開けた。
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