真・祈りの巫女



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「オミ、ちょっとどうしたの? 母さまびっくりしてたじゃない」
 家を出て通りを少し歩いたところで、オミはあたしの手を引くのをやめたから、あたしはオミの背中にそう訊いてみた。なんだかオミはすごく歩くのが早いよ。あたしが小走りで追いかけているのが判ったんだろう。気付いてオミは少し歩く速度を落としてくれた。
「ちょっとね。1人で外の空気を吸いたかっただけだから。ユーナをダシにしちゃってごめんね」
「父さまと何かあったの?」
「そういうことじゃないんだ。父さんは厳しいけど、オレが好きで始めた仕事だし。……でも1日中一緒にいるとたまには独りになりたい時もあるんだ。リョウに会いたいって言ったのもほんとだよ」
 あたしはオミの隣に並んで、マティの酒場までの短い距離を歩きながら、ほんの少しだけオミを見上げていた。なんだか不思議な感じがするの。だって、ずっと見下ろしてきた小さなオミが、いつの間にか見上げるようになっちゃったんだもん。
 そういえば、オミとこんな風に2人だけで歩くのは、ものすごく久しぶりのことだった。大人になってからは初めてかもしれない。あたしは13歳の頃からずっと宿舎暮らしで、たまに家に帰る以外はずっと家族と離れて暮らしてきたんだ。
「ねえ、オミ。オミはどうして急に大人になろうとしたの? あたしが神殿へ行っちゃったから?」
 もしかしたらあたしは、オミにすごく大きな負担をかけたのかもしれない。もしも祈りの巫女じゃなかったら、あたしは結婚するまでずっとこの家で暮らしていたんだ。そうしたらオミだって11歳で大人になろうとなんかしなかったかもしれない。ほかの子供たちのようにのんびり遊んで、今の年頃でやっと大人になる準備を始めたのだろう。
 あたしがそう問い掛けた時、オミはそんなあたしの心配りにはぜんぜんお構いなしで、まるで気付いていないみたいに答えたの。
「なんとなくね。ただ早く大人になりたかったんだ。父さんの仕事ぜんぶ覚えて、早く一人前になりたいって。なんとなくそんな気がしただけだよ。時間を無駄にしたくなかったんだ」
「……どうして? なにをそんなに焦ってるの?」
「自分でもよく判らない。だけど、そうしなきゃいけない気がするんだ」


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 オミはあたしのことや自分のことをそれほど真剣に考えてるようには見えなくて、変な先回りをした分、あたしは少し拍子抜けしてしまったみたい。あたしはいつもリョウとばかり話しているから、そんな気がする、ってだけで行動しちゃうオミみたいな人と話すのに慣れてないのかな。久しぶりに話すオミはすごく新鮮で、まるで小さな頃から一緒に育ってきた弟とは別人みたいよ。オミはこれから、あたしが今まで接したことがないような、不思議な大人になっていくのかもしれない。
「ねえ、ガラス細工って楽しいの?」
「楽しいよ。オレはまだ腕の力が足りないから、気を抜くとすぐにいびつになっちゃうんだ」
「なんで? それが楽しいの?」
「ユーナには判らないよ。オレも神様に祈るなんてことのなにが楽しいのか判らないもん」
「あのねえ、オミ。あたしが神様に祈ったら、みんなが幸せになれるのよ。みんなが幸せになれるってすごく嬉しいことじゃない。このところやっと願いが神様にすんなり通じるようになってきたのよ。前は1つのことを何ヶ月も祈って、やっと願いがかなったんだから」
「ふうん」
 オミはちょっと足を止めて、あたしの顔をまじまじと見つめた。
「それじゃおんなじだよ。オレも最近やっと少しだけマシなものが作れるようになってきたんだ。ユーナも一生懸命やって上達するのが楽しかったんだね」
 そんなの、あたりまえだって思ったけど、オミはしきりに感心していたの。オミは今まで、あたしがどうして祈りの巫女になったのか、判ってなかったの?
「もしかしてオミって、今まであたしの仕事のこと誤解してた?」
「してたかもしれない。ずっとユーナは変なことをしてるって思ってたから。ユーナの仕事が普通の仕事と同じで、村の人の役に立ってるなんて思ってなかったんだ」
 そんなオミの言葉を聞いて、あたしは身体の力が一気に抜けたような気がした。


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 あたしはずっと神殿で暮らしていたから、少し忘れていたのかもしれない。神殿やそこで働く巫女たちが、ほかの人たちには特別に見られてるってこと。あたしはこのところ悩んでいる人たちの話を訊いてきたけど、悩んでない人にとっては、祈りの巫女はほんとになじみのない職業なんだ。実の弟ですらこうなんだもん。あたしはもっともっと、祈りの巫女のことを村の人たちに教えていかなければならないんだ。
 そんなことを考えているうちにいつの間にかマティの酒場まで来てしまっていた。入口から覗くとリョウの背中が見える。父さまやオミと話しているうちに約束の時間が少し過ぎちゃったみたいね。マティがあたしとオミに気づいて、ちょっとあれって表情をした時、オミはかまわず入口をくぐって店の中に入っていったの。
「いらっしゃい、オミ、ユーナ」
「こんにちわマティ。リョウ、久しぶり」
「あれ? ……オミ? ずいぶん大きくなったな」
「いつまでも子供みたいに言うなよ。オレもう13なんだぞ」
 リョウと話しながらオミはちゃっかりリョウの隣に座ってしまったから、あたしはマティに挨拶したあと、しかたなくオミの隣に腰掛けたの。リョウがあたしを見て、とても自然な表情で微笑んでくれる。あたしも同じ笑顔をリョウに返していた。
「お帰りなさい、リョウ。お仕事ご苦労様」
「ただいまユーナ。今日は実家に行ってきたの?」
「うん、父さまと母さまに明日のことを話してきたのよ。リョウによろしくって言ってたわ」
「なあリョウ。ほんとにユーナでいいのか? 考え直すなら今しかないぞ」
 オミがあたしとリョウの会話に割り込んでそんなことを言ったから、あたし思わずオミをうしろから拳固で殴っちゃったよ。オミは大げさに頭を抱えてうずくまってる。そんなあたしたち姉弟の様子を、リョウとマティは笑いながら見ていた。
 オミが顔を上げると、リョウはすごく魅力的な表情で、にっこり笑いかけた。


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「オミはいないのか? 好きな女の子とか」
「うん、今はいないよ。仕事してる方がおもしろい」
「そういえばオミは、オキと同じガラス職人になるんだったよな。……オミも好きな女の子ができると判るよ。好きな人がいると、仕事の張り合いがぜんぜん違うんだ」
 あたしからはオミの表情は見えなかったけど、リョウの言うことがよく判らないみたいだった。
「オレはユーナがいいんだ。ほかの、例えば料理が上手だったり、お裁縫がうまかったり、そういう別の女の子じゃ代えられない。ユーナがいるから大変な仕事も頑張れるんだ。だから、オレの方から考え直すなんてことはぜったいにないよ」
 オミはちょっと驚いた風にあたしを振り返って、それからまたリョウを見て、2、3回見比べるような仕草をした。あたしの方は、リョウの言葉に少し赤くなっちゃったよ。なにもあたしの弟に向かってこんなにはっきりこんなこと言わなくてもいいのに、って。
「言っとくけどユーナってペチャパイだぞ」
「オミ! リョウになんてこと ―― 」
「ひょっとしてオミは知らないのか? 世の中にはペチャパイが好きな男もいるんだぞ」
「嘘だ。リョウだっておっきい方がいいに決まってるよ」
「それじゃ、オミはおっぱいが大きくて性格の悪い女の子と、ペチャパイの優しい女の子だったらどっちと結婚したいと思うんだ?」
「うーん、すごい悩む。……でもユーナはそんなに優しくないよ。オレ子供の頃いっぱいユーナにいじめられたもん」
「でもオレのことはいじめたりしないよ。ユーナはオレにはものすごく優しいんだ」
「ふうん」
 オミはもう1度あたしのことを振り返って、それからひょいと席を降りた。
「まいっか。リョウ、ユーナのこと頼むね。神殿まで送ってくれるんだろ?」
 リョウが返事をしてうなずくと、オミはもう振り向きもしないで走り去っていった。


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 オミがいなくなったから、あたしはリョウの隣の席に座りなおしながら言った。
「なんなのあれ。ひとのこと言いたい放題言って」
 考え直せとかペチャパイとか、オミったらあたしの結婚を破談にしようと思ってここにきたの?
「あれでもオミなりにユーナのことを心配してるんだよ。いい弟じゃない」
「あたしはペチャパイじゃないもん! それにオミのこといじめたりしてないよ!」
「判ってる。ユーナ、子供相手にそんなに怒らないで。オレはぜんぜん気にしてないから」
 オミがあんまり理不尽だったからあたしは少し腹を立ててたみたい。でも、リョウが言ってくれた言葉で、怒りがすうっとおさまっていった。それで少しだけ冷静に考えることができるようになって、自分の気持ちもちょっと判ってきた。あたし、オミが大人の顔をして見せたり、かと思うと子供のように振舞ったりして、それに振り回されてたんだ。
 リョウはいつも不思議。あたしのことをいちばん判ってて、たった一言であたしの気持ちを楽にしてしまうんだもん。
「そうよね。オミに振り回されるなんて大人気ないわよね。リョウ、オミが変なことを言ってほんとにごめんなさい」
「大丈夫。おかげでオレもだいぶ度胸が据わってきたから」
 あたしがやっと微笑んだからかな。今まで成り行きを見守っていたマティが、少し遠慮がちに会話に入ってきたの。
「ユーナ、オミは最近、オキと一緒に時々来てくれるようになったよ」
「そうなの? ぜんぜん知らなかったわ」
「だろうね。オレも訊かれればユーナやリョウのことを多少は話すよ。男親はやっぱり娘の結婚相手のことは人一倍心配するものだからね。オミもそんなオキのことを知ってるから、自分なりにリョウの気持ちを確かめにきたんだ。……オレにも覚えがあるよ。ニイナと結婚した時にはニイナの父親にさんざん渋られた。もう一晩中頭を下げ続けたもんな。今のオミなんてかわいい方だよ」
 マティは両手を広げて、リョウに意味ありげな苦笑いを向ける。リョウも同じような苦笑いを返したから、あたしもリョウがどうして父さまと話したくないと思ったのか、なんとなく理解したような気がした。


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 リョウと連れ立って神殿へ帰ると、神殿前の広場の様子が午前中に見た時とはぜんぜん違っていたの。村のきこりたちが森から切り出してきた木を積み上げて、まるで祭りのやぐらの準備をしている時みたい。でも、今年の祭りは秋だからまだずいぶん間があるし、きこりたちの様子も祭りのときとは明らかに違って、華やいだ様子はまったくなかった。あたりはずいぶん暗くなってきてたから、きこりのみんなも今日の作業を終わらせるところだったらしくて、不審に思って見守るあたしたちの横を会釈しながら通り過ぎていった。
「ノット」
 リョウが実家の近所に住むきこりのノットに声をかけた。ノットも帰り支度をしていたところで、あたしたちに気付いて近づいてくる。
「あれ? ユーナにリョウじゃないか。久しぶりだな。今帰りか?」
「ああ。ノットはこんなところでなにしてたんだ? 祭りの準備にはまだ早いだろ?」
「神官たちに頼まれて材木を集めてきたんだよ。ここに仮ごしらえの小屋を建てるらしいぜ」
「……小屋? 何のために小屋なんか」
「詳しいことは何も聞いてないんだ。とりあえず雨露がしのげるだけでかまわないっていうから、たいした代物じゃなさそうだな。だけど数が半端じゃないんだ。なにしろ広場一帯埋め尽くすくらい建てるつもりらしいから。しばらくは村のきこりが総動員で作業に当たることになりそうだぜ。ほんと、神官の考えることはいつもよく判らないよ」
 ノットは苦笑いを浮かべて、あたしやリョウに手を振りながら山道を駆け下りていった。きこりたちがいなくなった広場で、あたしとリョウはちょっと顔を見合わせる。リョウはノットと同じように、今広場に小屋を作る理由が判らないみたい。でも、あたしは判っちゃったの。これから作る小屋はたぶん、村の災厄で避難してきた人たちを受け入れるための施設なんだ、って。
 神殿全体が、来るべき災厄に向けて動き始めたんだ。村の人たちには何も知らせないで。
「ユーナ、……もしかして小屋のことを何か知ってるの?」
 あたしは慎重に言葉を選びながら、リョウに切り出していた。
「……今日ね、巫女たちの会議で、運命の巫女が見る村の未来に変化があったことを教えてもらったの」


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 神殿の広場での立ち話だったし、宿舎ではカーヤが夕食の支度を終える頃でもあったから、あたしはできるだけ簡潔になるようにリョウに話した。
「運命の巫女はね、近いうちに村に何か大きな出来事が起こるって言ってたわ。家がいくつか壊れるような風景も見えたみたい。小屋のことはあたしも初耳なんだけど……。たぶん、家が壊れて困ってる人を一時的に受け入れるつもりなんだと思う」
 災厄のことをどの程度話していいのか判らなかったから、あたしはリョウにそんな説明しかできなかった。神官がノットたちに多くの説明をしなかったように、あたしもリョウにすべてを話すことはできないんだ。村の未来は簡単に村の人たちに話しちゃいけない。あたしはリョウの婚約者なのに、リョウに秘密を持たなければいけないんだ。
 すごく悲しかった。これからあたしはリョウと結婚するのに、リョウと夫婦になるのに、祈りの巫女のあたしにはリョウに話しちゃいけないことがたくさんあるって気がついたから。
 そんなあたしの悲しい気持ちは、リョウにも伝わってしまったみたいだった。
「そう、か。……村にはそんなことが起こるんだ」
 リョウは少しかがんで、あたしの顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「たとえ村に何が起こっても、ユーナのことはオレが守るよ。……前にユーナに言ったよな。オレはずっと昔からユーナを守るって決めてて、ユーナを守るために狩人になって、強い男になったんだ、って」
 覚えてる。忘れたことなんか1度もないよ。だって、リョウは今までだってずっとあたしを守ってくれたんだもん。
「もう1度誓うよ。オレはユーナのことをこれからも守っていく。オレの命が続く限りずっと守っていくって約束するよ。だから、ユーナもオレのことを信じて。なにが起きても、どんなことがあったって、オレがずっとユーナのそばにいるから」
 たぶんリョウには判ってるんだ。あたしが話したよりももっと大変なことが村には起こって、だけどあたしの口からはリョウに話すことができずにいるってこと。
 祈りの巫女のあたしがリョウに秘密を持っていることを、リョウは笑顔で許してくれたんだ。


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 この日の夜、あたしはあまりよく眠れなかった。
 明日はリョウがあたしの家に来てくれて、いよいよ2人の結婚が現実になるから、それで少し興奮してたのかもしれない。神殿の夜は麓よりも涼しいのに、背中に寝汗をかいてしまって何度も寝返りを打っていた。身体は眠りを求めてるのに、心臓がドキドキしたままでぜんぜん眠れる気がしなかったの。
 けっきょくほとんど眠らない状態で日の出を迎えてしまっていた。カーヤを起こしたくないからしばらくはベッドの中にいたけれど、そのうちいつになく神殿の周りが騒がしくなってきたからあたしも身体を起こした。それとほとんど同時だった。宿舎のドアを誰かがノックしたのは。
「祈りの巫女、祈りの巫女起きて! 緊急事態よ。大変なことが起こったの」
 続けて何度も叩かれたドアの音でカーヤも起きてしまったみたい。あたしがベッドを抜け出してドアを開けるとカーヤも飛び出してくる。ドアの向こうに立っていたのは神託の巫女だった。今まで見たこともないような真っ青な顔をしてあたしを見つめていたんだ。
 その一瞬、あたしは心臓が飛び出すかと思った。神託の巫女の表情だけで判ってしまったから。いずれ村を襲うはずの災厄が、こんなに早く現実になってしまったこと。
「何があったの?」
 あたしのその言葉を待っていたかのように神託の巫女はまくし立て始めた。
「村の西側で異変が起きたわ。夜明け前にものすごく大きな音がして飛び出してきた近所の何人かが大きな影を見たの。影の正体は判らない。でもいくつかの家がつぶされたわ」
 村の西側って、昨日あたしあのあたりへ行ったよ! 西の外れにはシュウの森。そして、その手前にはマイラとベイクとライが住んでいる家があるんだ。
「夜明け前って……。家がつぶされたって、いったい何があったの? つぶされたのは家だけなの? 家の中にいた人は無事なの?」
 あたしの立て続けの質問攻めに、神託の巫女は傍から見てはっきりと判るくらい、恐怖で身体をガタガタと震わせた。


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 聞いてしまうのが怖かった。怖くて、知らず知らずのうちにあたしの身体も震えていた。いつの間にかカーヤも傍に来ていて、あたしのうしろから神託の巫女を食い入るように見つめている。一瞬の静寂に、宿舎の外のざわめきが割り込んでくる。
 神託の巫女は少しだけためらう様子を見せて、だけどそのあとはもう言いよどむことはしなかった。
「村の1番西にあるベイクの家と、その手前のチャクの家は完全につぶれてしまったわ。ものすごく大きな音がしたからすぐに飛び出した何人かは怪我だけで済んでる。正体不明の影はほかにもいくつかの家をなぎ倒して、でもいつの間にかどこかへ消えてしまったらしいの。影がいなくなってからすぐに瓦礫をのける作業を始めたのだけど」
「それで? 誰か家の下敷きになったの? それは誰? マイラとベイクは無事なの? ライは無事なの!」
「判らないわ! 今みんな必死で瓦礫を退けてるところだもの! お願い、祈りの巫女。すぐに彼らの無事を祈って! もしかしたらまだ間に合うかもしれない ―― 」
 マイラたちが壊れた家の下敷きになってる。神託の巫女の言葉を聞いて、カーヤは無言であたしの祈りの道具をそろえに部屋を駆けずり回ってる。宿舎の外は緊張をはらんだざわめきに満たされていて、そうと知覚しながら呆然と立ち尽くすあたしは、まるで心がいくつにも分裂してしまったみたい。自分が今何をするべきなのか判らなかった。笑顔で手を振ってくれた小さなライ。ライを産んだときの幸せそうなマイラの顔と、沼に沈んでいくシュウの微笑みが頭の中でぐるぐる回って ――
 それもほんの一瞬の出来事で、目の前の神託の巫女は目に涙を浮かべてその場に崩れ落ちた。
「 ―― どうして……! 人の命の長さは決まってる。祈りが変えられるとしたら万に1つだわ。でも可能性はゼロじゃない。どうして私には何もできないの……?」
 もうあとも見ずにあたしは宿舎を飛び出した。うしろからカーヤが追いかけてくる気配がする。神殿の前には人だかりがあって、混乱した巫女や神官たちが右往左往しているのが判った。その時、誰かの叫ぶ声を聞いて、あたしは思わず足を止めてしまった。
「ベイクとマイラが見つかったぞ! ……残念だけど2人とも死んでた」
  ―― 立ち尽くしたまま、あたしは少しも動くことができなかった。


30
 心が凍りついたように何も考えられなくて、あたしはマイラの死を伝えた1人が、周りに集まる人たちに詳しい様子をしゃべっているのを呆然と見つめていた。マイラ、昨日は何ごともなく元気で、ライを抱いて幸せに笑っていた。あれからまだ丸1日も経ってないのにどうして信じられるの? ライが生まれて本当に幸せなんだ、って、あんなに素敵な笑顔を見せてくれたマイラがもうこの世にいないだなんて。
 あたしは祈りの巫女になったあの時、マイラを幸せにしたいと思った。マイラを幸せにするために祈りの巫女になるんだって。そのためにあたしは修行して、たくさんの時間をマイラのために費やした。そうしてやっとの思いで得た幸せは、こんなに簡単に消えてしまうものだったの? 人の命はこんなに簡単に消えてしまうものなの……?
「ユーナ……」
 あたしの肩に遠慮がちに手を置いて、カーヤがうしろから声をかけてくれる。あたしにはまだそんなカーヤに振り返るだけの余裕すらもなくて、カーヤもあたしにかける言葉を失ったようにそれきり声にならなかった。そんなあたしの様子に気づいて近づいてきた人がいた。人が立つ気配に顔を上げると、目の前には悲しみと戸惑いの表情を浮かべた神官のタキが立っていたんだ。
「祈りの巫女、西の外れに住むベイクとマイラが死んだそうだよ」
 そんなタキの言葉に、あたしはうまく反応できなかった。見上げたままのあたしにタキは言葉を続けた。
「君はマイラと懇意にしていたと聞いた。オレも君になんて言ったらいいのか判らないよ。とにかく残念だとしか言いようがない」
「……」
「今聞いた話だと、マイラたちの家は何か大きな力でつぶされてしまって、一家全員がその下敷きになったみたいなんだ。マイラとベイクは寝室のあたりで見つかったけど、子供のライがまだ見つかってない。今救助にあたってくれている近所の人の中に、瓦礫の下で子供が泣く声を聞いた人がいるらしいんだ。祈りの巫女、マイラとベイクは死んだけど、もしかしたらライはまだ生きてるかもしれない」
 タキのその言葉に、あたしはかすかな希望の光を見たような気がした。
「一刻を争うんだ。ライと、チャクやそのほかのまだつぶれた家の下敷きになってる人たちのために、君の祈りを捧げてくれないか?」


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