其の五 山別れ
いずれが鬼子か仏子か。島に招くは吉凶どちらか。
双子は吉。双子は凶。
幸い招くならば重畳。招くが災いならば──
長兄が死んだ。亡骸は生前の希望通り、荼毘に付された後、遺骨の半分を渦潮のただ中へ、残りの半分を兄が好いていた桜の根本に葬った。
猛毒に身体が腐り果て、最期は見るも無惨な死に顔だった。身内以外の者は正視に耐えないほどだ。世界を呑む竜と同じ名の男に相応しくない最期に、俺や凪仁、妹の花鷺は戸惑うばかりだった。
息子を看取った母者はげっそりとやつれて床に伏せりがちになり、次子の愛房の姉者も兄の代わりを務めて疲れ果てていた。
長兄の跡は、つまり那波一族の跡は姉の愛房が取ることになった。
荒れに荒れた三族の評定は、大婆殿の後押しもあって瀞蛾を主人と仰ぐことに決まってしまった。姉の言い出したことであったが、胸掻きむしるほど悔しいのは、そう言い出した姉者本人だったろう。
兄の死を嘆く暇もなく姉は一族をまとめることに奔走した。
姉の補佐に流雨の兄者がついているが、元が学問肌の彼には、今の一族の状況を背負わせるのは酷というものだった。気の優しい男が、悪どさで名高い瀞蛾とやり合えるわけがない。
俺たちは兄を、身内を殺した男に雇われる身になったわけだ。
それでも俺や凪仁の怒りなどたかが知れていた。自分たちほど怒り狂っている奴はいないと思っていたが、それは実際の戦を知らぬ者の戯言でしかなかった。
本当の修羅は、そんな生易しいものではなかったのだ。
俺がそれを思い知ったのは、瀞蛾の身内だとぬかす男どもが島にやってきたときだ。
忘れるものか。あの屈辱を。あの憎悪を。あの、身を焦がすやるせなさを。
「貴様ら! そこで何をやっているか!」
花鷺の悲鳴を今でも忘れない。その花鷺を庇う更科の苦悶の表情も。
修羅神が俺に囁く。
──コロセ。ヤツラヲコロセ。
「やめてくれ、颯! 俺にお前を殺させたいのか!?」
俺の腕を掴む凪仁の指が震えていたのを憶えている。茫然と座り込む妹と幼なじみの青白い顔も。その傍らに転がる肉塊の赤さも。
「お前は見なかったからそんなことを言えるのだ。このケダモノどもと同じ地にいるなど……!」
「やめろ! もう死んでいる。……それ以上は駄目だ。駄目だ!」
返り血を浴びた俺を見つめる弟の引きつった顔。その瞳に映った己の修羅。
俺は、その修羅を見て、ようやく自分が禁を破ったことを知った。
双子分かたれり。一人は鬼子に、一人は仏子に。
災いには呪いを……
修羅の呪いを与えよ──
大婆殿のかけた呪詛は解けない。俺を双子の片割れから引き離し、住み慣れた島から放逐し、慣れ親しんだ人々から遠ざけた。
瀞蛾は俺を狩る。俺の一族を使って俺を狩る。奴にとっては遊びだ。虫けらどもが殺し合いをする様子を眺めて嗤っている。そんな程度の、簡単な遊びだ。
いつか……いつの日にか、俺があの男を狩ってやる。奴は心が引きむしられる痛みを知るまい。
いつか必ず、思い知らせてやる。
修羅神が俺を喰い、恨のただ中に落としたように……必ず。この身を修羅に置く限り、奴が遊びに飽きて一族を手許に引き戻したとしても、誓って俺は奴を殺す。殺す……。コロス──!
俺は、いつか再び鬼となる。
「ハヤヒト、後ろの群はついてきているか?」
「あぁ、村のまわりには一頭も残っていないはずだ」
櫓火が届かない距離までくると、二人は真っ暗な山に向かって一直線に走り始めていた。松明の灯りだけが頼りだ。
颯仁は下生え草に足を取られないように足の裏の感触を確かめながら走っている。背にはを背負い、走る速度は遅いはずなのに、獣たちは付かず離れずの距離を保って後ろをひた走っていた。
背中でが背後の闇を伺う気配がする。それを察知すると、颯仁は小声で問いかけた。
「、山の奥に入ってきたぞ。どちらの方角だ」
「高い位置へ……。いや、たぶんその前に襲ってくる」
颯仁は小さく舌打ちした。今日は何度舌打ちを繰り返しただろうか。これまでも何度か追い詰められたが、ここまで失敗を繰り返したことはなかった。今回の自分はどうかしている。周囲への注意が散漫すぎた。
「リョウ、ここまででいい。お前は帰れ!」
「何を言うんだ! オレが帰る道は群のまっただ中だぞ。第一、まだ村からどれほども引き離していない」
「あれは俺を狙っている。もう気づいているだろう? 手出ししなければ、お前を襲うことはない。帰れ、今すぐに」
松明に顔を赤く染めたリョウの顔が怒りに歪んだ。
「バカにするな。オレ一人で帰れるか!」
彼の怒声に獣たちが遠吠える。遠くの山や立ちはだかる樹林にこだまするその鳴き声は殷々と響き、目前に迫った獲物を取り囲むように反響する。
颯仁はリョウをどのように説得したものかと頭を悩ませた。背にしがみついたがため息をつく。
「致し方ない……。颯仁、目を閉じよ」
突然何を言い出すのかと、颯仁は自分の背を一瞬振り返りかかった。が、が突拍子もないことを言い出すには、いつも訳がある。なぜそんなことをしなければならないのか、理由はすぐに判明するだろう。
颯仁は素早く目を閉じた。松明の灯りも見えず、歩んでいた足が止まった。
「炎なす者、浄光を宿して我が手に参れ。我ら、世界樹の招かれ人なり」
が朗々とした声で言葉を紡ぐ。その声に先を進んでいたリョウが振り向く気配がした。
目の前で凄まじい閃光が放たれる。リョウの息を飲む気配が、離れた位置にいる颯仁にも感じ取れた。
「何を……した」
リョウの呻き声に苦痛が混じっている。颯仁にも放たれた光の強さを感じることができた。眼裏を焼く一瞬の煌めきであったが、その光をまともに見たリョウの両目は、きっと激しい痛みに襲われているに違いない。
颯仁がそっと目を開けてみると、松明を掲げたまま膝をつくリョウの姿が見えた。視界を塞がれ、目の痛みにうずくまる彼の姿に颯仁は同情したが、口にした言葉は別のものだった。
「しばらくしたら目は元に戻る。そのまま村に帰れ。……俺はこのまま村を出る。世話になったな。村の者にはお前から礼を言ってもらえるか。返せるものは何もないが、獣どもの始末だけはする」
リョウの脇を通り抜けようとしたときだった。目を覆っていた彼の片手が、颯仁の足首をガッチリと握りしめた。
「ふざけるなよ。松明の灯りもなしでどうやって山道を進むつもりだ。それに獣たちはもう目の前に迫っている。オレを無視してお前を追っていく保証などない。お前は怪我人を置いて行くのか!」
颯仁は微かに苦笑いを浮かべた。自分を一人で行かせまいと必死なリョウの言葉が今は胸に暖かい。
「我が侭な奴だな。追ってきている獣はお前には手出ししないと言っているだろう。生き残りたければ、ここから村へ帰れ」
しっかりと足首を掴まれていたはずだが、颯仁が軽く足を振ると、リョウの手はあっさりと外れた。慌てて腕を振り回すリョウから離れ、颯仁はを背負ったまま走り始めた。
黒々と浮かび上がる木々の影だけを頼りに、上へ上へと進んでいく。
「ハヤヒトッ! オレとの勝負はまだ終わっていないぞ!」
背後から聞こえてくる声に、颯仁は再度苦笑を漏らす。肩越しに振り返ると、も同じように苦笑を漏らしている顔が見えた。
「次に遭ったなら俺を殺す気でこい! それならば勝負に乗ってやる!」
チロチロと見える松明の灯りに向かって叫んだ後、颯仁は地面を蹴った。
山肌を蹴る足に力が入るたびに颯仁の走る速度が上がっていく。それにつられるように、背後の獣たちの速度も上がった。
もはやリョウがうずくまっている付近にも獣たちの気配はあるまい。予想通り、獣たちはリョウを害することはなく、一心に颯仁だけを追いかけてきた。
すぐに獣に囲まれる。荒々しい息遣いがすぐ脇で起こった。
「来るぞ、颯仁!」
の短い叫びと同時に、左脇から鋭い咆吼があがる。獣の毛皮が颯仁の腿を掠っていった。一瞬でも身をかわす速度が遅れていたら、獣の鋭い爪が足に食い込んでいただろう。
時には飛び上がり、左右に反れ、腰を屈め、颯仁は一直線に山の頂を目指した。少しでも村から遠くへと。
しかし何度目かに飛び上がったとき、彼の膝裏に一頭の獣が体当たりを喰らわせた。
空中で受けた衝撃はどこにも吸収されることはない。弾き飛ばされた勢いのまま、颯仁は地面に投げ出され、登ってきた斜面をゴロゴロと転がり落ちていく。
背中にしがみついていたが途中で放り出された。
「颯仁ぉっ!」
アッという間に遠ざかるの声とは別に、転がり落ちる自分の周囲に唸り声が沸き起こる。首筋に感じた生暖かい息。歪んだその息遣いに、颯仁はゾッと背筋を凍らせた。
転がる勢いを利用して跳ね起きると、颯仁は回し蹴りで周囲を一閃した。運良く蹴りが喉元を捉え、一頭が調子外れの悲鳴を上げて地面に転がる。
まだ周囲を四頭が囲んでいた。颯仁を取り囲んだまま威嚇の唸り声をあげる影は、赤光の瞳をぎらつかせ、狂気を孕んだ気配を辺りに放っている。
「大人しくは殺されんぞ」
颯仁が腰を落として戦闘態勢に入ると、獣たちがその周囲を近づいたり離れたりしながらグルグルと回り始めた。これでは相手との正確な間合いが計れない。
「ナバノハヤヒト、ジゲイサマノメイニテ、ソノクビモライウケル」
一本調子の冷たい声が周囲から漏れた。囁く声は男のものとも女のものとも判らない。颯仁の背に冷たい汗が流れた。
「なるほど。斯波の磁鯨が追っ手に加わったか。道理で幻獣使いどもの威勢がいいはずだ。だが……この那波の鬼子をそう易々と倒せると思うなよ」
低めた声を発する間にも、颯仁の周囲では犬に似た獣が踊り狂っている。先ほど蹴りを喰らった一頭は脳震とうでも起こしたのかピクリとも動かないが、残りの四頭をまとめて相手をするのはかなりきつそうだった。
目まぐるしく位置を入れ替える獣のうち、一頭が牙を剥きだして襲いかかってくる。目の前に迫った獣の喉元を、颯仁は大きく振りかぶった腕で叩きのめした。
くぐもった絶叫が獣の口元から漏れる。指先が肉に沈んでいく感触が伝わってきた。
そのすぐ後ろから別の一頭が迫っていた。最初の一頭は囮だったのだろう。顔を狙ってきた獣を振り払ったときに止まった足めがけて飛び込んでくる。
退がれば周囲を取り囲む残りの二頭が踵や背中に襲いかかってくることは間違いない。
颯仁は深く一歩進み出ると、地面スレスレに飛び込んでくる獣の顔面と脇腹とを立て続けに蹴り上げた。再び獣の絶叫が辺りに響く。たぶん内臓が破裂しているはずだ。
返す勢いで背後に迫っていた一頭を半身で交わし、続いて迫っていた一頭の首を走り抜けざまに両腕で掴むと、身体全体を使ってねじり絞める。苦鳴をあげる獣の喉をかまわず絞めあげた。
再び向かってきた一頭の進路を腕に抱えた一頭で振り払えば、腕の中の獣の頸骨が折れる感触がした。颯仁は死骸を放り出し、残った獣めがけて突進する。
互いに進路が判らないよう左右に動き回りながら、交差する一点を読み解いていく。山の上に向かって走るこちらのほうが、勢いが死んでしまう分だけやや不利か。
颯仁は交点をはじき出し、相手の急所が到達する場所にいち早く蹴りを放った。が、その蹴りが空を切る。
獣は予想した進路の手前で飛び上がり、颯仁の真上に到達していた。
まだ蹴りの勢いで体勢が崩れたままだ。首をねじ曲げて頭上を見上げると、獣が赤い口を開け、牙を剥き出しにして嗤っていた。伸ばされた前脚の先では鋭い爪が獲物を捕らえようと光っている。
避けられない。この位置では前後左右、どちらに逃げても喉笛か頸骨に食いつかれる。
「ハヤヒト、伏せろォッ!」
「颯仁、首筋を守っておれ!」
思いがけない二つの叫び声に颯仁は目を見開いたが、身体は叫び声に従って反射的に頭を抱えて突っ伏した。獣の前脚の爪が肩先をかすめていく。すぐに無防備な背中に飛び乗られて首筋に噛みつかれる……はずだった。
「風よ、禍いを招け。喰らう口より入りてその臓腑を砕け!」
颯仁が身体を伏せると同時に、獣の絶叫が背後であがる。ついで、颯仁の背中にどさりと獣の身体が転がり落ちてきた。
もがき回っている毛皮と流れる血の感触に颯仁は身体をひねり、獣の喉元を両足で締めあげると膝を使ってねじり曲げる。
獣は口から血の泡を噴いて絶命していた。
骸の首筋に突き立った短刀に見覚えがある。リョウが腰に差していたものだった。もしも彼と争ったとき、最初からこの短刀を使われていたら、自分もこの獣と同じ姿をさらすことになっただろう。
「ハヤヒト! まだ一頭残っているぞ!」
「ばか者、気を抜くな!」
ホッと一息ついた颯仁を叱責するように男の声と幼子の声が飛ぶ。ハッと顔を上げれば、最初に蹴りを入れた一頭が頭を振り振り起き上がってくるところだった。
「妙なる光よ。その鎖にて縛し、小ならしめよ!」
の金切り声が間近から響いた。その声が響くと同時に、樹木の一本が青白く光り、地中から根をうねうねと伸ばす。
盛り上がった地面に獣がたたらを踏んだ。
伸び上がった木の根が獣を捕らえる檻となり、食い破ろうと飛びついてくる獣の行く手を遮る。徐々に囲みを小さくしていく青白い根はビクともせず、ついに獣の身体を捕らえると万力のごとくその身体を絞りあげた。
遠吠えに似た悲鳴が獣の喉から漏れ、次の瞬間にはその黒々とした身体が破裂し、血肉や腑を周辺にぶちまける。
襲撃を終えた木の根が元通り地中に消えたのもほぼ一瞬のことだった。
の力に颯仁は自分の皮膚が粟立つ感覚を抑えられない。いや、それ以上にリョウの反応が気になり、声が聞こえた方角を振り返った。
顔を強ばらせて悲鳴を呑み込んだリョウの様子は、自分の驚きの比ではない。村ではこんな力を目にする機会などなかっただろう。知らなくていい力を眼にした者の反応としては当たり前だった。
「俺が生きてきた修羅の世界とは違う……」
ボソリと颯仁は呟いていた。
サイカ村に滞在していて感じたが、村人たちは人間の善性というものを素直に信じている。人間の中にある善というものを、どこかで信じ切れない自分とは決定的に違うと感じた。
自分とは相容れない。リョウがユーナと自分の仲を心配するが、話をする以上の関係になりようがない。彼らと自分との隙間には、あまりにも大きな隔たりがあった。
血まみれの身体を起こしたところで、頭上から悲鳴が聞こえた。
斜面を振り仰げば、の小さな身体が急斜面を転がり落ちてくる。ここまで自力で降りてきたらしいが、最後の最後で足を踏み外したようだ。
運良く颯仁の身体に突き当たって止まったが、一歩間違えれば一直線に麓まで転がり落ちていっただろう。
「、しっかりしろ!」
子どもは身体中のあちこちに擦り傷を作っていた。目を回していたが身体を揺すられてハッと我に返る。
「リョウは……?」
が怯えた声をあげた。今の力にリョウが恐怖しないという保証はどこにもない。
そっと振り返ると、リョウは先ほどの位置で縫い止められたように佇み、颯仁とその腕に抱きかかえられたとをじっと見上げていた。
何を言ったらいいのか。リョウは言葉にならない声を絞りだそうと何度か口を開くが、その喉からは何も発せられることはない。
困惑に瞳を揺らすリョウの様子に、颯仁は苦い想いを噛み締めた。今までに通り過ぎてきた地でも同じような眼で見られた。今さらそれに動揺するほうがおかしな話だ。
「リョウ、儂の眼を見よ」
腕の中からあがった嗄れ声に、颯仁は身を固くする。
颯仁の見ている目の前で、見る見るうちにリョウの表情が虚ろなものに変わっていった。通り過ぎてきた村や街で、はこうやって人々の記憶を操ってきた。もはや見慣れた光景とはいえ、今回は気分が悪かった。
「、リョウの記憶を奪うな」
颯仁の囁き声にが首を振る。
「そういうわけにはいかん。今ここでは存在してはいけない力を見られた。リョウが村に帰って、見てきたことを説明しても誰も信じない。信じないということは、そこから疑念が生まれる。疑念が生まれれば際限なく悪意が生まれる」
「ユーナは信じる」
「ならば、なおさら記憶を貰う。我らの記憶だけ抜き取ればよいだろう。ユーナのそばに……村の至石たる祈りの巫女のそばにおる者が、悪しき影響を受けてはならん」
が掲げた檀の枝が光を放ち始めた。淡い緑に輝く光、これが村の幼子たちが言っていた光だろう。
「村の子どもにもそれを見られているだろう。何をやっていたのか知らないが、リョウの記憶を奪ったところで、何もかもが消えるわけではないぞ」
「……これのことを聞いたのか。幻獣どもを惑わすために結界を布かねばならなかったからな。疑うことを知らぬ子どもらに手を借りた。が、その子どもらも忘れる。いや、村人全員がだ……」
一つ肩で息を吐くと、は高々と枝を掲げた。
「リョウ、お前に暗示を与える」
冷たい声はいったい誰のものだろう。の幼い声に重なって嗄れた声が空気を震わせていた。
「村へ戻れ。櫓火を囲んで祭りが続いている。村人たちとともに楽しむがいい。ユーナも……いや、祈りの巫女は騒ぎの後に神殿に駆け戻ったか。ならば迎えに往け。そして彼女に逢ったなら、こう伝えよ。……世界樹の界は閉じられた、と。それが暗示の鍵になる」
周囲の木々が枝に共鳴して輝きを放つ。リョウの手にある松明よりも煌々と闇を照らし、その光は周囲の音という音を呑み込むように沈黙を広げた。
「礼を言わねばなるまい。祈りの巫女の祈りにずいぶんと助けられた。リョウ、往くがいい。お前の守るべき者らの元へ」
ギクシャクとした動きでリョウが背を向け、颯仁たちから遠ざかっていく。虚ろな視線は颯仁たちを捉えることはなかった。
「待て……。短刀を忘れている」
颯仁は足下にある骸に突き立っているはずの短刀を見下ろし、そこで息を飲んだ。あるべきものがない。
獣の骸がなくなっていた。光を受けて白い刃を輝かせている短刀ばかりが地面に転がっており、今までの惨劇を思わせるものは何もない。ふと自分の腕を見れば、べったりとついていたはずの返り血が綺麗に消えていた。
「元の場所へ返しただけだ。早く渡してやれ」
颯仁はの声に促されて短刀を拾い上げると、虚ろな表情をしたリョウの手の中にその刀を落とした。
「往け。振り返るな」
別れの言葉は出てこなかった。忘れられる嘆きも、決別の寂しさも、何も胸に迫ってこない。何度も繰り返した光景に、颯仁の心は麻痺したままだった。
リョウの姿が木々の影で見えなくなると、周囲を照らしていた光も徐々に薄れていった。闇が戻り、夏虫たちが這い回る気配がそこここでする。
あまりにもあっけない別れが可笑しくて、颯仁は乾いた笑い声をあげた。