き り ふ き や ま
霧噴山

其の六 射干玉結《ぬばたまむすび》

「我が手に来よ……」
 背負っていたがふいに声をあげた。颯仁はやひとは足を止めることなく呟きを聞く。
 語尾が空気に溶け込むとき、颯仁の周囲に青白い炎が舞った。の手にする枝先にポゥッと淡く光りながらまとわりつく炎は、一見すると蛍のようだが、それを蛍と呼ぶにはあまりも大きく、また青白すぎる光だった。
、何をしている?」
「こやつらの魂魄を一緒に連れていってやらねばなるまい。器を元の場所へ戻して、魂魄だけをこの界へ残しておくことはできん。界に落ちたときに死んだ二頭は先に送り返したが、こやつらは死にたてほやほやの魂魄だからな」
「まさか……さっきの犬どもか?」
 数えて見れば、光は五つ群がっている。背中でが頷いた。
「本来、人の眼には見えぬ。しかし今回はさすがに大技を使いすぎた。力が足りぬかもしれん。眼でも追えるようにせねば、取りこぼすやもしれぬからな」
「幻獣使いに返してやるのか? またぞろ俺をつけ狙うだろうに。お前も人が良い」
 颯仁が苦笑いを浮かべる。とは半年にも満たないつき合いだが、この幼子が何をしでかしても、もうほとんど驚くことはなくなった。並の神経ではついていけないのだ。
「お前の義父となるはずだった磁鯨じげいは喜ぶのでないか? あるいはお前の兄弟たちは……」
 揶揄する声に颯仁は一瞬歩調を乱す。が、足を止めることはなく、星の光も届かぬ真っ暗闇な山道を軽快な足取りで登っていった。
……お前はいったい俺の過去をどこまで知っている?」
「さて? 最初に言ったはずだが。儂は千里眼のだと」
 またしても体よくはぐらかされたが、颯仁は子どもの態度を気にすることはなかった。
 それからどれほども往かないうちに、が止まるよう指示を出した。
 前方がうっすらと明るい。樹木が途切れ、空が見えているのだ。差し込む光の具合から月が出ていることは判るが、鬱蒼と繁った枝が邪魔をして木々が途切れていない場所ではその姿を拝むことはできそうもなかった。
「ガレ場へ出たな。岩の上に登ってくれ。眼下が見渡せ……おぉ、北カザムの雄だ。こんな下の山に姿を見せるとは……今年はサイカ村は北カザムがよく狩れるかもしれぬな」
 の言葉につられて視線を巡らせば、真っ白な毛皮を輝かせる獣が岩の間に見え隠れしていた。素早い動きに、全身を見ることは叶わなかった。一瞬捉えた姿は鹿のように見えたのだが。
「あれが俺に似ているとかいう獣か? 俺の気味の悪い肌色とはまったく違うじゃないか。カチたちの言うことは当てにならないな」
「そう卑下するな。褒められたというのに、自分から貶すこともないだろう。それよりも、早く岩場へ」
 の指示通り、颯仁は身軽な動きで岩場の上へと進んだ。遮る枝がなくなった途端、視界は大きく開け、空を渡る風が颯仁の白い髪を弄ぶ。
 山頂から吹き下ろしてくる風に習って、颯仁は背後を振り返った。黒々とした山並みが眼下に広がり、遠く遠く、一点だけ灯りが見える。
「櫓火がまだ燃えている。祭りは無事に終わるかな」
「終わらせる」
 背中のきっぱりとした声に、颯仁は思わずの赤い瞳を覗き込んだ。だが、そこにはなんの感情も存在せず、眼下の灯火と同じ静けさがあるだけだった。
「本当に全員の記憶を奪えるのか?」
 颯仁の問いへの答えは、子どもの歪んだ口元だけだった。
「物言わぬ神よ、お前の民たちの記憶を貰うぞ」
 遠い炎を見つめたまま、子どもが小さな口を尖らせ、そっと息を吸い込む。蕭々と吹いていた風が僅かの間だけ止まり、次の瞬間には子どもの唇へと消えていった。
 が見つめる先を颯仁も一緒に見つめた。
 赤々と灯った櫓火の周りの森で、点々と緑色の光が瞬き始める。蛍が一斉に飛び交うような揺らめきを持つ光がゆっくりと上空へと浮き上がり、村や神殿が建っていると思しき場所を覆い尽くしていった。
 蠢く光は山の澤水のごとく村中に満ち、緩やかな螺旋を描きながら天空へと昇る。その光たちが天へと向かう姿が、若木が空へと枝を伸ばす様によく似ていた。
 光の大樹が村を根城にそそり立ち、天にも届かんばかりに枝を四方に広げる。
「参れ」
 耳元で囁かれた言葉に引き寄せられ、大樹の枝がなびいた。手繰られ、根こそぎ引き倒されるように傾いでくる。
 このように巨大な大木が倒れてくるというのに、その姿は少しも恐ろしくなかった。むしろ微睡むために横たわるような緩やかな動きに、颯仁は我を忘れて見入っていた。
 が伸ばした小さな手にその先端が触れるや否や、輝ける葉先が幼子の柔肌にめり込み、脈打つようにして吸い寄せられていく。微かだが轟々と風鳴りが聞こえた。しかし、それ以外はなんと静かな光景であろうか。
 最後の一片まで吸い取られた後、子どもの小さな掌に残っていたのは一本の懐刀だった。
「それは俺の……!」
「結界を張ったときにお前の身代わりをさせていたのだがな……。うっかりと寝入ったときに術が解けてしまった。しまっておけ」
 受け取るように促す手の中で、鞘をなくした刃が月光にギラリと光った。それをそっと受け取ってみれば、馴染んだ肌触りにホッとする。
「なくしたと思っていた」
「鞘はなくなってしまった。いや、たぶん……霧噴山きりふきやまに残されているだろう。戻ったら見つかる」
「戻ったら? 先日からお前、何を言っている? だいたい、ここはどこだ。霧噴山じゃないのか? 俺はてっきりその山のどこかだと思っていたが」
 首を傾げる颯仁の表情にが意味深な笑みを向けた。が、歪んだ口元は何も答えを返さない。
「その様子だとまだ俺に隠していることがありそうだな。いったい何を企んでる?」
「答えがいるか? 嘘はつかぬが……真を申すとも思うなよ」
 やはり明確な返事を返すつもりはないらしい。颯仁は諦めて首を振った。
「お前との問答につき合っていると疲れるだけだ。それで? これからどちらの方角へ向かうんだ?」
 潔いのか投げやりなのか判らぬ颯仁の態度に、がクスクスと笑い声をあげる。子どもらしい屈託のない声は、それまでの重く異質な空気を振り払う明るさがあった。


 良いと言うまで眼を開けるなと言われ、颯仁はやひとは大人しくそれに従った。文句をつけたところで結局は従うことになるのだと、これまでの旅の道中で学んでいたからだ。
 耳元で訳の判らない言葉がブツブツと呟かれ、最後に子どもらしい澄んだ高い声で「霧噴の峰よ、我らを招け」と聞こえた途端、颯仁は身体を引っ張り上げられる感覚に膝が抜けそうになった。
 急激な上昇感覚に胃がねじれる。漏れそうになる呻き声を堪えるのに精一杯で、眼を開けて周囲を見回すどころではなかった。
 ゴォンと遠くで鐘を突くような音が聞こえたかと思えば、炉の炎を起こすふいごの送り風のように鋭い風音が耳元で鳴る。
 肌の上を凍てついた水が流れていく感覚がしたかと思えば、渦巻く熱風が全身を包んで揺すり立ててくる。
諸弥真澤黒角弓生比売もろやまさわのくろつのゆみおひめ。覚えあらば我の声聴け!」
 背中にしがみつくの体温と甲高い声だけが世界のすべてだった。
 遙か彼方から鉄砲水が押し寄せてくるような轟音が聞こえた。人々が囂々ごうごうと騒ぐ声にも似ているかもしれない。頭の中に鳴り響く音の洪水は止まることを知らない。
 颯仁は瞳を閉じたまま目眩を起こしているのではないかと、頭を振った。
 そのとき突然、柔らかな水気が全身を覆い、不確かだった足下にしっかりと大地の感触を取り戻した。
「峰なす神の御手、山野辺の子ら、狩人の下僕。憶えあらばその御胸に抱かん」
 の甲高くも重々しい声が連なるたび、身体がどんどん重みを増す。このままでは大地に足先がめり込んでしまいそうだ。よろけそうになりながら、颯仁は必死に踏ん張っての指示を待った。
 耳元で一瞬だけ風が凪ぎ、音が静まったが、すぐに音の洪水が繰り返される。
「その垣根なす霧噴の扉を、我の前に開かん」
 一語一句をハッキリと発音するの声が緊張していた。その雰囲気に呑まれて、颯仁も身を固くする。
 肌を覆う水気が濃度を増した。呼吸を繰り返すたびに水を飲み込んでいるような息苦しさに襲われる。
 颯仁は自分の肩に置かれたの小さな手が、食い込むほどしっかりと握られた感触に身体をさらに緊張させた。と、今までに感じたことのない重圧が全身を襲う。骨が軋み、関節が悲鳴をあげた。
 それでもなお颯仁は瞳を閉じ続け、崩れそうになる膝を奮い立たせる。
 ドドォンと雷が落ちたように周囲の空気を圧する大轟音が耳に届くのと、突然消えた重圧に気づくのはどちらが先だっただろうか。
 肩の上にあったの手から緊張が抜けた。
「もう眼を開けてもいいぞ」
 吐息混じりの指示に、颯仁も安堵の吐息をつきながら、そっと眼を開ける。
「……おい。なんだこの霧は」
「最初に戻っただけだ」
「判るように説明しないか!」
「面倒くさい。サッサと霧噴山の山頂を越えて、大幹タイカン側に出ろ。……寝る」
 強制的に会話が打ち切られ、すぐに子どもの寝息が背中から聞こえてくる。後は揺すろうが叫ぼうが、眼を醒まさない微睡みの中にいるの寝顔があるばかりだった。
 右も左も判らない白い霧の中に放り出され、颯仁は途方に暮れたようにため息をつく。脱力感に膝が折れそうになった。
 まったく、何がどうなったら月明かりのガレ場から急にこんな妙な場所へ来ることができるのか。
 子どもを叩き起こして無理にでも問いただそうかとも考えたが、たとえ眼を醒ましたとしても、また答えをはぐらかすだけだろうと思い至り、颯仁は重い足取りで斜面を上へ上へと歩いていった。
 いつの間にかの腕からまゆみの枝がなくなっている。まとわりついていた蛍火のような魂魄の輝きも見えなくなっていた。そのことに颯仁はまったく気づいていない。
 ふとつま先に固い感触が当たり、颯仁は足を止めた。足下すら見えない深い霧だ。何が当たったのか判らない。が、腰を屈めて手探りすると、すぐに探し当てることができた。
 手の中に握りしめた物を見つめ、颯仁は感嘆とも安堵とも判らない深い吐息をつく。
 そこには失ったはずの懐刀の鞘が乗っていた。
「まるで狐に化かされた気分だ……」
 ひとりごちる颯仁の声を聞くのは、周囲を囲む白い闇ばかり。


 登るだけ登っていくと、ついに進む道が見当たらなくなった。どちらを見渡しても坂道らしいものはない。果たして山頂についたのか、それとも見えない先のどこかにまだ道は続いているのか、まったく判らない状態だ。
 風がそよとも吹かず、物音一つしない状態では、周囲の様子を探ることもままならない。
「着いたか?」
 突然、背後からの声が聞こえた。あくびをしながら周囲を見回す気配がする。
「あちらに真っ直ぐ」
 子どもの幼い指が右前方を真っ直ぐに指さした。
 指示された通り、颯仁はやひとがそちらに向かって進むと、すぐに黒々とした木の幹が見えてきた。
「あれの真下へ行ってくれ」
 近づいて幹をよく見てみれば、それはまゆみの大木だった。手の届く位置に下枝がないところを見ると、かなりの樹齢なのか人の手によって払われたかと思われる。
 の小さな手が幹に触れた。黒っぽい幹の上に重ねられた手の甲はあまりにも青白く、霧が結晶したような錯覚を起こさせる。
「間違いない」
 もそもそとが呟き、霧に隠れて見えぬ樹上を見上げた。
「すまぬが先を見たい。霧を払ってくれ」
 誰に呼びかけているのか。子どもは遙か上空に向かって声をかけた。
 颯仁は胡乱げな視線を子どもに向けたが、その顔の向こう側にあった霧が突如消えてなくなったことに驚き、慌てて周囲を見回した。
「なんだこれは!?」
「霧を払ってもらっただけだ。すぐに元のようになるぞ。ほら! サッサと北の方角に向け」
 ぽこぽこと背中を叩く子どもの横柄さを忘れ、颯仁は茫然と周囲を見渡した。
 つい今し方まで満ちていた霧が一筋も残っていない。スッキリと晴れ渡った夜空には、細く笠をかぶった月がぽっかりと浮かんでいた。立っている場所はまだ山頂ではなく、その下方にある高台だ。
「こちらを向け。こちらを!」
 が後ろからグイグイと首をねじ曲げる。仕方なく指示された方角を向いた。そちらがの言う北の方角になるのだろう。
 颯仁は相変わらず辺りをキョロキョロと見回し、自分たちを照らす月の横顔を信じられない思いで見上げた。
 山の東側面を回り込みながら登っていたらしく、西の方角に傾いだ月輪は峰の穂先で刺し貫かれようとしている。先ほどまではこの月光を感じることなどできなかったというのに、いったい何が起こったというのだろう。
 唖然としていた中で、颯仁はハタとの手に枝がないことに気づいた。
「おい、。お前、さっきまで持っていた枝はどうした? 後生大事に抱えていたくせに捨ててきたのか?」
 まさか戻って探せなどとは言い出さないだろうな、と危惧して、颯仁は恐る恐る訊ねてみた。
「あれか? 元々が山神の持ち物だ。戻ったときに取りあげられたぞ」
 また訳の判らないことを言っているが、どうやらの言うところの元の場所へ戻ったという意味なのだろうと、颯仁は深く追求しなかった。が、がニヤニヤと嗤いながら指を傍らの大樹の梢へと向けて、上を見るように促す。
「派手に力を使ってやったからな。山神が修復を終えるまでにもうしばらくかかるのだろう。ほら、まだ枝が戻ってきていない」
 何を言っているのかと見上げてみると、大枝から枝分かれしている細い枝が不自然に折れている箇所があった。じっとその部分に眼を懲らした颯仁は、訝しげに首をひねる。
 夜の暗がりの中で判然としないが、その折れ口がひどく生々しく、今折ったばかりのように白っぽく見えるのは気のせいだろうか?
「さぁて。行き先も判ったことだし、北へ向かうとしようか」
 満足そうに伸びをしたが、さぁ進めとばかりに颯仁の脇腹を蹴り上げた。まるで馬か驢馬のごとき扱いだ。
「このクソガキが……。俺はいつからお前の馬になったのだ」
 颯仁はこめかみをピクピクと震わせる。
「たった今からだ。ほれ、進め! 田畑の向こう、あそこに黒い道が見えるだろう。あれが黒竜街道。あの先のどこかに儂の故郷、彷徨える街がある」
「子どもが儂、儂、とジジイみたいな口を利くな。少しはまともなしゃべり方をしないか」
 の口調には子どもらしい可愛げがない。それが腹立たしい限りだ。
「うるさい。あんまりぎゃぁぎゃぁ騒ぐと天罰を喰らわすぞ。夜明け前にあの街道へ出ろ」
「何が天罰だ。ケツを引っ叩かれたいのか」
 目に見える目的ができたことで、颯仁の中にも安堵が広がっていた。馴染んだ空気が肺腑に広がり、目に見えるものすべてを懐かしく感じる。
「お前、雇い主に向かってなんという無礼を働く気だ! 儂を運んでいかぬのなら、追っ手が来ても教えてやらん! 獣どもに喰われて野垂れ死ね!」
「可愛げのない子どものお仕置きは昔から尻を叩くと決まっているだろうが」
 颯仁は嫌味なくらい皮肉たっぷりにを振り返り、片眉を上げながら子どもの赤い瞳を睨んだ。
「こ、子ども扱いするなぁっ! 儂は当年で百十歳だと言っただろう!」
「……お前、まだ酔っ払っているのか?」
 どこをどう計算したらこんな子どもが百の齢を数える老人に見えるか。呆れ顔で肩をすくめた颯仁は、背中でギャイギャイと騒ぐ子どもを無視すると、示された街道に向かって走り始めた。
「行くぞ。掴まっていろ!」
 満天の夜空に降り注ぐ月光に、彼の白い姿が浮き上がった。まるで月に愛されている獣のように俊敏な動作で山を駆け下る。
 びゅぅびゅぅと耳元で鳴る風音に頬を緩め、颯仁は季節はずれのつむじ風のごとく平地を目指した。


 一晩中、休む間もなく駆け続けて辿り着いた街道は、美しい黒曜石が敷き詰められた道だった。遠くからもよく見えたはずだ。荷車がゆうに五台は並べる道幅は、そんじょそこらではお目にかかることのできない代物だろう。
 北へ北へと伸びる道は、夜の闇よりも深い射干玉ぬばたまに濡れ光っていた。
「黒竜街道まで戻ってきたか。ここからもまだ長い旅路だが……いやはや、懐かしい石色だ」
 が背中で感慨深い声をあげる。それを耳にしながら、颯仁はやひとは進んできた道を振り返った。
 南に広がる田畑の向こうには、連峰から突き抜けて黒い山峰が見える。山の上にはうっすらと靄がかかっている様子が、この遠方からも見ることができた。
 あれが霧噴山きりふきやまだ。摩訶不思議な山は今は遙か遠い。
 じっとその山を見守るうち、東の空がうっすらと青い闇をまとい始めた。背中でも同じようにして霧深き山を見つめている気配がする。
「……さらば、惑わしの山よ」
 ぽつりとが呟いた。
 それに応えるように山が霧の腕を振っているような気がした。「さらば」と。再び相まみえる日までの別れだと。
 無事に往きすぎていく旅人を見送る姿は、人を惑わした山とは思えぬ静けさに守られていた。
 穏やかで、しかし決して相容れぬ世界が今は遠い。人の心を狂わせる霧の向こう側の世界は、確かに今となっては現実とは思われなかった。
「皆、忘れてしまっただろうか?」
 ふともらした自分の声が寂しげに聞こえた。
「忘れられることが怖いか?」
 尊大だが生真面目な子どもの声に、颯仁は自嘲の笑みを漏らす。
 忘れられる。なんと胸苦しい言葉であろう。これから先、自分のことを憶えていてくれる者が何人いるだろう。故郷では追っ手に加わっている者以外、自分のことなど忘れてしまうのではないのか?
「たとえ向けられるものが殺意であったとしても、忘れられるよりはいい」
 そう呟くと、颯仁は遠くの尖峰に背を向けた。
 長く伸びる街道を北へと目指す。北へ、北へ。故郷から離れ、その故郷の者に追われながら。
「忘れはすまい。たとえ他の誰が忘れようと、お前の身内は忘れまいよ」
 背負った子どもが粛々と答える。慰めているつもりなのか、それとも千里眼だというその瞳には真実まことが映っているのか。颯仁には判らないことだった。
「生きるも死ぬも風の如く。俺を止めることができる者は、俺を忘れないだろうか?」
なぎの名を持つ者は、風の名を持つお前と同じ……」
 の声に、一直線に殴りかかってきたリョウの顔を思いだす。故郷でもあんなふうに拳を交えた者がいた。生まれたときから一緒にいた、しかし、今は進む道を隔ててしまった者が。
「いつか再び、相まみえる日を待て」
 背負った子どもがコトリともたれかかってきた。その重みが遠い故郷を偲ばせる。
 颯仁はもたれてくるを揺すり上げると、真っ直ぐに頭を上げた。明け始めた空の群青が周囲の景色を青く蒼く輝かせる。夜の風が止み、光の時間を告げる朝風が吹こうとしていた。
「そうか……。いつか相まみえるか。ではそれまで、凪が生きるならばはやも生きるとしよう」
 自分の静かな声音の中に、波濤を受けて浮かぶ故郷の島影を見た気がして、颯仁はあるかなきかの微笑みを口元に刻んだ。

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