其の四 修羅と狩人
戻る途中でスッポリと夕日の光が消えた。山に囲まれた地ではよくあることだ。日が山の向こうに消えても、しばらくは空に残光が残っている。が、それが見えなくなると急激に暗闇に包まれることになるのだ。
颯仁はが眠っている場所へと急いでいたが、背後に感じた気配に足を止める。
「……なんの用だ? 酒宴でも俺を睨み殺そうとしてたな」
颯仁は振り返ることなく、近づく気配に声をかけた。地面に落ちた小枝や石を踏みしめる足音が聞こえる。気づかれたと知ったときから、相手は気配を殺すことを止めていた。
黙り込んだままで、颯仁の問いへの答えは返ってこない。
元から相手のいらえなど期待していなかった颯仁は、小さく吐息を吐くと、真後ろに迫った相手へと向き直った。すでに相手の見当はついている。どんな形相をしているのかも。
静かに足を踏ん張り、自分よりも頭一つ分は高い相手の瞳を睨み上げた。
「最初に逢ったときから気に入らなかったが、最近のお前の態度は気に喰わないどころじゃない」
「フン、だったらお互い様だ。八つ当たりされる俺のほうが迷惑なくらいだ」
相手の黒い瞳が険しい光を湛えてこちらを見下ろしてくる。だが不思議と恐ろしいという印象がなかった。どこかその怒りが滑稽にも思える。
「どうせユーナのことだ。俺の怪我の具合を毎日お前に話していたんだろう? 他の男の話を聞かされては、普通の男なら誰だって面白くない」
「だからお前がユーナに近づかなければいいんだ!」
掴みかかってきた腕の間をすり抜け、颯仁は相手から数歩の間合いを取った。体格差のある相手だ。捕まえられたらそう簡単には逃げられない。
「そういうことはユーナに言え。俺じゃなくって、あっちが近寄ってくるんだからな」
「お前が話し相手にならなければ、彼女は寄っていかない。怪我が治ったなら、トットと村から出て行け!」
再び相手が腕を伸ばしてきた。その動きは決して愚鈍な動きではなかったが、小回りが利く分だけ颯仁の動きのほうが素早い。
「言われなくても出ていってやるさ。だが、リョウ。それをお前に指図されるいわれはないな」
すり抜け様に颯仁はリョウの左足を払った。が、それは体重差があって完全には決まらず、リョウの長身を軽くぐらつかせた程度だった。
颯仁は舌打ちしたが、体当たりしてくるリョウの身体を半身で交わすと、再び間合いを広げて相手の出方を待つ。
ザワザワと身体中の血が沸き立ってきた。酒が今頃になって回ってきたのかと思ったが、酩酊の気怠さはない。むしろ頭の中は冴え渡っていた。
『体格差のある相手との戦いはどうする?』
記憶の奥で声が聞こえる。あの声は誰の声だった? 聞き馴染んでいたはずのあの声は……。
「ユーナに近づくな! お前が彼女と一緒にいるところを見ると、吐き気がしてくる!」
怒りの唸り声とともに再び暴風が押し寄せてきた。今度もヒラリと舞ってそれを交わすと、颯仁は大きく後退する。が、飛びす去った彼の足に荒縄が食い込んだ。
──飛び分銅だ!
そう確認した時には、両足は分銅の勢いで巻きついた縄によってきつく縛められていた。
ドゥと地面に転がり落ちたが、辛うじて受け身をとれたお陰でそれほどひどい痛みはない。足の荒縄を切ろうと腰に手を伸ばし、颯仁はその手を止めた。
山霧の中で自分の懐刀なくしていた。今の自分は丸腰だ。今までそんなことにさえ気づいていなかった自分の失態に、颯仁は大きく舌打ちした。
飛びかかってきたリョウを避けようと地面を転がったが、狩人として培ってきた彼の勘は、その動きを読んでいたようだった。一回転しただけで後ろ髪を掴まれて抑え込まれると、鳩尾に拳がめり込んだ。
息が止まり、一瞬意識が遠のく。が、両頬を平手で張り飛ばされ、意識を取り戻した。目の前にある相手の瞳に拭いようのない憎悪が見える。焼き滅ぼそうとでもいうのか、相手の焔の瞳には純粋な怒りだけがあった。
再び振り下ろされた腕を、颯仁はすんでの所で捕まえる。すぐに反対側の腕が飛んできたが、それもしっかりと握りしめた。力と力の均衡は等しく、少しでも油断したほうが負けることになるだろう。
互いに罵り声をあげることはない。低い唸り声。力を込めるために潜められる息。食いしばられた歯がギリギリと軋み、力のせめぎ合いにお互いの関節が鳴った。
しかし上になっている者のほうが有利だ。徐々に颯仁の腕は、相手の力に押されて押し戻されていく。相手も伊達で狩人として弓矢を引いているわけではない。腕力の差は時間が経つごとに明確になっていった。
突然、颯仁は押し上げていた相手の腕を力任せに両側へと払った。僅かでも均衡がずれれば、もろに相手の拳を顔に喰らってしまうギリギリのところで、相手の力みを利用して腕の軌跡をそらしたのだ。
崩れた均衡に腕を引いたリョウが、一瞬だけ身体を浮かせる。その微かな隙間に、颯仁は自分の腕を差し込んだ。すぐに身体と身体の間の空間を広げるように肘で相手の鳩尾を打ち据える。相手を痛めつける力はないが、身体と身体の隙間が大きくなった。
浮き上がった分だけ力の抜けている相手の下から、身体を丸めて両足を引き抜くと、颯仁は身体を伸ばす反動を利用して、リョウの胸元を蹴り上げた。
全体重が乗った蹴りは、いくら体格差があるとはいえ、相手の身体を後方へと吹っ飛ばす。しかしリョウにはあまり効果がなく、彼は器用にくるりと転がると、勢いを利用して易々と身体を起こした。
すぐに反撃できる体勢をとっていたが、リョウの視界からは白い肌をした少年の姿が消えていた。ほんの数瞬目を離しただけだというのに。
虚を突かれた彼のすぐ足下から、獣の唸り声があがった。
ハッとして下を見下ろす間もなく、喉笛と片足首をしっかりと握り込まれる。慌てて相手の腕を掴むも、喉笛に食い込んだ白い指先はビクともしない。ちょっとでも身動きすれば、問答無用で握り潰される殺意が込められていた。
リョウの目の前に飛び込んできたのは、黒々とした瞳を鋭く光らせる少年の白い顔だった。
「リョウ、お前は人を殺したことがないだろう? 獣なら容赦なく襲いかかれても、相手が人間だというだけでお前は無意識に手心を加えている」
息苦しさにリョウの喉が鳴る。その蠕動を指先に感じながら、颯仁は相手の瞳の奥を探った。
「その格好でオレに勝ったつもりか? 腕だけじゃ、それ以上なにもできないぞ」
「試してみるか? お前の喉仏を握りつぶせなくても、俺の今の位置からだとお前の鳩尾や股間はがら空きだ。背後に逃げれば、その急所は守れない。前に逃げれば、お前の身体の後ろに回った俺が、お前の首の骨をへし折るぞ。足が動かなくとも、俺には両腕が残っていることを忘れるな」
ジリジリと時間ばかりがすぎていく。夜風は涼しさを保っていたが、二人は激しく動き回ってかいた汗に全身をうっすらと濡らしていた。
「今回は……お前の、勝ちだ」
渋々といった声でリョウがようやく口を開いた。だが颯仁の指はリョウの喉笛から離れない。
「腰の短刀を寄越せ」
リョウが背中側の腰に収められた短刀を放って寄越すと、颯仁は足を縛めていた縄を素早く断ち切り、喉笛から指を離すと同時にリョウの腕が届かない場所まで飛びす去った。
「リョウ。俺を殺すつもりでいたら、勝っていたのはお前のほうだぞ」
手にしていた短刀を持ち主の足下に放り出すと、颯仁は腕の筋肉をほぐすようにゆっくりと動かした。
「ただの喧嘩でどうして人を殺そうなんて思うんだよ」
リョウは喉元を撫でながら自分の短刀を拾い上げ、元の鞘に戻す。縄を千切られた分銅も回収すると、忌々しげに颯仁の顔を睨みつけた。
「ただの喧嘩が殺し合いになることもある。それを経験していないお前に、俺の修羅は鎮められん」
「ガキが判ったような口を利くな。この次は絶対に負けない」
未だに怒りが収まっていないリョウの様子に、颯仁は皮肉げに口元を歪めた。
「こんなところで俺と顔をつきあわせている暇があったら、トットと祭りへ戻ったらどうだ。お前の姿が見えないとなったら、他の男がユーナに言い寄っているぞ。ユーナのあの鈍さだと、相手の下心なんか見抜けないだろうからな」
「ユーナは他の男のところへなんか行かない!」
「どうだか。祭りの喧噪は女どもを油断させるぞ。すぐ後ろが闇だというのにな。気楽なことだ。見知った顔が悪さを働くとは思わないとはな」
リョウが怒りに顔を引きつらせる。が、負けを認めた時点で相手に手出しをしないと決めたのか、一瞬だけ颯仁を睨めつけ、結局は背を向けて歩き去っていった。
強ばっているリョウの背中を見送り、颯仁はそっとため息をつく。すぐに喉笛に食い込ませていた指先をじっと見下ろすと、腹立たしそうに歯を噛み締めて唸り声をあげた。
「悪しき力よ。……まだ血を欲するのか」
小川のほとりからを抱き上げて戻ってみると、祭りの人だかりは恐ろしいまでに膨れ上がっていた。この状況だと誰が何をやっているのかなど判ったものではない。
櫓火の灯りが届くギリギリのところに腰を落ち着けると、颯仁は眠り込んでいる子どもを自分の上着でしっかりとくるんだ。
は少し揺すったくらいでは目を醒ましそうもない。ここ数日、夜にあまり寝なかったのが災いしたのだろう、昏々と深い眠りの中を漂っているようだ。
人々の嬌声の合間に楽の音が夜空に鳴り響いている。今夜は夜っぴいて唄い、踊り、飲み明かすことになるのだろうか。大人たちの間を走り回る子どもたちも、今日は夜更かしができるとあってか、大変な浮かれようだった。
「ねぇ、は寝ちゃったの?」
数人の子どもが颯仁のそばにおっかなびっくり寄ってきた。夜の闇の中で見る颯仁の姿は幽鬼に似ている。一見したときは、それは恐ろしい化け物に見えたことだろう。
「あぁ、ここのところ夜が眠れなかったようだからな。また明日遊んでやってくれ」
「なぁんだ。せっかく手妻を見せてもらおうと思ったのに」
年の頃はと同じくらいだろうか、五〜六歳の子どもたちが残念そうに口を尖らせて、すぐにでも目を醒まさないものかと、の寝顔を伺っている。
「手妻? こいつがそんなものを見せたのか?」
「うん。すっげぇ面白かったんだ。でも大人には内緒だって。ボクたちだけの秘密なんだぜ」
「へぇ、いったいどんなヤツだ?」
颯仁が訊ねると、子どもたちは互いにヒソヒソと額を寄せ、代わる代わる颯仁とを見比べた。
「と約束したから、大人には教えないよ」
「兄ちゃん、大人? それとも子ども?」
「ねー、さっきリョウがこの人は十四だって言ってたよー。だったら大人じゃないかぁ」
口々に騒ぐ子どもの様子に、颯仁はそっと苦笑いを浮かべる。
「ここでは十三で大人になるんだったかな。残念ながら、俺の国では十五で大人だ。だから俺はまだ子どもだ」
リョウやランドが聞いたなら、こんな横柄な口を利く子どもはいないと反論が出そうではあったが、子どもたちは颯仁の言葉に納得したようだった。
を囲むようにして近くに寄ってくると、櫓火を囲んでいる大人たちに聞こえないように、コソコソと囁き始めた。
「古ぅい木がある場所を教えてくれって言うからさ、森や山のあちこちにある老木を教えたんだよ」
「一緒についていって見てたらねー、そのヤマニシキギの枝で木を叩くんだ」
「何度か叩いてたら、急に枝が光り始めてさ。その光に、こうやってフゥッて息を吹きかけると、大きな木のほうも光るんだよ」
「そうそう、木の上のほうまでずーっと緑色に光って、葉っぱの先から光がパラパラ落ちてくるんだ。でも落ちてきた光に触ろうとすると、消えちゃうんだよな」
「うん、そう。ふわふわ〜って飛んできて、パァッって消えちゃうの」
「違うよ、パラパラ〜って落ちてくるんだよ!」
「えぇー! だって光ってる木の枝と枝の間をふわふわ〜って飛んでたもん! 嘘じゃないよ」
「光ってる緑色の雪みたいだったよな」
「そうそう、雪みたいだった」
小声ではあったが子どもたちはワイワイと騒ぎ始め、この分では彼らの言う秘密は大人たちの耳にも届いてしまいそうだった。
「面白いな。それで? はそれが手妻だって?」
颯仁は口元にそっと指を立て、子どもたちと一緒に額を寄せた。子どもたちはハッと口元を押さえると、互いの顔を見合わせてクスクスと笑う。
「うん。手妻だって言ってた。すごく綺麗だったんだ」
「悪いものが入ってこないようにするおまじないだって」
「え〜? 村に悪いものなんてこないよぅ」
「おまじないの手妻なんだよ、きっと」
「なんて言ってたっけ? え〜っと……。セ……セカ……イ……。なんだっけ?」
「う〜ん。ケンゾクをなんとかって。は難しいこと言うから判んないよ」
「ねー、悪いものってどこにいるの〜?」
際限なく話を続けそうな子どもたちが、颯仁が再び口元に指を立てたのを見てハタと口をつぐんだ。そっと膝枕をされているを覗くが、まだ眠りの淵から浮き上がってくることはなさそうだ。
「、起きないねー。つまんない」
「なぁ、兄ちゃんは手妻できるの?」
わくわくと期待を込めた瞳が颯仁に集中した。小さな瞳の奥がキラキラと輝いている。
子どもたちが期待するような芸当はできそうもなかった。いや、が何をやっていたのか判らないが、木を光らせるなどということを普通はできるはずがない。
「俺にはみたいな手妻は無理──」
そのとき、背後の闇が鳴った。ヒソヒソと、カサカサと。何か良からぬものが忍び寄ってくるように。
「なんだぁ〜、兄ちゃんは手妻できないのかぁ」
「悪いな。俺はほど器用じゃない」
颯仁はの頭を足からはずしてゆっくりと立ち上がり、身体の凝りをほぐす仕草をしながら暗闇を伺った。人ではないものの気配がうっすらと漂ってくる。
「、起きろ……おいっ」
颯仁は深い眠りの中にいる子どもの頬を容赦なく叩いた。のんびりとしていられない。厭な予感がした。
「え? を起こすの?」
「かわいそうだよぅ〜。こんなに寝てるのに〜」
颯仁の起こし方が乱暴なせいだろうか、さっきまではが目を醒まさないかと待っていた幼子たちが口々に眠っている子どもを庇い始める。
はようやくもぞもぞと身体を動かし始めたが、まだ頭は覚醒していないようだ。周囲の子どもたちは期待半分、不安半分でその様子を見守っている。
「お前たち、を起こしたら火のそばに行かせるから、先に行くといい」
「えぇ〜? ボク、待ってる」
一人が言い出すと、残りの子どもも口々に同調してしまった。これでは埒が明かない。
「いいから先に行け。こいつは寝起きが悪いから、起きたときにそばにいると、蹴られるかもしれないぞ」
子どもたちが互いに顔を見合わせた。が、すぐに首を傾げて颯仁を見上げる。
「嘘だぁ〜。そんなの信じない」
「平気だよ。蹴られそうになったら逃げればいいもん」
颯仁の背筋に冷たい汗が伝った。頭の中では何かが逃げろと警告を発している。が、その危機感を目の前の子どもに説明するだけの材料が颯仁にはなかった。
「、起きろ。早くっ」
颯仁が焦りのため、の頬を強く叩いた。酔いの赤みとは違う朱が子どもの頬に差す。
と、闇の奥から遠吠えと獣の駆けてくる足音が響いた。
突然の遠吠えに子どもたちは怯えて闇の奥を振り返る。何人かの大人たちが今の遠吠えを聞きつけて騒ぎ始めていた。
「くそッ……。来たか。お前たち、火のそばへ! 大人たちのそばへ行け! 早く!」
颯仁は怒鳴り声をあげた。その声に驚いて、転がるようにして子どもたちが走り去っていく。
「はやひと……?」
颯仁の怒鳴り声にが頭を振り振り起き上がってきた。しょぼつく目を擦る仕草は相変わらずあどけない。
「。追っ手が来た」
低く囁く颯仁の声にがパッと跳ね起きた。足下に転がっていた檀の枝を拾い上げると、青ざめた表情で闇の向こう側を透かし見る。
「何頭だ? くそっ。うっかりと深く寝入ってしまったか。結界の効力が切れている!」
「足音は五頭。遠吠えで指令を出している奴がいるかもしれん。他にも潜んでいたらどうしようもないぞ」
完全に覚醒したが悪態をつく。颯仁は闇の中に転々と浮かび上がってきた赤光を睨んだ。向こうは闇に紛れてこちらの様子を伺っている。
「囲まれたのか? このまま村の外まで逃げられるか?」
「判らん。繰人がいれば、頭数は無限と言ってもいいしな」
「いや……操っている者はいない。村人に危害を加える気はないと思うが、狩人たちが手出しをすると矛先を変えるかもしれない。山に逃げ込めるか?」
「できない、とは言えないだろう。やってやるさ」
ごそごそと囁き交わす声を圧する呼び声が背後から聞こえた。
「ハヤヒト! 下がれ!」
「危ないわ、ハヤヒト!」
リョウとユーナの声が意外と間近に聞こえ、颯仁は舌打ちした。村人たちとの距離が近すぎる。
獣は火を嫌って遠巻きにしているが、人の気配に興奮しているようだ。荒い息づかいには苛立ちが含まれている。ちょっとした刺激で簡単に自制を失い、人間たちに飛びかかってきそうだった。
「弓矢と松明だ!」
「棍棒を持ってこい! 短刀もだ!」
背後では狩人らしい男たちの声が次々にあがっていた。バラバラとこちらに駆け寄ってくる足音までする。
「来るな! 手出しすると厄介なヤツらだ。山へ誘い出す。神殿から一番離れた山への入山道はどこだ」
颯仁が肩越しに振り返り、すぐに櫓火を横目に見ながら移動を始めた。背中にを背負い、すぐにでも走り出せる体勢になっていた。
人だかりの中から背の高い影が進み出る。リョウだ。松明を片手に、険しい瞳のまま颯仁とその闇の向こうにいる生き物とを見比べている。
「オレが一緒に行く」
「案内はいらない。場所を教えてくれるだけでいい」
「そういうわけにはいかないだろう。一人でどうにかできる数じゃないはずだ。それにまで連れていくなんて……」
そのときだ。獣たちが一斉に遠吠えを始めた。威嚇する鳴き声に怯え、小さな子どもたちは泣きじゃくっている。男たちの何人かは手に棍棒を携え、狩人らしい数人は弓矢を握りしめて闇を睨んでいた。
飛び出していきたくてうずうずしている気配がする。獣の正体が判っていないために手を出しあぐねているだけのことで、何かのきっかけですぐに戦いが始まりそうだった。
「は俺から離れない。……入山道の場所は?」
「こちらだ。ついてこい」
颯仁たちが動き始めると、それに合わせて獣たちも移動していく。群は不気味なほど統制がとれていた。一糸乱れぬ動きに、獣の知性の高さが伺える。それを肌で感じ取っているリョウたち狩人の緊張感が村人たちにも伝染していた。
争ったらただでは済まないと、誰もが判っている。
リョウの名を呼ぶ声が聞こえた。村人の間からユーナが飛び出してきた。が、すぐに引き戻されていく。
ユーナは強ばった表情でリョウの名を何度も呼ぶ。しかし颯仁の傍らで歩き続けるリョウはこれから向かう先の闇の一点を凝視して振り返らない。彼の表情は、今まで見た中でもっとも険しかった。
櫓火が遠ざかる。リョウの名を呼び続けるユーナの声も。
涼やかさをまとった闇に押し包まれる頃、村の関所だという門柱を乗り越えた。この道から北の山へと向かうのだと言う。往くだけで二日はかかる、村からもっとも遠い狩り場がある山だと、颯仁はユーナから以前に聞いていた。
山道に入る頃には、周囲に聞こえるのはリョウと颯仁二人の密やかな足音、そして背後に忍び寄る獣の荒々しい息遣いだけとなった。静寂の山を行く彼らの背後に忍び寄る殺意は、どこまでもついてくる。
颯仁は松明が照らす地面を見つめながら先を急いだ。
『一族の者らがお前を狩る。生き残りたくば血を流すが良い。天狼の牙を得るまで、帰参することは相ならん。那波の鬼子よ。修羅に生きるがよい』
嗄れた声が頭の中でガンガンと鳴り響き、吐き気が喉元にせり上がってくる。
──修羅に生きよ。
繰り返される言葉に身体中がざわついていた。血という血が沸騰していく。その血の匂いまでしてきそうだ。
颯仁は項垂れていた首を持ち上げ、前を歩く若者の背の先にしっかりと視線を向けた。松明に照らされた木々の幹しか見えない。
が、颯仁の瞳はその闇すら貫くような光を湛えてギラついていた。