其の参 祭り酒
祭りの当日の朝はいつも以上にざわついた空気の中で明けた。
早朝から祈りの巫女が神殿で特別な祈りを捧げるとあって、神官たちや下っ端の巫女たちが右往左往して準備に追われている。
その騒動の中、颯仁はそっと寝床を抜け出した。一瞬、も連れていこうかと振り返ったが、昨日も夜遅くまで寝つけずにウロウロして夜更かしをしたらしく、あどけない顔をして眠っている姿に連れ出すことを諦めた。
祭りの当日の準備は他にも色々とあるのだろう。皆、足早に神殿前の広場を行き来し、宿舎の出入り口にいる颯仁に軽く頭を下げて挨拶はするものの、それ以上親しげに話し込むことはなかった。
早朝の神殿は薄い朝靄に包まれ、周囲に篝火が焚かれている。炎の朱に照らされた柱は、天へと駆け上がる火柱のように見えた。何日か前に作られていた白木の棚台が、点在する篝火の中央に据えられている。
突然、空気を突き抜ける拍子木の高い音色が響きわたると、ざわついていた人々の気配がピンと張りつめ、風が朝の静謐さを取り戻した。
衣擦れの音。押し殺された息遣い。まるで切り結ぶ寸前の刃を合わせたような緊張感。
今日は神殿の窓や戸など、開け放てるところはすべて開け放ってあるため、普段は見ることができない奥部まで垣間見えた。動き回る人々の足取りは慎重で、張りつめた空気を破ることを怖れるように静まり返っていた。
颯仁の立つ宿舎の軒下から伺う神殿の奥は、多くの柱が立ち並んでいる様子が見えた。まるで建物の中に樹林が出現したような印象がある。祈りの巫女が祈りを捧げているのは最奥のようだが、入り組んだ神殿の柱が邪魔をして見ることはできなかった。
内部の様子を伺うことを断念すると、颯仁は宿舎から出てその周囲を歩き回った。神殿には宿舎と宿舎を繋ぐようにして石が敷かれているが、その周囲を取り巻くようにして小庭園が造られている。
贅を尽くしたものではなく、神官や巫女たちが日々の仕事の合間にふと立ち寄るような静かな空間だった。庭というよりは多少人の手を加えた区画といっただけのことかもしれない。
颯仁たちが寝起きしている宿舎の裏手にもそんな庭が一つあった。掃き清められた庭は、紅葉の新緑と山砂の黒、川から運ばれた石の薄灰色が織りなす綾布そのもの。
隣の宿舎の奥にも庭があり、そちらの庭は川砂の白と山石の墨色、山藤の薄紫が配されており、こちらの庭と対になるように設えられていることが判る。神殿の敷地内には無駄がないように見えて、意外とこのような遊びの空間があった。
神官たちの宿舎に庭があるように、巫女たちの宿舎の裏手にも庭が連なっている。移りゆく季節を表現しているのか、一年を通して庭のいずれかに花が咲いているように、花樹木が植えられていたような憶えがあった。
「祭礼が始まったのか? 風が痛いほど震えておる」
幼い声に振り返ってみれば、が眠い眼を擦り擦り歩み寄ってくるところだった。仕草の幼さとは反対に、子どもの声は恐ろしく冷静だったが。
「さっき拍子木が打ち鳴らされた。今まで聞いたことはなかったが、あれが始まりの合図か?」
「たぶん……。祈りの巫女の儀式が始まったのだろう。長い儀式らしい。その儀式の最中に村から供物が届けられる。村人が帰った後に供物を選り分け、その後に供物倉に収めて最終的には山の上にある備蓄庫へ入れるようだ」
「いやに詳しいじゃないか。それもまた千里眼か?」
「いや。調べた」
短く返答すると、は眠そうに一つあくびをした。
「供物ってのはなんだ?」
「村の生活物資だな。神に捧げるというよりも、災害時の非常食のために備蓄しておく物資の役割が大きいそうだ。毎年秋口の祭りで収められるものを、今年は千五百年祭でもやろうというのだろう」
二人は連れだって神殿の敷地を出ると、足が赴くままに山裾に近い泉へとやってきた。神殿ではまだ儀式が続いているのだろう。シンと静まり返った山の気配に、今日は朝鳥たちも大人しかった。
泉で顔を洗い、ついでにとばかりに颯仁は着物を脱ぎ捨てて泉の真ん中に飛び込んだ。静かな朝の空気を破って、華々しい水音が辺りに響きわたる。
「騒々しいな。神をも恐れぬ所行だ」
水から顔を出した颯仁に向かって、が意地の悪い笑みを向けた。
「神だと? 俺に神は見えないぞ。いるというのなら連れてこい」
「この村の神は希薄だ。我々には語りかけぬ。どのみち仮初めの客人たる我々と話す気もあるまい」
「だったら水浴びくらい好きにさせてもらう」
颯仁は抜き手を切って対岸へと泳ぎ始めた。物心つく頃から荒ぶる海で泳ぎ回っている。凪いだ水面を泳ぎ渡ることなど造作もなかった。
岸にたどり着くと、休む間もなく再び泉の中央へ向かう。今度は仰向けに天を見上げ、峻烈な水の冷たさを身体全体で味わうように漂い泳いだ。
初夏の朝は新緑に染まり、淡くも澄んだ明け初め空が木々の隙間から覗いている。まだ盛夏の蝉時雨の時期でもなく、朝も早いことからキュィキョ、キュィキョと変わった鳥の鳴き声が風に乗って遠くから聞こえてきた。
「想いを残すな。……切り捨てろ」
突如、幼く厳めしい声が水面の上を滑る。ハッとして頭を上げると、颯仁は立ち泳ぎをしながら岸に立つ子どもを見上げた。小さな足で仁王立ちになったが、青白い顔を天空に向け、紅玉の瞳で虚空を睨んでいる。
いったい何を見ているのか? それとも、どんな物思いに沈んでいるのか。子どもの表情からそれを読み取ることはできない。
颯仁は呼びかけようと口を開いたが、音はついに出てくることはなかった。
周囲の景色から浮いた子どもの姿は、まるで物の怪のような異質さだ。いや……それを見上げている自分の身体も、きっと同じようにこの景色に馴染んでいないことを肌で感じ取ることができた。
我々は、ここにいてはいけない存在だ。この地は安住の地ではない。
どれくらい動けないままでいただろうか。身体が泉の冷たさに緊張しきり、ようやく颯仁は岸に上がった。手拭いを忘れていたことに気づいたが、彼は身体を揺すって水滴を振り払っただけで自然に乾くに任せることにした。
はどこかぼんやりとした表情で木立の遙か果てを見つめている。先ほどの厳しい声音が信じられないほど虚ろな態度だった。もしかしたらは自分で言った言葉を憶えていないかもしれない。
大勢の人の気配がし始めたのは、身体にまとわりついていた水滴がほとんど蒸発した頃だった。ガヤガヤと賑わしく笑いさんざめく人の気配。どうやら供物を届けにきた村人たちのようだ。
颯仁は生乾きの髪を払いのけて手早く着物を身につけると、まだぼんやりとしているを背中に背負って山道へと向かった。
木立から抜ける手前で大量の物資を手にそぞろ歩く一行に出くわした。ざっと見積もっただけでも六十人以上はいるだろう。ほぼ全員が男だ。年齢や貫禄から察するに、一家の家長たちと思われる。
こちらに気づいた一行からどよめきが上がった。それまでの暢気なざわめきの中に戸惑いが混じっている。頭のてっぺんから足の先まで真っ白の、見知らぬ人間に出くわして警戒している気配がした。
「外を出歩けるようになったんだな」
男たちの間から一人の若者が抜け出てくる。相変わらずと言ってはなんだが、颯仁を見つめるリョウの視線は険しくなりがちだ。その若者に向かってが小さな手を振った。
「リョウ、これから供物を届けるのか?」
「あぁ。たちは村の広場へ行く予定だったのか?」
子どもはプルプルと首を振り、ただの散歩だと答えた。
「おい、リョウ。そいつが山で拾ってきたガキか?」
会話に割り込んできた男が無遠慮に颯仁の姿を眺め回す。リョウよりもやや背は低いが、横幅はガッチリとした体格だ。身にまとっている気配はリョウと同じで、どうやら同業者らしかった。
「あぁ。質の悪い捻挫だったみたいだけど、歩けるようになったらしい。ランドたちは逢うのは初めてだったかな?」
「ちっこい方は村の広場で逢ったぜ。なぁ、坊? だけどこっちの北カザムそっくりなのは初めてだ。お前、名前は? オレはランドだ」
「……颯仁だ。世話になっている」
遠巻きに会話の内容に聞き耳を立てていた村人たちが、事情を察したらしく二人の元へとやってきた。だが瞳の黒以外の色素を持たない颯仁の姿が薄気味悪いのか、リョウやランドのように親しげに声をかけることはない。
「ハ、ヤ、ヒ、ト、か。これはまた発音しにくい名前だな。ところでお前ら、散歩の帰りなら一緒に神殿にくるか? 供物を届け終わったら一緒に村の広場に案内してやるぞ」
ランドのえらの張った顎が笑みの形に歪んだ。目つきは鋭いが、世話好きそうな男の笑顔は人懐っこかった。
どうしようかと一瞬考え込んだ颯仁の肩を、が慌てた様子で叩く。
「颯仁、颯仁! 枝! 檀の枝を忘れてきた! 早く部屋に戻ってくれ!」
ジタバタと手足を振り回して暴れる子どもの様子に、周囲の大人たちは怪訝な表情を浮かべた。しかしの只ならぬ気配を察した颯仁は、小さな身体を背負い直すと、神殿を目指して一目散に山道を駆け上がっていく。
その急な坂道の途中でハタと振り返り、颯仁は呆気にとられて自分たちを見上げている男たちに向かって叫んだ。
「ランド! 上でと一緒に待っている。そっちの仕事が終わったら、案内してくれ!」
言いたいことだけ言ってしまうと、颯仁は後ろを振り返ることなく坂道を駆け上がった。
突風のごとく駆け去る彼の耳に、風に乗ってランドの声が聞こえる。
「リョウ。ここ数日のイライラの原因はあれか? しっかりしろよ。あの強引さじゃ、うかうかしてるとユーナを……」
坂の曲がり角で颯仁はチラリと男たちを振り返った。が、木立が邪魔をして、リョウがどんな顔をしているのかは判らない。
急げと急かすの声に、颯仁は足を止めることもなく坂を駆け上がったが、内心で沸き起こった苛立ちに小さな舌打ちを漏らした。
一度馴れてしまえば、サイカ村の者たちは部外者にも寛容だった。
村の広場に集まっていた面々も最初のうちこそ戸惑った様子で颯仁を遠巻きにしていたが、特には害のない人間だと判ると親しく接するようになった。
神殿の者たちはまだ仕事が終わっていないようで、村での宴会が始まっても誰も顔を見せない。が、村人たちは先に祭りを始めるつもりらしく、薪櫓に放たれた炎を囲んで酒を呑み、肉を焼いて頬張っていた。
始まったばかりの祭りはのんびりとしていて、気分を高揚させる盛り上がりは今ひとつだ。颯仁は村の女たちが持ってくる料理を呑み込みながら、賑やかしく語り合う村人の様子を眺めていた。
酒が振る舞われてしばらくすると、ほろ酔いになった男たちの何人かが唄を唸り始めた。どこからともなく手拍子が打ち鳴らされ、口笛が飛ばされる。徐々に祭り特有の酩酊が空気に溶け込んでいく。
男たちの唄が終わると、今度は年増の女たちの間から別の唄が紡がれた。再び手拍子が打ち鳴らされる。興が乗った男の一人が立ち上がり身をくねらせれば、それを囃し立てて椅子代わりにしている丸太が叩かれた。
颯仁の隣りに腰を下ろしていたは片手にしっかりと枝を抱えたまま、早生イチジクの実を頬張っている。炎に照らされた赤い瞳が、常よりも血色に光っていた。
颯仁はふと頬に視線を感じた。が周囲を見回しても、誰も自分に注目などしていない。皆、踊り手を囃すことに夢中だった。
日差しにはまだ昼の気配が残っているが、太陽に照らされる遠くの山並みには暮色の光が満ちていた。間もなく山間のこの村にも夕闇が迫ってくるだろう。人々を照らす光の主役は、太陽から櫓火へと代わろうとしていた。
さざめきの中、何人かの若者たちが杯を片手に人々の間を練り歩いている。人の波を渡り歩き、所々で立ち止まっては歓声をあげていた。呑み比べをしているか、あるいは誰かをからかっているのだろう。
その様子を眺める娘たちの集まりは、ひそひそと声をひそめて言葉を交わし、密やかな笑い声をあげたかと思えば、甲高い嬌声をあげて若者たちを指さしていた。
人々のざわめきは、心を蕩かして酔わせる酒よりも甘美だ。
どこから取り出されたのか、くり貫いた丸太に革を張っただけの簡素な太鼓が野太い声をあげ始めると、それにつられて葦笛が人々を煽り立てるように吹き鳴らされる。
酔いも手伝い、人々は思い思いに立ち上がって踊りの輪を作っていた。骨笛が鳴き、動物のたてがみの弦を張られた竪琴が不思議な震えを空気に伝える。
隣りに立つ気配に、颯仁は小さく身構えて首を持ち上げた。
特に目立った特徴のない男がこちらを見下ろしている。年齢は四十に手が届くかどうかといった感じだ。目が合うと、顎を突き出すようにして頭を下げ、隣りに座ってもいいかと聞いてくる。
カチと名乗った男は村で細工の仕事をしていると自分を紹介した。
ユーナの髪飾りを作った男だと、颯仁はすぐに気づいた。酒徳利を下げた彼の指は野良仕事や狩りをしている男たちよりも繊細で、いかにも細かい仕事に向いていそうだった。
「リョウに聞いたら十四だというから、酒を持ってきた。もう酒くらいは飲める年だろう。お客人に酒を勧めないのも失礼な話だ」
颯仁が差し出された椀を受け取ると、カチは芳醇な香りを漂わす液体をその椀になみなみと注いだ。米から作られた上質な酒だと、すぐに判る爽やかな芳香だった。
颯仁は椀の縁に口をつけると、注がれた酒を一気に飲み干した。
「おっ、いける口だな。もう一杯どうだ?」
すぐに注がれた二杯目、三杯目も勢いよく干すと、颯仁はようやく一息つく。故郷でも大人のおこぼれに預かって飲んだことがあった。喉を滑り落ちていく冷たくも熱い液体の感触は馴染み深い。
ただし、故郷の酒はもっと強かった。同じ米から作られる酒だったが、冷やせば冷やすほど熱く感じる故郷の酒は、この村の酒のようにまろやかな味はしない。
人の本能を煽り立ててくるような故郷の強い酒とは違い、差し出される米酒の味は舌の上を滑るように澄んだ味わいがあった。
「いい酒だ。腕の良い職人がいるのだろうな」
「判るか? これは先日出来上がったばかりの一番酒だそうだ。今日、神殿に届けた酒と同じやつだ。酒職人たちの秘蔵品だっていうから、失敬してきたところさ。他の奴らが飲んでいるのは冬を跨いだ酒だから、これよりも気が抜けている。……内緒だぞ」
カチがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。颯仁は、彼が笑うと両頬に小さなえくぼができることに気づいた。そうやって笑った顔はカチをかなり若く見せる。
颯仁はカチの真似をして同じような笑みを浮かべた。
「ハヤヒトの髪は綺麗だな。初めに見たときは北カザムが人に化けたのかと思ったぞ。他の奴らも北カザムが祭りに遊びに来たのかと思ったと言っていたくらいだから、そう思ったのはオレだけじゃないと思うが」
「俺の髪が綺麗だって? 目がおかしいんじゃないのか?」
颯仁が眉間に皺を寄せると、カチが不思議そうに首を傾げた。
「細工職人をしている奴が、綺麗なものを綺麗と思わなくなったら仕事にならないな。オレは目利きには自信がある。ハヤヒトの髪の毛なら綺麗な飾り紐が作れそうなんだが」
颯仁は驚いて何度も眼を瞬かせる。
「良かったな、颯仁。カチになら、髪の毛どころか皮膚の一片も残さずに加工してもらえそうだぞ。この赤い目玉を見て、どこかの街だかで採れる紅石の細工にそっくりだと言っていたくらいだ。死んでも役に立てそうだ」
それまで大人しくしていたが、自分の瞳を指さしながら意地悪い笑みを浮かべ、颯仁の顔を見上げていた。
「、いげちない言い方をするんじゃない」
「イゲチナイ?」
子どもの頭を小突くと、颯仁は苦笑を浮かべて隣の男の顔を覗き込んだ。
「俺の故郷では露骨な言い回しをするなといういう意味だ。……礼を言っておく。俺の髪が綺麗だと聞かされたのは初めてだ。悪い気はしない」
肩をすくめ、本当のことなのにと呟くカチの声を掻き消す大声が間近からあがった。笑い声とともに、男が一人カチと颯仁の間に割り込んでくる。
「お〜い。二人とも飲んでるかぁ〜? お、坊! お前も一杯やるか?」
「ランド、まだ小さな子どもに酒なんか飲ませたら駄目だろう。うわっ。お前、なんて薬臭いんだ! さてはミイが大事に取っている花酒を飲んだな。知らんぞ。秋に飲もうってミイが楽しみにしていたやつだろ」
「なぁに、構いやしないって。お客人にやるって言って貰ってきてやったんだぜ。縁起モンだぞぉ〜。固いこと言わずに一杯やってくれよ」
「とか何とか言って、お前が飲みたいだけだろ」
酔っ払ってケラケラと笑い声をあげるランドを押しのけると、カチはどうしようもないといった表情で首を振った。
「なんだよぉ、カチおじさんは頭固いぞぉ〜。おぉい、坊ぉ。お前、幾つだぁ? ちょっとくらいなら酒が飲めるだろう。お母ちゃんには黙っててやるから飲んでみろ」
カチに押しのけられると、ランドは矛先を変えて子どもにすり寄っていく。胡乱げな視線で見上げていただったが、差し出された杯から立ちのぼってくる菊花の芳香に目を光らせた。
「呑んでもいいのだな?」
はカチが止めるのも聞かずに一気に杯を干した。子どもでなければ天晴れと褒めてやりたいところだが、カチやランドが一瞬息を飲むほどの勢いの良さで杯が干されるのを見ては、見事と褒める前に心配になってくる。
案の定、空っぽになった杯を放り出した途端、の顔が火を噴いたように赤く染まった。櫓火に照らされていてもクッキリと目元を赤く染める子どもの表情は、高熱を出しているときのように苦しげだ。
「そんな風に一気に飲み干したりして……。花酒に使う酒は強い酒なのに、なんて勢いで呑むんだ」
香りに誤魔化されて強い酒だとは思わなかったのだろう。アッという間に酔いが回ったが顔を赤く染めて目を回していた。ぐらつく身体を支えきれず、隣の颯仁にもたれかかってフウフウと呼吸を繰り返す。
カチがパタパタと手扇で扇ぐが、そんな程度では追いつかない。しゃっくりを繰り返し、真っ赤な顔をしているを見て、その後ろでランドが笑い転げていた。
「酒で子どもをからかうなんて悪趣味だぞ、ランド!」
「そんないっぺんに飲むとは思わなかったんだって。うははっ。おい、大丈夫かよ。悪かった、悪かった。勘弁してくれ」
腹を抱えて笑い転げながらランドは笑い声の隙間から謝罪をするが、そこには少しも悪びれた様子がない。
「まったく。お前は昔から悪戯が過ぎるぞ。子ども相手に何をやってるんだ。チビ助、水を貰ってくるから待ってろ」
しかし立ち上がったカチを制して颯仁がを抱き上げた。
「いい。俺が連れていく。近くに小川があれば、ついでに夜風に当たらせるから」
担ぎ上げられた肩の上でが苦しそうにしゃっくりを繰り返し、その背中を颯仁が撫でさすっていた。自分の出る幕ではないと思い直したのか、カチは頷いて軽く手を挙げた。
未だに笑い転げているランドも二人に手を振るが、颯仁はその様子に気づいていない。抱き上げられた一人、ランドに向かって歯をむき出して反抗的な態度に出るが、しゃっくりに邪魔されて苦しそうにえづくほうが多かった。
それがまたランドの爆笑を買い、笑い声ばかりが二人を送った。
村の片隅に小川が走っていた。田畑に流れ込む用水路の役割を果たしているのか、狭い川幅にも関わらず、盛り上がった土手はきれいに整備がされている。
周囲の木々も下枝が払われ、土手に被さる木は切り倒されており、上流下流ともによく見渡せた。
「薬師だと言っている奴が、酒の目利きもできないようでどうする。ほら、しっかりしろ」
「う、るさいっ。国では、菊、酒は、あんなに、強い酒で、作らない、んだ。くそっ! 身体が言、うことを、きかん。知っ、ていれ、ば、あんな、勢、いでは……」
きっちりと襟を合わせたの着物の前をくつろげた後、颯仁は持ってきた椀に水を汲んで子どもに与えた。
「酒はお前みたいなガキが飲むものじゃない」
「誰が、ガキだ。当年と、って、百十歳だ、ぞ!」
「……やっぱり酔っ払ってる」
会話の途中でしゃっくりが混じり、そのたびにが苦しげに息を継ぐ。夜の闇はすぐそこまで迫ってきていたが、当分は酔いが覚めそうになく、しばらくこの場から動けそうもなかった。
ほどなくして、しゃくりあげていたの息が落ち着いてきた。が、頬に差した赤みは引いていない。いつもは青白い頬が朱に染まる様子は、むしろ子どもらしい健康的な色に見えたが、本人はまだ苦しそうだった。
「もう少し横になってろ。ほら、これ貸してやるから」
自分の着物の上を脱ぐと、颯仁は子どもの腹にそれをかけてやった。
まだ夏とは名ばかりで、夜になると風は冷たいくらいだ。薪櫓の周囲は暑いくらいだが、川風の吹くこの場所はずいぶんと肌寒い。
「お前が、風邪を引く」
「平気だ。夏の夜に海の上で過ごしたときのほうがもっと寒かった。この程度ならどうということはない。サッサと寝ろ。そのほうが酔いの覚めが早いからな」
の黒髪をくしゃくしゃと掻き回した後、颯仁は足早に酒宴の席へと向かった。ランドはとっくに他の場所で騒ぎを繰り広げていたが、カチは一人静かに杯を傾けているところだった。
呼びかけると、カチは首だけ振り向き、颯仁の姿を見て苦笑を漏らす。
「チビ助は潰れたか?」
「土手の下で眠らせている。しばらくついているから、俺たちを待っていなくていいぞ」
そのとき人々の歓声がにわかに大きくなった。騒ぎのほうを伺うと、ぼちぼちと神殿に仕える神官や巫女たちが歩いてくる姿が見え隠れしていた。
仕事が終わった者から順に村の祭りへ参加しにきたのだろう。村人たちが呼ぶ声に気安く手を振って応える神官たちの態度は、神殿での緊張から解放されて浮かれているように見えた。
巫女たちの間にユーナの姿はなかった。まだ仕事が終わっていないのかもしれない。
「ユーナの白い髪飾り。あれは最高に出来の良いヤツだろう?」
颯仁の声に再びカチが振り返り、嬉しげにえくぼを作った。
「今までの中では最高傑作だ。ユーナによく似合っていただろう?」
「あぁ。……ユーナにしか似合わん」
カチが得意げに鼻を鳴らす。細工職人に対しての最高の褒め言葉だったのだろうか。颯仁の答えにいたく満足した様子だ。
颯仁はの席に横たわっていた檀の枝を拾い上げるが、その姿勢のまま彼の動きが止まった。
しかしその呪縛もすぐに解け、颯仁は何ごともなかったような態度で小川のほとりへと引き返していく。その白い背にカチが再度呼びかけた。
「適当に寝入ったところで連れてきてやれ。川風に当たりすぎると夏風邪を引くぞ」
カチの呼び声への颯仁の答えは、肩にかけた枝を持ち上げ、軽く振っただけだった。