き り ふ き や ま
霧噴山

其の弐 巫女の村

 結局、それから丸二日、颯仁はやひとは与えられた部屋の中で眠り続けることしかできなかった。自分が思っていた以上に、追走劇は身体に負担をかけていたようだった。
 霧の中で起こったことをに問いただしても、こしゃまくれた子どもは話をはぐらかして明確な答えを返さない。
 は夜こそ一緒の部屋で眠るが、朝日が昇るとすぐにどこかへ飛び出して行ってしまうのだ。自分たちが置かれている状況すら説明しない連れに、颯仁は苛立ちを募らせていた。
 起きあがれるようになると、颯仁は壁に取りすがるようにして部屋を出た。とにもかくにも、自分が今居る場所のことを知る必要がある。
 板張りの廊下に出てみると、遠くから人々が動き回る物音が聞こえてきた。忙しそうなその物音が、何かしらホッとさせる。
 いつも食事を運んでくる神官らしき男が、もうすぐ村の千五百年祭があると言っていたことを思い出した。
 廊下の壁を伝いながら、颯仁は建物の様子を気配だけで探る。板から伝わってくる物音はひどく遠くから聞こえるが、実際には存外近いところで人が働き回っているに違いない。
 人々の足音に混じって、明確にこちらに近づいてくる軽やかな足音が聞こえてきた。廊下の角を曲がると、山の中で逢ったユーナという名の少女が、甘い香りのする器を持ち、眼を丸くして突っ立っていた。
「起きだしても大丈夫なの? タキから容態が落ち着いたって聞いて、お見舞いにきたのだけど……」
 どうやら毎回食事を運んでくれた男の名はタキというらしい。膳を運んできてくれる合間に交わした言葉から、彼が神殿の書物を管理する仕事をしていることは知っていたが、名前までは知らなかった。
 なんでも祭りが近づいてくると普段の仕事がほとんどできないらしく、そのため手が空いているタキが颯仁の食事の世話をすることになったとか。好奇心が旺盛で、自分の名前を名乗ることも忘れて、短い時間に颯仁を質問攻めにしてくる変わった若者だった。
「外に出たい……」
 身体はほとんど以前の状態に戻っている。足首も無理しない程度なら一人で動き回れそうだ。
 颯仁の願いにユーナはアッサリと頷く。それどころか彼に肩を貸すと、隣りに並んで歩き始めた。
 彼女の身体からは真新しい木の香りがする。削り立ての鮮烈な木肌の匂いは故郷の草木を連想させた。
「あの子、ね。たぶん村の広場か森のほうへ行っていると思うの。だから神殿の敷地内にはいないと思うわ」
 旅の連れを探していると勘違いしたのか、少女は聞かれもしないことを訥々と話し始めた。
「村の広場はお祭り用の櫓を組んでいるから、それを見に行っているんだと思う。森のほうは何をしに行っているのか判らないわ。ずっとヤマニシキギの枝を持ったまま歩き回っているんだけど。あの枝ってそんなに大事なものなの?」
「さぁ? 俺もよく知らないからな。……ここではあの枝のことをヤマニシキギと呼ぶのか?」
「あら、みんなそう呼んでいるわ。あなた……えぇっと、ハヤ……ハヤヒ……」
「は・や・ひ・と、だ」
 颯仁は言いにくそうに自分の名前を発音する少女の様子に苦笑いを浮かべた。
「あぁ、ありがとう。ハヤヒトの住んでいたところでは呼び方が違うの?」
「あれは俺たちのところではまゆみと呼ぶ。削りだして弓を作るから真弓まゆみとも書く」
 颯仁は立ち止まると、壁に「檀」と「真弓」の単語を並べて書いて見せた。
「そう。初めて見る文字だわ。の名前も知らない文字だったし……。ハヤヒトの名前は? あたしの名前はこの文字」
 ユーナが壁に指を這わせ、不思議な紋様を書くように蠢かせる。颯仁にはまったく見覚えのない文字だった。こんな文字を書く民が霧噴山きりふきやま近辺にいただろうか?
 相手への返事の代わりに、颯仁は自分の名前を彼女に続いて書き綴った。それを見守っていたユーナが肩をすくめる。
「やっぱり見たことない文字だわ。ハヤヒトやは随分と遠い国からきたのね」
 その言葉に颯仁の胸には苦い想いがこみ上げてくる。好きで遠くまできたわけではない。
「ここは……なんというところだ?」
「サイカ村よ。行商人の人たちは巫女の村とも呼ぶけど」
 ユーナの言葉に颯仁は思わず彼女の顔を覗き込んだ。村の名前は聞いたことのない名前だったが、そんなことは異郷にくればよくあることだ。
 しかし、その後の言葉……巫女。その言葉は颯仁の胸の奥底をえぐった。
「この村には……巫女がいるのか?」
「えぇ、神殿に仕えている女性は全員巫女よ。あたしもね。なぁに? それがどうかしたの?」
「ユーナ。ここの巫女で、呪詛をかけたり解いたりできるほど強い力を持った巫女はいるか?」
 パチパチとユーナが目を瞬かせる。彼女の態度には、突然なにを訊いてくるかと訝しみ、戸惑う様子がありありと浮かんでいた。
「呪詛ですって? あたしは祈りの巫女で、村のみんなのために祈ることが仕事だけど、それはしてはいけないことなのよ。みんなもやってはいけないことだって知っているわ」
 颯仁はユーナの言葉に衝撃を受けた。
 呪詛を行わないなんて! この村での巫女たちは、いったい何をしているのだろうか? 人々が妖かしたちに呪縛され、呪われたりしたら、ここの村人はどうするつもりなのだろう。
 しかしユーナの態度に嘘を言っている様子はなかった。この村、あるいはこの近辺では、本当に呪詛を行ったりしないのだ。
 颯仁は自分が目眩を起こしているのではないかと、慌てて目元を覆った。それくらい今のユーナの言葉に衝撃を受けていたのだ。呪詛をしない人々。そんなものが存在するとは。
「俺のいたところでは、呪詛を行うことは当たり前だった。その呪詛をかける仕事は大抵が神の業に通じる巫女や神子が行ってきた。本当にそういうことをしないのか?」
 ぷるぷると首を振ったユーナも驚きを隠さない。
「どうしてそんなことをするの? あたしはみんなが幸せに暮らせるように神様に祈りを捧げるけど、誰かが不幸になって欲しいなんてとても祈れないわ」
「それが必要な人間たちもいる。……悪い。外の空気を吸いたいんだ。出口を教えてくれ」
 後は二人とも口を開くことはなかった。ユーナの華奢な肩に掴まったまま建物の外に出た颯仁は、初夏の薫風に揺れる緑を目にしてホッとため息をついた。
 戸口の目の前に巨大な建物がそびえ立っていた。杉や檜の大柱が何本も起立し、その建物の壁や屋根を支えている。これが神殿なのだろう。どっしりとした構えの正面中央には、幾つもの明かり取りの窓が穿たれ、観音開きの大扉がポッカリと口を開いている様子が見て取れた。
 故郷にある建物にどことなく似ている。が、この地は知らないことだらけだ。いや、故郷を出てからずっと知らない土地を彷徨っているのだから、知らないことのほうが多いのは当然だったが。
 あの霧の中での出来事以来、自分の周囲は何かおかしい。上手く口で説明できないが、美しい緑に安堵するそばから、それが自分には馴染まないものだと頭のどこかが否定していた。
「ハヤヒトは呪詛をしてくれる人を捜して旅をしているの?」
 自分の感じた違和感を持て余していた颯仁の耳に、ユーナの声は唐突に響いた。押し黙ってしまった気まずさに、彼女がやっとの思いで言葉を口にしたからだろうか。
「それもある……」
は故郷へ帰る旅なんですってね。ずぅっと北へ行くんだって。ハヤヒトは探している人が見つかったら、その人を連れて故郷へ帰るの?」
「故郷へは……帰れない。帰ることを許されていないから。呪詛を、俺にかけられた呪いを解いて欲しいんだ」
 先ほど以上にユーナが目を見開く。頬に当たる彼女の視線を感じ、颯仁は顔を伏せた。
 自分の生まれ育った土地では、呪詛を受けるのは罪人だ。この土地ではそのような考えはないようだが、不吉なものに束縛された者は、どんな土地へ行っても禁忌に違いない。
「ハヤヒトは幾つなの?」
 何の脈絡もなさそうなユーナの問いに、颯仁はそっと顔を上げ、怖れるように彼女の顔を覗いた。
 眉間に皺を寄せたユーナの表情には嫌悪の色はない。が、問いの意味するところはさっぱり見当がつかなかった。
「……十四」
「あたしより一つ下なんだ。可哀想に……」
 何が可哀想だというのだろう。
 ユーナは腕を伸ばして、颯仁のざんばらに下ろした白い髪をそっと撫でた。彼女の手は畑仕事をしている者の手ではない。巫女だというのは本当のことなのだろう。
 ユーナの小作りな顔立ちの中でやや大きめの瞳がくりくりと動く様子は、草食獣が首をもたげて辺りを見回す仕草に似ていた。
 いつまでも髪をなで続ける彼女の腕から逃れると、颯仁は目に入った物のことをふと訊ねた。
「その髪飾り、何でできてるんだ?」
 颯仁は先日あったときにも彼女がその髪飾りをしていたことを思いだした。
 彼女は両頬にかかる脇髪をまとめて、白い髪飾りで両側それぞれの髪が解けないように留めている。飾りは獣の角か骨でできた品のようだ。
「これ? 北カザムの角と毛皮で出来ているんですって。これを作ってくれたカチから聞いたの」
 全体的に緩やかな曲線を描いているが、直線的な意匠の飾りで、白い毛皮を幾何学紋様的な花びらに模し、角を枝や葉に見立てた造りになっている。彼女の黒髪の中で、その髪飾りは眩しいほどの白さを誇っていた。
「北カザムを捕まえたのはリョウなのよ」
 ユーナは我がことのように得意げな表情を作る。その顔つきが、ほんの数ヶ月前まで目にしていた故郷の民を思い出させ、颯仁は胸に鋭い痛みを受けた。彼女の笑顔を正視できず視線を逸らす。
 颯仁の眼にユーナが腕に抱いている器が映った。中には赤黒い木の実が盛られている。
「それ、どこかへ持っていくのか?」
 口に出してから、颯仁は彼女が自分のところへ見舞いに来るところだったことを思いだした。
「あ、いけない。忘れてた。これを朝食の後にカーヤと二人で採ったのよ。疲れたときや病気のときに食べるといいって教えてもらったから。食べてみて」
 目の前に差し出された器を受け取ると、颯仁は白い指先で瑞々しい実を摘み上げた。木苺のような形と匂いがする。一粒口に含んでみると、赤い実は驚くほど甘かった。
 期待を込めて見つめるユーナに、颯仁は器を差し戻して言った。
「美味しいが一人で食べるには多すぎる。ユーナも食べたらいい」
 ユーナが一瞬驚いた様子で眼を見開いたが、器から数粒の実を取りあげてニッコリと微笑んだ。
「遠慮なくいただくわ」
 建物のきざはしに腰を下ろし、二人でのんびりと木の実を食べている時間は瞬く間に過ぎていった。その間にも、ユーナは村のことや自分の仕事の話をポツポツと話してくる。
 それに耳を傾けていた颯仁が、ふと気配を感じて顔を上げた。
 視線の先で見たものに、彼の身体はギクリと強ばる。神殿の敷地入り口方面と思われる場所に男が佇み、じっとこちらを見ていた。殺気の籠もった視線が一直線に自分を射抜く。
 いつからそこにいたのか、微動だにせずにこちらを睨みつけてくる相手の様子に颯仁は眉をひそめた。
 颯仁の様子にユーナが視線を追い、男のほうへと振り返る。
「リョウ。お帰りなさい!」
 ユーナが振り返るのとほぼ同時に、リョウの殺気は霧散した。今までの態度が嘘のように穏やかな笑みを浮かべて「ただいま」と返事をする。駆けていくユーナはすっかり颯仁のことを忘れているようだった。
 談笑する二人の男女を見つめていた颯仁だったが、自分の入っていく幕がないことを悟ると、足を引きずりながら建物の周りを歩き始めた。北側と思われる方角にも似た造りの建物が建っている。たぶん神官たちの宿舎なのだろう。
 ここは今まで生きてきた場所とは違う。故郷よりも豊かな実りを想像できる場所だ。ほんの数ヶ月前の自分は、こんな場所にくることになるなど想像もしていなかった。
 宿舎周りを飛び石伝いにゆっくり歩いていくと、北側の宿舎の陰で小さな舞台を作っている作業場へと辿り着いた。誰も颯仁がそこにいることを咎めなかったので、彼は建物の縁に腰を下ろして男たちの作業をじっと見つめていた。
 舞台だと思っていたものは、もしかしたら供物台なのかもしれない。真新しい白木の匂いは、先ほどまで一緒にいたユーナの匂いと同じだった。
 今頃、故郷では何をやっているだろう?
 荒れる渦潮の海原では縞鰹しまがつおが釣れる時期だろう。海辺の岩場では黒鮑くろあわびが採れ始めているはずだ。
 里では咲き始めた木槿むくげの花が島乙女たちの黒髪を飾り、皐月野台さつきのだいでは子どもらが遊びに興じる。
 そして、その光景を思い浮かべるたびに浮かんでくる顔がある。水鏡に映したように自分と同じ顔をした少年の顔が。
凪仁なぎひと。お前は俺が見ることのできない景色を見ているか? 兄者の眠る海を守っているか? 皆と共に……更科さらしなと共にいるか?」
 胸にわだかまる懐かしさと羨望を押し込め、颯仁は千五百年祭の準備で沸きたつ人々の活気をぼんやりと眺め続けていた。


「界の狭間を見つけたぞ」
 夕食を終え、が調合した薬を白湯で飲み下したとき、密やかな囁き声が聞こえた。聞き取ることが困難なほど小さな声だ。
「なんだって?」
 颯仁はやひとは囁き声をもらしたと思われる部屋の相方に問いかけた。
「元の界に戻る場所を見つけた。……が、お前の今の足ではまだ無理だな。治るのは祭りの日前後ということになるか」
、なんの話をしているんだ。俺の足が治るのは確かにまだ日数がかかるが、どこへ戻るというんだ? 足が治ったら、北へ向かって出発するだけのことじゃないか」
「このまま北に向かっても目的の場所へは着かない」
「お前の言っていることはさっぱり判らないな。もう少し詳しく話せ」
 ところが颯仁が話の先を促しても、は子どもっぽく頬を膨らませて黙り込んでしまう。後はなだめすかそうが脅そうが何も言わない。それはここ数日のやりとりでよく判っていた。
「……もういい。故郷へ運んでやる約束をしたのは俺だ。お前の好きなようにしろ」
 颯仁はだんまりを決め込んだから目をそらすと、何ごともなかったような態度で白湯が入っていた椀を片付けた。
 は拾ったときから奇妙なことを言う子どもだった。話してもいないのに捜し物を見つけるなら北へ行けと言い出したり、追っ手から逃げる方法を教えてくれたり。
 なぜそんなことを知っているのかと問いかけても、自分は千里眼のだと言って笑うばかりだった。
 その奇妙な子どもの態度が今夜は特におかしい。外から帰ってきてからずっと落ち着かない様子だった。
 がいらいらとした様子で立ち上がる。腕の中にあるまゆみの枝を撫でたり叩いたり、気もそぞろで食事もあまり食べなかった。
「この大地に未練を残すな。旅立てなくなるぞ」
 ウロウロと部屋の中を歩き回りながら、がもそもそと小声で呟いた。その声は颯仁に話しかけているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか判らない、謎めいた響きを持っていた。
 部屋の戸が叩かれたのはそんなときだった。細めに開かれた戸口から男がそっと顔を出した。
「失礼。タキが忙しくてね。代わりに膳を片づけにきたんだけど……」
 セトと名乗った年かさの男は颯仁の差し出した膳を受け取ると、代わりに小さな油壺を差し出した。
「常夜灯の油が切れる頃だろう? これを……」
 ヤクの実から採った油だと言って差し出された壷を覗いてみれば、壷口いっぱいにまで油が詰まっている。
 ここに来たときから、暗くなるとこの部屋には灯火が絶えたことがなかった。壁にかけられた燭台の中で、夜っぴいて炎が揺れている。
 別段、颯仁は部屋を真っ暗にしても気にしないが、なぜかのほうが灯りが欲しいといって聞かなかった。蝋燭を無駄に使うわけにもいかず、夜の間は燭台に大量の油を入れて火を入れ続けている。
 きっと無駄なことをする奴らだと思われているだろう。
 颯仁は礼を言って壷を受け取ると、セトを部屋から送り出した。すぐに燭台に油を注ぎ足し室内を明るくするが、はその気配にも気づいていないようだ。
 いっこうに大人しくしない子どもに呆れ、颯仁は早々に寝床へ入ることにした。他にすることもない。サッサと足を治して、との約束通り北へ向かえばいいのだ。
 寝床に入って耳を澄ますと、遠くのほうで水音と人の話し声がする。
 水音のほうはここ数日で聞き慣れた。山澤を走る水脈から神殿の敷地内にある水路に引き入れた水のせせらぎだ。澤の激しさを失った穏やかな流れは、今の颯仁にはひどく眠気を誘う音となって聞こえた。
 話し声のほうは何を話しているのか聞き取れないが、高い声は女たちのおしゃべりのようだった。そういえば、夕餉の膳を持ってきたタキが言っていた。村の祭りは明々後日しあさってから始まり、二日間に渡って続くのだと。
 故郷でも祭りが近づくと気分が高揚して寝つくのが遅くなったものだ。特別な日には特別なことが起こるような気がして。土地が変わってもこの浮かれた気配は変わらないらしい。
 遠くから聞こえてくる水音と話し声のざわめき、そして、寝つけずに部屋の中をウロウロするの足音を子守歌代わりに、颯仁はゆっくりと眠りの淵に落ちていった。


 それから祭りの日の当日まで、颯仁は昼間を神殿の裏にある森や宿舎の周囲で過ごし、退屈になるとユーナと話をした。
 初めて宿舎の外に連れていってもらった戸口の傍らが待ち合わせの場所のようになっていたのだ。退屈してそこに座っていると、いつの間にかユーナが隣りに腰を下ろしているのが当たり前になっていた。
 一度だけ巫女たちの宿舎の周囲をぶらついていたとき、ユーナと行き会ったことがあった。
 広い神殿の敷地内とはいえ、グルグルと歩き回っているとすぐに建物の配置を覚えられるほど判りやすい場所だ。迷うということがないので、探索にもすぐに飽きてしまう。宿舎に帰ろうとしていたところだった。
 ユーナの身のまわりの世話をしているらしい娘が一緒だ。「カーヤ」とユーナが娘を呼び、二言三言だけ言葉を交わすと、パタパタとこちらに向かって走ってくる。
 颯仁はこのとき初めて、ユーナが見舞いに木の実を持ってきてくれたことを思いだした。あの世話係の娘と一緒に摘んだ木の実を持ってきてくれたのだ。
 カーヤはユーナより数歳年上のようだ。さらに、両脇の髪を上げているユーナとは反対に、ふっくらとした頬を隠すように脇髪を垂らし、後ろ髪のほうはきっちりと束ねた髪型が、娘に大人びた印象を与えていた。
 ユーナの様子に苦笑を漏らし、軽く会釈だけして宿舎の一棟へと入っていくカーヤの姿は、風に揺れる柳のように軽やかだった。
 ユーナは祭りの初日早朝に特別な祈りを捧げるらしい。
 逢うたびに濃くなる爪の紅はその儀式のために自分で染めていると聞いた。紅に染まる花を摘んで染め液を作り、何度も何度も重ね塗りするのだとか。
 故郷でも女たちが真夏から秋口にかけて爪紅つまくれないの花びらをセッセと集め、ミョウバン水とカタバミの葉を一緒に揉みあわせて何度も爪に塗り重ねていた。
 まだ小さな子どもの頃、異母妹と幼なじみが大人たちを真似ようとして染め液をひっくり返してしまい、母や姉にこっぴどく怒られていたことを思い出す。
 あれから何年が経つだろう。代わりの花びらと葉を摘んでこいと篭ごと放り出された妹たちが哀れで、双子の弟と一緒について行ってやったことが昨日のように思い出された。
なぎよ、お前は憶えているか? あの日の花の紅を、空の青さを。花鷺はなさぎ更科さらしなと一緒に見渡した海原の広さを……』
 生まれてからずっと傍らにいた半身の温みが今はどこにもない。故郷からは遠い地にいるのだと、否が応でも思い知らされる。
 祭りが翌日に迫った夕方には、儀式のときにかぶるという花冠も見せられた。特別な祈りの儀式の手順を憶えるのに忙しい彼女の代わりに、他の巫女たちが作ってくれたらしい。
 髪をまとめている飾りを風に揺らし、嬉しそうに笑いながら話すユーナが、時折、敷地の入り口へ視線を走らせる様子に颯仁は気づいていた。そして夕刻になると必ずその山道からはリョウが姿を現す。
 狩人たちにとっては大物を狙える時期だが、祭りの日が近いとあって遠出を控えているのだとユーナが得々と話して聞かせる。だから毎日顔を出せるのだと。しかしリョウを端から見る限り、暇だから顔を出しているようには見えない。颯仁と話し込むユーナを気にして様子を見に来ているらしかった。
 ユーナが自分の姿を見つけるまで、リョウは鋭い視線を颯仁へと向けてくる。口に出さずともユーナと話をする男のことを不愉快に思っていることは態度からありありと知れた。
 腕の良い狩人だとリョウのことを自慢するユーナの表情は、当のリョウから見たらあまりに無防備で、おちおちと一人にはしておけないに違いない。彼女が自分のことを話しているのだと知らないだけに、なおさらだ。
 ユーナが語る内容をわざわざ教えてやる気はない。こちらは毎日睨み殺されそうな殺気を向けられるのだ。これくらいの意趣返しをさせてもらってもいいだろう。
 そのリョウの姿が見えると、ユーナは颯仁との話を放り出して駆けていく。それまで話していた内容を、今度はリョウに延々と話して聞かせるらしかった。
 最初にリョウと鉢合わせたときから、颯仁はユーナがリョウの元へ行ってしまうとその場を離れるようにしていた。
 殺気立った彼の姿など、ユーナは知らないのだろう。女とは暢気なものだ。
 今日も二人に背を向けて歩き始めた颯仁は、が「この大地に未練を残すな。旅立てなくなるぞ」と呟いていた声を突然思いだした。
 ここは穏やかすぎる。故郷の荒々しさとはずいぶん違う。しかし、神殿の周囲ですれ違う巫女たちの潜めた笑い声が、時には故郷にいる海の男たちの豪放な笑い声を思い出させた。
 山鳥がさえずる声が海鳥の騒ぐ声と重なる。早朝にかかる山霧の静けさが風の止んだ海原の穏やかさを思い出させた。
 気を許してしまうと、このまま旅立てなくなるといのうは嘘ではないかもしれない。
 そして、それもいいかもしれないとぼんやりと考えている自分を発見し、異郷に安息を求めている己に、颯仁は苦い想いを噛み締めていた。……罪人に安住の地などない。そんな平穏はあり得ない。

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