其の壱 檀劫《まゆみこう》
霞み笠をかぶった月輪の下、鮮やかな白い影が躍る。鬱蒼と繁る樹木の間に見え隠れするその姿を、夜行獣たちは遠巻きに眺めるだけだった。
少年は夜の中を走り抜ける。
闇に紛れるには不向きな色彩の持ち主だった。肌の色も髪の色も透けるように白い。幽鬼そのものの凄まじき青白さは、見る者を怯ませずにはおかない。ただ、瞳だけが星空を切り取ったように黒々とした光を湛えていた。
『霧噴山へ行きな。あそこは鴫鳴と大幹の国境だ。運があれば、通り抜けられるだろうよ』
頭の中で何度も繰り返される言葉。それに駆り立てられ、足は地面を蹴った。踏みしだかれる草には夜露が宿り、少年のくるぶしをうっすらと濡らす。
『ここからなら真っ直ぐ北の方角だ。そいつを一緒に連れて行け!』
別れ際の声が力をくれる。後ろに背負った小さな塊を揺すり上げると、少年は背後を振り返ることなく真っ直ぐに北を目指した。
目の前に峨々たる尖峰が見える。暗闇の中ですらくっきりと浮かぶ影へと、少年は飛ぶように走った。
森の樹木が形を変えている。幹が奇妙なほどねじくれてしまった木の影は、話に聞いていた通りの奇怪さだった。
間違いない。目的地の霧噴山の山裾に入ったのだ。
ホッと安堵の吐息を漏らした彼の耳に獣の遠吠えが届いた。獣らは意外と近くにいる。それを本能的に察した少年は、大地を蹴る足にさらに力を込めた。
「捕まってたまるか」
少年の呟きを嘲るように、ごく近くで獣の叫声が上がる。走り抜けている森の獣とは明らかに違う獰猛な唸り声だ。
少年の足は決して遅いわけではない。成長期の少年にしては早いくらいだ。しかし俊足で知られる犬たちに太刀打ちするには、あまりにも速度差がありすぎた。
獲物を見つけた歓喜に乱れる獣の鼻息が背後に迫っている。少年に振り返る余裕があれば、踵に届きそうな距離で跳ねる獣たちのギラつく眼が見えたことだろう。
凛と澄んだ空気が鼻腔をくすぐった。裾野の森を抜け、本格的な山の領域へと入った証拠だ。
少年はチラと周囲の木々を見渡した。瘤を背負った樹木たちが夜の珍奇な侵入者たちを黙って見下ろしている。自分たちはこの木々から見れば異質な存在だった。
背後からは獣の荒々しい鼻息が聞こえてくる。夜露で湿った草を踏む足音が、あちらからもこちらからも響いてきた。ざっと見積もっても七〜八頭はいそうだ。どちらへ向かえば良いのだろう。
「頂上へ向かえ」
心の中を読んだように、少年の背中から幼い声があがった。背中に背負っていた麻袋がもぞもぞと蠢いている。
「、起きたのか!」
「上へ行け。檀の樹を目指せ」
幼い声の指示に従って、少年は一直線に山肌を駆け上がった。山は人が踏み込んだことがないのか、あるいは登山口が別にあるのか、道らしき道もない。
「頂上に檀の樹があるのか? そこへ着いたらどうしたらいい」
少年は黒々と枝を伸ばす木々を避けながら駆け続けた。背後の獣たちも、獰猛な唸り声を上げながら追いすがる。
「樹はここから山頂を目指す途中にある。樹の下についたら、適当に枝をとれ」
「枝を折って弓矢でも作れというのか!? 後ろには犬どもが迫っている。そんな悠長なことをしていられるか!」
少年の足は飛ぶように駆けた。木の枝や根を足がかりにして、急斜面をものすごい勢いで駆け上がっていく。四つ足で追う犬たちですら真似できない、まるで枝を渡っていく猿の動きだった。
「いいから言うとおりにしろ。初夏のこの時期なら花をつけている。見間違えることはないだろう。……来るぞ。霧だ」
少年がハッと見上げると、夜を浸食する白い霧が迫ってきていた。ゆらゆらと身を揺する女の腕に似て、夜霧は少年たちを手招きしているようだった。
「突っ込め。檀の樹は霧の向こう側だ」
乳白色の闇が彼らを閉じこめ、くゆらくゆらと身をくねらせる。獲物を呑み込み、満足して喉を鳴らす猫のようだ。
「この中だと方向が判らない! 犬どもに追いつ……うわっぷっ! なんだ、これは!?」
少年の叫びは途中で悲鳴に変わった。霧に押し包まれてすぐ、足下の地面がなくなったのだ。身体が重力に引かれて落ちていく。落下する風圧で髪をまとめていた結い紐が千切れ飛んだ。
「手を伸ばせ、颯仁。目の前が檀の樹の枝だ」
少年は声の指示通りに腕を伸ばし、指先に触れた硬い感触をしっかりと掴まえる。途端、枝が大きくしなった。少年たちの体重を支える枝が、重圧に悲鳴をあげて軋む。
伸ばした腕は濃い霧の色と同化して靄の奥に消えている。自分が中空にぶら下がっていることだけは判るが、辺りの景色は何も見えず、周囲に何があるのか見当がつかなかった。
「何もないぞ。いったい、どういうことだ……?」
ゆうらりゆうらりと身体が揺れ、たわんだ枝がそのたびにギシギシと軋みをあげる。乳色の濃淡が織りなす闇が辺り一帯に広がっていた。
「枝をしっかり掴め。離すな」
背後で聞こえていた獣たちの唸り声が、霧に入った途端にか弱い鳴き声に変化している。間近に聞こえた鼻息が今は聞こえなくなった。ミシリと枝が震える。
不安定に揺れる体勢を立て直そうと、少年が掴んだ枝を小さく揺すったとき、頭上から獣のけたたましい叫びが響いた。ハッと身を固くして頭上を見上げると、白い闇の中に踊る翳りが視界に飛び込んできた。
影はどんどん近づいてくる。驚きに少年は片腕を放し、懐から懐刀を掴みだした。
「よせ! 手を離すな」
少年は背中から聞こえる幼い声を無視する。一直線に近づいてくる影に、雄叫びとともに握った刃を突き上げた。
肉に刃が突き立つ感触と甲高い獣の悲鳴。それらを知覚してすぐ、身体を支えていた枝がメリメリと音を立てて裂け始めた。
「飛べ! 枝の上に向かって飛べ!」
足場も何もないところで無茶を言う。この体勢から飛び上がれる者がいるはずがなかった。それでも少年は言われたままに足をばたつかせ、水を掻くように霧の粒子を引っかき回す。
しかし……。少年の努力は実を結ぶことはなかった。
もがくほどに闇は少年の四肢に絡みつく。折れた檀の枝を片手に、少年は不安定な格好で白い闇の奥へと落ちていくしかなかった。
「兄者たちっ! また喧嘩をしたのかや!」
後ろから噛みつくような声が聞こえた。妹の花鷺の声だ。キンキンとよく響く。
「違うぞ、花。俺たちは難癖をつけられただけだ。降りかかる火の粉は払わないとな」
「また凪の兄者の屁理屈じゃ! 比波の者どもが息巻いておりますぞ。いい加減にしてたもれ! 仲裁する流雨の兄者がお可哀想ではありませぬか。これ! 颯の兄者、どこへ行かれるか。話は終わっておりませぬぞ!」
「話にならん。凪、俺は先に行くぞ。先ほど遠見崎から戦船が見えた。呑竜の兄者が帰ってきたようだから出迎えに行く」
俺がサッサと走り始めると、すぐに後ろに凪仁が従った。花鷺は足にまとわりつく巫女衣装が邪魔をして追いつけない。キャンキャンとわめいている声がアッという間に後方へと飛んでいった。
「やれ、花鷺の奴め。あんなに怒鳴ると婆になったとき、しわくちゃの梅干し婆になってしまうぞ。なぁ、颯仁」
「だったら喧嘩の理由を言ってやったらどうだ? 大人しくなるぞ」
「更科を寄越せと言われたから、売られた喧嘩を買ってやったとか? ばかばかしい。斯波の更科を嫁にするのは俺かお前と決まっている。横からかっさらおうというアホどもを叩きのめすのに理由がいるか!」
「だが花鷺と更科は仲が良い。あいつのことで喧嘩になったのなら花鷺は怒鳴るまいよ」
林の間から見える大渦の向こう側に黒い船影が見える。間違いなく那波一族の御座船だ。長兄の呑竜、そして次子の愛房の姉者が乗っているはずだった。戦が終わったか、あるいは戦況が落ち着いたか。今日は久しぶりに兄弟全員が揃う。
船が緩やかに大渦を避けて棚海までやってきた。艀船にゆっくりと近づいていく船の姿はいつ見ても雄壮だ。俺たちも十五になったら乗せてもらえる。それが楽しみでしかたなかった。
「おい……。様子が変だぞ」
艀に降りる者たちの様子がおかしい。岸壁に辿り着いた俺たちが見守る中、荷下ろしの綱にくくられた担架が降ろされていった。そして、その上に横たわる男の姿が見える。
ざわりと背筋に悪寒が走った。あの体格……。あれは……。
「呑竜の兄者だっ! なんてことだ!」
隣の凪仁が呻く。
兄者が怪我を負った。那波の若長が。戦上手の兄者をこんなにした奴らは誰だ。
集まり始めていた一族の者たちの間からもざわめきが起こる。その中には斯波や比波の一族の者たちも混じっていた。先日、俺たちに喧嘩をふっかけてきた貴蒔たちもいる。
兄者を乗せた小舟が他の船に守られるように岸に近づいてきた。担架に寄り添っているのは姉者だ。気丈な愛房の蒼白の顔色が兄の容態の重さを教える。
岸壁に横づけされた船に何本もの腕が伸ばされた。土気色をした男が横たわる担架が岸に引っ張り上げられ、大婆殿が待つ奥社へと運ばれていく。それに付き従う姉を追いかけ、俺たちも走り出した。
「姉者、いったい何があった」
俺の呼びかけに愛房が立ち止まる。チラリと兄の乗る担架を見送り、すぐに俺たちのほうを振り返った。
「雇い主を庇って毒矢を受けた。なのに、あいつら……あたしたち一族を売りやがった」
「売った!?」
「奴らの仇と勝手に和睦したのさ。形勢はこっちが圧倒的に不利だったからね。それで和睦の条件がわたしたち一族だよ。雇い主との契約を切って、仇どもに仕えろとさ」
凪仁が鋭い舌打ちをした。俺も同じ思いだったが、姉の苦り切った表情を見て、自分の思いを呑み込む。
「瀞蛾に仕えろだなんて! 昨日までの敵は今日は味方なんてザラだけど、よりによって……あんな男に!」
怒りに歯軋りする姉の瞳に憎しみの炎が躍っていた。睨まれたなら焼き殺されそうに激しい。
「戦で捕らえた男はなぶり殺し、女は犯して獣に喰わす……汚い男だという噂だ。そんな奴に売られるとは!」
凪仁が地団駄を踏み、俺たちの会話を漏れ聞いた周囲の者たちが嫌悪に顔を歪めた。皆いい顔はしない。これまで雇い主と共に戦い、瀞蛾には散々煮え湯を呑まされてきていた。彼に身内を殺された者は両手足の指の数では足りないほどだ。
「殺してやりたいよっ。呑竜の兄者をあんなにしやがって!」
「兄者の怪我は瀞蛾がやったのか?」
「あぁ、そうさ。腹立たしいが、瀞蛾の弓の腕は一流だ。退却する雇い主を背中から狙ったのさ。……負けを認めた者を追い落とすなんて、どこまでも卑怯な奴!」
「和睦を蹴るか?」
俺の問いかけに愛房がハッとして顔を上げた。和睦を蹴ることができるくらいなら、これほど悔しがりはすまい。父者が死に、その跡を継いだ兄者も瀕死の重傷だ。和睦を蹴ったときの敵の来襲をどうするかを考えるなら、兄の代理を務める愛房の責任は重い。……いや、重すぎると言ってもいい。
「条件を蹴るのなら刺客を放つ必要がある。面の割れていない腕利きを選ぶときは俺も混ぜろ。俺はまだ戦に出ていないし年若い。瀞蛾も油断する」
「颯仁が行くなら俺も行くぞ!」
俺たち双子の形相に、愛房の顔も歪んだ。痛みを堪えるようなその表情が、一族の直面している事態の重さを語る。
「今の瀞蛾の権勢は凄まじい。刺客を放とうにも隙がない。戦慣れしていないお前たちでは無理だね。それに面の割れていない腕利きなんていない。ここ一年、腕の立つ者は戦場へやった。面が割れている以上、領地に忍び込むことすらできまいよ。今は……争えない」
苦々しげに愛房が結論を出したとき、奥社の方角から男が一人走ってくる姿が見えた。
「愛房。大婆殿がお呼びだ!」
斯波の磁鯨だ。斯波一族を束ねる長筋の血族で、恰幅の良い体格同様に頼もしい男だった。そして、更科の父親でもある。
飛ぶように走っていく姉の後ろ姿を見送り、俺は凪仁と磁鯨と連れ立って大婆殿の奥社へと向かう。
「兄者は助かるのか?」
俺は小声で磁鯨に問いかけた。今まで大婆殿の近くにいたのなら、磁鯨は兄の容態を知っているはずだ。
「解毒は大陸にいたときにしたらしいが……。虎も倒すほど大量の猛毒が塗られている。ここ数日が山だな」
「畜生っ! よくも……」
凪仁の拳が震えている。が、今は怒りの矛先を向ける相手はいないのだ。
「評定が荒れるぞ。どちらに転ぶにしろ、お前たちは十五を待たずに戦に駆り出されることになる。覚悟はいいか?」
磁鯨の厳しい視線が俺たち二人を交互に見比べる。
「望むところだ」
俺の返答に男は不敵は笑みを浮かべた。どうやら返答は気に入ったと見える。
「簡単に死ぬなよ。お前らのどちらかに、大事な更科を嫁にやるのだからな」
日向の匂いとともに、柑橘類を思わせる爽やかな香りが鼻の奥をくすぐる。
目を開けると、かかり火草が視界に入った。燃えさかる炎の形に似た花弁が、今を盛りと咲き誇る。香りの元はこの花だったようだ。
「助かったのか……?」
声を出した途端、頭の奥がツクリと痛む。
無意識に手を伸ばし、目の前に咲くかかり火草の葉をちぎった。匂いを嗅いでみると、水気を残した青い香りが漂ってくる。
そのまま葉を何枚かちぎって口に放り込み、少年は俯せていた格好からゆっくりと身体を反転させた。木々の枝の隙間からは青々とした空が広がっている。初夏の空は森の生気に負けない力強さを見せつけてきた。
咀嚼するうちにかかり火草の汁が喉を伝って胃へと落ちていく。少しずつではあったが、頭の痛みが引いていった。
少年が横たわる場所は森の小さな空き地らしい。身体が下敷きにしているかかり火草は、空き地の所々に点在していた。
周囲のブナ林の木々に巻き付く蔦の間からは、ヤマホロシが可憐な薄紫の花びらを覗かせ、風に揺れている。なんとのどかな光景か。
茫然としていた少年だったが、ハッと我に返って飛び起きた。
背中の麻袋がなくなっている。あの中には……。
身体をよじって辺りを見回した途端、足首に激痛が走った。悲鳴を上げなかったのが不思議なほどの痛みだ。
身体をねじった先にぺったりと地面に放り出された袋があった。一目で中には何も入っていないことが知れる。
足首の痛みは軸足にしている右足のほうから響いてきた。痛みに目の前がくらくらしたが、思いきって自分の足首を覗けば、そこには手当をした跡が残っているではないか。
「あいつ……独りでどこへ?」
少年は思わず呟きを漏らし、痛みにもかまわず辺りをキョロキョロと見渡す。
そのときだ。ガサガサと草を踏み分けてくる微かな足音が聞こえた。早足で歩いているのか、それとも走っているのか、小刻みに聞こえる足音がどんどんと近づいてくる。
薮の向こうから黒い小さな人影が飛び出した。その姿を認めた途端、少年はカッとして怒鳴りつけていた。
「! お前、独りでどこへ行っていた! 肉食の獣でも出たらどうするつもりだ!」
薮から転がりでてきたのは小さな子どもだった。年の頃は五〜六歳であろうか。鴉の濡れ羽色をした髪がふっくらとした頬に数本張りついている。
突然の怒声に驚き見開かれた子どもの瞳は、周囲に咲くかがり火草よりも赤々と燃える焔の色をしていた。そして闇に浮かぶ光苔を連想させる肌の白さは、少年にも共通する青白さだった。
「颯仁。気がついたのか!」
子どもの口から歓声があがる。手にした枝をフルフルと器用に震わせ、小さな赤い唇からホゥッとため息をついた。
「お前、どうして檀の枝なんか持っているんだ?」
「これか? これは、ほれ……道案内だ。あぁ、そうそう。助けを連れてきたのだった」
はクルリと後ろを向くと、枝を高々と振り上げた。「おぉ〜い」と声を上げる甲高い子どもの声に答えるように、遠くから草を踏みしめる複数の足音が聞こえてくる。
「信用できる奴らなのか?」
警戒心を剥きだしにした颯仁を振り返ると、が口元を笑みに歪めた。
「任せろ。人を見る目はある」
子どもの口調は尊大だったが、透き通った高い声は威圧感を感じさせることはない。
薮が再び蠢き、颯仁の目の前に現れたのは見目良い若い男女一組だった。
「はぁ、やっと追いついた。持っているヤマニシキギの枝を目印にしろなんて無茶言って。危うく見失うところだったわ。え〜っと……。あの人がお連れさんなの?」
こっくりとが頷く。その仕草はあどけなく、とても先ほどまで偉そうな口調で喋っていた人物とは思えなかった。
颯仁はが見上げている二人連れを観察した。およそ十代半ばの少女と、それより数歳年上と思しき若者だった。
少女は山野を歩くことに馴れていないらしく、ふうふうと息を切らせている。玉のように吹き出る汗が黒髪を額に貼りつけ、頬は上気して桜色に染まっていた。風に揺れる髪には白い髪飾りが結ばれている。
少女の傍らで彼女を守るようにして立つ若者はどうやら狩人のようだ。
背負った矢筒や弓の他に、腰帯には飛び分銅に短刀が引っかかっている。ただ狩りをするにしては肩当てや胸当てなどの装備をしていないところを見ると、今は本気で狩りをしていたわけではなさそうだ。
チラチラと少女がこちらに視線を向けてきていた。物珍しそうな相手の視線を睨み返すと驚いたように視線を逸らす。途端、隣の若者が険しい目をこちらに向けてきた。
「颯仁、足の痛みはどうだ? そばを離れたときよりも腫れているようだが」
相変わらず檀の枝を引きずってが近づいてくる。少女と若者の二人もの後ろに続いた。
「ごめんなさい。ちょっと診せてね」
少女が足首に貼りつけられた粘質の湿布を剥がす。鋭い痛みが背筋を這い登ってくるが、颯仁は歯を食いしばってそれに耐えた。
「かなり熱を持っているわ。でも湿布のお陰であまりひどいことにはならないんじゃないかしら? 何日か大人しくしていれば、すぐによくなるわよ」
元通りに湿布を貼ると、少女はホッとした様子で顔を上げた。颯仁と視線が合った途端ニッコリと笑いかけてくる様子は、先ほど物珍しげにこちらを見ていたときとはまったく違っていた。
「良かった……。里芋粉の湿布で効かなかったらどうしようかと思った」
「まぁ! 変わった湿布だと思ったけど、おいもの粉なの? そんなもので効果があるなんて初めて聞いたわ」
「……打ち身、捻挫、毒吸いの特効薬だ。人によっては肌のしみ抜きに使っているとも聞いた。そちらの効果のほどは知らないが」
「わぁ、すごい! 、小さいのによく知ってるわねぇ。あたしがくらいの頃は、なんにも知らない子どもだったわ」
子どもに相応しくない複雑な表情をしているとは反対に、少女は素直すぎるくらい素直な態度で称賛の言葉を惜しまずに紡ぐ。
これは確かに邪念のない人間だ。人を見る目があると言っていたの言葉は嘘ではないらしい。
ようやく肩の力を抜いた颯仁は、ホッと安堵の吐息を吐きだした。
「ユーナ。矢筒を持ってくれ。俺が彼を背負って村に連れて行くから」
「ありがとう、リョウ。お祭りの準備で村はばたばたしているから、神殿に連れていったほうがいいよね。みんなに知らせてくるわ」
ユーナと呼ばれた少女がの手を引き、先に立って歩き始めた。相変わらずは檀の枝を肩に担いでいる。気に入ったというよりも、小さな身体の一部になってしまったように見えた。
「。そのヤマニシキギの枝、重くないの?」
「全然。山神の大事な枝だ。失うわけにはいかん」
「ふ〜ん……? でも良かったわ。今日は祭壇を飾る花を摘もうと思って山に入ったけど、普段なら村の近くの森で済ませてしまうもの。ここにこなかったらたちと逢えなかったわね」
遠ざかっていく会話を聞きながら、颯仁は若者の背に這い寄り、彼の広い背に掴まった。彼らの住む村の人間すべてが安全な者だという保証はなかったが、こんな山の中に置いていかれるよりはマシだろう。
足首の激痛は湿布のお陰でましになってきているようだった。が、若者の背に揺られていると、その僅かな振動だけで脳天に突き抜ける痛みが襲ってくる。
呻き声を堪えるので精一杯だった。こめかみに滲む脂汗が頬や顎を伝っていく冷たい感触が生々しい。
村にたどり着くまでの短い時間が、颯仁には無限とも思える長さに感じた。