祈りの巫女



11
 リョウが向かっていたのは、マイラの家の向こうにある森の中だった。リョウはぜんぜん怖くないみたいだった。だけどあたしは怖くて、しばらく森の入口でうろうろためらっていた。
 どのくらいそうしていたんだろう。そんなあたしの様子に気付いて、マイラが声をかけてきた。
「ユーナじゃない。そんなところで何をしてるの?」
 マイラはいつもよりもずっと悲しそうな顔をしていた。
「リョウがね、森の中に入っていくのが見えたの。大切な約束があるんだって。だからあたしも追いかけてきたの。リョウは森が怖くないのかな」
 マイラはあたしの言葉にしばらく絶句していた。
「……そう、リョウが森へ行ったの。ユーナは森が怖いの?」
 あたしは頷いた。
「ユーナ、こんなところではなんだから、家にお入り。おいしいお茶を入れてあげるわ」
 そうして、あたしはマイラに誘われて、お茶をご馳走になることにした。
 ひと口お茶を含んで見ると、テーブルの上には昨日はなかった花束があった。
「リョウも花束を持ってたの。マイラ、リョウは女の人に会いに行ったんだと思う?」
 マイラもお茶を一口飲んで、悲しそうに微笑んでいた。
「あたしもね、会いに行こうと思ってたところだったんだ。……リョウは覚えているんだねえ。ユーナ、安心するといいよ。リョウが会いに行ったのは男の子だから」
 あたしは安心するよりも不思議に思った。あの森の中でいったい誰に会うんだろう。リョウもマイラも、いったい誰と会おうとしてるんだろう。


12
「その男の子は花が好きなの?」
 マイラはまた少し笑った。
「さあ、どうなのかな。判らないけど、あたしはいつも花を持っていくね。ユーナ、ユーナはリョウのことが好きなの?」
「うん、大好き」
「だったらそっとしておいておやり。今日はリョウの大切な約束の日なんだ。誰にでも大切な1日があるんだよ」
 あたしにもある。あたしにとっての大切な1日は、9日後の儀式の日。あたしが大人になる日。
 そして、今日はマイラの大切な1日でもあるんだ。
「お茶、ありがとう。おいしかったわ」
「まっすぐ帰りなさいね」
「判ったわ」
 あたしはマイラにお礼を言って、そのまま坂を降りた。今日はリョウの大切な日。だから、リョウの邪魔をしちゃいけないんだ。でも、リョウが会っている男の子のことが気になって仕方がなかった。相手が男の子だって判って、あたしはほっとしたけど、でもその子がリョウの一番大切な人なのは間違いなかったから。
 あたしがリョウの一番大切な人じゃなくてもしょうがない。だけど、どうしてあたしじゃなかったのか、やっぱり知りたかったから。
 その男の子を見れば、リョウがどうしてその子を大切にしているのか、判るような気がしたから。
 あたしはマイラに気付かれないように、家の裏側を回って森に近づいた。その森は別に暗くもなかったし、他の場所と比べてぜんぜん違うところなんかなかったのに、あたしはその森が怖かった。でも今はリョウのことを知りたい気持ちの方が強かった。怖かったけど、あたしは我慢して森に入った。


13
 春先の森は若葉をつけていて、あたしは木々の木漏れ日の道を歩いた。音を立てないようにゆっくり、リョウに気付かれないように。しばらく歩くと、リョウのうしろ姿が見えた。リョウはその場所に座っていて、周りには誰の姿もなかった。
 しばらく、息を殺していると、リョウの声がかすかに聞こえた。
「……おまえは、許してくれるのかな……」
 聞き取れたのはそれだけ。もしかしたら、それだけしか話さなかったかもしれない。
 リョウは傍らにおいてあったお酒の瓶に口をつけて、残りを全部草むらにこぼした。そして、立ち上がる。いきなり振り返ってこっちに向かって歩き始めたから、あたしはあわてて木の陰に隠れようとした。だけどダメだった。リョウはあたしに気付いて、驚いたように目を見開いた。
「ユーナ……いつからそこにいたんだ?」
 リョウは驚いてはいたけど、あたしを怒ってはいなかった。だいたいリョウが怒ったところをあたしは見たことがなかった。
「まだ来たばっかり。今リョウが言った一言しか聞いてないよ。リョウはその子とケンカしたの?」
 リョウはちょっと呆れたように微笑んで、森の道を戻り始めた。
「ケンカをしたんじゃない。……例えばね、オレがこれからどうしてもしなければならないことがあって、だけどそれをすることが相手にとっていいことなのか悪いことなのか、判らない。決心がつかない。そんな時、ユーナならどうする?」
 リョウは、その子に許してもらえるかどうか判らないことを、しようかしないでいようか悩んでいるんだ。
「直接訊いてみる、その子に。そうしてもいい? って」
「ユーナはそう言うと思った」
 リョウはまた微笑んだけど、あたしの答えを納得したんじゃないのはあたしにも判った。


14
「でも、リョウにしたい事があって、その気持ちをその子が判ってくれたら、その子も許してくれると思う。最初はちょっと怒っても最後にはぜったい許してくれるもん。友達だったらリョウのことちゃんと判ってくれるよ!」
 リョウが、すごく大切に思っている男の子。リョウが一番大切なんだから、その子だってリョウのことを一番大切に思ってる。そんな子がリョウを許さないはずなんてない。あたしだったら……
 もしもあたしがその子だったら、ぜったいリョウを失いたいなんて思わないから。
 そのとき、リョウは悲しそうな微笑で、あたしを見た。その表情は、マイラによく似ていた。
「一生許してもらえないかもしれないな。……だけど、それってたぶん、オレがこれからどれだけそのことに命を懸けられるかって、それにかかってる気がする。オレが、あいつがそうしたのと同じだけの覚悟でいるかどうか、あいつはそれを見ている気がする」
 リョウが、具体的なことを何も言わなかったから、あたしにはよく判らなかった。リョウがやろうとしていることも、その子とリョウがどんな関係でいるのかも。
 お互いに何も話せなくなって、森を出て、帰り道。やっと、リョウが気分を変えるように言った。
「ところでユーナ、おまえはなんでオレの後をつけたりしてるんだ?」
 あたしが森へ行ったのは、リョウがあたしに秘密を持っているのが悲しかったから。
「リョウの大切な約束がなんなのか知りたかったんだもん。途中でマイラに会って、リョウが会ってるのが男の子だって教えてもらったけど」
「マイラに?」
「うん、あとでマイラも会いに行くんだって言ってた」
「それで? オレの約束がなんだか判ったのか?」
「あんまりよく判らなかったけど、でももういい。リョウが悩んでたことが判ったから。……あたしだけが悩んでるんじゃないんだって、判ったの」


15
 リョウは家への帰り道を歩いていたのだけど、このとき突然道を変えた。あたしはリョウの後について、草原の方に向かうその道を歩き始めていた。
「ユーナはいったい何を悩んでるんだ?」
 リョウは、もしかしたらあたしの悩みを聞いてくれるつもりになったのかもしれない。
 あたしがずっと、リョウと話したいって言ってたから。
「自分でもよく判らないの。小さな頃から祈りの巫女になるんだって言われて、神殿で祈りの巫女になる勉強をして、勉強はぜんぜんつらくも苦しくもなかったし、楽しかった。13歳で称号を継ぐことになったって、今までしてきたことと何が違うわけでもないって判ってるの。祈りを神様に届けて、みんなの役に立って、それってすごく嬉しいことなの。あたしが祈ることで幸せになる人がいたら、あたしだって幸せになれる。こんなに幸せな仕事はないよね。それなのに……なんかね、心がもやもやするの。ほんとにこれでいいのかな、って思うの。どうしてそう思うのかもよく判らないの」
 話しても、あたしが本当に何を悩んでいるのか、自分でもよく判らなかった。あたしは祈ることは嫌いじゃないし、勉強も嫌いじゃない。神殿の人たちもみんないい人で、あたしに優しくしてくれる。嫌なことは何もないのに、もやもやが抜けない。一生懸命楽しいことを考えるのに、もやもやが邪魔してちゃんと楽しくならないの。
 薄暗くなりかけた草原に腰掛けて、リョウはいつものようにあたしに微笑んだ。
「ユーナ、オレはユーナが祈りの巫女になるのは嬉しいよ」
 リョウはいつも優しい。誰にでも、あたしじゃない人にも。
「だけどオレがそう言っても、たぶんユーナのもやもやは消えないよ。……オレはさ、狩人になるって思った時、ほんとにそうなりたいって、自分で思ったんだ。オレは畑を耕すこともできたし、誰かの工房に弟子入りしてもよかったし、商人にもなれた。だけどオレはどんな仕事よりも、狩人に一番なりたいと思ったんだ。……どうしてだと思う?」
 リョウの隣で、あたしは首を振った。


16
「強くなれると思ったんだ。武器の扱いを覚えて、獣と格闘して身体を鍛えたら、もしも何かがあった時に好きな人たちを守れる、って。父さんや母さんや、ユーナ。オレの好きな人たちを守りたいから、狩人になりたかったんだ」
「あたしも、リョウの好きな人に入ってるの?」
「なんで? 入れたらおかしいか?」
「なんか最近嫌われてる気がしたの。……変なの。嬉しいのに」
「嫌いになんかならないよ。ユーナは小さな女の子だから、守ってあげたいと思ったんだ。村で一番の狩人になれたら、どんな大きな獣が襲ってきたって追い返せる。オレはそういう男になりたいんだ。だから畑仕事じゃダメだった。狩人になるのが一番だと思ったんだ」
 リョウは、あたしを守ってくれる。あたしを守るために狩人になったんだ。嬉しいのに悲しかった。それがどうしてなのか、あたしには判らなかった。
「たぶんユーナにはそれが足りないんだと思うんだ」
 あたしは顔を上げて、リョウの顔を見つめた。
「それ?」
「うん、つまり、こうしたいからこれになりたい、って気持ちかな。役に立つとか、幸せになるとか、ぜんぶ人に言われたことだったり、あとから考えたことだろ? そうじゃなくて、一番最初にユーナが思うこと。オレが、強くなりたい!って思って狩人になったように、ユーナも、何かをしたい!って思ってから祈りの巫女にならないといけないんだ」
 あたしは、リョウの一番になりたい。
 リョウと毎日話せて、リョウのそばにいられて、リョウに邪魔にされない人になりたい。リョウのこと、何でも知りたい。リョウの秘密をあたしと2人だけの秘密にしたい。


17
 だけど、今のあたしじゃダメなんだ。小さな女の子のままじゃ、リョウの一番になんかなれないんだ。
 巫女になったら、あたしはリョウの一番になれるのかな。
「ありがと、リョウ。ちょっと考えてみるね」
「ゆっくり考えればいいよ。どうせすぐに結論なんか出ないから」
「なんで? あたしが子供だから?」
「そういうことじゃないよ。実はオレ、あんまりユーナのことは心配してないんだ」
「どうして? ……嫌いだから?」
「違うって。ユーナはさ、何があっても大丈夫だと思う。しぶといから。村の全員が死に絶えても、ユーナは最後まで生き残ると思う」
「何よそれ!」
 あたしは隣のリョウを拳で殴るマネをした。リョウは大げさに笑いながら避けるポーズをした。そして、ちょっと真面目な顔で、言った。
「オレがぜったい死なせないから」
 リョウの言葉は真実味があって、あたしは少し怖くなる気がした。
「……もしもあたしが誰かと恋して結婚したら、それでも守ってくれるの?」
「その時はユーナの家族も一緒に守るよ。オレはそう決めてるから」
 やっぱり、リョウはあたしが誰と結婚しても、ぜんぜん気にしないんだ。
 それが悲しくて、リョウに送ってもらって家に帰ってからも、あたしは心が晴れなかった。


18
 あたしはリョウの一番になりたい。
 何かになりたいと思って巫女にならないといけない。
 そうリョウは言ったけど、リョウの一番と、巫女になるために思う何かとは、たぶん違う。その何かを見つけなければあたしは祈りの巫女になれない。そしてたぶん、リョウの一番にもなれない。
 爪に、花びらの汁を塗る。一番きれいな巫女になりたいから。大好きなリョウに、一番きれいな巫女だって思われたいから。
「母さま、母さまはどうして父さまと結婚したの?」
 手を洗って、あたしは母さまのお茶の用意を手伝った。
「それは父さまが大好きだったからよ」
「父さまも母さまが大好きだったの?」
「そう。父さまと母さまは、同じくらいお互いを大好きだったの」
 あたしとリョウはたぶん同じくらいじゃない。あたしはリョウをたくさん好きだけど、リョウはあたしのことを少ししか好きじゃない。
「ユーナはリョウが好きなの?」
「うん、大好き。でもリョウは違うみたい」
「そう?」
「少しは好きだけど、大好きじゃないの」
 母さまが入れてくれたお茶には、昨日あたしが取ってきた花びらが、1枚だけ浮かべてあった。
「父さまは、どうして母さまと同じくらい、母さまのことを好きになったの? 母さまは何をしたの?」
 母さまはちょっと照れたような笑顔を見せた。


19
「さあ、何をしたのかしらね。ただ、父さまのことが大好きだから、すごく父さまに優しくしたわ。父さまが困っていたら助けてあげようとしたし、悩んでいたら一生懸命に相談に乗ったの。でも、父さまのほうがずっと大人だったから、母さまはちっとも助けにならなかったのよ」
 あたしも昨日、一生懸命リョウの悩みを考えた。でもたぶん、あたしの答えもリョウの助けにはならなかった。リョウは大人だから、あたしがどんなに考えても、リョウを助けることなんか出来ないんだ。
「でもね、父さまはそれが嬉しかったの。母さまが一生懸命父さまのために相談に乗ってあげたから、父さまはそのことだけで嬉しかったのよ」
「……一生懸命が嬉しいの?」
「そう。ユーナも、リョウのために一生懸命になってあげたら、その気持ちはきっとリョウにも伝わるわ」
 あたしが一生懸命になれば、リョウはあたしを好きになってくれるのかな。あたしがリョウを好きな気持ちと同じくらい、リョウもあたしを好きになってくれるのかな。
「それからもう1つ。ユーナも大人になることかしらね。自分のことを自分でちゃんと考えて、少しずつ大人になっていったら、そのあとはリョウの悩みをきちんときいてあげられるわ。本当にリョウを助けることが出来たら、リョウもきっとユーナのことを好きになってくれるはずよ」
 昨日、リョウはあたしの悩みをちゃんと判ってくれた。そして、リョウ自身が経験したことから、1つ答えを教えてくれた。あたしが大人になったら、昨日のリョウみたいに相手の相談に乗ってあげられる人になれるんだ。そして、あたしがそうなったら、リョウはもっとあたしと話してくれるようになるんだ。
「ねえ、母さま。あたしは今、どうしても祈りの巫女になりたい、って思ってないの。リョウは強くなりたいから狩人になった。でもあたしには、リョウが思うみたいな強い気持ちはないの」


20
「ユーナはそのことを悩んでたの?」
「うん」
「そうね、母さまが思うのは、ユーナは今あせってそれを見つける必要はない、ってことだわね。祈りの巫女はすばらしい生き方よ。今考えなくても、祈りの巫女になって、たくさんの人を助けて、それを繰り返していくうちにいつか必ず見つかるわ。リョウは強くなりたくて自分の生き方を選んだけど、ユーナは自分に与えられた運命を辿りながら、ゆっくり自分のやりたいことを見つけていくのよ。ユーナが生まれたときに未来を見た神託の巫女は、ユーナのそういう人生を見ていたのだと思うわ」
 リョウも言ってた。どうせすぐに結論なんか出ないよ、って。あたしは、祈りの巫女になってからゆっくり、自分のやりたいことを見つけていけばいい。リョウはそういうことも全部判っていて、昨日あたしにそう言ったのかもしれない。
「あたしも、祈りの巫女は素敵な生き方だと思う。なりたいと思った人が全員なれるわけじゃないもん。あたしは、みんなが誇りに思えるような祈りの巫女にならなきゃいけないのね」
「そうね。でも、母さまは今のユーナで十分誇りに思えるわ。ユーナが今の気持ちを忘れない限り、いつかすばらしい祈りの巫女になれるはずよ」
 母さまはそう言ってくれて、あたしはとても嬉しかったけど、でもやっぱりどこかがもやもやして消えなかった。あたしよりもずっと巫女になりたいと思ってて、でもなれない女の子はたくさんいる。特に祈りの巫女になれる人はめったにいない。それなのに、あたしが巫女になってもいいの? ただ、神託の巫女が予言したってだけで、本当にあたしが巫女になってもいいの?
「母さま、あたし、神殿に行ってくるね」
「そう、気をつけて行ってらっしゃいね」
「はい」
 本当は、儀式の日までは神殿には行かなくていい。でも、じっとしているのがつらかった。どうしたらこのもやもやが消えるのか、できることを何でも試してみたかったから。


扉へ     前へ     次へ