祈りの巫女



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 神殿は東の山の中腹にあって、あたしの足だとかなり歩かなければいけない。でもお夕飯までには戻りたかったから、あたしはできるだけ急いで、その山道を登っていった。つい3日前まではあたしは神殿の宿舎でずっと修行していて、祈りの巫女になってからは時々自宅に帰る以外はずっと住まなければならない場所だから、あたしにとっては第2の家って言えるような場所だった。
 見慣れた道を辿って、やっと神殿の建物が見えてくる。誰かいないかと思って見回しながら石段を登りかけると、建物の中からセトが出てくるのが見えた。
「ユーナ? ユーナじゃないか」
「こんにちわ、セト。来ちゃったけど大丈夫だった?」
「驚いたな。そこにいて、降りていくから」
 セトは神官の一人で、大人の男の人だった。もう結婚もしていて、子供も何人かいるのかな。セトは毎日神殿に通っていて、あたしは神殿でしか会ったことがなかったから、セトの家族のことはよく判らなかった。
 階段を降りてきたセトは、あたしをさりげなく宿舎の方に促しながら言った。
「まさかユーナがくるなんて思わなかったよ。儀式の日までは暇をもらってるんだろ?」
「うん、そうだけど……。なんか落ち着かないの。家にいても何もすることがないし」
「祈りにきたの?」
「そうね、神様に祈りたい気分かもしれない」
「残念だけど、今神殿には入れないんだ。君の儀式の準備があるから。宿舎でお茶でも飲みながら少し話そうか」
 もしかしたら、あたしはきちゃいけなかったのかもしれない。セトの態度も落ち着かなかったし、宿舎に入っても中はがらんとしてて誰もいなかったから。みんなきっと、あたしの儀式の準備があって忙しいんだ。


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「なんか変な時に来ちゃったみたい」
「そんなことはないよ。ただ……ごめん、一言みんなに断わってくるな。探してるといけないから。ここで待ってて」
 セトがあたしのお茶の準備を簡単に済ませて、あわただしく宿舎を出て行ってしまった。やっぱり、あたしはきちゃいけなかったんだ。食堂のテーブルでセトが入れてくれたお茶を飲みながら、あたしはセトが戻ってきたらすぐに家に帰ろうと思った。忙しいみんなの邪魔をしちゃいけないから。
 そうして、しんとした食堂でセトを待っていたら、遠くの方で何か音が聞こえた。かんかんって何かを叩いてるような、すごくよく響く音。よく聞いてみると、その音は釘を打つ音にとてもよく似ていた。神殿の向こう側から聞こえてくる。
 あたしはそっと窓に近づいて、音のする方を目を凝らして見た。でも、神殿に隠れていて、何をしてるのかはぜんぜん判らなかった。ちょっと迷ったけど、あたしは宿舎を抜け出した。そして、神殿の向こう側に何か建物を作っているのを見つけた。
 神殿から見て右側には、いくつかの巫女達の宿舎がある。あたしがさっきまでいたのは左側の神官達の宿舎だから、今作ってるのは巫女の宿舎だ。3日前までは影も形もなかった。もしかして、今作っているのって、あたしが祈りの巫女になるのと関係があるの?
「あ、ユーナ! ……見つかっちまったか」
 あたしに声をかけたのはセトだった。作業していた人たちも、気付いてあたしを振り返った。
「……なに? どうしたの、これ。もしかして、あたしの……?」
「儀式の日までは秘密にしときたかったんだけどな。見つかっちゃったんだからしょうがない。察しの通り、君の宿舎だよ。祈りの巫女がこれから住むための宿舎を作ってるんだ」
 信じられなかった。巫女達は、神殿の右側の宿舎にみんなで住んでいる。専用の宿舎を持っているのは守護の巫女と聖櫃の巫女だけだった。運命の巫女も、神託の巫女も、他の名もない巫女もみんな同じ宿舎にいるから、それだけでもあたしが専用の宿舎を建ててもらえるのは異常事態だった。
「どうして? あたしはみんなと同じでいいよ。だってあたし、まだぜんぜん祈りの巫女じゃないのに」
 もしもあたしがこれから先、すごく立派な巫女になって、みんなに尊敬されて、それで宿舎を建ててもらえるのならわかる。でも、今のあたしが新しい宿舎を建ててもらっていいはずない。


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「ユーナがよくてもね、これから先のことを考えたら、やっぱり1つ祈りの巫女の宿舎が必要なんだ。確か祈りの巫女が生まれるのは120年ぶりだろ? 位は聖櫃の巫女よりも高いし、世話係の巫女も一緒に住まないとならないし、そのうち他の巫女が修行にくることもあるだろうしね。今の宿舎だと、120年ぶりに新しく増えた祈りの巫女の個室を作るのが難しいんだ。突貫工事になっちゃったから、そんなに立派にできなかったけどね」
「そんな……あたし、個室なんか要らないし、世話係がつくなんてぜんぜん思ってなかった。自分のことは自分でできるもん。今までだってそうやって来たし」
「そりゃ、修行中は自分のことは自分でやらないといけなかったけどね。でも、これからはそういう訳にはいかないよ。祈りの巫女は、祈りの巫女に専念してもらわないといけないんだ」
 あたしは、祈りの巫女にならなくちゃいけない。
 今までなんか比べ物にならないくらいの重圧だった。あたしは、120年ぶりに生まれた祈りの巫女。巫女の位の中では守護の巫女に次いで2番目で、人々の祈りを神に届ける役割を負う。儀式を受けたら、あたしはもうそういう役割を担った、一人前の巫女として扱われるんだ。
 どんなにあたしが未熟でも、才能がなくても、儀式が終わればあたしはもう祈りの巫女なんだ。
「大丈夫だよ。ユーナがちゃんと住みやすいように、みんなでいろいろ考えて作ってるから。図面を見せようか?」
 あたしが黙ってしまったからだろう、気を遣って、セトが言った。
「いい、ありがとう。なんかびっくりしちゃった。……そうなのよね。あたし、自分のことだからピンとこないけど、今まで120年も祈りの巫女はいなかったんだもん。宿舎だって、祈りの巫女が住むようになんか、できてないよね」
「正直に言うとね、ユーナの儀式の日が決まるまで、誰もそれに気がつかなかったんだ。だから準備がぜんぜん整ってなかったの。もっと早く気付いてたら、ユーナの意見も取り入れて、もっとユーナが住みやすく作れたんだけどね」
「ううん、いいの。……ありがとう、あたし、帰るね。ここにいてもみんなの邪魔になっちゃうから」


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 セトに別れを言って、作業中のみんなに深くお辞儀をして、あたしは来た道を戻り始めた。判ってる。みんなあたしのことを考えてくれて、あたしが過ごしやすいように、祈りの巫女の使命をまっとうできるように、心を砕いてくれる。巫女が1人増えるのは、神殿にとっても大変な事だった。みんなだって、あたしと同じように戸惑っているんだ。
 帰り道は、すごく足が重かった。そろそろあたりは暗くなりかけていて、あまり暗くなってから山道を歩くのはよくないことなのだけど、足取りはなかなか進まなかった。村の明かりが近づいてきたけど、母さまに会って何を話せばいいのか判らなくて、とうとう昨日リョウと話した草原に座り込んでしまった。
 祈りの巫女になるのが怖かった。もしもあたしが、みんなが期待するような巫女になれなかったら、親切にしてくれたみんなの気持ちを無駄にしてしまうんだ。言葉では何も言わなくても、「どうしてユーナのためにこんなことまでしなければならないの?」って思って、嫌な気持ちになる人だっているかもしれない。あたしよりも祈りの巫女に向いてて、すごく祈りの巫女になりたい人だっているかもしれない。そういう人たち全員を、あたしは裏切るかもしれないんだ。
 草原に座りながら、あたしは昨日リョウに言われたことを思い出していた。何かをしたいと思って、それから祈りの巫女にならないといけない。あたしにやりたいことなんてない。あたしは祈りの巫女になりたくない!
 ……でも、祈りの巫女にならなかったら、今一生懸命宿舎を建ててくれるみんなを裏切ることになるんだ。
「ユーナ、こんなところで何してるんだ?」
 声に気付いて顔を上げたら、あたりはもう真っ暗になっていて、目の前にリョウが立っていた。
「リョウ……」
「またなんかオレに聞いてもらいたいことでもあるのか?」
 リョウの笑顔と優しい声が、今まであたしの心の中につまっていたなにかを、一気に取り除いてくれた気がした。リョウの顔が歪んで見えて、あたしは涙を流してることに気が付いた。ほんとはリョウの前で泣きたくなかった。だけど涙は溢れて、息が苦しくなって、あたしはリョウの顔を見ながらしゃくりあげるように泣いていた。


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「どうしたんだいったい。何か嫌なことでもあったのか?」
 リョウは微笑みながらあたしの隣に座った。あたしは、リョウに顔を見られたくなくて、膝を抱えた。そんなあたしの背中を叩いている手がある。泣きたくないのに。リョウに子供扱いされたくないのに。
 リョウはそれきり何も言わないで、あたしが泣き止むのをずっと待っていた。ただ、同じリズムで背中を叩いて。リョウは優しい。リョウは、あたしがずっと泣き止まなかったら、このままずっと背中を叩き続けてくれるのかもしれない。
 やっと、呼吸が落ち着いてきて、涙が止まった。あたしは深呼吸して、涙を拭いて、隣に座ったリョウを見上げた。
 リョウは、さっきと同じように微笑んでいた。
「リョウ……」
「ん?」
「今日ね、神殿に行ったの。そうしたら、祈りの巫女専用の宿舎を建てていたの」
 リョウの手は、まだあたしの背中にあった。叩くのはやめて、今はゆっくりとなでてくれていた。
「あたし、祈りの巫女になるのが怖い。みんなの期待が大きすぎて、裏切りそうで、怖いの」
 背中をなでていたリョウの手が、あたしの頭の上に乗せられた。
「怖がることなんかないよ。ユーナは神託の巫女が予言した、祈りの巫女なんだから。ユーナには、生まれたときから祈りの巫女になれる資格があるんだよ」
「……資格なんかないもん」
「ユーナにはその資格があるよ。それは、他の誰も持ってない、ユーナだけの資格だ。……例えばさ、もし仮に、ユーナにその資格がなかったとするよ。そうしたら、悪いのは間違った予言をした神託の巫女だ、ってことにならないか?」
 あたしははっとした。もしもあたしがちゃんと祈りの巫女になれなかったら、あたしが祈りの巫女だって予言した神託の巫女にまで迷惑をかけることになるんだ。


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「でも、実際のところ神託の巫女の予言が間違ってたと思う人は、たぶんいないと思う。神託の巫女は間違えちゃいけないんだ。ってことは、たとえユーナがどんなにできの悪い祈りの巫女になったとしても、それが正しいことで、真実なんだ。神様が望んだ祈りの巫女は、どうしようもないできの悪い祈りの巫女だ、ってことになる。それを神様が望んだんだから、誰もユーナを責めたりはしないよ」
 ……なんか、リョウの言ってることはすごくめちゃくちゃな気がするのに、あたしは少し気が楽になっていた。
 神託の巫女はぜったい間違えたりはしない。だから、あたしがたとえどんなにできの悪い巫女になったとしても、それが祈りの巫女なんだ。だって、祈りの巫女はあたししかいないんだもん。祈りの巫女はすばらしい巫女のことじゃなくて、あたしのことなんだ。
「それにさ、たぶん誰もユーナに期待をかけたりしてないと思うよ。だって、ユーナはまだ12歳で、儀式を受けても13歳で、いきなり完璧な巫女になんかなれっこないだろ? みんなユーナの修行ぶりを今まで見てきたんだから、ユーナがどの程度の人間なのか、ちゃんと判ってるよ。だから、ユーナは今のままで、精一杯自分の勤めを果たしていけばいいんだ。だいたい祈りの巫女の仕事って、ただ祈るだけなんだろ? その祈りが神様に届いたかどうかなんて誰にも判らないんだ。多少できが悪くたってそんなに目立たないって」
 なんだか果てしなく馬鹿にされてる気がした。あたしのことだけじゃなくて、祈りの巫女まで。
「祈りの巫女は祈るだけじゃないもん! そりゃ、祈ることがほとんどだけど、ちゃんと勉強して、世界の仕組みとかも判って、それで祈るんだもん。祈りにだって種類があって、ちゃんと手順を踏まないと神様に届かなかったり、大変なんだから。ぜんぜん簡単なんかじゃないんだから!」
 あたしがそうリョウを怒鳴りつけて、でもリョウはぜんぜん驚いた風には見えなかった。ひと通り叫び終わって息をついた時、リョウはすごく明るい表情で、あたしに笑いかけた。


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「ほら、ちゃんとユーナにはあるじゃないか。自分の仕事に対するプライドが」
 わざとだったんだ。リョウはあたしを怒らせて、あたしにそれを言わせようとしたんだ。
「あたし、祈りの巫女の仕事を馬鹿にされたくない。それがプライド?」
「オレだって狩人の仕事を馬鹿にされたら、今のユーナみたいに怒ると思う。自分の仕事にプライドが持てるって、それだけで十分すごい資格だと思うよ。実際、プライドのない大人もいるんだ。狩人の中にもいる。残念だけど」
「……そうなの? そういう人は、自分の仕事を馬鹿にされても平気なの?」
「平気なんだ。だからさ、ユーナは大丈夫だと思う。神殿のみんなも、今までずっとユーナを見てきたから、安心して宿舎を建ててくれてるんだと思う。不安だったら最初からそんな大変な仕事を始めようとは思わないんじゃないかな。たぶん落ち着くまでは他の巫女と一緒の宿舎に押し込めとくよ」
 リョウの話を聞いていたら、なんだか本当にリョウの言う通りのような気がしてきていた。リョウは不思議だった。いつでも、どんな時でも、あたしの気持ちを楽にしてしまう。あたしはリョウが大好き。いつも優しくて、いつも穏やかで、あたしのことを判ってくれるリョウが大好き。
 あたしが、リョウにたくさん優しくして、リョウのことを判って、リョウの気持ちを楽にすることが出来たら、リョウもあたしのことを好きになってくれる?
「リョウ、ありがと。あたし、リョウのことが大好き」
 きちんと言葉にして言ったことはあんまりなかった。
「ありがとう、ユーナ。……もう遅いから帰ろうな。送っていくよ」
 リョウは優しくて、穏やかで、あたしのことをいろいろ判ってくれる。
 でも、あたしと同じくらいには、リョウはあたしを好きになってはくれない。あたしが一番欲しい言葉は、くれない。
 リョウの優しさが残酷に思えて、すごく、痛かった。


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 リョウも、母さまも、父さまも何も言わなかったけど、あたしが神殿から帰ってこないのを心配して、みんなで探してくれていたみたいだった。リョウはあの草原に偶然現われたわけじゃない。でも、探していたことも、みんなが心配していたことも、リョウは何も言わなかった。
 あたしは何も教えてもらえない。あたしは子供で、みんなそう思ってるから、あたしの心に負担をかけることは話してくれないんだ。あたしはずっと感じていた。みんながあたしに隠していることがあるってこと。
 生まれて最初の、6歳の時の記憶。あの時何があったのか、あたしは知らない。ずっと考えないようにしてきたけど、昨日のことがあって、あたしは本当に久しぶりにそのことを考えていた。みんなが隠し事をしているのを感じてしまったから、それで思い出したんだと思う。みんなはあたしに言えないことがあって、だからあたしはいつまでも子供のままなのかもしれない。
 儀式の衣装が縫い上がって、あたしはまたマイラの家に行った。相変わらずマイラの家の後ろにある森は怖かった。神殿に続く道の森も、草原の向こうの森も、あたしは怖いと思わないのに、マイラの家の森だけはいつも怖かった。
「あら、ユーナ。爪を染めているんだね」
 衣装をつけて、鏡に映して、衣装をあちこち手で直しながら、マイラが気づいて言った。
「うん、染めた方がきれいだと思うの。マイラはどう思う?」
「あたしもその方がきれいだと思うわ。この分だと、儀式の頃には一番きれいな色に染まりそうね」
 きれいな巫女になりたい。あたしの中にはいろんな思いがあって、きれいになりたいと思うのもその1つだった。大好きなリョウに同じくらい好きになってもらいたい。立派な巫女になってみんなの助けになりたい。大人になって、みんながあたしに言えないことを聞きたい。
「ねえ、マイラ。あたしはどうしてマイラの森が怖いのかな。他の森はぜんぜん怖くないのに」
 マイラは、とても悲しそうな目をして、あたしから目を逸らした。


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 いけないことを訊いたのかもしれない。隠し事をするって、それだけですごくつらいことだから。あたしは気付かないふりをしていた方がよかったのかもしれない。
「ユーナ、あの森は危険なんだよ。他の森も子供には危険だけど、あの森は他の森よりも少しだけ危険なの。だから、小さな子供にはどの親もみんな言って聞かせるんだ。あの森で遊んじゃいけないよ、って」
 視線を森の方に向けたまま、マイラは続けた。
「たぶんユーナはそれを覚えているんだね。小さな頃、行っちゃいけないって言われたこと。だからきっと、この森が怖いんだわ」
 マイラはすごく悲しそうな顔をしていた。だからあたしは、マイラが言ったこと、半分しか信じられなかった。あたしが小さな頃に、母さまはあたしにそう言ったのかもしれない。例えば、あの森にはお化けが出るよ、とかって。
「マイラも小さな頃にそういわれたの?」
「さあ、それはもう覚えてないわね。でもあたしはもう大人だから、森を怖いとは思わないね」
「リョウも大人だから怖くないのかな」
 マイラはやっと振り返って、少しだけ悲しい笑顔を見せた。
「リョウは狩人だから、森のことは何でも判ってるでしょう。いちいち怖がってたら何も捕まえられないわ」
 言われてみればそうだ。森を怖がる狩人なんて、聞いたことがなかったもん。
「あたしも、大人になったら怖くなくなるのかな」
「そうね。ユーナも大人になったら、あの森も優しく迎えてくれるかもしれないね」
 早く大人になりたい。
 大人になったら、森のことも、リョウのことも、何でも判るようになるから。
「マイラ、ありがとう。今日はこれで帰るね」
 マイラはいつもの悲しそうな笑顔で、あたしを送り出してくれた。


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 小さな頃に行っちゃいけないって言われたから森が怖いんだろうってマイラは言ったけど、あたしは少し違う気がしていた。だって、あたしは小さな頃母さまに、料理の火に近づいちゃいけないって言われたけど、今はぜんぜん怖いと思わないから。あ、でも、あたしはいつの間にか火を使って、火がそれほど怖くないんだってことが判った。もう一度あの森に行って、森がそれほど怖くないことが判ったら、あたしは森を怖いと思わなくなるかもしれない。
 森が怖くなくなったら、あたしは少しだけ大人に近づけるかもしれない。リョウにも近づけるかもしれない。1度家に戻ってしばらく考えた。やっぱり森はすごく怖かったけど、でもあたしは行ってみなければならないんだ。
「母さま、ちょっと出かけてくる」
「どこへ行くの?」
「マイラの家のね、向こう側にある森。暗くならないうちに帰ってくるから」
「……ちょっと待ってユーナ。どうして突然森に行こうと思うの?」
 母さまの顔から笑顔が消えていた。あたしはちょっとびっくりして、でも、母さまには正直に、今の気持ちを話した。
「あのね、あたし、あの森が怖いの。他の森は怖くないのにあの森だけ怖いの。あたしは儀式を受けたら祈りの巫女で、もう子供じゃないの。だから、いつまでも子供みたいに、森が怖いとおかしいの」
 なんだか上手に話せなかった。もしかしたら、母さまにはあたしの気持ちが伝わらなかったのかもしれない。
「ユーナ、あの森は危険なのよ。ひとりで行くのは危ないわ。今日どうしても行かなければならないの?」
「そんなことはないけど……」
「だったら、父さまとも相談して、今度ゆっくりみんなで行かない? 父さまと母さまと、オミも一緒に」
 母さまは言葉では反対しなかったけれど、あたしを森に行かせたくないみたいだった。


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