祈りの巫女



 生まれてから最初の記憶は6歳の時。その時あたしはベッドの上にいて、守りの長老に両手を預けていた。
「……考えずともよい。時至ればそなたは全てを理解することができよう。心穏やかに目を開き、映る全てのものを受け入れるのだ。……ユーナ、そなたの命があることを神に感謝しよう」
 長老の言葉も、周りにいたたくさんの人たちの言葉も、あたしには理解できなかった。だけど、涙を流してあたしを抱き締める母さまの腕が、すごく暖かかったのを覚えてる。父さまが少し悲しそうにあたしを見ていたのを覚えてる。
 その時よりも前のことは思い出せない。父さまも母さまも守りの長老も、誰もあたしに教えてくれない。リョウも教えてくれない。いつもあたしを悲しそうに見つめていただけだった。
 考えないでいよう。そう思って毎日を過ごした。
 思い出せないまま、あたしは12歳になっていた。


「ユーナ、さっきマイラの使いの人がきたのよ。儀式用の衣装の仮縫いが終わったのですって。試着にきて欲しいそうよ」
 帰るとすぐに母さまがそう言って、あたしの手から花篭を取り上げた。赤い花びらが少しだけこぼれる。
「儀式の時までに爪を染めようと思って取ってきたの。捨てちゃダメよ」
「判ってるわよ。マイラを待たせないで」
「はい、行ってきます」
 あと10日で、あたしは13歳になる。13歳になったらあたしは祈りの巫女の称号を継ぐ。どうしてなのかは判らないけど、あたしは生まれたときからそう定められていた。母さまも父さまも、守りの長老もそう言ってたから、あたしもずっとそう思ってきた。儀式ではきれいな衣装を着られるから、あたしは誕生日のその日を楽しみにしていた。
 マイラの家は村の外れの方にあって、ほとんど森との境目のようなところだった。その森はあたしは少し怖かった。だから、マイラの家も、ほんの少しだけ怖い。そんな思いを振り切るように坂を登って歩いていると、向こうからリョウが歩いてくるのが見えた。
「リョウ」
 リョウは4歳年上で、16歳になっている。狩りの仕度が良く似合っていて、もう一人前の男の人だった。小さな頃は良く遊んでもらったけど、最近はそうでもない。リョウもあたしを見つけて微笑みながら近づいてきてくれた。
「リョウ、あたしこれからマイラのところで衣装合わせなの。リョウも見てくれない?」
 ほんの少しまぶしそうに目を細めて、リョウは言った。
「残念だけど、これから帰って獲物をさばいてもらわないといけないんだ。ユーナの衣装を汚しても悪いしな」
 見ると、確かにリョウは身体に狩りたての北カザムの子供をいくつかぶら下げていた。


「そうなの。それじゃ、衣装合わせが終わったら少し話を聞いてくれない? あたし、リョウに話したいことがあるの」
「儀式が終わるまでは忙しいんじゃないのか? のんびりオレと話なんかしてていいの?」
「リョウと話すくらいの時間はあるもん」
「だったらマティの酒場においで。これからランドと落ち合う約束なんだ」
「違うの! あたしはリョウと2人で話がしたいの!」
 あたしがそう言っても、リョウはもう歩きかけていて、それ以上話をする気はないみたいだった。坂を降りていくリョウのうしろ姿を見送る。最近のリョウはなんだかそっけない。子供の頃から優しくて、今でもそれは変わってなかったけど、だんだんあたしとの距離が遠くなってる感じがした。
 リョウはどんどん大人になって、あたしとは違う世界の人になっていくみたい。リョウはあたしと話をしても、もう楽しいと思わないのかもしれない。たぶんランドや、他の大人の男の人たちといる方がずっと楽しいんだ。
 13歳になって、祈りの巫女の称号を継いだら、あたしも大人になる。大人になったらリョウはあたしと話してくれるのかな。それとも、もっと遠い存在になってしまうのかもしれない。巫女は、この村では特別な存在だから。
 マイラの家に近づいて、あたしは向こうの森をできるだけ見ないようにしながら、扉をくぐった。マイラはベイクと夫婦で、子供はいない。今日もいつもの少し悲しそうな表情であたしを見た。
「ユーナ、待ってたのよ。さあ、早く着てみてちょうだい。良さそうならすぐに仕上げをしちゃうからね」
 そう言ってマイラが持ってきてくれたのは、純白の布に薄いピンク色の飾り布を縫い付けてあって、質素すぎもせず派手すぎもしないきれいな衣装だった。祈りの巫女の色はピンクで、これからあたしは様々な祭事の時には必ずピンクの飾りをつけることになる。衣装を着て、髪に飾りをつけると、マイラはちょっと離れたところからあたしを上から下まで見つめた。


「大丈夫そうね。ユーナ、あと10日あるけど、急に太ったり痩せたりしないように気をつけてね」
 マイラがちょっと悲しそうな顔で冗談を言ったから、あたしは笑うのを少しためらってしまった。
「平気よ。でも気をつけるね」
「ユーナも13歳になるんだねえ」
 何年か前から気が付いていた。マイラはいつでもあたしの年を気にしてるって事。あたしに年を尋ねるのは決まってマイラだった。
「ねえ、マイラ。祈りの巫女になったら、あたしは大人になって、今までと何かが変わってしまうの?」
 さっき、リョウに会ってから、あたしは少し不安になってたみたい。マイラを見上げてそう言うと、マイラはテーブルにお茶を用意してくれた。
「たいして変わりはしないよ。子供がそう思っているほど、人間は急に大人になんかならないからね。目の前にあることを1つずつ片付けていくうちに、ふと気が付くと知らない間に大人になってるの。あたしも、ユーナが生まれた頃にはまだ半分くらい子供だったし、今でも少し子供が残ってるよ」
「そうなの? あたし、マイラはずっと大人なんだと思ってた」
「あたしも子供の頃はそう思ってたよ。父さまも母さまもマイラが生まれたときにはもう大人で、ずっと変わらないんだ、って。……ユーナも、恋をして結婚して、子供が生まれたら判るかもしれないね」
 あたしが、恋をして結婚して、子供が生まれたら。
 マイラには子供はいないけど、恋をして結婚したからわかるようになったのかもしれない。
「大人になったらリョウともっと話せるかな」
 あたしがリョウのことを言ったら、マイラはまた少し悲しそうな、遠い目をして言った。
「……リョウは優しい子だからね。リョウももう少し大人になったら、たぶんユーナとたくさん話してくれると思うわ」
 マイラにはリョウも子供に見えるんだ。あたしから見たら、リョウはすっかり大人のような気がするのに。


 マイラにお礼を言って、あたしはまた坂道を下り始めた。途中、マティの酒場の前を通りかかって、店の中にチラッとリョウの姿が見えた。まだランドは来てないみたいで、リョウはひとりでカウンターに座ってる。声をかければよかったのだけど、あたしはなんだか悔しくて、そのまま素通りして家に戻っていた。
「ただいま、母さま」
「お帰りなさいユーナ。衣装はどうだった?」
「すごくきれいだった。母さま、あたしの花びらは?」
「ずいぶんたくさん取ってきたのね。そこの棚にある1番大きな瓶に移しておいたわよ」
 母さまが指差した瓶には、あたしが取ってきたたくさんの花びらが詰め込んであった。あたしはその瓶を取って、中の花びらに塩を振りかけてしっかりふたを閉めた。
「ありがとう。あのね、あたし、足の爪も染めるの」
「まあ、そうなの。それは大変ね」
「だからたくさん必要なの。時間もすごくかかると思う。でもきれいに染めないといけないんだ」
「それなら筆も必要ね。用意はできてるの?」
「昨日ピジに頼んで……あっ!」
 さっきリョウが狩ってきた北カザムの子供!
 そうだったんだ。あれはきっと、あたしの筆にしてくれるために狩ったんだ。北カザムの毛皮はすごくいい筆になる。中でも子供の毛が最高なんだって、前に聞いたことがあったから。
「母さま、ちょっと出かけてくる!」
「急にどうしたの? すぐにお夕飯よ」
「リョウのところ!」
 母さまはいつも、あたしがリョウのところに行くのを止めたりしなかった。だからそれ以上何も言わないで送り出してくれる。あたしは走ってマティの酒場に行った。


 リョウはさっきと同じ椅子に座っていて、カウンターの隣の席にはランドも来ていた。
「いらっしゃい、ユーナ。儀式の準備は進んでるかい?」
 最初にマティに声をかけられて、リョウとランドも気付いてあたしを振り返った。まだ早い時刻で酒場には他のお客さんはいない。あたしはすぐにでもリョウに話し掛けたかったけど、声をかけられたから、最初にマティに返事をした。
「衣装の仮縫いが終わったところ。そのことでリョウに話があるの」
「何か飲むかい?」
「ううん、もうすぐお夕飯だからいい。ありがと」
 そうマティとの会話を終わらせて、あたしはカウンターのリョウの隣へ腰掛けた。
「北カザムをピジに納品してくれたの?」
 リョウはまだほとんど酔ってないみたいだった。
「ああ、そうだよ。昨日ピジに頼まれたんだ。それがどうかしたのか?」
「ピジはあたしの筆を作ってくれるの。だからリョウにもお礼を言おうと思って」
 もしかしたらリョウは知らなかったのかもしれない。ピジに納品した北カザムが、あたしの筆になるって事。リョウはあたしの筆のために北カザムを狩ったんじゃないんだ。あたしの早とちりだった。
「そんなことをわざわざ言いにきたのか? 別にいつだってかまわないのに」
 なんだかちょっと悲しくなって、あたしはリョウに返事ができなかった。あたしが黙ってしまったからだろう。横から、ランドが口をはさんだ。
「巫女の儀式は前に見たことがあるけど、あれはちょっと詐欺だと思ったね。どんなヘチャでも絶世の美女に見えちまう。リョウ、儀式の艶姿に騙されて、うかつにユーナにプロポーズするんじゃないぞ」
 まるであたしがすごいヘチャみたいな言い方だった。


「ランド! あなたすっごく失礼!」
「失礼なもんか。オレは事実を述べてるだけだ」
「あたしはヘチャじゃないもん!」
 もっと文句を言おうと椅子を降りかけたところ、リョウが割って入ってあたしの肩を止めた。
「ユーナ、もう遅いから家まで送っていくよ。ランドもあんまりユーナをからかうなよ」
「悪い悪い。ついおもしろくて」
「行こう、ユーナ。……何か話があるんだろ?」
 最後の方は耳打ちするみたいな小さな声で、あたしはランドに怒ってもいたのだけど、その怒りがすーっとおさまっていく感じだった。
 リョウが先に立って店を出て、あたしが後からついていく。リョウと歩くのは久しぶりだった。ほんの昨日まで、あたしは儀式の練習でずっと神殿に詰めていたから。
 今日、道で偶然すれ違わなかったら、こうして2人で歩くのはもっと先のことだったかもしれない。
「何も話さないのか? 早く話さないとユーナの家につくぞ」
 リョウの言う通りだった。小さな村だから、いつの間にか家のすぐ近くまできていた。
「リョウ、あたしね、子供の頃からずっと、おまえは祈りの巫女になるんだよ、って言われてた。あたしが生まれたときに神託の巫女が予言したんだって。……リョウは? リョウはどんな予言を受けたの?」
 リョウは振り返って、あたしの目をまっすぐに見て微笑んだ。
「オレも予言を受けたよ。だけど、予言の中身は知らない。父さんも母さんも教えてくれないんだ。ユーナにも教えてもらえない予言があるだろう?」
「うん」
 神託の巫女は、子供が生まれると必ず予言をする。その中でぜったいに教えてもらえない予言がある。それは、その子が将来誰と結婚するのかって事と、その子がいつ死ぬのかって事。


「ユーナは最初から判ってる。オレには自分が何になればいいのか判らない。だけど、それって本当はどっちでもいいんだ。だってユーナは祈りの巫女になるけど、祈りの巫女になってそのあと何をするかなんて、けっきょく判らないんだから」
 あたしは迷ってた。自分が祈りの巫女になること。リョウはもしかしたらあたしの迷いを知っていたのかもしれない。
「あたし、ちゃんと祈りの巫女になれると思う?」
「神様は乗り越えられない運命を人間に与えたりはしないよ。祈りの巫女の運命を授けたのは、ユーナがそれをやり遂げられるって、神様が思ったからだろ? 神様を信じるのも祈りの巫女の仕事だよ。……さ、うちに入りな」
 本当はもっとリョウと話していたかった。このことだけじゃなくて、もっとたくさんの事。リョウの話をたくさん聞きたかった。狩人になったリョウの狩りの話とか、いつもランドとどんな話をしているのかとか。
 リョウの目には、あたしはいったいどんな風に映っているのかとか。
「また明日話してくれる?」
「儀式前の祈りの巫女ってそんなに暇なのか?」
「暇じゃないけど、もっとリョウと話したいの。前はもっといろいろ話してくれたもん」
「オレもそんなに暇じゃないんだよ。それに、明日はちょっと約束があるんだ」
「だれ? 大切な約束なの?」
「ユーナが知らない人で、オレにとっては一番大切な約束。だいたい春先の狩人は忙しいんだぞ。冬の暇な時を基準に言わないの」
 大人になったリョウはいつも忙しい。あたしは、リョウがあたしを一番にしてくれないことが悲しかった。
 あたしが知らない人との約束を一番大切に思っているのが悲しかった。
「ユーナ、もう家に入りな。まだ夜は寒いよ」
「……うん、判った。おやすみなさい」
「おやすみなさいにはちょっと早いけどな。よい夢を、祈りの巫女」


「送ってくれてありがと」
 リョウに別れを告げて家に入った。食卓にはもう食事の用意がしてあって、父さまと弟のオミが座っていた。たぶんあたしが帰るのを待ってたんだ。
「遅くなってごめんなさい、父さま。リョウに送ってもらったの」
「お帰りユーナ。リョウは帰ったのかい?」
「たぶん酒場に戻った。ランドと飲んでたの」
「巫女の儀式まであと10日か……」
 父さまは食前酒を傾けて、嬉しそうに、でもちょっと淋しそうに言った。
「何も変わらないわ。マイラが言ってたもん。人間はそんなに簡単に大人になんかならないんだ、って」
「そうかもしれないな。だけど、子供はあっという間に大人になるんだ。ユーナもオミも、ちょっと前まではまだ小さな赤ん坊だったんだよ」
「ぼくも赤ちゃんだったの?」
「だれでも赤ちゃんだったんだよ。ユーナもオミも、父さまも母さまもみんなね」
 母さまが食卓について、みんなでお夕飯を食べた後、あたしは花びらの瓶を持って部屋に行った。瓶の中の花びらは色とりどりできれいだった。リョウが取ってきた北カザムの筆が出来上がる頃、花びらからは色の汁がたくさん出てきて、あたしの爪をピンクに染めてくれるだろう。
 あたしがきれいになったら、リョウはあたしとたくさん話してくれるのかな。それとも、巫女になったらあたしは、狩人のリョウとは違う世界の人になっちゃうのかな。
 なんとなく淋しくて、なんとなく悲しくて、あたしは花びらの瓶を見つめながらなかなか眠りにつけなかった。


10
 大人になるのが淋しかったから、あたしは儀式を楽しみにしていなければいられなかったのかもしれない。狩人になったリョウがあたしから離れてしまったように、巫女になったあたしはリョウから離れてしまうのかもしれない。もしもあたしが狩人だったら、ランドのようにいつもリョウと一緒にいられた。あたしがリョウと同じ16歳だったら、一緒に大人になれたのかもしれない。
 翌日、北カザムの筆が出来上がって、あたしはピジの工房に取りに行った。小さな筆は毛先がきれいに揃っていて、爪を染めるのに合っていた。さっそく家に戻って爪をきれいに磨く。瓶の中から花びらの汁を絞って、少しずつ、丁寧に塗っていった。
 きれいに塗って、乾かして、また塗る。何回かそれを繰り返してから洗い流す。洗うと少し色は落ちてしまうけど、毎日繰り返し塗っていると洗っても色が落ちなくなる。儀式の日まで毎日塗るつもりだった。一番きれいなユーナになって、巫女になりたかった。
 リョウと話したかった。ううん、ほんとは、リョウが誰と約束しているのか知りたかった。
 リョウが狩りから帰る頃を見計らって、あたしはリョウの家の前まで行った。木の陰に隠れて、リョウが出てくるのを待っていた。しばらく待っていると、リョウが家から出てくるのが見えた。片手に花束を抱えて、片手にお酒の瓶を持っていた。
 リョウに気付かれないように後を追った。花束を持ってるから相手は女の人なのかもしれない。でも、お酒の瓶を持っているから男の人なのかもしれない。もしかしたら、お酒の好きな大人の女の人なのかも。だったらリョウは、その人と結婚したいと思っているのかもしれない。
 リョウは大人だから、誰かと結婚しても仕方がない。あたしと話さなくなったのは、リョウに好きな人ができたからなんだ。
 悲しかった。淋しかった。だけど、そういうことだってあるんだ。あたしがいつか誰かと恋して結婚するみたいに、リョウだって誰かと恋して結婚するんだ。


扉へ     次へ