第4話 奪取
次の日も、その次の日も、あたしは部屋でぐうたらして過ごしていた。
そんな話をした次の日の夜、あたしはベッドのなかでまどろんでいた。
次の日、この日もあたしは予定をキャンセルして、昼ごろまで眠っていた。
次の日から、あたしは職場復帰していた。
本当はいろいろ予定があったの。
伯爵の予定したパーティーとか、リカームの外れの方にある神殿に礼拝に行ったりとか。
でもあたしは、身体がまだ本調子じゃないことを理由に、それらの予定をキャンセルか、または延期にしていた。
警備のことでユーリルに相談したら、ユーリルもその方が都合がいいって言ったから。
ユーリルは本当に雑務に追われていた。
本当はまだ十八才なのに、ユーリル一人で一番大変な責務を負わされているみたい。
ユーリルは、あたしの部屋の覗きについて、すごく神経質になっているようだった。
そして、ただ一言だけ言って、あたしの部屋をあとにしていたの。
「リンゲル王弟殿下にはくれぐれもお気を付けになって下さい」
リンゲル叔父は、顔は王様に似ていたけれど、とても印象の悪い人だった。
ユーリルが出ていってしまったあと、若原君が言ったの。
「ユーリルはもしかしたら、フローラ姫をさらった奴の目星がついてるのかもしれないな」
あたしはそれがリンゲル叔父なのかと思って、そう言いかけた。
それを若原君は制して、言ったの。
「フローラ姫が偽者だって知ってる奴は、フローラ姫をさらった奴に決まってる。でも、フローラ姫が偽物だと迂闊に言えば、自分がさらったことを自白してるようなもんだろ。だから、フローラが偽物だって証拠を集めようとしているんだ。
ユーリルはそれを逆に利用して、フローラの居所を突き止めようとしているんだ。証拠を固めるのがどちらが先か、それが勝負だな」
若原君てほんとに頭がいい。
あたしそういう事さっぱり判らないもん。
でも、フローラをさらった理由を考えると、あたしには犯人はリンゲル叔父以外に考えられない気がする。
フローラがいなければ、あの人は次の王様になれるから。
いまの王様にはフローラ姫以外に子供はいないし、王妃もいないから、新しい子供を作ることもできないものね。
もちろん、これから再婚すれば、まだ作れない年じゃないだろうけど。
「フローラ姫、生きてるかな」
若原君の言葉に、あたしはどきっとした。
だって、もしリンゲル叔父がさらったのだとしたら、フローラ姫なんて邪魔なだけ……
あたしはフローラのために、フローラをさらったもう一つの理由の方を考えていたの。
それは、フローラを好きな男性が、フローラ欲しさにさらったというもの。
その場合、もしフローラが生きていたとしても、きっともっと不本意なことになっているだろう。
どちらがフローラにとって幸せなんだろう。
それともあたしが考えつかない、別の理由があるのかしら。
「平原、ユーリルって、変じゃないか?」
あたしは若原君の言ったことが、よく判らなかった。
「メリルと親子だって事も隠してたし、グレンと兄弟だったことも。それに、どうしてグレンの死亡届を出さなかったんだ? だって二年だぜ? どういう死に方したのか知らないけど、葬式くらいだしたかっただろうに」
「ユーリルは、グレンの葬式してないの?」
「この国の制度を考えると、死亡届を出さずに葬式をやることは不可能なんだよ。なにかいきさつがあってのことなんだろうと思うけど、オレがグレンに化けたのはまるっきりいきがかりだろ。オレが二年後にグレンに化けることを予想して、死亡届出さなかったわけじゃないと思うんだ。……どうも、二年前のことがひっかかるな」
若原君がグレンになったのは、姫がさらわれたからなの。
そして、ただ姫がさらわれたからだけじゃなくて、あたしが姫の身代わりをやることになったから。
まさか二年前に、姫がさらわれることとか、あたしと出会う事まで、計算できた訳がない。
姫とグレンは同じ年だから、二年前には十四才だったはずよね。
十四才の男の子と女の子。
そして、十六才のユーリル。
三人の親のメリル。
これ以上、あたしの想像力は働かなかった。
いったいなにがあったの?
息子の死亡届を出さないような、何が。
「とにかく、オレにはユーリルが何を考えてるのかさっぱりわからないんだ。でも、例え何を考えていたとしても、それはフローラ姫にとって悪いことじゃないと思う。ユーリルはあれほどフローラ姫を崇拝していた。それが嘘だとは思えないから」
それはあたしも思う。
ユーリルはフローラを崇拝しきってる。
それは、嘘じゃないわ。
「このこと、ユーリルに聞いてみるの?」
若原君は考えていたけれど、やがて心を決めたように言った。
「やめとくよ。オレにはそこまでする権利はないからな。ただ、平原に危険が及ぶようなことになったら、オレも黙ってない。あと二十日はここにいなければならないんだ。気を引き締めないと」
若原君が言った言葉は、あとで思い返してみるとまるで予言のようにあたしには思えた。
そして意外に早く、若原君の予言は当たってしまうのだった。
浅い眠り。
昼間ごろごろしていて、夜ちゃんと眠れなくなってしまった、ちょっと軽い不眠症。
それでもやっとまどろみ始めたとき、あたしは部屋のなかで気配を感じていた。
「ん……」
あたしは何も考えずに、寝返りを打った。
暗い部屋で目を開けると、そこには一人の影があったの。
あたしは驚いて声を上げそうになっていた。
その時、影はすばやい動きで、あたしの口を塞いだの。
あたしの中に突然恐怖がわき上がって……
若原君がとなりの部屋に寝ている。
声が出せれば、きっと助けてくれるはず。
あたしは影からのがれようと、精一杯の抵抗をしていた。
影はさらにあたしを戒めて……
あたしほとんど、影に抱きしめられていた。
「……姫」
え? この声はユーリル?
あたしは抵抗するのをやめていた。
影がユーリルだと知って、安心していたの。
ユーリルも、あたしが暴れるのをやめたと知って、力を弛めてくれていた。
今までのしかかるようにしていた身体も、ゆっくりと起こしてくれて、あたしの口を塞いでいた手も、静かに外されていった。
「ユーリル、こんな夜中に、どうしたの? なにかあったの?」
月明かりさえカーテンで閉ざされたこの部屋では、ユーリルの顔を見ることは、ほとんど不可能だった。
あたしはベッドから起き上がって、それでもユーリルの顔を見ようと、目をこらした。
「姫、姫は本当にグレンが好きなのですか?」
あたし、ユーリルの質問に半ば呆然とした。
夜中に女の子の部屋を訪れて、これが最初の言葉なの?
あたしは少し腹を立てていた。
「いま何時だと思ってるの? そんなの、今する話じゃないでしょ?」
あたしの言葉は、ユーリルにはまったく届いてはいないようだった。
「どうしてグレンなんだ。……幼いころから、姫はずっとグレンを好きだった。どうして私じゃないんだ? 私はグレンよりもずっと前から姫を好きだった。それなのに……」
この時はまだ、ユーリルが何のためにここに来たのか、あたしには判らなかった。
ただあたしは、どうにかしてユーリルをなだめようと、そればかりを考えていたの。
「ユーリル、あたしはフローラ姫じゃない。平原茜だよ。ユーリルが好きな姫じゃないよ。判るでしょう?」
「姫はいつもグレンのことばかり言っていた。私がいることなど気付かぬ振りをして。私がどんなに悔しい思いをしてきたか。たった二つ違いとはいえ、弟に姫を取られるなど、私には耐えられないことだった。姫、今ならグレンはいません。どうか、私のものに……」
この人はおかしい。
あたし、本当に恐かった。
この人はいつものユーリルじゃない。
「若原君……」
ユーリルは、あたしの服に手をかけようとしていた。
こんな、こんな恐怖は初めてだったの。
あたしは必死で助けをよんでいた。
「若原君、助けて!」
そのあたしの口は、何かによって塞がれていた。
痛い!
あたしの口を塞いだのは、ユーリルの唇。
これはキスじゃない。
キスはこんなに痛くないはずだもの。
あたしの口のなかに、熱くてヌメヌメしたものが入ってきていた。
もうやめて、お願い。
あたしだって、ファーストキスは好きな人としたかったの。
そんな風にして、何もかも奪わないで!
あたしの顔は、涙で濡れていた。
あたしの抵抗をものともせずに、ユーリルはあたしの服を脱がせようとしていた。
一瞬、唇が離れる。
あたしはそのチャンスを逃さずに叫んだ。
「誰か、助けて! 若原君……」
あたしの声は擦れていてそれほど大きくなかった。
そして、その口はまた別のもので塞がれていた。
あたしはそれを思いっきり噛んでいた。
でも、それはほとんど通じない抵抗だった。
あたしどのくらい抵抗していただろう。
ふと、抑えつける腕が軽くなり、それとともに、あたしの口が自由を取り戻していた。
あたしいつの間にか目を閉じていたの。
固く閉じた目は、あまりに固く閉じすぎたせいか、開けるのに少し時間がかかった。
それでもやっとこじあけると、二つの影が争っていて、その一つが窓から姿を消すところだったの。
一つ残った影は、窓わくに取り付いて、追うかどうするか迷ったようだったけど、結局は追わずにこっちを振り返った。
あたしはびくんと身体を震わせた。
残ったのがユーリルかも知れないと思ったから。
そんなあたしに、影は優しく声をかけた。
「平原……」
若原君だ。
若原君が助けてくれた。
「ごめん、オレが側についてたのに……恐かっただろ?」
あたし、どうしたの?
今どんな気持ちでいるの?
あたし、ほっとしていいはずなのに、まだ恐怖感が続いているの。
誰に恐怖しているの?
まさか、若原君に……?
「オレ、従者なのに、お前の危険が判らなかった。オレ、お前のこと守るって言ったのに。オレのこと怒っていいよ。オレが悪いんだから。お前の気の済むようにしていいよ。殴りたかったら殴っても。オレ、さいてーの男だ」
若原君は悪くない。
それは判っているの。
だけどあたしは声を出すことができない。
恐いの。
若原君が恐いの。
あたしは若原君が、ユーリルと同じくらい恐いの。
それは、若原君が男だから。
ユーリルと同じ、男だったから。
「平原……?」
若原君は、あたしに近づいてこようとした。
「いや、来ないで!」
あたし一生懸命自分に言い聞かせた。
若原君はあたしを助けてくれた人だって。
でも、あたしの身体はそれを受け付けなかった。
ずっとふるえたままだった。
あたしの普通じゃない様子に、若原君も気がついたみたい。
あたしに近寄るのをやめて、そのまま立ちつくした。
「平原?」
あたしはどうしたらいいのか判らなかった。
でも、このままじゃいけない。
若原君にお礼も言わないといけない。
若原君が悪いんじゃないってことも言わなきゃ。
それに、今あたしがどうしてふるえているのかも。
あたしは判らなかったけど、とりあえずなにか言おうと思って、口を開いた。
「若原君、あたし、若原君が恐い」
若原君はなにも言わなかった。
「若原君はしないよね。あんな事しないって言って。約束して」
若原君は怒っているのかもしれなかった。
でも、あたしの質問には答えてくれた。
「オレはしない。たとえ好きな女の子だったとしても、好きな女の子だからこそ、傷つけるようなことはしない。自分の欲求を満たす事よりも、相手を幸せにする事の方が大切だから。オレはあんなに汚いことはしないよ」
あたしの心が、すっと楽になっていったの。
若原君の言葉なら、あたし信じられる。
これがあたしの聞きたかった言葉なんだって判ったの。
「若原君のおかげで、男性不信にならなくてすみそう」
あたしは、男の人が全てユーリルみたいだと思ってたら、きっとなにも信じられなくなっていただろう。
さっきのあたしはそうだったから。
若原君は、あたしを救ってくれた。
ユーリルによって失われてしまいそうだったあたしの心を、若原君が救ってくれたの。
「助けてくれてありがとう。それから、これは若原君が悪いんじゃないから。自分を責めたりしないで。あたし、きっと大丈夫だから」
「犯人は必ず見つける。オレは平原にこんな事をした奴を許さない」
「若原君、あれが誰だったか判らなかったの……?」
確かにまっ暗だった。
若原君が判らなかったとしても、ぜんぜん不思議じゃない。
「お前、誰だか判ったのか?」
若原君の口調は、今すぐにでも殴り込んでいきそうな感じだった。
「若原君、よく聞いて。あたしは若原君に危険なこととかはして欲しくないの。だから、犯人の名前を聞いても、すぐに飛び出していったりしないって約束して。よく考えてから行動するって。ね?」
若原君は、あたしの言葉に少し戸惑ったようだった。
「……判った。約束する。教えてくれ」
「あれ、ユーリルだった」
若原君、反射的に行動しようとして……でも、すぐに思い止まってくれた。
約束してもらったのがよかったみたい。
「あいつ……なんて事を」
若原君は相当頭に来ているようだった。
声がふるえていて、怒りを押さえようとしているのが、姿の見えないあたしにもよく判ったの。
「若原君、落ち着いて。襲われたのは若原君じゃなくてあたしなんだから。あたしだって怒ってる。だから気持ちは判るけど、ともかく落ち着いて考えようよ。判るでしょう? 若原君より、あたしの方が怒ってるんだよ。そのあたしがここまで落ち着いてるんだから、若原君も落ち着いて。今のあたしに人の心配までさせないで」
あたしの言葉を、若原君は首をひねりながら聞いていた。
ともかく、気をそらすことはできたみたい。
「お前、何でそんなに落ち着いてるんだ?」
「さあ、どうしてかな。きっと、若原君があたしよりもっと落ち着きがなかったからだよ。若原君を何とかしなきゃって気持ちが多く働いたみたい」
「そうか。それでか」
若原君は、完全に落ち着いていた。
もう大丈夫みたい。
「もっと近くに行っていい?」
あたし、ちょっと身体を固くしたけど、さっきあたしが来ないでって言ったから、若原君とあたし、かなり遠い位置にいるんだよね。
あたしがうなずくと、若原君は近づいてきて、ベッドのあたしの隣に座った。
腕を伸ばして、あたしの肩を抱く。
あたしはもう、若原君に恐怖を感じることはなかった。
「お前、ユーリルになにされた?」
ささやくように、若原君は言ったの。
その顔はあたしの顔にとても近くて、あたしはどきっとした。
「キス、された。それだけ」
「あいつ許せねー」
「参るよね。あんなのがあたしのファーストキスなんて。思ってたのとずいぶん違うんだもん」
若原君、あたしの肩を抱く腕に力を入れた。
若原君の顔が、ほとんど間近って感じになって、あたしは心臓がドキドキしていたの。
「それじゃ、オレがあまーいやつしてやろうか。セカンドキス」
ほとんど息が感じられるくらいの耳元で言うんだもん。
あたしの心臓、飛び出しそうなくらい高鳴ってる。
「いいわよぉ。セカンドキスくらい、両想いの人としたいから」
「お前ってけっこう残酷……あっ!」
耳元で急に大きい声だしたら、びっくりするじゃない。
ただでさえ心臓に負担かけてるのに。
「なによ」
「お前、ユーリルのこと好きなんだろ? そう言ってたよな」
え? な、何のこと?
あたしが好きなのはずっと若原君だよ?
「あたしそんな事若原君に言った?」
「ほら、あの、誕生日の前の日に……しまった。この話は聞かなかった事にしたんだっけ」
あのときだ。
ダンスの練習してたとき。
「なんで? どうしてそういう事になるのよ」
「お前ユーリルにはっきり言ってたじゃないか。好きなの、って。あのときユーリルに告白してたんだろ?」
……すごい勘違い。
あたし、あのとき若原君の話してたの。
ユーリルに、若原君を好きなのかって聞かれたから。
若原君への気持ちを聞かれたと思って、それで若原君に、聞かなかった事にするって言われて、あたしものすごく落ちこんでた。
あのときの若原君の言葉、あたしの告白への断わり文句じゃなかったの?
「ええっと、なんて言ってたかな。愛しているかって言われると困るけど、でも好きなの。そんな風に言ってなかった? オレの聞き違いじゃないよな」
どうしよう。
これ、ごまかせない。
どう聞いてもこれって告白だもん。
本当のこと、あのときは恋の相談をしたんだって言ったとしても、じゃあ誰のことだって突っ込まれたら、あたし反論できない。
若原君への告白になっちゃう。
あたし今ここで告白なんかするつもりない。
今ぎくしゃくしちゃったら、あたし困るの。
本当に一人きりになっちゃうから。
今のあたしには若原君しかいないから。
このままの関係でいいの。
あたしの気持ちを知ったら、いくら若原君が優しい人でも、きっと今までと同じにはいかなくなる。
きっとこんな風に側に来てもくれなくなる。
「ユーリルじゃないんだったら、誰が好きなんだ? 誰に告白してたんだ?」
あたし、言葉が見つからなかった。
どうしたらいいのか判らなかったの。
「……判った。言いたくないんだったら聞かないよ。オレもあせって変なこと言ったよ。少なくとも、お前の両想いのセカンドキスの相手はオレじゃねーもんな。悪かった」
あたしは、若原君の言葉にまた少しズキンときてたけど、とりあえず一番困る質問だけはしないでくれたから、それでいいと思った。
「オレ、隣の部屋で寝るけど、大丈夫か?」
……できれば一緒にいて欲しい。
「この部屋で一緒に寝ない?」
「……って言ったよな、前に」
「でも、ユーリルみたいなことはしないでしょう?」
「お前なー。そういう問題じゃねーんだよ。……ああ、お前は基本的なところで判ってない。あぶなっかしくてしょうがねーのな。
判った。一緒にいてやる」
「本当?」
「ただし、寝ずの番でだ。一晩中見張っててやる」
「でもそれじゃ、若原君寝られないじゃない」
「オレは従者でお前は姫だろ? それに、若いから一晩くらいどうって事ないよ。さ、決まったらさっさと寝る!」
あたし、ちょっと若原君に申し訳ないと思っていたけど、でも、若原君が少しでもあたしのことを考えてくれたのが嬉しくて、それに甘える事にしたの。
あたしの枕元で、若原君は少しあたしを見ていた。
あたしが目を閉じると、若原君はベッドから少しはなれたところに行って、あたしに背を向けていた。
あたし、今日また一つ、若原君が好きになった。
毎日一つ、あたしの想いはつのってゆくのかも知れない。
それがあたしの恋。
未来を考えると悲しくなったけど、今のあたしはこれで満足だったの。
あたしは若原君への恋を抱いて眠った。
その夜、あたしは若原君の夢を見た。
その間にはいろいろな人からの、特に若い男性からのお見舞がたくさん来たけれど、本人たちには会わず、お見舞の品を受け取って、お礼の言葉だけを丁寧に伝えてもらっていた。
それでもようやくのそのそと起き上がったとき、部屋をノックする音が聞こえて、待女のリーナから、若原君とユーリルが来たことを伝えられたの。
あたし、まだ起きたばっかりだったから、少し時間をもらって、あわてて支度を始めた。
二人の用事は判ってた。
昨日の、ユーリルの振る舞いのこと。
あたしのユーリルに対する気持ちは、昨夜から少しずつ変わっていた。
昨日のユーリルの言葉を思い出したから。
姫のことを、ずっと好きだったユーリル。
あたしにはその気持ちが判る。
あたしも、若原君のことをとても好きだったから。
でも、だからと言って、あたしを傷つけてもいいことにはならない。
それは、ユーリルの気持ちを知っていたとしても、許せることじゃなかったの。
着替えと、簡単な身づくろいを整えて、あたしはリーナに合図をした。
まもなく、リーナに案内されて、二人が入ってきた。
リーナが飲物をおいて部屋を出るまで、あたしたちは誰もなにもしゃべらなかった。
やがて部屋に三人以外の誰もいなくなったとき、若原君は静かにしゃべり始めた。
「平原、こいつに言いたいことたくさんあるだろ。好きなだけ言えよ」
ユーリルは少し青ざめて見えた。
左の頬には、昨日の夜ついたものだろう、軽いあざがあった。
そして、手の甲には、あたしが昨日噛みついたときの歯形もあった。
「先にユーリルの話を聞くわ。あたしはそのあとでいい」
若原君もかなり落ち着いてる。
昨日のような、すぐにでも殴り殺しそうな気配は、今のところ感じられなかった。
「姫様はこうおっしゃってるぞ。お前の釈明を聞きたいってさ。話せよ」
「私は……」
ユーリルが、ほとんど擦れたような、いつもの張り詰めたように響く声とは、同じ人間の声とは思えない声で言ったの。
あたしも若原君も、ユーリルの言葉を聞き逃すまいと、耳をそばだてていた。
「申し訳ありません。私は耐えられなかったのです。姫のあの言葉を聞いて……」
あの言葉が何を指すのか、あたしには判っていた。
でも、できれば若原君には言わないでもらいたいと思っていた。
「……姫が愛しているのが私ではないと知って、私は苦しみました。本物の姫はずっとグレンを好きだったのです。グレンは……私とは正反対で、自由奔放な性格をしていました。でも、それは決して表には現われず、いつももの静かで、そして人の気持ちには敏感で、とても気のつく人間に見えました。グレンはとても人に好かれました。姫とグレンとはまるで双子の兄妹のように育ち、少しずつお互いに惹かれていったのだと思います。気がつくと、二人は愛しあっていました。まだ二人が十四才にもならない頃です。
やがてグレンが死んで、姫は自分も死んでしまうくらい、沈んでしまいました。私は何とか姫をお慰めしようと、本当に様々なことをしてきたのです。庭にフローラを植え、あの部屋を整えたのは私です。姫は喜んでくださいました。でも、心はいつもグレンとともにあったのです。姫は片時もグレンを忘れませんでした。そして、あの離宮を旅立ったあの日、姫はさらわれてしまいました。
私がどんなに姫を愛していたか、きっと判ってはいただけないと思います。姫は輝くばかりに美しく、私は痩せた醜い男でした。グレンのような魅力を持ってもいない。私は諦めていました。あのときまでは」
ユーリルはとても苦しそうに、自分の過去を語っていた。
その気持ちはあたしにはとてもよく判るの。
ユーリルはこの世界では、痩せっぽっちの醜い人間だったから。
自分に自信がなくて、人を羨んで、姫の一言で天にものぼるくらい幸せになったり、反対にグレンと姫を見ていて、この世に自分より不幸な人間はいないと思うくらい落ちこんでしまったり。
それは、あたしの気持ちと同じだった。
この世界に来る前のあたしと同じだったの。
「私は姫の……平原茜殿の部屋で、姫と同じ顔の平原殿を見て希望を持ちました。この人は私を愛してくれるかも知れないと。それは漠然とした希望でした。でも、あの時に私の希望ははっきりと形になったのです。あの時です。姫が私をきれいだと言ったあの時です。
私の希望は、次の姫の言葉によって、無残にも打ち砕かれていました。姫が愛しているのは私ではない。その言葉は、私を地獄につき落しました。その日から私の苦悩は始まりました。私にとって、平原殿の言葉は姫の言葉だったのです。姫は面と向かっては私にグレンが好きだとは言いませんでした。その言葉を、私は平原殿から聞いたように思えたのです。姫が、平原殿の口を借りて私に語ったように。私は狂いました。私には、平原殿が姫に見えていたのです。
私がどのように思っていたとしても、私の罪は許されるものではありませんでした。如何様にもお裁き下さい。平原殿の言葉には、全て従いましょう」
ユーリルは言葉を終えて、静かに目を閉じていた。
あたし、ユーリルにとんでもないことをしていたのだと思って、知らずに身震いしてた。
あたしがユーリルにきれいだって言ったの、あれがすべての始まりだった。
あたし、ただほめたつもりでいたの。
そのことが、こんなにユーリルを傷つけるなんて、思ってもみなかった。
その後あたし、若原君が好きだって言った。
あれは、ユーリルには言ってはいけない言葉だったのに。
あたし、許してもいいと思い始めていた。
あたしだけがユーリルに傷つけられたんじゃなかったから。
あたしもユーリルを傷つけていたから。
ユーリルは苦しんでいたんだ。
あたしの心の変化に気付いたのかそうでなかったのか、若原君が話し始めていた。
「ユーリル、グレンが死んだとき死亡届を出さなかったのは、姫のためか?」
そんな事は今回の事には関係ないのに、若原君はまるで話の続きのように平然と話した。
ユーリルもそのことには気付かないように答えた。
「姫がグレンが死んだことを信じなかったので。遠くに出かけていると思っておられたようです。手紙が来ないと嘆いておられました」
「グレンとユーリルが兄弟だって事をオレ達に隠していたのは?」
「母が……メリルが聡殿を自分の息子だと思うことができないと、私に話したので。ここへ来たら話すつもりでした。ただ、その時間がなかったので」
ユーリルの言うことは、一応は筋が通っているように思えた。
若原君はさらに質問を続けた。
「グレンはどんな死に方をしたんだ」
「姫を狙った悪漢に殺されました。馬車を襲われたのです。馬車に乗っているときは、まず御者が狙われますので」
「判った。……平原、お前はどうしたい? これからユーリルのことを決めるのはお前だ」
あたしの答えは決まっていた。
「もうしないって約束すれば許すわ」
あたしの言葉に、ユーリルは目に見えて明るい顔になっていた。
「平原殿……」
「約束して。二度とこんな事はしないって」
「お約束致します。私は二度と平原殿に邪な事をいたしません。フローラ姫に誓って」
ユーリルは本当にほっとしたようだった。
きっと彼にも判っていたのだと思う。
自分のした事がどんなに卑劣な事だったか。
そして、一晩苦しんだんだろう。
あたしもほっとしていた。
ただ、若原君だけが、納得し切れないような顔をしていた。
「ユーリル、仕事に戻ってくれ。そしてこれからも平原を頼む」
「判りました。平原殿、寛容な御処置、感謝しております。生涯忘れません」
そうしてユーリルが出ていったあと、若原君はそこに残って、しばらく考え込んでいるようだった。
あたしの視線に気付いたのだろう、顔を上げて、言った。
「ユーリルの奴、嘘をついてるみたいだな」
あたし、驚いてた。
さっきのユーリルの様子は、嘘を言っているようには見えなかったのに。
若原君はいったい何を見たんだろう。
「判らないか? オレがした三つの質問の答え、説得力がなさすぎるよ。オレ、ますますあいつが信じられなくなった」
「どうして? あたしにはもっともらしく聞こえたよ」
「それなりにはな。でも、どうして姫が嘆くから死亡届を出さないんだ? 死亡届くらいだしたって、姫に嘘をつくくらいはできたはずだろ? 姫が死亡届の受付窓口にいるわけじゃないんだから。死亡届は王宮に出す。離宮とはかけ離れているんだから、姫がそれを知ることができる訳はないんだ。それに、メリルが悲しむからオレにグレンとユーリルが兄弟だと教えないってのも変だ。教えるくらいはしても差し支えない。要は、オレがメリルを母親扱いしなければいいだけだから。最後、姫が悪漢に襲われかけたっていうのに、あの離宮の警備はお粗末すぎる。フローラの庭にいる姫を殺そうとすれば、誰にだってできるぜ。フローラを慰めるために、あんなに危険な庭を作ってやるなんて、気が狂ってるとしか思えねーよ。この国の感覚がオレが思っている以上にオレ達とかけ離れているってんなら、まあ判らないでもねーけど。でも、オレは今まで暮らしてきて、そこまで違うって印象は受けてないんだ。オレの言うこと間違ってる?」
若原君が言うとおり、ユーリルの言うことは不自然なことばかりだった。
あたしは気付かなかったけど、若原君はこんなにも的確に、ユーリルの不自然さを見抜いていたの。
若原君て、本当にすごいんだ。
あたしいまさらながら感動していた。
この人は本当に頭がいい。
「若原君は間違ってないと思う。でも、それならユーリルはどうしてあたし達に嘘を言うの? どれが嘘で、どれが本当なの? 今までユーリルが言ったことで、本当のことはいくつあるの?」
「オレには判らない。だけどたぶん、嘘は一つだと思う。それを隠すために、ユーリルは嘘を重ねているんだ。オレがした三つの質問は、幹から出た枝葉みたいなものだよ。根っこは一つだ。オレはそう思ってる」
つまり、どうしてこの嘘をついたのかっていう質問に、ユーリルが答えてくれるとしたら、その答えは一つだって事なの。
そして、若原君は前に言ってた。
二年前のことがひっかかる、って。
答えは二年前にあるのかも知れない。
でも、それ以上はあたしには判らなかった。
「平原、今日の予定は?」
気分を変えるように、若原君は言ったの。
あたしも、考えるのをやめていた。
「キャンセルした。ほら、フローラ姫は身体が弱いから」
「きっと、本物はな」
「なによ、それ。何か言いたそうだね」
「べーつにぃ」
それからのあたし達は、久しぶりにクラスのみんなのことや、テレビのことや、近所のお店のことなんかを話していた。
この世界に来てから、すでに二十日が経っていた。
毎日のようにパーティーに出席したり、王様と食事をしたり、延び延びになっていた神殿への礼拝もようやく済ませ、それにともなって、あたしはまた少し疲れが出てきていた。
きっとこの国の人って、みんなタフなんだ。
あたし、自分の身体が弱いなんて思ったことなかったけれど、この世界に来てみて、自分の体力のなさを、嫌というほど思い知らされたの。
あたしは三日働いて一日休むというパターンで、ようやく体力を保っていた。
若原君は、さすがスポーツマンだけあって、けっこう平気な顔をして、あたしの側につきそっていた。
ユーリルは今までとあまり変わらなかった。
あたしもけっこう平然とするようにつとめていたし、ユーリル自身のそれまでの態度はまるでビジネスだったから、それほど変えようもなかったみたい。
でもあたしは、できるだけユーリルと二人きりにならないようにつとめていた。
ユーリルと私的な会話をすることがどんなに危険なことかも判ったし、今までたくさんの嘘をついたユーリルが、あたしとの約束を反故にすることも考えられるってことに気付いたこともある。
あたしやっぱり、ユーリルが恐かったの。
ユーリルの事を許したけれど、一度持ってしまった恐怖感を拭いさる事はできなかった。
それに反比例するように、あたしの若原君に対する信頼感は、日を追うごとに大きくなっているようだった。
若原君は時々きわどい言葉であたしをからかったけど、本気じゃない事はよく判っているもの。
それだけはいつも肝に命じていたから。
過大な期待はしちゃいけない。
自分が傷つくだけ。
若原君はあたしを好きじゃないの。
だからあたしは若原君を信頼できるのかも知れない。
間違っても、ユーリルのようなことはしないから。
そりゃ、抱きしめられたことはあるけれど、あれは、若原君に何かがあったのだと思っているから。
何かに傷ついて、誰でもいいから抱きしめずにいられなかったんだって。
あたしの知らないところで、若原君もきっと苦労しているの。
あたしが一人でこの部屋にいるとき、若原君は自分の部屋にいるか、ユーリルの部下達のところにいるかしているんだもの。
若原君はなにも言わないけれど、見えないところで大変な思いをしているの。
だからあたし、若原君とけんかしないように、楽しい気持ちでいることに決めていた。
できるだけ心配かけないようにした。
それが、若原君の心の重荷を、少しでも軽くすることだから。
あたしにはそのくらいしかできないから。
そうしてあたしは、この世界に来てから、二十八日目の夜を迎えていた。
部屋には若原君が来ていた。
今日は四日ぶりのお休みの日で、あたしと若原君はずいぶんいろいろな話をしていたの。
若原君の通っていた中学の話。
あたしも子供のころの話とかをいろいろしていた。
あたし、子供のころから引っ込み思案だったんだよね。
小学校時代はよくいじめられたっけ。
そんな話、誰にもできないと思ってた。
でも若原君は聞いてくれて、そして言ったの。
「オレも子供のころはけっこう人見知りだったんだぜ」
あたしを慰めるために言ったのだと思ったけど、でも、今の若原君から、人見知りの若原君を想像することなんかできなかったから、あたしは思わずふきだして笑っていたの。
「やっぱり信じねーか。そうだよな。今のオレが言ってもきっとわからねーだろうな」
「本当なの?」
「人が恐くてさ、何か言ったら噛みつかれるんじゃねーかと思って。でも、オレあるとき思ったんだ。もしも世界中の人間がオレと同じ性格だったら、どうだろうって」
それは不思議な考え方だった。
あたしは黙って聞いていた。
「オレ、自分から話しかけるのが苦手だから、オレとおんなじ性格したまわりの奴は、たぶん誰にも話しかけないだろうし、オレにも話しかけないだろうなって。オレ、それ考えたとき、ずいぶん寂しい気がしたんだ。世界中の人間が人見知りをしていたら、それってものすごくつまんない世界だぜ。オレ、そのこと考えたとき、気がついたんだ。もしかしたら本当は、世界中の人間がオレと同じなのかも知れないって。
オレとおんなじように、みんな引っ込み思案で、でも、勇気を持って話しかけているのかも知れないって。それだったら、オレは話しかける人間になるべきだって。みんなオレと同じで、話しかけられるのを待ってる。だったら、オレはそいつより先に話しかけるべきなんだ。そこにいるのはもう一人のオレなんだから。誰かが話しかけてくれるのを待ってる、少し前のオレなんだから」
若原君、あたしのことを言ってるんだ。
自分から話しかけようとしない、あたしのことを。
あたしは若原君ていう人は、もともと話しかけるがわの人間なんだと思ってたの。
誰にでも気安く話しかける資質を持った人だって。
でも、それは違ったんだ。
若原君も、人に話しかけるのが恐かったの。
でも勇気を持って、人に話しかけているの。
あたし、自分が恥かしかった。
話しかけて嫌な思いをするのを、無意識に怖がっていた自分。
みんな誰でも同じだったのに。
「平原はあのときのオレなんだ。オレには平原の気持ちがよく判るよ。そんな事言っても信じるかどうか判らないけど」
若原君の話には、可能性がある。
あたしもいつか、若原君みたいになれるかも知れないって。
「あたしも、変われるかな。若原君と同じ、話しかける側の人間になれるかな」
あたしの言葉に、若原君はちょっと意地悪そうに言ったの。
「お前のその、怠け癖をなおせばな。楽な方にばっか流れていこうとしないで、少しはイバラの道を歩こうとしないと。お前って、けっこう怠けもんだろ」
うーん、当たってるだけになにも言えないじゃない。
「ま、続けているうちに楽しくなるさ。……決めた。お前の二学期の目標。クラスの全員に話しかけること」
か、勝手に決めないでよ!
あたし、そんなのできるかどうか判らないじゃないの。
「一ヶ月二十五日として、九、十、十一、十二月で百日か。冬休みが一週間入るのと、祝日とかもあるから、九十日くらいかな。一日一人話しかければ、半分で終わるよ。どう? 簡単だろ?」
簡単……なのかなあ。
あんまり若原君が簡単そうに言うから、あたし、だんだんその気になってきていたの。
でも、クラスの全員に話しかけるのって、難しそうだよ。
だって、なんて言っていいのか判らないもん。
「何かあたし自信ない」
「そうか? ……それじゃ、ニッコリ笑って、おはよう! これならできるだろ?」
「そんなのだって、言える人は決まってるよ。恐そうな男の子になんか言えないから」
「うーんと、そんじゃ、理科の佐藤と仲よくなって、レポート返せ。そんときに何か話せば、それで達成だ。それまでに話してない奴チェックしておいてさ。オレも使った手だから確実だよ」
若原君、あたしのためにそりゃあ一生懸命考えてくれて、あたし、もうやるしかないよ。
目標達成できるか判らないけど、努力してみよう。
ずっと、あたしは変わりたかったんだもん。
少しの犠牲も払わないで変わるなんて、できっこないから。
「判った。あたしもその目標頑張ってみる。……それにしても、若原君がレポート返すの好きだったのって、目標のためだったんだ。知らなかった」
「それもあるけど、字を見るとその人が判るっていうじゃん。実は表書き見ながら、そいつの性格分析してたりして」
「……恐ろしい人。さぞかしあたしはとんでもない性格に見えたんだろうな」
「そうでもない。ただ、お前のレポートって異様に薄かったから、きっと根気がないんだろうなって思ったけど。まあ、それはある意味では当たってたんだと思うけど、オレ、今回のことで、お前を見る目がずいぶん変わったんだぜ。お前ってさ、何か、見かけとはぜんぜん違うよな」
どう解釈したらいいんだろう。
あたしは本当に根気がないと自分でも思うけど、あたし、見かけと違ってどうなのかな。
そもそも、あたしはどんな風に見えてるんだろう。
それが聞きたかった。
「若原君、あたしのことどんな風に思ってたの?」
若原君、片肘をついて、あたしをまじまじと見ながら、言ったの。
「そうだな。なんて言うか、変わったことはしたくないっていうか、いろんな事を考えて実行してみようとか、そういう所がないように見えたな。まわりに流されて、我を通すことをしないような。イベントを率先して企画したりとかしないだろ? オレ、お前ってあとからぐちぐち言うタイプかと思ってたんだ。
でも、今回のことでオレの見方が変わったって言うのはそのへんなんだけど、お前はたぶん流されるタイプなんだろうけど、でもそれなりに決まった事はきっちりやるんだよな。ユーリルに頼まれた事も、乗り気じゃなかったように見えたのに、実際はこれ以上はできないってくらい努力した。お前そうやってできないって思うことでも結局はやっちまうから、信頼できると思う。安請合しておきながらあとからできないって言う奴とは違うよ」
若原君が言ったこと、きっと真実じゃないと思う。
あたし、そんなに立派じゃないもの。
でも、あたしは若原君に信頼されてるんだ。
それを知ったから、これからは、その信頼を裏切ることはできない気がしていたの。
あたし、若原君に近づきたいと思った。
一年六組に帰ってからも、ずっとこうして話していたいから。
それにはあたし、若原君に信頼される人じゃなくちゃいけない。
そうでなければ、若原君と友達でいる資格なんてないから。
「あたし、ずっと若原君の友達でいられる? これからも、元の世界に戻ってからも」
あたしのこの言葉に、若原君は少し変な顔をしたの。
あたしは、それはできないって言われるんじゃないかと思って、少し身を固くしていた。
やっぱり、無理なのかも知れないって。
「そうだな。……まあ、お前がそう言うんだったら、それでもいいよ」
若原君の言葉は歯切れが悪かったから、あたしはかすかな期待を抱いていた分、かすかな絶望を感じていた。
そうよね。
あたしなんかが友達じゃ、若原君には迷惑なだけよね。
あたし、若原君の世界に割り込もうとした自分を、とても恥かしく思っていた。
あたしがなにも返事をしようとしなかったから、若原君はすうっと立ち上がって、あたしに言った。
「そろそろ時間だな。オレ、帰るよ。また明日な。……明日はまたパーティーか?」
「そう。リンゲル叔父の主催のパーティー。リンゲル叔父のお屋敷に馬車で行って、そこに泊まるんだって。ちょっと不安」
「オレがついてるさ。大丈夫だよ。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
若原君が出ていって、あたしはベッドに入ったの。
そうしていると、あたしはさっきの若原君の言葉が、思ったよりもあたしを傷つけたのだということに気がついた。
あたし、若原君にあんな風に断わられるとは思っていなかったの。
それは、あたしが今まで若原君と話をしてきて、若原君の会話のパターンとかを、多少なりとも判ってきていたから。
若原君はあんな風に、友達になりたいって思っている人を、むげに断わったりはしない人だったから。
少なくとも今まではそうだったから。
あたしは、若原君があたしを受け入れてくれると思っていたの。
確かに言葉では受け入れてくれたけど……
どうしてなんだろう。
あたし考えて、一つの結論を出すに至った。
若原君は、もしかしたら自分のほかの友達のことを考えたのかもしれない。
今までの若原君の友達が、あたしを受け入れてくれるかということを。
それを考えたとき、若原君は、自分の友達が、あたしを受け入れることがないって事を思ったのかもしれない。
だから、お前がいいんなら、なんて言葉で、あたしに警告したかったのかもしれない。
そうだよね。
若原君の明るい友達が、あたしなんかを受け入れるはずないよね。
そして、若原君にとっては、あたしなんかよりも何倍も、その友達が大切なんだよね。
どちらかを取れって言われたら、その友達を取るよね。
あたし、悲しかったけど、それで納得していたの。
それは仕方のないことだから。
あたしは気持ちを切り替えて、眠るために楽しいことを考え始めた。
そして、あたしは寝苦しい夜を迎えた。