第3話 王宮
一度も見たことがない四次元空間。
あたし、馬車に乗って、市中を巡ってたの。
あたしはたくさんの待女たちにかしづかれながら、お風呂に入った。
神殿への挨拶もとどこおりなく済ませ、あたしは王女宮へと戻っていた。
あたしが王宮に到着してから四日目が、フローラ姫の誕生日だった。
誕生日の当日、あたしは朝から忙しい思いをしていた。
あたしは王様と並びながら、おふれの声を待っていた。
寝巻に着替えて、あたしが眠る前の一時を過ごしていると、待女の声がして、若原君が来たことを告げた。
あたしはそれを見ることを、とても楽しみにしていた。
出発する前に、あたしとユーリルと若原君は、一番四次元空間に近いという部屋に集まって、心を落ち着けていた。
「姫、これから四次元空間に入ります。私たちは竜に乗るわけですが、竜の背に落ち着くまでのあいだ、少しのショックがあります。この間のとき姫は気を失われましたが、目を閉じていていただければおそらく大丈夫でしょう。私が合図をしましたら、目を開けてみて下さい。かなり不思議なものが見えるかと思いますが、私たちも一緒ですので、安心して、決して動かないで下さい。空間はほんの数秒で抜けます。抜けるときは目を閉じなくても大丈夫でしょう。向こうは少し暗いですが、大丈夫ですので、気を落ち着けて下さい。よろしいですか?」
あたしは黙ってうなずいていた。
少し、緊張してるみたい。
「では、竜を呼びます」
あたしと若原君は、ユーリルの両方の手につかまっていた。
あたしは目を閉じて、その瞬間を待った。
「いきます!」
その瞬間、あたしの身体はバラバラになっていた。
本当はそんな事はなかったと思うけど、でもそう感じるくらいのショックが、あたしの身体に訪れていたの。
「もう、いいですよ」
目を開けると、最初に目に入ったのは、たくさんの色だった。
三次元空間のパノラマ。
若原君の言葉通りの風景が、あたしの目の前に広がっていたの。
数え切れないほどの空間が、重なりあうようにそこに存在していた。
それはなんて神秘的な眺めだっただろう。
本当にたくさんの文明が、世界が、ここでは一望できたの。
恐竜の住む世界。
進んだ文明を持つ世界。
見慣れた摩天楼。
廃虚の町。
それらは本当に重なりあうようにして、そこに存在していた。
あたし達が身体を預けてたのは、一頭の竜。
パステルカラーの不思議な色合いをした、とてもきれいな生き物だった。
それは滑るようにしてパノラマの中を進んでゆく。
ユーリルは手綱を引き絞っていた。
「つきました。気を引き締めて」
竜が止まって、ユーリルはあたしの手を取った。
そしてゆっくりと、風景がかわってゆく。
一秒の後には、あたしは見知らぬ部屋にたどりついていたの。
そこはユーリルが言ったとおり、少し暗い部屋だった。
「姫、大丈夫でしたか?」
「ぜんぜん平気。楽しかったわ」
「これからはフローラ姫として振る舞って下さい。私は影武者をつれてきます」
たいして広くもない部屋からユーリルが出ていってしまうと、若原君がすうっと側によってきて、小さな声で言った。
「おもしろかっただろ。四次元空間なんかめったに見られないもんな。帰って自慢したいくらいだ」
「できるわけないわ。あたしもほんとは自慢したいけど」
それだけ話して、あとは静かにユーリルを待っていたの。
それほど待つこともなく、ユーリルは戻ってきていた。
うしろには、フードで顔を隠した、一人の女性を従えていた。
「お待たせしました。タミア、フードを」
タミアという女性は静かにフードを取った。
そして、あたしを見ると、その場に崩れ落ちるように平伏したの。
「姫様……ご無事で」
「姫、さあ早くフードをかぶって。私がいいと言うまで取ってはいけません。これは処女姫が世間の汚れを避けるために用いるフードです。これを取ったら、姫は王宮に入る資格をなくしてしまいます」
あたしはせかされるままフードをかぶった。
暗い部屋が、もっと暗くなった。
「タミア、お前は隠れていなさい。そして、姫が王宮に入ってから二日後に、離宮に旅立つように」
「判りました。姫様を、どうかよろしく」
「姫様はこちらへ」
ドアを出て、長い廊下をどう歩いたのか、あたしは一つの部屋にとおされていた。
そこはかなり明るい、豪華な一室だった。
「もうすぐ姫様は出発になります。すべては待女の指示に従って下さい。王宮に入るまでは私もグレンもお側にいられませんが、近くでお守り申し上げていますのでご安心を。グレン、お前は馬で馬車の警護だ。来い」
そうして若原君はユーリルにつれていかれて、あたしは一人になった。
不安で一杯だったけど、あたしはこれから姫として暮らさなければならないの。
あたし、これからのことを復習した。
馬車に乗るときの作法。
優雅な歩き方。
待女に対するしゃべり方。
湯浴みの作法。
あたしがいろいろなことを思い出していると、一人の待女が入ってきた。
そして、あたしの姫としての第一歩は、あわただしく始まっていた。
隣に付き従う馬は、若原君。
それは見なくても判った。
若原君は、あたしが礼儀作法を習っているあいだ、馬に乗る練習をしていたの。
運動神経の抜群な若原君は、まるで生まれたときから馬に乗っているみたい。
とっても優雅に手綱をさばいていた。
そうしてあたしたちが国民の歓声の中、大門をくぐると、あたりはとたんに静かになっていた。
待女のリーナは、ずっとあたしの側にいて、今どのあたりを進んでいるのかとか、飲みものはいかがとか、いろんなことを話していた。
あたしはフローラ姫らしく答えながら、少しずつ確実に王女宮に近づいていることを知ったの。
やがて王女宮の前で馬車が止まり、ドアが開けられた。
ユーリルにエスコートされて、あたしは馬車をおりる。
ここが王女宮。
きらびやかな雰囲気の、そして優しい感じを与えるように、少しまるみを帯びた作り。
大理石をふんだんに使った床。
あたしによく似ていたけれど、あたしとはちょっと違う顔をした、二つの石像。
その間を、あたしはユーリルにつれられて、ゆっくりと歩いていった。
中庭にはフローラの花が咲き乱れている。
フローラの甘い香りが、あたしの心をとても豊かなものに変えていった。
ここはとても落ち着ける。
ここはきっと、フローラ一人のために建てられた王女宮なんだ。
それをあたしが気に入ってしまったのはとても変だけど、きっと本当のフローラも気に入ったはず。
あたしがつれていかれた部屋は、少し奥まった、それほど広くない部屋だった。
「リーナ、お前は下がりなさい。呼ばれるまでは誰も入れてはならない」
「承知致しました」
リーナが遠ざけられると、ようやくあたしは一息つくことができた。
フードも取って、解放感に浸る。
今この部屋にいるのは、あたしとユーリルと若原君だけだった。
「フローラ姫、お疲れ様でした。今までの姫の行動は完璧です」
「ありがとう。そう言ってくれて安心した」
「すぐに軽い食事を運ばせますが……その前に、これからのことについてお話し致します。
これから姫は身体を清められて、メイスの刻に国王陛下と会食がございます。それにはグレンがお供致します。それが終わりますと、陛下と姫様はお二人でラミネーラの塔にお入りいただき、一刻の間、神殿に礼拝していただくことになります。簡式の方の作法でけっこうです。くれぐれも国王陛下に悟られることのないように」
「判ってる。お父さまには本当のフローラだと思ってもらうように気を付けるわ」
「それで今日は終わります。神殿にはお迎えに上がりますのでご安心を。では私はこれにて。グレン、判っていると思うがお前は姫様の従者だ。さしでた振る舞いはしないように」
「心得ております」
「待女には姫様の邪魔をしないように申し渡しておきますので、ごゆるりとお休み下さい」
ユーリルと入れ違いに、待女のリーナが入ってきて、簡単な食事を用意していた。
リーナはすぐに下がっていって、あたしは若原君と二人きりになっていた。
しばらくは二人とも、食事に手を付けることはなかった。
「平原、疲れたんじゃないか?」
「そうでもない。馬車の乗り心地はいまいちだったけど」
「オレもだ。馬ってのは疲れる乗り物だよな。半日で助かったよ。きっとあざになっちまったな。見る?」
若原君が内腿をさすりながら言ったので、あたしは驚いてまっ赤になった。
若原君、冗談で言ったのに。
こんなに過敏に反応したら、若原君に変に思われるじゃない。
そんなあたしを見て、若原君は声を上げて笑っていた。
「お前の、一緒に寝よ、にはびっくりしたけど、お前って本来は純情可憐なんだよな。いまどきこれだけからかっておもしろい奴っていねーぜ。まるでおもちゃみたいだ」
いくら若原君でも、おもちゃはないよ。
あたし、ちょっとふくれた。
「ここへ来る前のお前って、まるで無反応だったじゃん。オレもけっこう対応に困ってたようなところがあってさ。でも、今のお前、オレすっごく好きだ」
若原君、今、なんて言った?
あたしのこと、好き……?
「お前かわってよかったよ。今のお前なら、きっとどこでも好かれるよ。オレが保証する」
そうか、普通の意味の好き、だったんだ。
でも、それでも嬉しい。
若原君に嫌われてないって判って、あたしはとっても嬉しいんだ。
「あたしも若原君好きよ。とってもいい人だもん」
あたし言ってから、自分の言葉に自分で赤くなっていた。
普通に言えたよね。
告白には聞こえなかったよね。
あたし今、若原君に告白する勇気ないもの。
あたしの言葉に、若原君はとても嬉しそうに笑った。
大丈夫みたい。
「本当に? オレのこと好き?」
「うん。だって、若原君を嫌いになんかなれないよ。若原君だもん。誰にもそんな事できない。こんなに優しい人を、嫌いになることなんかできるはずないよ」
「そう言ってくれると自信が持てるよ。……実はさ、最近オレ、ユーリルに避けられてる気がするんだよな。オレ知らない間にユーリルに嫌われるようなことしたのかな」
「え? だって、そんなこと……」
ユーリルが若原君を嫌い?
それって、とてもおかしな事じゃない?
だって、あたしたちがこんな所まで来て、姫の身代わりなんてやってるの、全てユーリルのためなんだもん。
若原君、ユーリルのために一生懸命なの。
それなのに、ユーリルが若原君を嫌いになるなんて……
そんなこと、若原君が許したってあたしが許さない。
そんな道理の通らない事許せるはずないよ。
「たぶん勘違いだと思うよ。ありえないよ、そんなこと」
「だといいけどな。オレってけっこう勘がいいんだぜ」
そう言った若原君は、さっきとは裏腹に、とてもつらそうな目をしていた。
それが本当だったら、あたしユーリルをとっちめる。
こんなに優しい若原君を、こんなにも苦しめるなんて。
あたしが見ている前で、若原君はころっとかわって、おどけたような顔をした。
そして、あたしの心配そうな顔を覗きこんで、言ったの。
「人間腹減るとロクなこと考えないんだってさ。飯食おうぜ。腹減ってるだろ?」
あたし、若原君の提案を受け入れることに決めていた。
でも、ユーリルのことは、しばらく頭からはなれなかった。
ピンクで統一された大理石風のお風呂は、一人で入るにはとてもムダな気がしていた。
そして着替えをして、また馬車に乗ったの。
今度は王宮にいくだけだったから、馬車も簡単な飾り馬車で、乗り心地は相変わらず悪かったけど、でもとても楽しい時間だった。
若原君はずっと、あたしの側にいた。
従者だから、馬車を操っていたの。
短い時間で到着して、あたしはまた王宮のなかを歩いた。
そこは王女宮とは一味違って、とても実用的に見える作りをしていた。
ここは政治の中心にもなるところだものね。
警備も厳重で様々な人が出入りしていたの。
あたしが通ると、人々はみんな平伏した。
通り過ぎたあと、人々が何を言っているのかは聞こえなかったけど、口々にあたしの噂をしているのは、肌で感じていたの。
そうしてあたしは一つの部屋に通された。
そこは広い部屋で、調度もとても豪華に取り揃えられていた。
あたしはその部屋のテーブルについて、王様が来るのを待っていたの。
しばらく待つと、おふれの声がして、王様が顔を出した。
姫の部屋にあった王様の肖像画。
それよりもほんの少し年老いた、でも威厳を放つ国王陛下。
これがあたしのお父さま。
あたし、知らずに立ち上がって、王様にかけよっていた。
「お父さま!」
どうして涙が出るのか判らなかった。
十六年間も会えなかった姫の気持ちが、あたしに乗り移ったのかも知れない。
あたしはなにも考えずに、ただ王様にかけよって、その身体に抱きついていたの。
「お父さま……」
「フローラ」
王様はあたしを抱きしめた。
十六年間離れて暮らしていたわが子を抱きしめるように、あたしを抱きしめていた。
「フローラ……ああ、こんなに大きくなって。父を覚えているか?」
「忘れたことなんて一度もありませんでしたわ。毎日お父さまの肖像画を見ていましたの。この日をどんなに待ち遠しく思っていたことかしら」
「ああ、フローラ。もっと顔をよく見せてごらん? こんなに美しくなって。フレイラに、お前の母にそっくりになって。一目見せてやりたかった。フレイラ、お前の娘は、こんなに美しく成長したよ。まるで花のようだ」
「わたくしもお母さまに会いとうございました。でも、こうしてお父さまにお会いできて、これほどの喜びはございません。フローラはしあわせです」
あたし、これほどの演技ができるなんて、自分では思ってもみなかった。
でもきっと、本当はこれはあたしの演技じゃないの。
フローラの思いが、あたしにこの行動をさせているの。
「さあフローラ。お前のために宮廷料理長が腕をふるったのだよ。席についてたくさんお食べ。お前の十六年間を儂に聞かせておくれ」
あたしの不思議な感覚は続いていた。
あたしは王様に、あたし自身が知るはずのないフローラのことについて、様々な話を聞かせていた。
王様はそんなあたしを、とてもほほえましそうに見つめていた。
楽しそうに語るあたしは、その心の奥で、とてもやるせない気持ちになっていたの。
こんなに優しい、こんなに姫のことを愛している王様を、あたしはだましている。
だまされていることを知った王様は、どんな気持ちになるだろう。
きっと、ものすごい絶望を感じるに違いないの。
あたしは罪悪感にさいなまれながら、表面的には、ずっとフローラを演じつづけていた。
「メリルは元気にしているのかな?」
ほとんど食事がかたづいて、デザートが運ばれてきたころ、王様はあたしに聞いた。
「はい、とても元気です。出発の直前までわたくしにお説教していましたわ」
「メリルももうそろそろゆっくりしてもいい頃だな。こうしてフローラも成長したことだし、二人の息子もすっかり一人前になった。グレン、兄のユーリルは今日は仕事か? お前が代理とは」
王様の言葉に、あたしは驚いていた。
グレンとユーリルは、兄弟だったの?
「申し訳ございません、陛下。ユーリルはまだ雑務が残っているようです。私が代理では恐れ多いことでございますが」
「よいよい。メリルも立派な息子を持ったものよ。ユーリルは将来有望な若者だ。そなたもよい目をしておる。末長く母を大切にな」
「は、ありがたきお言葉。母も喜びましょう」
ユーリルとメリルは親子だったの?
あたし、この新たな事実に、半ば呆然としていたみたい。
王様の言葉に、はっと我を取り戻した。
「フローラ、そなたは覚えてはいるまい。かの離宮にそなたを預けたのは、そなたが生まれて半年にもならないころだった。メリルは二歳になるユーリルと、フローラよりも三月ほど早く生まれたグレンとをつれ、そなたを育てるためにこのリカームをあとにしたのだ。
あのときはフレイラが泣いてな。フローラと、お気にいりだった待女のメリルとを同時に失ったと言って。……でも、仕方のないことだったのだ。それが王家に伝わる掟なのだから。フレイラは王家に嫁いだことを悔やんでいたのかも知れん。国一番の美しいフレイラを儂が見初めたりしなければな。……いまさら言っても詮ないことだが」
「それでもお母さまは幸せだったと、わたくしは信じております。離宮の肖像画のお母さまは、いつもわたくしに微笑んで下さいました。わたくしはお母さまの愛情に育てられたのですわ。あれほどの愛情を注げる方が、幸せでなかったはずはありません」
「フローラ、そなたは本当に優しい娘に育った」
あたしはフローラ姫。
本当は違うけど、今だけはフローラ姫でいたかった。
王様の心を少しでも慰められたらいい。
あたしは本気でそう思っていたの。
あたしと王様の最初の出会いは、こうしてとても美しく過ぎた。
そして、あたしはこれからの自分に、何か少し違ったものを見出していったのだった。
髪を解き、部屋着に着替えたあと、あたしはカリン酒を水で割ったような飲みものを飲んで、一人でくつろいでいた。
ノックの音がして、顔を出したのは若原君だった。
「今日は大変だったな」
あたしは若原君に椅子をすすめて、待女のリーナに飲物を注文した。
リーナが杯を置いて出ていったあと、あたしはいつもの自分に戻って、若原君に話しかけた。
「今日のあたし、あたしじゃなかった。あたしの中にフローラが来ていたの」
「お前、一体何人いるんだ? 毎日オレはオレの知らないお前を見つける。今日のお前、まるで別人だった。オレも本気でフローラ姫だと思ったくらいなんだから」
「あれはフローラだったの。だってあたし、フローラの離宮での生活について、あんなに詳しく聞いてないもの。でっち上げであんなに何時間もしゃべれると思う?」
「思わない。でも、オレ感動したな。王様もお前が偽物だなんて思ってないよ。正直ここまで完璧にお前ができるとは思ってなかったんだ。本当にお前が言うとおり、フローラが来ていたのかも知れないな」
あたし、自分が恐ろしかった。
だんだんフローラになっていく自分。
このままだとあたし、本当にフローラになっちゃうのかも知れない。
平原茜はいなくなっちゃうのかも知れない。
「あたし、平原茜だよね。フローラじゃないよね」
あたしの困惑は、若原君には伝わっていたようだった。
慈愛に満ちた表情をして、あたしに言った。
「お前は平原茜だよ。誰がなんて言おうと、お前は平原茜だ。オレが保証する」
「よかった。若原君がいる限り、あたしそう思っていられる。若原君が側にいてよかった」
あたしの見ている前で、若原君は立ち上がった。
そして、あたしの髪にふれて、そのあと、そっとあたしを抱きしめた。
あたし、ただ驚いて、呆然としたの。
そのうちに心臓が音をたてて動き初めて、あたしは身動き一つできなくなってしまった。
あたし今、若原君に抱きしめられてる。
心臓の音がどんどん早くなって、あたしは呼吸さえうまくできなくなっていった。
どうして?
あたし、またからかわれているの?
あたしの心臓、ほとんど爆発寸前のところまで高鳴っていて、ピッタリ密着した身体を伝って、若原君に聞こえてしまいそうだった。
どうしよう、このままじゃあたし……
きっとあたし、夢を見ちゃう。
若原君に愛される、幸せな夢を。
そんなこと、あるはずがないのに。
とにかく離れなきゃ。
あたし、腕に力を入れて、若原君を引き離そうとした。
少し離れたと思った瞬間、あたしはさらに強い力で、若原君の身体に押しつけられたの。
若原君の腕の中は暖かくて、気持ちよくて、でも、そんな若原君は少し恐くて、あたし、必死に若原君から離れようとしていた。
しばらく無言の抵抗をしていると、あたしを戒めていた腕からすうっと力が抜けて、あたしはようやくその心地よい場所から抜けることができた。
若原君はあたしを見ていた。
真剣なまなざしだった。
「若原君……?」
あたし、恐かったけど、視線をそらさないように、若原君を精一杯に見つめた。
あたしの視線をどう感じたのか、若原君はふっと、視線をそらした。
「平原オレ、フォローのしようのない行動とっちまったな。やっぱオレって危険度高いや」
若原君、それ、どういう意味なの?
ぜんぜん判らないよ。
いつものようにからかおうとしただけなの?
それとも、ほかに何か理由があるの?
「若原君、何かあったの?」
「何でもない。……オレ、帰るわ。このまんまじゃちょっとヤバい」
「何が? あたし、何か悪いことした?」
「今、お前の側にいたくない。おやすみ、また明日な」
「若原君!」
あたしの叫びが届いたのか届かなかったのか、若原君は振り返りもせずに出ていってしまった。
お前の側にいたくない。
こんな言葉を聞くとは思わなかった。
あたしいったい何をしたんだろう。
若原君を傷つけるような、何か悪いことを言ったんだろうか。
どうしよう。
すごく、胸が苦しい。
あたし、こんなに若原君が好きだ。
自分でもどうしようもないくらい、若原君が好き。
若原君、あたしのこと好きだって言ってくれたよね。
普通の好きだけど、でも好きだって。
あたし、嫌われてるんじゃないよね。
嫌いな人を抱きしめてくれたりしないよね。
若原君の腕のぬくもりが、身体からはなれないの。
こんな気持、どうしたらいいか判らないの。
誰か、あたしに教えて。
若原君の心を教えて。
若原君が、なぜあたしを抱きしめたのか。
どうして突然帰ってしまったのか。
あたしにはそれが判らないの。
判らないの……
ベッドに入ってからも、若原君の感触は、あたしの中から消えていこうとはしなかった。
それはいつまでも、あたしの中から消えることはなかった。
その日までの二日間を、あたしは気分がすぐれないことを理由に、部屋に閉じこもったまま過ごしていたの。
王様からは、お見舞のお使者が来ていたけれど、あたしは会わなかった。
あたしの部屋に入ったのは、ユーリルと、待女のリーナと、若原君だけだった。
若原君のあたしに対する態度は、前とは少しだけちがっていた。
それはどこがどう違うというわけではなかったけど、ほんのちょっとしたしぐさや視線、言葉の端々に漂う雰囲気が、あたしとの距離をちょっとだけ遠ざけているようだった。
誕生日の催しを明日に控えた夜、あたしの部屋には、ユーリルが来ていた。
ユーリルは相変わらずのビジネス口調で、あたしに話し続けていた。
「……正午にバルコニーから国民に顔見せをしていただきます。その時は国王陛下とご一緒です。その後お召し替えをしていただきまして、リリスの刻より宮中晩餐会で、社交界への事実上の公式デビューとなります。最初に国王陛下のお言葉がありまして、その後に皆様の自己紹介があり、その時に誕生日の贈り物が渡されます。顔と名前とを記憶していて下さい。それが終わりますと、音楽が始まりまして、ダンスタイムになります。最初は『リカーモンドワルツ』です。国王陛下と踊って下さい。途中、『可憐なフローラ』が流れます。その時にはおそらくどなたかからダンスのお誘いを受けることになるかと思いますが、丁重にお断わりして下さい。ただし、陛下からのお誘いは断わらないように。
ころあいを見計らって合図をしますので、その時には速やかにご退出を」
あたしは聞きながら、ダンスのステップを思い出していた。
あたし、『リカーモンドワルツ』と、『可憐なフローラ』しか知らなかった。
そのほかは踊れと言われても踊れないわ。
「ユーリル?」
「はい、フローラ姫」
「もう一度ステップを教えて。本番で間違えそうだから」
あたしが立ち上がると、ユーリルはその前に跪いて、あたしの手を取り口付けした。
「リカーモンドワルツから。始まりは覚えておいでですね」
「ええ」
ユーリルは身体でリズムをとりながら、あたしをリードした。
見上げると、間近にユーリルの顔があった。
少し目を伏せるようにしている。
長いまつ毛。
ブルーの髪の人は、まつ毛もブルーなんだ。
ユーリルの象牙色の顔が少し青みがかって見えるのは、きっとこの青いまつ毛のせいね。
きれいなユーリル。
どうしてこの人は、悲しいくらいにきれいなんだろう。
「ユーリルはきれいね」
あたしの言葉に、ユーリルはずいぶん驚いたようだった。
でも、ステップはふみつづけていた。
「私が……きれいですか?」
若原君は素敵だけど、でもきれいとは違う。
「ユーリルを初めて見たときから思っていたの。なんてきれいな人だろう、って」
「姫……」
ユーリルはステップを止めていた。
そして、あたしをせつなそうな瞳で見つめていたの。
「初めてです。私をきれいだと言ったのは、姫が初めてです。私などより、姫の方が何倍も美しいではないですか。姫の言葉とも思えません」
そう言ったユーリルの目に、あたしは胸がつまされるような感じを味わっていた。
それは崇拝者の目。
この人は本気で、あたしの美しさを崇拝している。
あたしたちはお互いを見つめつづけていた。
「姫、何か悲しいことでもおありですか?」
心の中まで見透かすような、ユーリルの瞳。
それは的確に、あたしの心を見抜いてたの。
少しだけ遠くなってしまった若原君。
あたしはただそれだけのことで、この二日間、ずっとふさぎ込んでいたの。
「若原君の気持ちが判らなくて」
あたし今、ユーリルになら何でも話せそうな気がしていたの。
そんなあたしの言葉に、ユーリルはちょっと目を伏せた。
「姫は……グレンを愛していると?」
突然、愛しているなんて言葉を聞いて、あたしはびっくりしていた。
愛しているかどうかは判らないけど、あたしは若原君を好き。
「愛しているかと言われると困るけど……でも、好きだわ。好きなの」
「姫……」
その時、おふれの言葉を待たずに、入って来た人がいた。
若原君だった。
あたし、はっとして振り返った。
若原君、ほとんど抱き合っているかのようなあたしとユーリルとを見て、ずいぶん驚いているみたいで……。
あたしは一瞬、動けなくなってしまったけれど、ユーリルの方が冷静で、あたしをすうっと引き離した。
「姫がステップに自信がないと言われたので、お相手をして差し上げていました。でも、大丈夫のようです。私はこれで引き上げさせていただきます。よい夢を、フローラ姫」
うやうやしく礼をして、ユーリルは出ていってしまった。
あたしと若原君の間に、なんとも言えない重苦しい空気が流れていた。
沈黙を破ったのは、若原君の方だった。
「オレ、ひょっとしてかなり邪魔者だった?」
若原君、あたしたちのポーズを見て、誤解したみたい。
でももしかしたら聞いていたかも知れない。
あたしが、若原君を好きだって話してた事。
あたし、聞くのが恐かったけど、でも聞かずにはいられなかったの。
「話してたこと、聞こえてた?」
「最後の方だけな。でも、聞かなかったことにしてやるよ」
それはどういう意味だろう。
あたしが若原君を好きだって事を聞いて、でも聞かなかった事にするっていうのは。
よく、少女漫画であるシーン。
勇気を出して告白した女の子に、男の子が言う言葉。
それは、諦めろって意味?
好きになってもしょうがないよ、って事?
ほかに好きな人がいるって事なの……
あたし、立っていられなくなって、その場に座りこんでいた。
涙が出てきて止まらなかったの。
あたし、こんなに好きにならなければよかった。
もっと早くに若原君の気持ち、確かめておけばよかった。
そうすれば、こんなに好きになる前に、諦めることができたかも知れないのに。
あたし、こんなに泣いてみっともない。
まるで若原君を責めてるみたいじゃない。
「ごめんなさい、泣いたりして」
若原君はいつの間にか、あたしの側まで来ていた。
「お前、大丈夫だよ。お前はいい女だ。何があっても大丈夫だよ」
若原君、慰めてくれるんだ。
でも、これは若原君の役目じゃないよ。
自分がふった女の子を慰めるなんて、ちょっと変な役まわりだよ。
でも、ここにはあたしを慰めてくれる人なんていないんだ。
若原君にはそれが判ってるのかも知れない。
「頑張れよ、平原。頑張れ。お前にはあの夜空に輝く巨人の星がついているじゃないか」
若原君、あたしの肩を抱いて、遠くを指差した。
あたし、反射的に若原君の指す方を見て……
そこにあったのは、明かり取りのランプ?
あたし、あまりのことに、思わずふきだしていたの。
「あ、笑った。笑ったな?」
若原君、天才だ。
この人は人を笑わす天才だ。
「若原君てサイコー。若原君の隣で落ちこむなんて不可能だ」
「笑いの魔術師と呼んでくれ」
そうしてまた、あたしは若原君を好きになっていた。
告白なんかしても、この思いを消すことはできないの。
たぶんもっと早く告白していたとしても、あたしは若原君を好きになることをやめることなんかできなかっただろう。
若原君を嫌いになることなんかできない。
きっと若原君の事を知るたびに、あたしは今よりずっと、若原君を好きになるだろう。
それだけで、あたしはしあわせになれる。
恋はつらいけど、それに余るほどのしあわせもつれてくるから。
あたしは今、若原君を好きな自分を、少し好きになりかけていた。
朝から湯浴みなんて、あたし朝シャンとかしない人だったから、身体がだるくて一気に疲れてしまったの。
そして髪をすいて、姫らしい高貴な型に結いあげる。
あたしの髪はまとまりがないから、かなり時間がかかってしまった。
途中、ご機嫌伺にユーリルが一回顔を見せたけど、それだけで、あたしはたくさんの待女たちに囲まれて、一つの隙もないようにドレスアップされていた。
待女達は一様にあたしをほめたたえていた。
あたしの嫌いな髪質も、少し上を向いた鼻も、彼女たちは羨ましそうに、言葉多く話し続けていた。
あたしが嫌いな顔。
彼女達には、その一つ一つが、羨望の対象だった。
あたしは不思議な気がしていたけれど、決して悪い気分ではなかったの。
彼女たちは本気だったから。
本気であたしのような顔に生まれつきたかったって、言ってくれたから。
そしてあたしもだんだん、本気で信じるようになっていった。
あたしは美しいって。
それはとんでもない的外れなうぬぼれだったけど、ここにいるかぎりはいいよね。
この世界では、自分が美しいんだって思っていてもいいよね。
自分の世界に帰ったら、あたしは平凡な十人並みでしかないんだもん。
そうしてあたしはバルコニーにつれていかれて、並み居る国民の前に姿を現わした。
とてつもなく大きな歓声。
それはただ一つの言葉となって、あたしの耳に入ってきていた。
『フローラ姫様、万歳!』
あたし、気分がよかった。
教えられていたように、国民に手を降り続けた。
あたしに対する賛美ではないことは忘れてなかったけど、それでもあたし、この状況を大いに楽しんでいたの。
こんなにたくさんの人々が、あたしを見て熱狂してくれる。
少しでも間近で見ようと、身体を乗り出しては近づいて来ようとしてくれている。
王家の姫って、こんなに楽しいものだったのね。
王家に生まれたものは、こんなにも恵まれているんだ。
あたし嬉しくて、少しの間、自分がふられたことも忘れていた。
悲しい気持ちは今は心のどこにもなかった。
若原君はいつも近くにいたから、目に入るたびに思い出しそうになっていたけど、あたしは常にいろいろな人の目の前にさらされていたから、自分の恋心にとらわれている心の余裕はなかったの。
そうしていよいよ、あたしは宮中晩餐会に出席するために、自室をあとにしていた。
王宮のフローラ姫専用の控え室で時間を待っているとき、たまたま若原君と二人きりになった。
その時、若原君が言ったの。
「今日のフローラ姫は一段と麗しいな」
あたし、顔を赤くしていた。
若原君はほかの人とは違って、あたしの顔を美人だとは思ってないはずだから。
あたしに麗しいなんていったの、初めてだったんだもん。
「グレン、冗談はやめて」
「冗談だと思ってるの?」
若原君、今まであたしに見せたことのないような、甘やかな視線で言った。
とろけてゆきそうな声。
あたし、胸がかあっと熱くなっていった。
「姫は将来どんな人を婿に取るのかな。従者グレンでは身分違いか。きっと、何とか子爵とか、なんたら卿とかいうのがいっぱい控えているんだろうな」
若原君、何を言ってるの?
あたし、フローラ姫じゃないんだよ?
どんなにここが気分いいからって、あたしは戻るの。
あたしは戻ったら、平凡な高校生に戻ってしまうの。
そうしたらあたしきっと、若原君ともこうして話すこと、できなくなる……
あたしはいまさらながらに気がついていた。
若原君があたしと親しく話をしているのは、あたしと若原君だけが、あの世界の住人だからなんだ。
戻ったら、若原君には若原君の世界がある。
その世界にあたしが行くことは、きっとできない。
「姫? どうかしましたか?」
「あたし姫じゃない。姫なんて呼ばないで!」
完全な八つ当りだ。
ほら、若原君だって驚いてる。
早く、あやまらなきゃ。
その時、小姓のような人が入ってきて、あたしと若原君とをつれだしてしまった。
あたしは謝るタイミングを逃してしまった。
そして、その声はすぐにあたしの耳に響いてきていた。
「リンドグイン国王陛下並びに、フローラ王女殿下、御出座!」
あたしは国王陛下に続いて、観音開きに開かれた扉をくぐっていった。
入ってきたあたしを見て、そのホールにいるすべての人が、感嘆の溜息を漏らしたの。
あたしはその人々の一人一人の表情を見ながら、喜びがわき上がってくるのを感じた。
(なんとお美しい)
(まるで大輪のフローラのようだ)
(今は亡きフレイラ王妃様にうりふたつだ)
あたし、まわりを見回しながら、一番優雅に見えるように微笑んだ。
再び、感嘆の声が上がった。
(見よ、あのまなざし)
(いや、それよりもあのクロギスの濡れ羽のような黒髪だ)
(なんとお身体のふっくらしていることか)
(亡き王女様と並べてもおそらく引けをとるまい。あのように美しい方は二人とおられないかと思っておりましたが)
あたしはその羨望のまなざしのなかにあって、ゆっくりと席に腰かけていた。
一度席についた王様が立ち上がると、人々は静かになっていた。
「十六年前にハドルの離宮に旅立ったわが娘フローラは、今日こうして十六才の娘になって、我が元に帰ってきた。これほどの喜びがほかにあるだろうか。今宵は儂と我が国民にとっては最良の日。フローラよ、皆の者にそなたの姿をもう一度見せておくれ、さあ」
あたし立ち上がって、にっこり笑って一礼したの。
人々のなかから、また、声ともつかない声が上がった。
「今日はフローラの十六才の誕生日だ。皆思い思いに楽しんでくれよ」
王様が座って、その言葉が終わったことを知らせていた。
王様はあたしを振り返って、本当に愛しいものを見るようにあたしに微笑みかけていた。
あたしも微笑んだけど、その心のなかは複雑だった。
あたし、こんなにいい王様をだましてるの。
あたし、いたたまれなかった。
今すぐにでもここを飛びだして、本当の平原茜に戻りたかった。
そんなあたしのちょっとした表情の変化を、王様は読み取ったみたい。
「フローラ、気分でも悪いのか?」
「いいえ。旅の疲れが少し残っているようです。二日間ゆっくり休ませていただきましたので、もうずいぶんといいのですけれど。
お父さまからはお見舞をいただきましたのに、お使者の方にもお会いできなくて……」
「そんな事は気にせずともよい。お前はフレイラによく似ておる。母の弱い体質を多く受け継いでいるのだろう。今日は早く帰って休みなさい。その、贈り物を受け取り、儂と一度ダンスをしたら」
「いいえ、大丈夫ですわ。わたくし、可憐なフローラもお父さまと踊りたいの。それだけは約束よ」
「おお、フローラ……」
王様と話をしている間に、部屋の様子は少し変わっていた。
人々が少し下がって、王座の下に広めの空間を作っていた。
それは、名前を呼ばれた人が進み出るためのもの。
おふれの声が、あたりに響き渡っていた。
「リンゲル王弟殿下。贈り物は、北の国ラングーから取り寄せた、馬車用の白馬二頭にございます」
進み出たのは、王様によく似た、でも、王様のような威厳を醸し出す資質はなくて、少し卑屈に見えるおじさんだった。
「国王陛下、並びに王女殿下には、ご機嫌うるわしゅう」
「大変よいものを有難うございます、叔父様」
あたしは数通りのお礼の言葉を習っていた。
これは、叔父さん用の言葉。
叔父さんは一礼すると、ほかの人に道を開けた。
「ダンバート侯爵より、北カザムの毛皮にございます」
「ニクラス侯爵より、職人ギースの手によります純白のレースにございます」
「ルビニオ侯爵より、南の国ドーランの絹織物にございます」
おふれの言葉に進み出た一人一人に、あたしはお礼の言葉を言いつづけていた。
なかには何をくれたのかよく判らないものもあって、でも、とりあえず判るふりをして、あたしはお礼を言った。
三十人くらい、あたしは話をしただろう。
残りの人のはとりあえず、あとで目録をもらうということで、プレゼント会は終わった。
このあとに、あたしのお礼の言葉があるの。
あたしは立ち上がって、喜びを一番伝えられる笑顔で、皆に話し始めた。
「皆様、今日は本当にありがとうございます。フローラは幸せです。皆様の心のこもった贈り物は、きっと大切にいたしますわ。わたくし、今日のことは生涯忘れません。皆様のご健勝と、この国の発展をお祈りいたします」
あたし、この時点でかなり疲れが来てたの。
でも、王様を心配させるわけにはいかなかったから、一生懸命笑顔を作っていた。
ダンスタイムで、あたしは王様と結局三回踊った。
リカーモンドワルツが一回。
可憐なフローラが二回。
その間には、たくさんの若い男性が、あたしをダンスに誘った。
この人たちの幾人かは、将来姫の婿として名前が上がる人なんだと思う。
でも、正直疲れてもいたし、ユーリルに言われていたこともあって、あたしはそのなかの一人とも踊ろうとはしなかった。
彼らは口々に、あたしの美しさをほめたたえていた。
黒い髪のこと。
一重のまぶたのこと。
低くて上を向いた鼻。
厚くて大きめの唇。
丸い顔も、この国では美の代名詞だったの。
あたしはこの国では、完璧な美貌を持った人だった。
ほとんどくびれのない身体も、女性なら誰もが羨むようなプロポーションだった。
でも、そうやって一つ一つあげられると、あたしは自分がどれだけきれいでないか、再確認しているような気がしていた。
だって人に、
「あなたはなんて丸い身体をしているのでしょう!」
とか言われても、ほめられてる気がしないの。
それなら、ただ美しいって言われる方が、あたしは嬉しかった。
三回目のダンスのあと王様が退出して、しばらくしたあと、ユーリルがあたしを促した。
あたしは皆に別れを惜しむように微笑んで、やっとホールから出ることができたの。
その時のあたしは、もうほとんどぐったりって感じに疲れていた。
そして、ユーリルと若原君に抱えられるように、王女宮に戻ったのだった。
「姫、お休み前の一時をお邪魔致しまして、申し訳ございません」
若原君はそう言って微笑んだあと、不意に真顔になって、あたしの方に走ってきた。
あたしがびっくりして、でも疲れていたのでなにもできないでいると、若原君はあたしを通り越して、窓の方にかけよっていた。
「なに?」
「今ここに誰かいた」
誰かって……どういう事?
「誰か覗いてたんだ。間違いない。……少し気付かない振りすればよかったんだけど、お前がヤバい話始めたら困るからな。これからは聞かれて困ることはあたりを確認してからするようにしようぜ」
あたし、身震いをしていたの。
だって、あたしさっきここで着替えたよ。
もしかしたらそれも見られてたって事?
あたし、若原君のいうヤバい話がどうというよりも、自分の裸が見られたかも知れないことを思って、鳥肌が立つくらい嫌な気分になっていた。
「若原君、お願いだからもっと警備して。そんなの耐えられない」
「ユーリルに言っとくよ。警備の人数を増やすように。ばれてからじゃ遅いもんな」
「女の子の部屋を覗くなんて許せない!」
若原君、あたしの言葉に、ぽかんとしたの。
そしておもむろに、笑いだした。
「そうか。お前、なに怒ってんのかと思ったら、覗かれたことを怒ってたのか。……そうだよな。女なら着替えるの覗かれたくないもんな。判ったよ。ユーリルにそう言っとく」
あたし、若原君の言葉に少し落ち着きを取り戻していた。
そしてあたしは思い出したの。
晩餐会の前、あたしが言ったこと。
「若原君、ごめんなさい」
若原君は、この話の流れに関係ないあたしの言葉に、ちょっと戸惑ったようだった。
「何が?」
「昼間のこと。あたし、八つ当りしちゃって。ごめんなさい」
「ああ、別に気にしてない。オレがただでさえ気が立ってるのに余計なこと言ったから……オレも反省してる」
「そんな! あたしほんとに八つ当りだったの。あのときの言葉は忘れて」
「もう覚えてない。……疲れただろ。オレ帰るわ」
「うん、ありがと」
若原君がでていって、あたしはさっきの人影のことを考えていたの。
誰か、あたしを疑っている人がいるのかも知れない。
あたしが本当の姫かどうか、さぐろうとしている人が。
だとしたら、あたしきっとばれてしまう。
これ以上の演技なんてできないもの。
今までの演技で不信を持った人がいるのなら、これからの演技でもっと不信をつのらせるだろう。
あたし、それが恐かった。
だけど今夜は疲れているから、もう考えるのはやめよう。
ベッドに入ったあたしは、それからいくらもたたないうちに、眠りに引き込まれていた。