あかね色のラビリンス


 第2話 離宮
 
 

 その時あたしは、とっても幸せな夢を見ていたの。
 夢の内容は覚えていなかったけど、夢の中のあたしは、とても満ち足りた気持ちでいた。
 いつもと同じ寝覚めの瞬間、あたしはまわりがずいぶん明るいのに気がついていた。
 あれ? あたし、カーテン閉め忘れたの?
 急激に現実に引き戻されたあたしは、眩しかったけど、とにかく目を開けようとした。
「あ、気がついたみたいだ」
 男の人の声! あたしの部屋に、男の人がいる!
 そのことにあたしがパニックして、あわてて目を開けると、あたしの顔を覗き込むようにして、信じられない人がいたの。
「若原、君……?」
 その時、あたしの頭の中に、現実がよみがえってきていた。
 あたしの部屋に、若原君がきたんだ。
 そして、あたしをあの部屋から連れだした。
 でも、それから先の記憶がなくて……
 そう言えばここ、あたしの部屋じゃない。
「パラレルワールドを移動するんで、四次元空間に入ったとたん。お前ぶっ倒れたんだぜ。気分はどうだ?」
 この部屋は、とても広かった。
 明るく感じたのは、部屋の壁の一つがほとんどなかったから。
 天井がものすごく高くて、ピンク系のレースのカーテンが引かれていた。
 よく見るとあたしが寝ているのは天蓋付きのベッド。
 花模様が刺繍されたベッドカバーは、あたしのベッドカバーなんかとは桁違いだった。
 遥か遠くには、恐ろしくお金がかかっていると思われるドレッサーに、同じ白で統一された書きもの机。
 壁にはビロードのカーテンが幾重にもかけられていて、そのとぎれたところにはしゃれた暖炉が置かれていた。
 枕元には、それ一つが芸術なんじゃないかと思われるような陶器があって、なかには水がはられていて、あたしの頭の上には、その水でしぼっただろうタオルが置かれていた。
「もう元気になったか?」
 心配そうにしている若原君。
 あたし、ちゃんと答えなきゃ。
「大丈夫。心配かけちゃって……」
「オレが悪かったんだ。移動のときショックがあるってこと言い忘れてて。自分が丈夫だから、人のことまで気がまわらなかったんだよな。ごめん」
 本当にすまなそうに、若原君は謝った。
 あたしまた、若原君に謝られてる。
 あたし本当に謝られてばっかりだ。
 若原君は少しも悪くないのに。
「そんなに謝らないで。あたしも悪かったんだから。……ところで、ここはどこ?」
 今あたしが一番知りたいこと。
 若原君は気を取りなおしたように、笑いながら言った。
「ここはフローラ姫が十六年間暮らしていたハドルの離宮だよ。今は誰もいないから、とりあえず連れてきた。時間はもうすぐ日が沈むところ。お前、二時間くらい眠ってたんだぜ。このまま朝まで目覚めないかと思った」
「あたしの部屋から出たとき、確か夜の九時ごろじゃなかった?」
「時差があるんだ。正確には判らないけど、五時間くらいじゃないかな。外に出てみる?」
 若原君に助け起こされるように、あたしはベッドから起き上がった。
 ベッドの脇にあった、サンダルとスリッパの中間くらいの履物をはいて、長いカーテンのところから部屋の外に出た。
 視界は思ったよりもずっと開かれていた。
 右の山の方に、今まさに夕日が沈もうとしている。
 遠くに山が見えて、その手前には畑や村が所々に点在していた。
 あたしがいるのは、少し小高い丘の上のよう。
 離宮のそばには民家はほとんどなくて、そのせいか城壁のような物はぜんぜんなかった。
 庭には見たことのないような花がたくさん咲き乱れていて、様々な色があったけれど、よく見るとそれらはすべて一種類の花だった。
 隣の若原君は、夕日に染まる花々を見ながら、静かに言った。
「この花、コスモスとバラをあわせたような形だろ。これがフローラなんだ。ここはフローラの庭って呼ばれてる。フローラ姫が一番愛した庭なんだって」
「フローラの庭……」
 あたしは庭におりて、花の一つに触れた。
 手の平にすっぽりと入るくらいの大きさ。
 真ん中はコスモスのようで、そのまわりにはぎざぎざの花びらが、バラのように幾重にも取り巻いている。
 色も、赤や黄色やピンクやブルーがあって、全て同じ濃さのものから、グラデーションのかかったものまで、数え切れないほどの種類があった。
 きっとこの花は、今が時期なんだ。
 花のことはよく判らないけど、それらが懸命に咲いていることだけは判った。
「フローラの花。フローラ姫」
「ここはフローラ姫が庭を見るために使っていた部屋なんだってさ。この屋敷全体がフローラ姫のものだけど、フローラの居住区はもっと奥の方にあって、そこはここなんかとは比べ物にならないくらい豪華絢爛だよ。オレ達庶民にはまさに目の毒だ。……そろそろ中に入ろう。日が沈むと急激に寒くなる」
 フローラ姫はここで何を思って暮らしてきたんだろう。
 まだ見ぬ両親にあう日を楽しみに、たった一人で暮らしてきたんだろうか。
 やっとあえると思った矢先にさらわれてしまうなんて……
 あたしは見たこともないフローラ姫のことを思って、悲しい気持ちになっていた。
 部屋の方に戻ってすぐに、ドアの方からユーリルが入ってくるのが見えた。
 ユーリルは柔らかそうなトーガを着ていて、甲胄姿の若原君とは対照的な印象をあたしに残した。
「平原茜殿。お目覚めになられましたか」
 ユーリルは、二時間前よりは明らかに、生きた目をしていたの。
 そのことが、ただでさえきれいな顔に、魅力を上乗せしていた。
 本当に溜息が出るくらいきれい。
 あたし、また少しユーリルにみとれていた。
「ユーリル、平原茜っていうのは、平原のフルネームなんだ。オレ前に教えただろ? オレ達の名前は名字と名前に分かれていて、普通はたいていどちらかを呼べばいいんだ。お前も、平原か茜か、好きな方で呼ぶようにしろよ。何か変だから」
「そうですね。……でも、これから私は平原茜殿の事をフローラ姫の名で呼ぶことにいたします。平原茜殿、それでよろしゅうございましょうか」
 あたしはききながら、考えていた。
 確かにあたし、フローラ姫の身代わりになってもいいって、そう言ったの。
「それでいいです。そう呼んで下さい」
「ここでは話がしづらいですから、場所を替えましょう。ついてきて下さい」
 三人で廊下に出ると、そこは中庭に面していた。
 中庭にも様々な花が植えられていて、かすかに花のかおりがしていた。
 少し行ったところで右に曲がって、その二つ目のドアを入ると、そこはソファのある部屋だった。
 あたし達はソファに座って、やがてユーリルが話し始めた。
「これから十日間で、平原殿にはフローラ姫としての起居振舞や話し方などを勉強していただくことになります。それから聡殿」
「オレも何かやるの?」
「あなたには、姫の従者になっていただきます。二年前になくなった従者で、グレンという者がいまして、そのものの死亡はまだ報告していませんので、今日から聡殿はグレンと呼ばせていただきます。そのものは聡殿と同じような黒髪に黒い瞳をしていましたので。よろしゅうございましょうか」
 二年も前に死んだのに、死亡届を出していなかったの?
 この国ってそれだけ悠長なのかな。
 あたしはずいぶん関係ない事を考えていた。
「オレはかまわねーけど。従者ってのは、いわゆる付き人だよな。何をすればいいんだ?」
「公式行事の際には、姫のお供をしていただければけっこうです。姫が自室におられる時には隣の部屋で寝起きをして、姫をお守り下さい。姫のお世話は待女がいたしますので、特別になさることはありません」
「そばにいればいい、ってこと」
「その方が姫も安心でしょう。私は護衛隊長ですから、いつもお側にいるという訳にはまいりません。これからはグレンが、姫をお守りして下さい」
 姫の身代わりというのは、あたしが思っていたよりも、ずっと大変な仕事のようだった。
 あたしはいろんな人をだまさなければいけないんだ。
 フローラ姫の父親である王様や、そのまわりにいる様々な重臣達。
 召使や一兵卒まで。
 もしばれたらどうなるんだろう。
 あたし、殺されちゃうかも知れない。
 あたしだけじゃなくて、それに加担したユーリルや若原君も。
 あたしの責任は重大なんだ。
 軽い気持ちでできることじゃないんだ。
 あたし、少し恐くなっていた。
 長ければ四十日間も、あたしはまわりの人すべてをだまさなければいけない。
 それはとても恐ろしいことだった。
「オレの責任で平原を守らなきゃいけないんだな」
「その通りです。グレン、これからはあなたは私の部下です。
 グレン! お前に姫の警護を命ずる!」
 若原君は勢いよく立ち上がった。
「は、命にかえまして!」
 真剣に、本当に真剣に、若原君は言った。
 それだけ二人は真剣なんだ。
 あたしがこんなところで迷ってるなんて、いけない。
 あたしも真剣に姫にならなければいけない。
 あたしの対応に、ユーリルと若原君の命がかかっているのだから。
「ありがとう……」
 ユーリルはただひとこと言って、そして、顔の表情を隠すようにうつむいた。
 そんなユーリルに、若原君はそっと近づいていったの。
 そして肩を抱いて、隣に腰かける。
 ユーリルははっとして顔を上げた。
「大丈夫だよ。姫は必ず帰ってくる。お前の仲間が捜してるんだろ? あんがい平原が身代わりになる前に、無事で戻るかも知れないじゃないか。ほら、仲間を信じようぜ。オレも仲間だから」
「グレン……聡殿」
「隊長殿、元気を出して下さい。隊長がそんな顔をされていたら、某も悲しいのであります。隊長殿はいつも毅然としていて下さい。それが我々の願いでありますから」
 そう言った若原君は、もうすでに従者のグレンだった。
 そして、若原君の言葉に、ユーリルも元気づけられたようだった。
「私は聡殿に出会えてよかった。平原殿にも。私は幸運だ」
「そうだよ。ユーリルは運がいいんだ。だから間違いなく姫も見つかるよ」
「ありがとう」
 こうして、あたし達のこれからが決まった。
 あたしは明日からの十日間で、姫としての教育を身に付ける。
 若原君は従者グレンとして、あたしの警護にあたる。
 ユーリルは姫捜しをとりあえず仲間にまかせて、あたしの教育に全面的に当たってくれることになった。
 そうして、この美しい離宮に、初めての夜が訪れようとしていた。

 広い食堂で三人きりの夕食を済ませたあと、あたしはもともとの姫の部屋へと通された。
 そこはさっきの部屋なんかとは比べ物にならないくらいの、絢爛豪華な部屋だったの。
 若原君の言った通り。
 さっきの倍はありそうな広さ。
 ここまで広くなると、畳に換算することなんて出来ないの。
 しいて言えば、音楽室並みの広さってところかな。
 真ん中にはテーブルと椅子が三脚。
 少しはなれてソファがあった。
 ドレッサーに簡単な宝石箱。
 天蓋付きのベッド。
 たっぷり襞の入った、ビロードのカーテン。
 そこは二階だったから、窓にはしっかりと木の扉が入っていた。
 そして、二枚の肖像画。
 左の一枚は、王冠をかぶった男の人だった。
 これはきっとフローラ姫のお父さん。
 そして右の一枚は、きれいなドレスを着た、二十代後半くらいに見える女性。
 銀色のティアラをしているから、きっと姫のお母さんだろう。
 でも、ほかのどんな状況で見たとしても、あたしはこの人が姫のお母さんだって確信したと思う。
 この人はあたしによく似た顔をしてたから。
 姫のお母さんは、姫を産んでから二年足らずで、この世を去っていた。
 姫はさらわれなかったとしても、お母さんとは会えなかったことになる。
 でも姫は、あたしにそっくりだというユーリルの言葉を信じるならば、こんなにもお母さんの王妃にそっくりに成長したの。
 姫はきっと毎日、この肖像画を眺めていたことだろう。
 ただ、お父さんに会える日を夢見て。
 いったい誰が姫をさらったの?
 十六年間も会えなかった親子を引き離すような、そんなひどいことがどうして出来たの?
 あたし、自分のためでなく、出来るだけ早く姫が帰れるように祈りたかった。
 今どこで何をしているのか判らないけど、この祈りが姫に通じるように願った。
 そして、あたしが一通り部屋の点検を終えると、ノックの音がして、若原君が顔を出していた。
「平原……じゃなくてフローラ姫。お加減はいかがですか?」
 若原君、ちょっとおどけたような感じで、あたしに礼をつくして見せる。
 あたし、気持ちがほぐれて、思わず顔がゆるんでいた。
「あ、平原が笑った」
 あたしが、え? と思って若原君を見ると、若原君はこの上なく魅力的な微笑みで、あたしに笑いかけていた。
 どきっとしたの。
「お前気がついてないのか? 同じクラスになってから、お前がオレのことを見て笑ったのって、今が初めてなんだぜ。なんかすげー安心した。もっと笑ってくれよ」
 え? 笑ってくれって言われても……
 安心したって……若原君、あたしが笑わなかったから、心配してくれていたの?
 あたしが笑わなかったのだとしたら、それは若原君を見ると自然に緊張してたからなの。
 何か変な事しないかと思って、いつも……
 その時あたしは気がついていた。
 いつもあたしに笑いかけてくれた若原君。
 その笑顔が、どんなにあたしを勇気付けてくれていたか。
 若原君が笑っていることで、どんなに安心することが出来たか。
 若原君がいなかったら、あたしはこの環境の変化のなかで、とても不安だっただろう。
 そもそもこんな所に来なかったに違いない。
 若原君はあたしに、勇気をくれたの。
 その笑顔で。
 でも、あたしは若原君に、何をあげた?
 笑顔さえあげてなかったの。
 いつも一方通行だった。
 だから……
 今度はあたしがあげる番。
 若原君に笑いかけることなら、あたしにだってできるはずだもん。
「こんな事したら笑うかな?」
 そう言った若原君、おもむろに両手で顔をひっぱったの。
 大きい口がもっと大きくなって、涼しげな目もとが見事なタレ目になって……
 あたしおかしくて笑っていた。
 さっきよりもっと派手に。
「笑った。平原が笑った。それじゃ、こんな顔は?」
 若原君が次々に作る顔に、あたしは大声を上げて笑い転げていた。
 息もたえだえになって、涙まで出てきちゃった。
 おなかの底から笑って……どのくらいあたしは笑っていただろう。
 こんなに笑ったのは久しぶりのことだった。
 こんなに夢中で、笑うことに専念した事って、今まで一度もなかったのかもしれない。
 若原君がそれを思いださせてくれた。
 でもいいかげん笑い疲れて、若原君も顔を作るのに疲れて、あたし達はどちらからともなくソファに崩れ落ちた。
 あたしは今、とても幸せな気分だった。
「オレさ、誰かに笑ってもらうのがすっげー好きなんだ。クラスじゃお前だけだぜ、オレを見て笑わなかったのって」
 それ本当?
 若原君、誰が笑って誰が笑わなかったかって、ちゃんとチェック入れてたの?
「とりあえず達成だな、一学期の目標。クラスの全員を笑わすってのが、オレの目標だったんだ。一学期は少し過ぎちまったけどな」
 若原君がいいかげんな人じゃないって事は、あたし知ってる。
 でも、人を楽しませる事に、こんなに真剣に取り組んでたなんて、あたし知らなかった。
 若原君て、本当はとてもまじめな人なんだ。
 どんな事にも真剣に取り組むっていう意味では、きっと誰にも負けないだろう。
「若原君て、すごいんだ」
 若原君、ちょっと目を丸くした。
「どうしたの? いきなり」
「だって勉強も出来てスポーツも出来て、それに明るくて優しくて。その上まじめで、若原君には出来ないことなんて何もないみたい。どうしてこんなに何もかも出来るの?」
 若原君は、ちょっと目を伏せていた。
 戸惑ったような、困っているような表情。
 あたしが初めて見る若原君だった。
「オレ、お前が思っているような人間じゃねーよ。本当はずっと臆病で、いつも不安ばっか心ん中にあって、自分で自分が嫌になるよーな事もあるよ。だからオレいつも、肝心なところで逃げ出さないように自分に言い聞かせているんだ。……オレ、お前に感動してた。オレだったらきっと、姫の身代わりなんて逃げ出してたと思うから」
 若原君の言葉をききながら、あたしは不思議な気がしていた。
 何でもできる若原君。
 そんな若原君でも、心の中には不安を抱えてる。
 それに……あたしに感動してくれていたなんて……
 あたしは若原君がいたから、姫の身代わりを引き受けたの。
 若原君があたしのところに来てくれたから。
「オレ、クラスでは判らなかった平原のこと、今回のことでたくさん判った気がする。お前ってきっと、自分の心の中を見せることに慣れてないんだな。でもだんだん、お前の表情をよむのにオレの方が慣れてきたよ。お前も少しずつ話してくれるようになったし。そういうのって嬉しいよな」
 そう言って、若原君はまた少し笑った。
 若原君には、自分の一言がどんなにあたしを嬉しくさせるのか、判っていないのかな。
 自分の笑顔がどんなに魅力的なのか。
 あたしの心をこれほどゆるがしてしまう事。
 あたし、これまでよりも、ずっと若原君が好き。
 教室で若原君のこと盗み見ていたあのころより、何倍も好きになったの。
 若原君の目には、あたしはどんな風に映っているの?
 少しでも好きだなんて、考えてくれる?
 でもその質問は、あたしの口からもれることはなかった。
 一番聞きたいけど、一番聞けない事だから。
 こんなに素敵な若原君に、好きな人がいない訳がない。
 その人に好かれていない訳がない。
 あたし、そのことを若原君の口から直接聞くのが恐かった。
 聞かなくてもいいよね。
 今だけ、夢を見てもいいよね。
 ひとり占めしていても。
「ひょっとして眠くなった?」
 考え込んでいたあたしに、若原君がそっといった。
「そうでもないけど……でも、あたしもしかしてこの部屋で寝るの?」
「そうだよ」
 この部屋……異様に広いよ。
 あたし、こんな広い部屋で寝たことない。
 落ち着かなくて、眠れないんじゃないかな。
「若原君もこの部屋で一緒に寝よ?」
 その時の若原君のびっくりしたような顔に、あたしもびっくりしていた。
 一瞬、どうして若原君が驚いているのか、判らなかったの。
「お前、それ、本気?」
 しどろもどろって感じで若原君は言ったの。
 この急激な若原君の変化に、あたしはさっき自分が言ったことを思いだそうとして……
 え? 嘘! あたし、何かすごい誤解されるようなこと言ってる!
「あ、あの、それはですね、その……」
 あたしがやっと自分の失言に気付いたから、誤解を解こうと、一生懸命言葉を捜した。
 そんなあたしを見て、若原君は逆に冷静に戻っていた。
 一つ溜息をついて、言ったの。
「……判った。平原はオレのこと男だと思ってないだろ。……ああ、ショックだ。自分では少しは男らしいと思ってたんだけど」
 頭を抱えた若原君に、あたしは言うべき言葉が見つからなかった。
 あたしが言いたかったのは、単に部屋が広すぎるって、それだけだったの。
 若原君は優しかったから、ぜんぜん危険だと思わなかった。
 でもそれが若原君を傷つけることになるなんて……
「ごめんなさい!」
 そんな精一杯のあたしの言葉に、若原君はちょっと悲しそうに言った。
「もういいよ。だけどオレ、どんなに平原に頼まれてもお前と同じ部屋に寝るつもりないから。それだけはちゃんと言っておかないと」
 あたしの見ている前で、若原君は立ち上がっていた。
「隣の部屋にいる。なにかあったら呼んで。おやすみ」
 そう言うと、若原君はあたしがおやすみを言うまもなく、部屋から出ていってしまった。
 若原君、本気で怒ってた。
 あんなに優しかった人を、あたし怒らせちゃったんだ。
 今度こそ本当に、あたしは嫌われてしまったのかも知れない。
 もう二度と、あたしに笑いかけてくれないかも知れない。
 話しかけてくれないかも知れない。
 側にいてくれないかも知れない。
 本当にそんな事になったら、あたしはどうすればいいの?
「若原君……」
 あたし、もう一回若原君に謝ろう。
 そして、何とか許してもらおう。
 それでも側にいたくないって言われたら、その時は諦めよう。
 若原君を好きな気持ちも、若原君に側にいてもらいたいって想いも。
 だってそれは仕方のないことだから。
 あたし、こんな自分が嫌いだから、こんな自分を少しでも好きになってもらえるなんて、うぬぼれることすら出来ないもの。
 あたしでさえ嫌いなのに、若原君に好きになってもらおうなんて、そんな虫のいいことないもの。
 そう決めると、あたしはそのままベッドに入った。
 その夜は、なかなか眠ることが出来なかった。

 つぎの日、あたしは目覚めると、まるでそれを見越したかのように、部屋のドアがノックされた。
「はい」
 入ってきたのはユーリルだった。
「フローラ姫、お加減はよろしゅうございましょうか」
 今日は薄いブルーのトーガを着て、あたしに礼をつくしていた。
 後には一人の年配の女性が付き従っていた。
「おはよう。部屋が広くてなかなか寝付けなかったけど」
「それはいけません。もう少しお休みになられますか?」
 本当に心配そうに、ユーリルは言った。
 ユーリルは本当にきれい。
 どんな表情も、全てしっくりきてしまうの。
 この人には哀愁でさえも似合ってしまう。
「大丈夫」
 ユーリルは一歩下がって、うしろの女性と並んだ。
「フローラ姫の乳母のメリルです。今日から姫様のお世話をさせていただきます。その、私では行き届かない面もあると思いますので」
 昨日、あたしは結局パジャマで過ごしていたの。
 部屋を出たときにそのままだったから。
 ユーリルがあたしのために洋服を用意してくれようとしたんだけど、男のユーリルは、姫の洋服を選ぶことが出来なかったんだ。
 たぶん、照れていたんだと思う。
 あたしが選ぼうにも、それがどんなものか判らなくて……
 メリルはきっと、そのために来たんだ。
 今までおじぎをしていたメリルが、顔を上げてあたしを見たとたん、はっとした。
「姫様……」
 その目には涙があった。
 初めてユーリルがあたしを見たときと同じように。
「なんて、そっくりな。なんてお美しい……」
 あたしの顔に美しいなんて形容、まさかユーリル以外の人が付けるとは思わなかったから、あたしはかなり面食らっていた。
 護衛隊長のユーリルがそういうのは、なんとなく納得出来ていたの。
 主君の娘だもの、少しは本気で思っているんだろう、って。
 でも乳母のメリルまでそういうなんて、もしかしてこの国では、家臣にそういう教育でもしているのかしら。
「メリル、この御方は姫様の身代わりを名乗り出てくれた方なのだ。平原茜様という。ただ、今後はフローラ姫とお呼びするように」
「判りました。……フローラ姫様、メリルと申します。今日から十日間に渡ってお世話申し上げますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします」
「それじゃ、メリル、さっそくお着替えを。あとのことは先程申し渡したとおりに」
 ユーリルが言ったとき、ドアをノックする音が聞こえて、若原君が顔を出した。
「入ってもいいか?」
「ちょうどいい。……聡殿、姫の乳母で、これから十日間姫のお世話をするメリルです。メリル。彼は若原聡殿。姫の従者グレンだ。そう呼ぶように」
「グレン……」
「そうだ。二年前に死んだ、従者のグレンだ」
「承知いたしました」
 若原君が入ってきて、あたしは昨日のことを思いだしていた。
 若原君がなにか言おうとする前に、あたしは言葉を出していた。
「若原君、昨日はごめんなさい!」
 若原君はちょっと驚いたような顔をして、でもすぐに笑ってくれた。
 あたし、ほっとしている自分を感じていた。
「オレが謝ろうと思ってたのに、先越されたな。あれはオレの方が悪かったんだ。一晩考えて反省した。平原、ごめんな」
 あたしが驚いているのを、若原君はどう取ったんだろう。
 すぐ側まで近づいてきて、言った。
「お前の無意識にはいろんな意味が込められているんだよな。オレはその一部分だけを見て、勝手に落ちこんじまったんだ。お前は、もちろんオレを男として見てないって部分も持っていたんだろうけど、そのほかにも、オレに対する信頼とか、そういう物も確かに持っていたんだ。オレはそれを見なかった。だからこれはオレが悪いんだ。謝るよ。ごめん」
 若原君が一晩何を考えていたのか、その言葉だけでは判らなかったけど、でも一つだけ判ったことがあった。
 若原君はきっと、どんな人でも許してしまうような、そんな考え方をする人なんだって。
 人の行動を、いい方に解釈するの。
 だから人に好かれるんだ。
 あたしはまた一つ、若原君のことが判った。
 そしてまた一つ、若原君のことが好きになっていた。
「若原君て、いい人だね。いまさらだけど」
「またそういう、解釈に困るようなことを平然と言う。オレ平原に悩まされてばっかりだな。これがオレの宿命かも」
 あたし、そんなに難しいこと言ったつもりないんだけどな。
 どうして若原君は悩むのかしら。
「お話が終わったようでしたら、男性の方々はそろそろご遠慮くださいな。姫様は着替えをなさいますので」
 メリルは言って、二人を追いだしていた。
 そうしてあたしは、このさわやかな朝に、若原君との仲直りを果たしたのだった。

 この日から、あたしは姫になるための教育を受け始めていた。
 メリルからは、姫様の言葉づかいから、起居振舞、いろんな作法にいたるまで、様々ないわゆる躾を受けていた。
 ユーリルからは、この国の経済や政治、そして、人物の関係について、そのほかにも、ダンスのし方や、質問の答え方など、本当にいろんな事を伝授された。
 あたしには覚えることが多かった。
 物の名前や、その用途について。
 姫の生活習慣について。
 一日中くたくたになりながら、あたしはメリルとユーリルに代る代る教育されていった。
 そして十日も経つころには、ようやく姫としての自分に慣れて、とりあえず姫に見えるくらいには、あたしは成長していた。
 こんなに勉強したの、あたし初めてだった。
 ユーリルは完璧なカリキュラムを組んで、あたしにムダのない教育を施してくれたの。
 きっと、最初の晩、ユーリルは徹夜したに違いない。
 あたしも大変だったけど、ユーリルとメリルはもっと大変だっただろう。
 あたし、二人のおかげで、優雅に笑うこつを身に付けた。
 指先まで気を使って振る舞うことを覚えた。
 これは、あたしがもとの世界に戻ってからも、十分に通用する。
 この教育はあたしにとって財産になったの。
 そのことではあたし、この二人に感謝をしていた。
 自分が今までどれ程粗雑だったかも判った。
 どんなに乱れた言葉づかいをしていたか。
 どれだけ自分を表現する事を怠ってきたか。
 あたし、自分の感じたことを表現することが、とてもへただったの。
 でもそれは、あたしが素直じゃなかったからだって気がついた。
 すべての物事にたいして素直になったら、まわりのものがぜんぜん違ってみえたの。
 それは新鮮な驚きだった。
 素直に感謝の気持ちを表わすこと。
 嫌な事は口ではっきり言うこと。
 それはフローラ姫の最大の美点だったけど、そうすることで、姫はすべての人に好かれた。
 それがどうしてなのか、最初あたしには判らなかったの。
 でも、自分が姫と同じように行動してみて、それが一番正しいことなのだと知った。
 なにも言わないことは、相手に様々な想像を掻き立てる。
 いい想像も悪い想像も。
 それは状況によっては相手に尋ねることができないようなこともあって、はっきりさせられないまま、その人は想像のなかで苦しんでしまうの。
 物事をはっきりさせることは、相手を楽な気持ちにさせてあげられる。
 あたしは、そんなフローラ姫の美点を、自分のものにしようと思った。
 それはあたしの中の革命。
 自分の気持ちが相手に通じたことの喜び。
 それは、あたしを明るい気持ちにさせた。
 この十日間はあたしにとって、とても有意義な日々だったの。
 そして、その日々の最後の夜。
 あたしはすべてのカリキュラムを終了した。
 部屋で一人になる。
 この世界での寝巻に着替えて、あたしはぼんやりと蝋燭の炎を見つめていた。
 明日はいよいよ、王宮に入る。
 そのことを考えると、今夜はなかなか眠れそうになかった。
 そんなあたしがノックの音を聞いたのは、眠る時間までもう少しのころだった。
「誰?」
「グレンであります」
「お入りなさい」
 若原君とあたしも、すっかり姫と従者の会話が身についていた。
 若原君が入ってきて、あたしに笑いかけた。
 あたしも、若原君に微笑みかけていた。
「どうしたの?」
「いや、平原が眠れないんじゃないかと思ってさ。話しでもしようかと」
「本当は、若原君が眠れないんじゃないの?」
「実はそうなんだ」
 そう言って、あたしと若原君はまた微笑みあった。
 あたしはようやく、若原君と普通に話す事ができるようになっていた。
 自分に自信がついたからなのかも知れない。
「お前体力付けておかないと、また四次元移動でぶっ倒れるんじゃないか?」
 あたしは明日、二度目の四次元移動をすることになっていた。
 馬車で三十日の距離を一瞬で移動するには、一度四次元に入って、そこから移動するしか方法がないの。
 あたしは一度倒れていたから、若原君は心配してきてくれたんだ。
「心配してくれてありがとう。でもたぶん大丈夫だと思う。今度はユーリルがいろいろ教えてくれたから」
「そうか。それならいいけど。明日はリカームの城下町だな。そこで、影武者の姫と身代わりの姫が入れ替わって、半日かけて王宮に入るのか。その後の予定聞いた?」
 あたしは教育を受ける方に忙しくて、王宮についてからの予定はほとんど知らされていなかったの。
 そういえば、王宮に入ってから、あたしは何をするのかな。
「ぜんぜん教えてもらってない。若原君は知ってるの?」
「さっきユーリルに聞いたよ。……まず、ついたその日は王女宮で湯浴みをして、身体を清める。親子水入らずの夕食会があって、初めて王様に会うんだってさ。従者のオレも出席できるように、ユーリルがねじ込んでくれたらしい。そのかわりユーリルは出席できなくなったって」
 明日あたしは初めて王様に会うんだ。
 ユーリルがいないとなると、少し不安だな。
「そのあとは王様と二人だけで、王宮の中にある簡単な神殿に礼拝するらしい。これは到着の報告で、一時間くらいの短いやつだよ。それでその日はおしまい」
「若原君は来ないの?」
「神殿だから、神官以外は王族しか入れないんだってさ。オレは外で待ってるよ。作法は習ったんだろ?」
「うん、まあとりあえず」
 若原君もユーリルもいないなんて、かなり不安だな。
 でも、しょうがないことだもんね。
 あたしが決めたことなんだから。
 きっと、何とかなる。
 あたしが納得すると、若原君はあたしを見ていて、言った。
「お前って、ほんとにすごいな」
 若原君は片肘をついて、あたしに言った。
 あたし、若原君の言葉の意味が、よく判らなかったの。
「何の事?」
「お前けっきょく全部覚えちまったじゃないか。オレ、時々わきで見てたけど、一個もわかんなかったぜ。ほんとに覚えちまったな。ユーリルだってすっげー感心してた。お前って姫の素質あるんじゃないか?」
「あたしが覚えたのは……」
 若原君のためだって言いかけた。
 でもそれは言わなくていいことだから、あたしは別のことを言ったの。
「それが自分のためだって思ったから。それに、あたしいろいろ習ってよかったと思うの。少なくとも、溜息だけは出なくなったから」
「溜息?」
「そう。鏡を見て、いつも溜息ついてたの。あたし、自分の顔っていうより、きっと性格が嫌いだったんだね。姫になるとね、その自分の嫌いな性格がかわったような気がするの。きっと姫はすごくいい子だったんだなって、あたし思う。姫がいい子じゃなかったら、今まで続けられなかったと思う。だからすごいのはあたしじゃなくて、きっと姫なの」
 あたしの言葉を、若原君は黙って聞いていてくれた。
 そして、言葉を切ったとき、なぜか若原君は少し眩しそうに目を細めて……
 若原君、あたしの言ったこと、少しは理解してくれたかな。
 あたしは若原君の次の言葉を待っていた。
 でも若原君はなかなか話そうとしなかった。
 しばらく、二十秒くらい、あたしたちは黙ったままだった。
 そして、その沈黙を破ったのは、若原君の方だった。
「明日からが大変だな。オレもかげながら応援するよ」
 そう言ってにっこりと笑った若原君は、今までと違って、とても落ち着いた雰囲気を持っていた。
 あたしはそんな若原君が、とても素敵だと思ったの。
 はしゃいでいる若原君もいいけど、こうして大人びた若原君も、とっても魅力的だって。
 この夜の雰囲気に、とても似合っている気がしていた。
「ありがとう。若原君が応援してくれたら、あたしきっと頑張れる」
「長くてもあと三十日だ。大変だろうけどお前ならできるよ。……今日ここで寝ようかな」
 え?
「嘘だよ。それじゃ、おやすみ」
「あ、うん、おやすみなさい」
 部屋を出ていくとき、若原君はにっこり笑ってウインクした。
 それがとっても決まってて……部屋を出ていったあと、あたしは顔を赤くしていた。
 今の、いったいどういう意味だったんだろ。
 特別な意味なんて、ないよね。
 聞いてみたらきっと、なーんだ、って思うような、そんな意味なんだよね。
 期待なんかしちゃいけないよね。
 あたし、ベッドに入ってからも、しばらくは心臓がドキドキしていて、なかなか眠れなかった。
 
 

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