第1話 脱出
あたし、平原茜。
あと十日もすると、夏休みが始まる。
つぎの日も、そのつぎの日も、若原君は戻ってはこなかった。
その日あたしは、通知表をもらったあと、クラブに出た。
あたしはいつものように夕食を取っていた。
「さっきも謝ったけど、もう一度謝るよ。おどかしてごめん。そして、とりあえずオレのこと部屋に入れてくれてありがとう。ほんとだったらこんなに夜遅くに女の子の部屋になんか来ちゃいけなかったよな。でもそれなりの理由があっての事なんだ」
「パラレルワールドって知ってる?」
『若原君を見つけました
平凡すぎるほど平凡な女の子。
平凡な公立高校。
平凡な成績で入学して、平凡な美術クラス。
平凡な友達。
顔も平凡。
一重のまぶた。
低い鼻。
ちょっと厚めの唇に、少し大きめの口。
丸い顔。
髪は長いけど、そのままだとボサボサになっちゃうから、うしろで一つにまとめてる。
身長も平凡で、百五十五センチ。
体重は五十キロにちょっと欠けるくらい。
平凡に、太っているのが悩み。
平凡なブレザーの制服を着て、今日も鏡の前に座った。
「ふうっ」
鏡に映ったのは、平凡で個性のない、ちょっと眠たそうな自分の顔。
あたし、この顔と一生つきあっていくんだなって、毎日思う。
毎朝、溜息が出る。
あたし、この顔が嫌いだった。
自分の身体が嫌いだった。
美人でもない、個性的でもない、一般大衆に埋没したようなこのあたし。
こんなあたしに、テレビドラマみたいな恋愛なんて、縁がないと思う。
十五歳になっても、ボーイフレンド一人できたことがない。
でも、当たり前かなって、毎日思ってる。
鏡の前であたし、毎日自分が嫌いになる。
誰かが魔法をかけて、あたしを美人にしてくれないかなって思う。
でもそんな事、不可能だって事も知ってる。
あたしには、華やかさなんて似合わないの。
これからもきっと一生、あたしは平凡に生きていくんだって、諦めながら暮らしてる。
たぶん、十年経っても二十年経っても、あたしはこのまま変わらないって。
そうして諦めながら、あたしは三面鏡を閉じた。
平凡な学生鞄を持って、あたしの平凡な一日は始まった。
これまでと同じ、平凡な学生生活が。
あたしの夏休みは、中学の頃と変わらない。
クラブは合唱部。
でも歌は上手じゃない。
中学のころ、ブラスバンド部に入りたくて、でも間違えて入った合唱部。
入りなおすことも出来なくて、結局三年間ずっと続けたの。
その時の先輩に誘われて、断わり切れなくて、結局高校でも続けるはめになった。
でも、それはそれでけっこう楽しかった。
運動部みたいに厳しくない、気楽な先輩達。
女の子たちの、楽しいおしゃべり。
誘ってくれた先輩は、高校生になって、とってもきれいになっていた。
優しくて、歌が上手で、いつもあたしを可愛がってくれた。
居心地のいいクラブ。
でもそれだけのクラブ。
二学期には文化祭があったから、夏休みは毎日練習があった。
それであたしの夏休みはおしまい。
あとはお盆に田舎にいくだけ。
夏なのに、海に行く予定もない。
クラスの友達が誘ってくれても、クラブ活動が優先。
でも、それでもいいかなって思ってる。
あたしには、平凡以外の生活なんて似合わないから。
あたし、いつものように教室に向かっていた。
一年六組は五階の教室。
階段はしんどいけど、隣は音楽室。
よって、部活に行くには一番近い。
朝は音楽室は素通りして、うしろのドアから教室に入った。
今日はなんとなく、みんながそわそわしている気がしたの。
真ん中へんの自分の席に鞄をおいて、いつもの友達に声をかけた。
「おはよう、よっこ」
「おはよう、ひら。顔にまつ毛ついてるよ」
「え? ほんと?」
あたし、よっこの貸してくれた鏡を見ながら、まつ毛をさがして取った。
今日は余分に顔見ちゃった。
ちょっと損した気分。
「ありがと」
よっこに鏡を返して、あたしは一度教室を見回していた。
「なんか騒がしくない?」
「職員室が変なんだって。先生達が行ったり来たりしてて。何かあったんじゃないかって……ほら、今日なおこが日直でしょう?」
よっこの言葉に、あたしは再び教室を見回していた。
なおこのまわりには、人垣が出来ていた。
しきりにしゃべりつづけてる。
その時、いつもより少し遅れて、先生が入ってきていた。
いつもの挨拶を済ませたあと、先生は少し困ったようにしゃべり始めていた。
「みんなにききたいことがある。実は、若原が昨日いなくなったらしいんだ。誰か何か知らないか?」
みんなが一斉にざわざわし始めていた。
あたしもびっくりしてあたりを見回した。
もちろん、若原君がいるはずもなかった。
いつも元気で、クラスの人気者の若原君。
サッカー部で、将来有望の新人。
顔も愛敬があって、背も高くてカッコよかった。
勉強もよく出来て、入学式のとき、新入生代表の挨拶をした。
その若原君が、いなくなった……?
「いつからいなくなったんですか?」
きいたのはよっこだった。
「それがな。昨日の夕食のときはいたんだ。それから二階の自分の部屋に入って、お母さんがお風呂の時間に声をかけたときはもういなかったらしい。荷物もほとんどなくなっていなくて、靴もはいて出てないし、玄関に来た様子もないんだ。それで昨日から捜してるんだが。……誰か、昨日の若原がいつもと違ったこととか、気付いたことはないか?」
みんな、誰も何もいわなかった。
あたしも昨日の若原君の様子を思い出して、でも、いつもと違うことなんて、少しも思い当たらなかった。
いつものように元気で、サッカーのこととか、夏休みのこととかを、大きな声で話していたから。
あたしも聞きながら、とっても羨ましく思ったの。
どうしてこんな人がいるんだろう。
勉強もできて、スポーツもできて、みんなの人気者の若原君。
あたし、若原君がすごく気になっていた。
きっと、若原君が好きなんだって、そう思ってた。
あたしはいつも若原君を見ていたから。
こっそりトランプ占いをして、相性が少しいいって喜んでた。
その若原君が、誰にも何も告げずに、突然いなくなってしまったなんて……。
あたし、ただ驚いて、呆然として、先生が出ていったことにも気付かなかった。
前の席のよっこの呼ぶ声で、あたしはようやくわれに返ったの。
「ひら、かえろ」
「……え?」
「今日は全校授業なし。若原のおかげだね。まあ、今日の授業なんてあったとしてもテスト返しだけだったけどね。親にしかられるのが一日伸びたよ」
見回すと、クラスのほとんどが、帰り支度を始めていた。
あたしも、鞄を持って、よっこと一緒に教室を出たの。
校門でよっこと別れて、あたしは一人で家に帰っていた。
お母さんにいろいろ聞かれたけど、あたしは事情を話すのもそこそこに、自分の部屋に駆け込んだ。
帰り道の間中、あたしは若原君のことを考えていたの。
若原君との最初の記憶は、入学式のとき。
新入生代表、一年六組、若原聡。
はい、って答えた若原君の澄んだ声。
あたし思わず振り返っていた。
すっと長身で、学生服がよく似合って……
短い髪をきっちりと切り揃えていて、少し浅黒い肌が、ライトに映えてきれいだった。
たぶんあたしが若原君を意識した最初の時。
挨拶の声はよどみがなくて、あたしはまるで音楽でも聞いているかのように、若原君の声に聞き入っていた。
堂々として明るい声。
この学校に来てよかったって、その時初めて思ったの。
同じクラスになれてよかったって。
第一希望は音楽だったのに美術クラスに入れられちゃって、ちょっと不運だったと思ってたのに、それが若原君と同じクラスになれた原因だったから、あたしはそんな不満もすっかり忘れていた。
苦手な美術も好きになれそうな気がしたの。
教室ではあたしは目立たない存在。
だからこのことは誰にも言わなかった。
自分が平凡だって判っていたから。
若原君は輝いてた人だから、あたしは若原君の恋人には不釣合だったから。
若原君はクラスの誰にでも話しかけた。
あたしも二回話しかけられた。
一度は教室で、若原君が先生に頼まれてレポートを返してくれたとき。
あたしのレポートを見て、たった一言。
「達筆だね」
って。
あたし何も言えなくてうつむいていた。
顔が熱くなって、赤くなった気がした。
そんな顔を若原君に見られたくなかったの。
もう一回は帰るとき。
昇降口で若原君はあたしを追い越した。
その時に笑顔で言われたの。
「バイバイ、平原さん」
バイバイって言葉に、あたしはなんて答えていいのか判らなかった。
ようやくさよならって言いかけたとき、若原君はもういなくなっていた。
たったそれだけ。
でもあたしには大切な想い出だった。
入学のときに撮った写真を、あたしは広げて見ていた。
一番上の段に、ちょっと緊張した顔で写る若原君。
その一枚しか、あたしの手元にはないの。
写真屋さんで拡大できる事は知ってたけど、この想いを誰かに知られそうで出来なかった。
遠足のときの写真、笑顔で写る若原君をあたしも欲しかった。
でもあたしが若原君を好きだなんて知られたら、クラスのみんなにばかにされそうで……それよりも、若原君に軽蔑されそうで、あたしも欲しいって言えなかった。
素直に欲しいって言える娘が羨ましかった。
クラスの人気者だった若原君。
すぐに帰ってくるよね。
あたしの前から消えたりしないよね。
若原君のいない学校なんて、あたしちっとも楽しくない。
ううん、あたしのためなんかじゃなくていいの。
若原君の好きな娘のためでいいから、一年六組に戻ってきて。
あたし、見ているだけでいいから。
机に飾った写真をなでながら、あたしはひたすら祈っていた。
若原君が帰ってきますように。
このまま消えてしまいませんように。
あたしは、祈りつづけていた。
授業も普通に戻って、テストが返され、夏休みの宿題が出された。
始めのころは若原君の話題で持ちきりだった教室も、少しずつ、若原君がいないことに慣れ始めていた。
宇宙人にさらわれたとか、神隠しにあったとか言っていた男の子たちも、だんだん自分のことで忙しくなっていたようだったし。
でも、若原君がいなくなったことで、みんなの中には一つの空洞が出来てしまった。
楽しい話をしていても、突然話題がとぎれて、しんとなる。
そんな事をくり返すたび、あたしたちは若原君の大きさに気付いたの。
若原君の存在が、どれほどクラスの中に大きかったかを。
ほかの誰がいなくなったとしても、こんなにも寂しくなることはなかったと思う。
いなくなったのがあたしだったら、きっと一日で忘れられていたんだと思う。
みんな堪えていた。
あたしもものすごいダメージを受けていた。
でも、あたしは目立たなかった。
みんなが同じ思いだったから。
それだけにはあたし、感謝をしていた。
あたしの好きな人が若原君じゃなくて、その人がいなくなったのだとしたら、あたしの落ちこみだけが目立ってしまっただろうから。
自分の気持ちが誰にも知られなかったことだけ、あたしは感謝していた。
そして、若原君がいなくなって、今日で十日が経とうとしていた。
一学期最後の日が訪れていた。
それもすぐに終わって、家に帰ってお母さんに通知表を渡したあと、いつものように部屋に入った。
長い夏休みが始まる。
若原君がいれば、あたしの夏休みも、少しは楽しかった。
音楽室の窓からは、グランドがよく見えたから。
みんなが来る前に音楽室に行って、サッカー部の若原君を見ることも出来たはずなのに。
でも今、若原君はいない。
二学期になっても、若原君には会えない。
十日会わなかっただけで、あたしは若原君に会いたくてしょうがなかった。
いつも話していた訳じゃないのに、話したことなんて二回しかなかったのに、若原君がいるだけで、あたしはとても楽しかったの。
見ているだけで楽しかった。
声が聞こえるだけで、とても幸せだった。
若原君のいない生活は、平凡を通り越して味気なくさえあった。
これから四十日間、若原君のいない生活の中で、あたしは立ち直れるのだろうか。
いつか若原君のいない生活に、慣れることが出来るのだろうか。
そのうち何もかも忘れて、若原君がいたことすら忘れて、平凡なままに生きてゆくことが出来るのだろうか。
あたしには出来ない気がしていた。
あたしは今まで、自分がこんなに若原君を好きだなんて、知らなかった。
ただ憧れてるだけだって、そう思ってたの。
もしかしたら、本当に憧れていただけだったのかも知れない。
でもいなくなってしまったから、あたしの中の想いが、勝手に育ってしまったのかも。
だとしたらそんなのってない。
いなくなってしまったから、想いが育ったのだとしたら、育ってしまった気持ちはどこへ行けばいいんだろう。
それを打ち明けることも出来ない。
消すことが出来るのかも判らない。
いっそ消えてしまえばいい。
そうすればこんなに寂しい想いを味わわなくてもいいのに。
若原君が帰って来てくれたら……。
宇宙人にさらわれたのなら、宇宙船を乗っ取って帰ってきて。
神隠しにあったのなら、神様を騙してでも帰ってきて。
帰ってきてくれたら、恋人がいてもいい。
それならたぶん忘れられる。
あたしみたいな平凡な女の子が、若原君の恋人になれるとは思ってないから。
若原君にはきっと、明るくて活発な女の子が似合うから。
もし本当にそんなことになったら、きっと見ているのもつらいだろうけど。
でもその方が……
きっと、楽になれる。
そしていつものようにお風呂に入っていた。
いつもと同じように時間が流れていた。
そして、明日からは高校に来てから初めての夏休みになる。
あたしはバスタオルを巻いて、部屋に戻ってきたの。
食事のとき、お父さんもお母さんも、あたしの元気がないことを心配していた。
でもあたしはもともと元気のない子だから、口でいうほど気にかけていると思えなかった。
バスタオルで頭を拭きながら、あたしはパジャマに着替えた。
そして、髪をとかすために、鏡の前に座る。
鏡の中の自分は、上気していて田舎娘みたいだった。
でも、これがあたしなんだ。
おなかに肉がついてて、ほとんどくびれのない身体。
胸なんて申し訳程度にしかない。
短くて太い首。
短くて太い足。
痩せれば少しは見られるかな、って思って、ダイエットしようと思ったこともある。
でも、そう思っただけでストレスがたまって、いつもより余計に食べてしまった。
意思が弱くて、ダイエットも出来なかった。
スポーツも苦手で、走るのも遅かった。
春のスポーツテストでは、走っているところを若原君に見られたくなくて、いつも遠くでテストを受けていたの。
見られるのが恥かしかったから。
男女合同の体育のときが一番嫌だった。
身体の弱い友達が倒れたのをいいことに、保健室まで付き添いながら逃げていた。
あたし、臆病だった。
もし十日前に若原君がいなくならなかったとしても、来年クラスが別れてしまったら、きっとあたしは若原君に忘れられてた。
あたしはいつも逃げていたから。
若原君が見えないところへと、いつも逃げていたから。
そうやって一人で自分に沈んでいたその時、あたしは信じられないものを聞いたの。
「平原」
それは若原君の声。
小さかったけれど、その声が若原君のものだって、あたしは確信していた。
でもこの部屋でそれが聞こえるはずがない。
だからすぐにあたしは判っていた。
これはきっと幻聴。
あたしが若原君の事を考え続けていたから。
あたし気がついて、とっても恥かしい気がしていた。
幻聴を聞くほど、あたしの心は若原君でいっぱいだったって。
「平原」
どうして?
どうして聞こえるの?
あたし、判っているはずなのに、部屋の中をキョロキョロと見回した。
「平原、外。窓あけて」
今度こそはっきりと、あたしは聞いていた。
その声が若原君の声だって、あたしには確信があったけど、それでもあたしは疑ってた。
これはきっと若原君じゃない。
誰か別の人の声を、あたしが聞き違えているんだって。
あたし、声のしたほうを、つまり、窓を振り返った。
そこには、人一人分くらいの影が、くっきりと浮かび上がっていた。
「誰?」
自分の物とは思えないような、あたしの声。
その声に気がついたように、外にいる人が言った。
「若原聡。お前と同じクラスの」
この時あたしが思ったのは、もしかしたら若原君は実はもう死んでいて、幽霊が来ているのかも知れないということ。
でもその時のあたしは、あとで思い返しても信じられないくらい、勇気があったの。
恐いもの見たさだったのかも知れない。
ゆっくりと窓に近づいて、そして、窓をあけた。
外の生暖かい空気が、すうっと流れ込んできて、その中に、窓枠に窮屈そうに立ちつくした、若原君がいたのだ。
「若原……君?」
「そう。中に入れてくれる?」
あたし、もしかしたら半分おかしかったのかも知れない。
若原君の姿を見て、思わず叫びだしそうになっていた。
「あ、頼む。静かに!」
一瞬の差で、若原君はあたしの口を塞いでいた。
あたし、若原君に抱きかかえられるような思いがけない体勢に、再び叫びだしそうになっていた。
だって、恐かったの。
男の子の中でも身体の大きな若原君が、あたしの身体を抱きかかえて、口を塞いでいる。
これって、普段男の子と口をきいたこともないような女の子には、恐怖を呼び覚ますような体勢なの!
そんなあたしの口を塞ぎながら、若原君は部屋の中に入ってきていた。
そして、ゆっくりと何かをしゃべりつづけていた。
「平原、落ち着いて。頼むから大声ださないでくれ。お願いだから。今オレ見つかる訳にいかないんだ。オレを助けると思って、声ださないでくれ。頼むよ。判った?」
そうして若原君の澄んだ声をきいていると、あたしは少しずつ落ち着いてきたの。
それにともなって、自分のおかれている体勢がどんなものかを、認識していったのだ。
あたし、若原君に抱きしめられてる。
胸がドキドキして、呼吸が早くなる。
これ以上抱きしめられていたら、あたしの心臓爆発しちゃう。
あたしは半ばぼうっとした頭のままで、若原君の言葉に何度もうなずいていた。
それを確認するように、若原君はあたしを抱きしめていた腕をゆっくり弛めていったの。
「ごめん、おどかして悪かった。謝るよ」
そう言って、若原君はにっこりと笑った。
久しぶりの、十日ぶりの若原君の笑顔。
あたし、胸が一杯になって、何も言えなくなってしまったの。
若原君が帰ってきたって、ただそれだけだったのに。
でもあたし、今のあたしには、それが一番嬉しいことだったの。
だから、このちょっと不自然な若原君の現われ方について、何も感じる事がなかったの。
ただ嬉しくて、あたしは知らず知らずのうちに、涙を一杯にためていた。
「ご、ごめん、オレが悪かったよ。謝るから泣かないでくれ」
違うんだよ、若原君。
あたしは嬉しくて泣いているの。
若原君が帰ってきて、それをあたしに知らせてくれたから。
平凡な、二回しか話したことのないあたしに、一番先に知らせてくれて。
ううん、本当は一番じゃないかも知れないけど、それでもわざわざ知らせてくれたから。
こんな、あたしの部屋にまで来て……
その時ようやく、あたしはこの不自然な状況に気がついていた。
どうして窓から入ってきたの?
玄関から来てくれればよかったのに。
どうやって窓によじのぼったの?
どうして靴をはいていないの?
それに……
「その洋服……」
あたしが言いかけたとき、若原君はちょっと困ったような顔をしていた。
あたしが言いたかったのは、若原君の格好が普通じゃなかったって事。
中世の騎士のような、シルバーの甲胄。
その下には、袖の広がった柔らかそうなブラウスに、ぴったりしたタイツをはいていた。
それはとっても若原君には似合っていたけれど……
この姿で外を歩いてきたのだとしたら、目立たない訳にはいかなかっただろう。
若原君は照れたような顔をして、あたしに笑いかけていた。
「なんか、たくさん説明しなきゃならないことがあるんだ。とりあえず座らない?」
あたし、たまっていた涙を拭いて、若原君の提案を受け入れた。
あたしの中には、戸惑いと好奇心がわき上がっていた。
あたしはまだ信じられなかった。
若原君が、あたしの部屋にいることを。
あたしの部屋、最近掃除もしてなかった。
若原君がいなくなったから、そんな気になれなかったの。
でもあたし、掃除をしなかったことをすごく後悔していたの。
あたしの部屋を見て、若原君はどう思ったんだろう。
それを考えると、顔から火が出そうなほど恥かしかった。
「平原、まだ怒ってるのか?」
若原君の言葉に、あたしはびっくりした。
あたし、怒ってなんかいなかったのに。
若原君、勘違いしているの……?
あたしはあわてていった。
「ぜんぜん怒ってない……です」
「よかった。何も話してくれないから、怒ってるのかと思った。オレ今までも怒らせてるつもりなかったけど、平原って他の人とは平気でしゃべるのに、オレとは口きかないだろ。オレ嫌われてるんじゃないかと思ってたんだ」
そう言えばあたし、今まで若原君に話しかけられても、答えたことなかった。
若原君には、あたしが怒ってたように見えてたの?
あたし、心の底から申し訳ないと思った。
だからあたし、勇気をふりしぼって、若原君に言ったの。
「ごめんなさい。あたし、引っ込み思案で……若原君みたいな元気な人と、どう接していいか判らなくて……。怒ってなんかいなかったの。ごめんなさい」
「それをきいて安心した。ユーリルに紹介してくれって頼まれたけど、嫌われてるかも知れないと思ってたから、約束果たせるかどうか不安だったんだ。少しだけ希望が持てた」
そう言って若原君は、姿勢を正した。
若原君の言葉に含まれてた新しい単語に、あたしも少し緊張していた。
ユーリルって誰?
約束って何?
若原君は、誰かとの約束を果たすために、あたしのところに来たの?
たくさんの不安の中で、あたしは緊張していたの。
でもあたしにはその前に聞きたいことがたくさんあった。
どうしていなくなったのか。
今まで何をしていたのか。
そのことを先に聞いてみたかったの。
「若原君、どうして突然いなくなってしまったの? 今日まで何をしていたの? ううん、それよりも、これからはもういなくなったりしないわよね。今日は帰ってきたんだよね」
あたしの言葉に、若原君は困ったような顔をして、言った。
「それも含めて話すけど。……オレ、今日は帰って来たんじゃないんだ。平原に話があって、一時的に戻ってきただけなんだ。だから誰にも知られたくなかった。オレが戻ってる事を知ったら、オレのこと心配している人……お袋とかに余計な心配かけるだろ。オレにはまだしなければならないことがあるんだ。それには、平原の協力が必要なんだ。これから詳しく話すけど、そんな訳でオレはまだ戻ってはこられない」
若原君は帰ってきた訳じゃない。
あたしはそのことにショックを受けていた。
若原君は、いなくなってしまう。
「また、いっちゃうの?」
「平原にも一緒に来て欲しい」
え? あたし?
「こんな事言うなんて突然で驚くと思うけど、オレには平原の協力が必要なんだ。とりあえず話をきいて、それで決めてもらえばいい。オレ、平原に全部話すから」
そうしてあたしは、若原君の話を聞くことになった。
それは、とても信じられないような、夢のような話だった。
きいたことはあったけど、それがどんなものなのか、あたしには判らなかった。
「知らないか。オレもよく判らないもんな。ともかく、日本語では並行宇宙って言うらしい。オレ達の生活している宇宙に重なって、もういくつかの……っていうか、無数の宇宙が同じ場所に重なるようにあるって事らしいんだ。オレ達は三次元の中で生活しているけど、それらは四次元の世界から見れば、まるで紙が重なっているように重なってみえるんだ。例えば……こう、何枚もの紙にいろんな絵が描いてあるとするだろ? その紙を重ねると、紙に描いてある絵は、お互いにほかの絵の存在を認識することが出来ないだろ? 紙は二次元だから、三次元的な感覚は判らない。三次元のオレ達が見れば、それらが重なっていることが判る。そんなふうに、三次元のオレ達の世界も、同じような三次元の世界と重なっているんだ。四次元の世界に行くと、三次元の世界が重なっていることが判る。それが、パラレルワールドなんだ」
紙に描いた絵のように、重なった世界。
それがどんなものかは判らないけど、あたしは信じられるような気がしていた。
あたしがうなずくと、若原君は先を続けた。
「そのパラレルワールドの一つに、リカーモンドという世界があった。オレがあの日……十日前のあの日に、突然いなくなったのは、その世界の人間がオレの部屋にやってきたからなんだ。
ユーリルという男は、オレの部屋に突然現われた。驚いているオレに、ユーリルは不思議な物語を話したんだ」
若原君が現われてあたしが驚いたように、若原君もユーリルという人が来たことで驚いたに違いない。
あたしはその時の若原君の驚きを、想像することが出来た。
そしていつしか、あたしは若原君の話に引き込まれている自分を感じていた。
「ユーリルの国では、パラレルワールドを移動することが出来るらしい。最近ユーリルの国の姫がさらわれて、別のパラレルワールドに犯人が逃げ込んだんだ。ユーリルはその姫の行方を追って、この世界にやってきた。ほかにも何人もの人間が必死で姫の行方を追っているけれど、もうずいぶん経つのに姫の行方が判らないんだ。そして偶然、オレはユーリルの姿を見てしまった。……ほんとはオレはとんでもないことをやらかしたんだ。オレ、好奇心が押さえられなくて、ユーリルの奴を脅迫して、この話を白状させちまったんだ。
ユーリルの世界には、四次元移動をするときの掟みたいなものがあって、まあこれは四次元世界を移動できる三次元世界すべての掟らしいんだけど、四次元移動の出来ない世界の住人にパラレルワールドの存在を話したりしちゃいけないらしいんだよな。オレは話をきく代償として、二つのことを約束させられた。この話を誰にも漏らさないってことと、ユーリルの捜しものが見つかるまで、ユーリルに協力するって事を」
話をききながら、あたしは若原君の矛盾点に気がついていた。
若原君、あたしにこの話してるじゃない。
約束、破ってるよ。
「平原、お前、この話誰にもしないって約束できる?」
意地悪そうな、でもちょっとチャーミングな若原君の笑顔。
あたし、無心でうなずいていたの。
若原君が言うなって言うんだったら、きっと誰にも言わない。
「よかった。それでオレはその時から姿を消すことになったんだ。行方不明のあいだ、オレはリカーモンドにいたんだ。そこでユーリルにいろんな事を話してもらった。
リカーモンドの姫は、フローラっていう名前で、もうじき十六才の誕生日を迎えるんだ。その国の風習で、王家の姫は十六才までは王宮からはなれたところで教育を受けることになっていて、成人とみなされる十六才になって初めて、王家の人間として認められて、王宮に戻ってくるんだ。フローラ姫はあと一ヶ月ちょっとで十六才になるところで、今まで住んでいた離宮から馬車で旅を始めた直後に、何者かによってさらわれてしまった。ユーリル達重臣は、姫がさらわれたことを隠して、あと一ヶ月の間に姫を捜そうと、ばらばらになって旅を始めたんだ。さらわれたことを王様に報告したら、ユーリル達の首が飛びかねなかったからな。でも、どこを捜しても、姫は見つからなかった。そんなときに、オレとユーリルは出会った。
オレ、リカーモンドに行って、十四才のころの姫の肖像画を見せてもらったんだ」
今まで普通に話していた若原君が、この時言葉を切ったの。
そして、あたしの顔をまじまじと見たの。
あたしも、今まで冷静に(とは言えないかもしれない)話をきいていたのに、突然の若原君の視線に、耳までまっ赤になった。
うつむいてしまって、若原君、ちょっと声を上げて笑った。
「どんな顔してたと思う?」
きかれても、あたしには答えられなかった。
姫っていうくらいだからきっと、すごい美人か何かで、ひょっとしたら若原君、その姫に一目惚れしちゃったのかもしれない。
そんなこと、あたしに言いたくて、あたしのところに来たって言うの?
だとしたらあたし、きっとこの場で泣き出しちゃう。
「ユーリルは、この国で一番の美しい姫だって言ったんだ。この国一番てところがすごいと思わないか? オレ、話半分にきいてたんだけど、……まあ、姫っていうくらいだから、多少でも美しければ、この国一番くらいの尊称がついてもおかしくないからな。オレ、そんなに期待してなかった。でも、その肖像画を見たとき……」
あたし、もう絶望的。
先なんかききたくなかった。
でも、そんなあたしの目の前で、若原君は満面の笑顔をして、あたしに言ったの。
「オレ、びっくりしてた。姫の顔って、平原にそっくりだったんだ」
若原君がそう言ったときのあたしの気持ち、いったい誰が判るだろう。
あたし、もちろんびっくりしてたけど、つぎの瞬間、とても悲しくなっていた。
あたし、少しも美しくなんてないから。
若原君もきっとそう思ったの。
だからこんな風に笑っているの。
ちっともきれいじゃないフローラ姫が、国一番の美しい姫だったから。
それが、あたしと同じ顔だったから。
あたし、若原君にばかにされたと思った。
それがとっても悲しかった。
自分が美人じゃないことくらい、あたしは知っているの。
でも若原君に言われたくなかった。
心の中で思っているとしても、こんな風に面と向かって言われるなんて、こんな残酷なこと、ほかにあるんだろうか。
それも、どうでもいい人じゃなくて、あたしが大好きだった若原君に。
こんなに悲しい事、他にあるとは思えない。
こんなに悲しい思いが……
「平原?」
あたし、いつの間にか泣いていた。
若原君は心配して声をかけてくれた。
でも、あたしの今の気持ちをいって、どうなるだろう。
美人じゃない子が、美人じゃないって言われても、それは本当のことだから。
そんなあたしの気持ちは、若原君には伝わってしまったみたいだった。
「平原。ひょっとしてオレ、お前のこと傷つけた?」
あたし、はっとして顔を上げかけたけど、泣いているときのあたしの顔って最悪だから、うつむいたままでいたの。
「そんなつもりはなかったんだ。傷つけたのは悪かったよ。だけどオレは、ほんとにお前を傷つけるためにこんなこと言ったんじゃなかったんだ。……オレってほんとにデリカシーがないのな。女の子に顔の話をすることが、どんな影響を与えるかなんて、まるっきり判ってねーの。でもな、オレほんとにお前を傷つけようと思ってたんじゃなかったんだ。むしろ、お前が喜ぶと思ったんだ。国中で一番美しい姫と、お前がそっくりだってこと。お前が国中で一番美しいって言いたかったんだ。リカーモンドでは、お前が一番美しいんだって言いたかったんだ」
若原君があたしを慰めようとしているのが、あたしには判っていた。
その気持ちだけで、あたしは救われたような気がしていた。
誰にでも優しい若原君。
あたしにも優しかった。
若原君は本当に、あたしをばかにしようとしたんじゃないんだ。
それだけで、あたしは嬉しかった。
「ごめん、謝るよ。オレ今日お前に謝るような事ばっかしてるな。今までのこと全部含めて、謝るよ。この通り!」
あたしの目の前で、若原君は土下座したの。
あたしはびっくりして……でも、これはあたしが悪いの。
もう怒ってないって、もう悲しんでないって、若原君に伝えなかったから。
ちゃんと伝えなきゃ。
あたしの気持ちを、きちんと伝えなければ。
「若原君ごめん! あたし怒ってないし、傷ついたけど、でももう判ったから。若原君悪くないから、もう謝らないで。そんな、そんな格好しないで」
あたしの言葉に、若原君は顔を上げた。
そして、ちょっと笑った。
あたしのために笑ってくれる。
あたし、しあわせものだ。
こんなに若原君が心配してくれるんだから。
「よかった。これ以上嫌われたくないもんな。そこで、さっきの話の続きだけど、オレ、ユーリルを待たせてるんだ。この部屋の近くでオレ達を見てる。ここに呼んでもいいかな」
あたし、泣き顔をもとに戻したくて、タンスのひきだしからハンカチを取りだしていた。
そして顔を拭いて、何とか顔を上げられた。
ユーリルって、あたしは知らない。
でも、この人は若原君の友達なんだ。
今までの若原君は、あたしには手の届かない、遠い人だった。
その若原君を、こんなにもあたしに近付けてくれた人。
あたし、その人に感謝したい気持ちだった。
若原君が行方不明にならなければ、きっとあたしは平凡な暮らしのままでいたから。
こんなにも若原君とたくさん話せたのは、きっとその人のおかげだったから。
あたし、その人と会ってみよう。
それが若原君の本当の望みだったから。
「あたし、その人と会ってみたい」
「そう言ってくれて助かった。ありがとう。ユーリルいるんだろ。出てきてもいいよ」
若原君がそう言ってほんの二三秒。
あたしと若原君の間に、かすかに影のようなものが現われ始めた。
それはだんだん濃い影になって、やがてはっきりとその姿を現わした。
その人は、まるで目が醒めるように美しい人だった。
どんな材質でできているのか判らないような、ブルーの髪。
象牙色のつややかな肌。
すうっと筋の通った形のよい鼻。
いく分赤みを帯びた、小さくまとまった唇。
そして、髪と対になるような、まっ青な瞳。
それらが絶妙なバランスで顔の中に配置されていて、この世のものとは思えないような、見事なまでの美貌を作り上げていたの。
あたしはユーリルにみとれていた。
そしてユーリルも、あたしの顔を見つめていた。
そして何かを思いきるように、あたしの前に跪いたの。
「姫……フローラ姫……」
涙さえ浮かべて、ユーリルはあたしを見ていた。
そしてあたしの手を取って、軽く口付けしたの。
あたしは驚いて、手をひっこめてしまった。
「姫、お捜し申し上げておりました。さぞかしおつらい目にあわれたことでしょう。でも、このユーリルが参りましたからには、心配はございません。今すぐにリカーモンドにお送り申し上げます」
あたしは呆然として、ユーリルのすることを眺めているだけだった。
ユーリルを我に返らせたのは若原君だった。
「ユーリル、こいつは姫じゃない。平原っていうオレのクラスメイトだ。話しただろ?」
「聡殿。この御方が姫ではないと、なぜ言い切れますか。こんなに姫に似てお美しい方が、この世に二人といる筈がございません。こんなに美しい方が私の姫ではないと申されますか。本当にこの御方は姫ではないのですか?」
ユーリルは言いながら、あたしを穴の開くほど見つめていた。
その目には涙が浮かんで、やがてこぼれ落ちていた。
あたしにはユーリルの絶望がよく判った。
本当はユーリルも判っているの。
あたしが姫なんかじゃないって事を。
でも、それを認めたくなくて……誰かに姫だって言ってほしいの。
でも、若原君もあたしも、そんなユーリルの希望をかなえてあげようとはしなかった。
「平原は四月からオレと同じクラスにいた。姫がさらわれたのは二十日前だろ? その前から平原はオレのクラスメイトだったんだ。お前の気持ちは判るけど、こいつはただのそっくりさんだよ。お前の姫じゃないんだよ」
あたし、ユーリルの視線が苦しかった。
今までどんな気持ちで姫を捜していたのか、はっきりと判ってしまったから。
きっとあたし以上に、若原君の方がよく判っているはず。
若原君は今まで十日間、ユーリルのそばにいたのだから。
「ユーリル」
「……判りました。この御方は私の姫ではないのですね。こんなに良く似ていらっしゃる。髪の一筋までもそっくりだというのに。……良く判りました。この御方は何という名前なのですか?」
「えっと、平原……何だっけ?」
若原君、あたしの名字は知ってても、名前までは覚えていないみたい。
でも、それは当然のことだから、あたしは特にがっかりするようなことはなかった。
「平原茜です」
「平原茜殿。私はフローラ姫の護衛隊長のユーリルです。以後御身知り置き下さい」
「はあ」
いまさらながらに、あたしは不思議な感じだった。
ユーリルの美しい唇から発せられる、この古風な日本語。
でもユーリルにはとても似合っている気がしたの。
ユーリルが自分のことをオレとか言ったら、それこそそぐわない気がする。
そのユーリルが、真剣な目をして、あたしに言ったの。
「平原茜殿、無理を承知でお願いいたします。私たちの国のフローラ姫は、悪い人間によってどこかにさらわれてしまいました。私たちは今まで二十日の間、フローラ姫を捜しつづけて参りましたが、依然手がかりはつかめておりません。フローラ姫は本来でしたら今現在、王宮までの一月の距離を、馬車に乗って旅していることになっています。その間は作法により、姫は顔を隠しておられます。私たちは姫の影武者をたて、今現在をしのいでおりますが、あと十日で姫の馬車は王宮にたどりついてしまうのです。そうなれば、御父上であらせられる国王とも顔を会わせなくてはなりません。ですが今の状態では、あと十日で姫を見つけることは絶望なのです」
話の途中から、あたしはユーリルの言いたいことが見えてきていた。
でも、それを言うことでユーリルの話の腰を折るつもりもなかったし、それより、あたしはこの先が、自分の想像の通りでないことを祈っていたの。
「無理なお願いであることは重々承知しております。ですがどうか、私たちに力を貸して下さい。姫が見つかるまでの数十日間、姫様の影武者となって下さい。この通りお願い申し上げます」
ユーリルは絨毯に頭をこすりつけるように、あたしの前に平伏していた。
あたしは困っていた。
だってあたしは、普通の女の子だったから。
平凡すぎるほど平凡で、何のとりえもない女の子。
自分のことを大嫌いな女の子。
引っ込み思案で目立たなくて、何かをする勇気もなくて……
あたし、こんな自分が大嫌いだった。
あたしに姫の影武者なんて、出来るはずがない。
「オレからも頼むよ平原、この通りだ」
若原君まで、ユーリルと同じポーズをして、あたしにお願いしていたの。
あたし、こんなに必要とされているの?
この人達には、あたしのたった一言がこれほど重要なの?
あたし今まで、こんなに自分が必要とされたこと、あっただろうか。
こんなにまで求められたこと、今までなかったの。
あたしの夏休み、合唱部にあたしがいなかったら、何かが変わる?
登校日に出席しなかったら、みんな気付いてくれる?
突然あたしが消えてしまったら……きっと両親だけは、あたしを心配してくれる。
でも今あたしに必要な事って、求めてくる手を握り返してあげることなのかも知れない。
なんたって、あたしの好きな若原君が、こんなにもあたしを必要としているんだから。
あたしがいなかったら、この人達は本当に困ってしまうのだから。
さっき若原君は言ってたの。
王様にばれたら、ユーリルの首が飛びかねないって。
このユーリルは今、命を賭けてあたしに頭を下げてる。
あたしの返事一つで、この人の命はなくなってしまうかも知れないんだ。
あたしには人の命を左右する力なんてない。
きっとない。
「判った。あたし、協力する」
「本当に?」
「それでいいのですか?」
「そのかわり、あたしを二学期が始まるまでには帰して」
あたしの夏休み、若原君とユーリルにあげる。
大好きな若原君と、初めて見る完璧な美少年のユーリルに。
「二学期というのはいつ始まるのですか?」
「四十日後だよ。オレもそれ以上の時間を拘束する訳にはいかないと思う。この社会ではそれ以上は無理だ」
「判りました。それ迄に本物の姫を捜しだします。一日も早く姫を捜しだして、必ずや平原茜殿をこの世界に帰して差し上げましょう」
そうしてあたしは、ユーリルの住む世界、リカーモンド王国に行くことを決めた。
両親が心配するといけないから、短い書き置きを残して。
それは、つぎのような文章だった。
必ず連れ戻してきます
安心していて下さい
茜
追伸
このことは夏休みが終わるまで
誰にも言わないでください 』