赤い砂の大地


 第3話 変化
 
 

 裕のからだからあふれる血の量が、目に見えて少なくなっていった。四日目のその日、僕が目覚めると、裕はとても元気になっていた。
「カザムノで下着を作ったんだ。これで血の跡を残さずに歩けるよ」
 裕が見せてくれたのは、カザムノを蔓草でとめただけの簡単な代物だった。裕は下着のできばえに満足していた。僕は下着よりも、裕が元気になったことに満足した。
「今日から歩けるのか?」
「平気。死にたいと思うほど苦しかったのに、まるで嘘みたいだ。身体が軽い」
「干し肉を集めてくるよ。出発しよう」
 このところ、リグやマトナは現われなかった。ピジョン=ブラッドが傷つけたリグは、あのあと方々に散っていった。それが餌の役割をしていたのだろう。僕達の側には、少しも寄ってはこなかった。
 僕達は三日間過ごした岩のクラプトを離れた。それから二日も歩くと、裕の悪魔は完全にからだから抜け出ていった。風景はまた砂を多く含むようになり、風の赤さも次第に増していった。
 大きな動物は通らなかった。僕達はルミノクを取っては、その日の食料にしていた。干し肉は出来るだけ減らさないようにしていた。
「ルミノクは燻製にすると干し肉と同じように保存がきくようになるんだって。ピジョン=ブラッドが言っていた」
 裕はそう言って、燻製の作り方を僕に説明した。ただ、少し難しかったので、作ってみる気にはなれなかった。その日眠る前、裕がぼそっと言った。
「今はピジョン=ブラッドが悪い人間だとは思ってない」
 もし今度ピジョン=ブラッドと会ったら、三人で話が出来るだろう。僕はそのことをピジョン=ブラッドに伝えたいと思った。
 森の側を抜けようと思ったとき、初めての雨がふった。僕達はあわてて森のなかに入った。たくさんの雨が、森の木をぬらした。僕達は水筒に雨水を受けて、まだまだ降りそうだったから一度水を飲んだあと、もう一度水筒を一杯にした。これでまた三日くらいは水場が見つからなくても大丈夫だった。
 雨が上がったあと、僕はカザムノで裕のからだをふいてやった。その時僕は、裕のからだの変化に気がついた。これが初めてだった。
「やわらかい」
「本当?」
「触ってみてもいい?」
 裕の肩と胸。僕は触ってみて、僕の身体と比べた。胸がやわらかくて、筋肉の感触がしなかった。少しだけれど、二つにふくらんでいる。肩はいつの間にか細くなっていた。おなかの筋肉も衰えていた。そして、ペニスが、元は僕と同じ形をしていたのに、小さく縮んでいた。不思議だった。
「ペニスはやがて完全になくなってしまうよ」
「なくなって、ナギになるのか?」
「ナギはもうあるよ。ナギが出来てから悪魔がくるんだから」
「見せてくれない?」
「聖地についたらね。それ迄は見せない」
僕は、身体のなかが熱くなってゆくのを感じた。僕のなかにも悪魔が芽生えてゆくようだった。僕は裕の髪に触れた。裕の髪は濡れていた。
「裕の髪が冷たい」
僕は知らずに裕を引き寄せていた。僕の唇が裕の髪に触れる瞬間、裕はあわてて僕を引き離した。その顔は、驚愕に目を見開いていた。
「渉、いけない。僕に触るな!」
急速に、僕のなかの悪魔は去っていった。そんな僕の顔を見て、裕はほっと胸をなで下ろした。
「びっくりした。渉の目が赤みがかってた。僕がもっと気をつけなければいけなかったのに。今日は十五日目じゃないか」
 僕には裕の言うことが良く判らなかった。
「どういう事?」
「僕の身体と渉の身体の結びつきが一番強くなる日。この日に僕と渉が結びつくと、子供が宿る。僕の身体はもう、子供を作ることが出来るんだ。だけど、今作る訳にはいかないんだよ。聖地についてからでないと流産する。流産したら二度と子供が作れない」
 僕の身体も裕と同じように変化している。裕と同じサイクルで。裕のからだの準備が出来れば、僕の身体は裕を求めてしまうんだ。そうして、もし自制出来なくなったら、裕は身体に子供を宿してしまう。第四世代は、聖地で生まれなければならない。聖地以外のところで身ごもる訳にはいかないんだ。
「ごめん、気をつける。これは僕の責任だ」
 僕の責任は裕を守ること、そして、僕自身を自制すること。
 僕は今、自分の意志を鍛え上げる必要に迫られたのであった。

 僕達はまた、少しの砂地を通り抜けた。そして、また森に入った。今度の森は長かった。そのなかで、裕はまた悪魔にむしばまれた。
 裕の身体は確実に変化していた。体毛が薄くなり、身体はさらに丸さを増した。腰に肉がつき始め、その分、胴が細くなっていった。
 僕は裕のからだが変化してゆくのが楽しかった。胸が少しずつ大きくなってゆく。筋肉がやわらかくなってゆく。裕の腕はもう、僕とは比べ物にならないほど細くなっていた。僕はときおり裕の身体に触れて、その感触を確かめた。僕が裕を抱き締めると、裕は露骨にいやそうな顔をした。それでも僕は、裕を抱き締めるのをやめようとはしなかった。
「渉、こうしていると、この間悪魔を迎えた日のことを思い出すよ」
 その日、僕は木の枝や葉を集めて敷き詰めたあと、カザムノを敷いて、その上に裕を寝かせていた。裕のほおをなでて、裕が少しでも痛みを忘れていられるように、いろんな話をして聞かせていた。
「僕は裕の側からはなれないよ。裕をつらい目にも合わせない」
「僕は渉を失いたくなかったんだ。渉が僕をおいて、ピジョン=ブラッドのところへ行ってしまいそうな気がしたから」
「どうしてそんなことを? 僕には裕しかいないのに」
「ピジョン=ブラッドがきれいだったから。切れ長の目に、赤く透き通るような瞳と、褐色のやわらかい髪。意志が強そうで、少し悲しそうで、僕がもっていない美しさをたくさんもっていたから。僕と渉が過ごした月日をすべて塗り変えてしまうくらい、強い印象をもった人だったから。僕にはピジョン=ブラッドに勝てるだけの自信がなかったんだ」
 裕はいつしか涙を流していた。僕はそんな裕がとても愛しく感じられた。裕が求めてきた腕に呼応するかのように、僕は裕を力一杯だきしめた。裕の身体は冷たくやわらかで、僕の力に負けて小さくうめいた。
「そんなこと、少しも心配することはないのに。僕には裕しかいない。ピジョン=ブラッドがきれいだなんて思わなかった。僕には裕しか見えてないよ。僕には裕が一番きれいに見えるよ。だって裕は僕の片方じゃないか。僕の片方は、裕しかいないじゃないか」
「僕達がもし第四世代で、お互いに違う場所で育って、顔も身体もぜんぜん違っていたら、それでも渉は僕を見つけてくれただろうか」
「判らない。でも、僕が今と同じ心をもっていて、裕が同じ心で僕の前に現われたら、僕はきっと裕を選んでいる。だって、僕は裕がいなければ眠れないんだ。裕の暖かさのなかでなければ安心できないから」
「たとえ僕がルミノクでもルギドでも」
「裕がルミノクだったらどうすればいいんだ」
「それでも僕を見つけるっていって。僕を愛するって誓って。それでなければいやだ」
「愛するよ。ルミノクでもルギドでもキラエトでもカザムでも。必ず見つけて愛するよ。誓うよ」
「ほんとう?」
「本当。絶対。必ず」
「良かった」
 裕のいうことはむちゃくちゃだと思ったけれど、僕はそれでもいいと思った。僕にとって、裕は裕だった。普段の裕も、悪魔の宿る裕も、僕には同じだ。愛している。こんな言葉は初めて使う。僕は愛している。裕を愛している。
 裕は眠ってしまった。僕は裕を抱き締めたまま、裕のほおに初めてキスをした。もしかしたらルマの悪魔は、ガイがルマを愛していることを再確認させるために訪れるのかも知れないと思った。心とからだのバランスを崩したルマを、ガイが抱き締めることによって。
 僕は裕のからだをいつまでもだいていようと思った。裕が目覚めたとき、一番最初に見るものが僕であるように。

 太陽の角度が、少しづつ変わってきているような気がしていた。裕に話すと、確かに影が短くなっているようだと言った。
「半分より多くは来たかも知れない」
 僕達は少し、勘違いしているようだった。このクラプトは少し撓っていたから、聖地の近くでは影の長さの変わるのが遅くなるのだ。僕達はまだ、半分くらいしか来ていなかった。
 砂地と森の割合がだんだん変わってきていた。まだ砂地の方が多いけれど、この割合は暫くすると逆転する。そして、わき水がたくさん集まった湖や、湖かあふれて流れを作っている川など、僕達が見たこともないたくさんの水が、聖地の回りを取り巻いている。その辺りにまでたどり着けたら、もう水の心配はほとんどいらなくなるのだ。それ迄は、たしょうざらついたりはするけれど、泥水の上澄みでがまんするしかなかったのだ。
 裕は僕の隣で、砂地を軽快に歩いていた。僕は少しづつ、自分の身体がおかしくなってゆくのに気がついていた。
「渉、あれ」
いつの間にか、裕は立ち止まっていた。僕も歩みをとめ、裕の指差す方向を見つめる。すると、少し遠いけれど、はぐれカザムがいるのが判った。
「渉、あれを狩るよ」
そう言った後の裕は俊敏だった。僕をおいて駆け出してゆく。僕はあわてて後を追った。
 干し肉は十分もっていた。あのカザムを狩っても、すべてを食べることは出来ないし、干し肉にしても持ち切れないだろう。僕は少し考えて、カザムノの必要性を思いだした。裕は、カザムにいれるつもりなのだ。
 裕が左に大きく旋回したので、僕は右に走った。敏感なカザムはすぐに僕達に気付き、遠くに逃げてゆこうとする。良く見ると、カザムはかなり年老いていた。若さの分、脚力は僕達の方が勝っていた。
 飛びかかろうとする裕を、老カザムは後ろ足で牽制した。裕は体勢を崩す。一瞬の老カザムの隙を、僕は見逃さなかった。
 軽くジャンプして老カザムの首をかき切った。もがきながら倒れる老カザムを見ながら、僕は激しく呼吸をした。今まで息を詰めていた分、身体はたくさんの空気を欲しがった。
「渉、気付いた? 僕達は遅れているよ」
僕も気がついていた。それはこの老カザムを見たときから。このカザムは、もとからここに住んでいたカザムだ。それは毛並みを見れば判る。そして、老カザムが一頭でこんな所にいるのは、仲間のカザムが既に旅立っていった後だったということだ。カザムは僕達が旅立った後、十日くらいしてから動きだすのだから。
「ここのカザムは旅立って行ったんだ。僕達は十日遅れてる」
「十日とは限らないよ。五日かも知れない。どちらにしても遅れてるね」
「早くカザムノを作ってしまおう」
 僕の身体を不安が横切っていった。不安を消し去ってしまいたくて、僕はカザムノ作りに専念していった。

 その日、裕が眠った後、僕の身体の異変は最高潮に達していた。
 その異変が何なのか、僕には判っていた。十五日目の僕の悪魔、身体の隅々までが、裕を求めて喘いでいるのだ。身体が熱くなり、頭がぼうっとなってくる。目の前の風景が赤みがかって見えるようになる。僕は身体を丸めて踞っていた。出来るだけ裕の方を見ないようにしながら、僕は僕の身体の中の、心の中の悪魔と、熾烈な戦いを繰り広げていた。
 裕の身体は最高にきれいだった。見えない裕を、僕は知らず知らずに想像していた。滑らかな肌。やわらかく膨らんだ胸。僕が触れると、裕は少し身体をのけぞらせた。何故かは判らなかった。くすぐったいと感じたのかも知れないと思った。
 僕の目の前で、裕はゆっくりと瞬きをした。そして、僕の瞳を見て、少しほほえんだ。僕には裕が、世界中で一番清らかなものに見えた。そのとき裕は、静かに足を開き……
――ああぁーっ
 僕は叫びだしそうになって、危うく押さえた。裕が眠っているのだ。裕の眠りを妨げてはならない。でもこのままでいたら――
 ガイは皆自分を押さえていた。どんなにルマに触れたくても、そうせずに自制しつづけた。僕に出来ない訳がない。僕の裕を思う気持はほかのどんなガイたちよりも強い筈だから。
 十五日目。ガイたちの悪魔のとき、ガイは試されるのかも知れない。ルマに対する無償の愛を。
 僕は試されているのかも知れない。裕に対する、本当の愛を。

 裕が目覚めたとき僕の悪魔は、完全にとは言い切れないけれど、とりあえず去っていた。
「ごめん、渉。気がつかなくて」
「裕が謝ることはないんだ。ただ、前のときより悪魔が強くなっているから、この次の時が心配なんだ。これ以上悪魔が強くなったら、僕は悪魔に食われるかも知れない」
「そのために僕は服を作るよ。カザムノで体を覆ってしまえば少しは楽になれると思うから」
 裕はそういうと、カザムノを手にとって、にこっと笑った。裕の笑い方は、前とは少し違っていた。僕は裕の笑顔に、ルマのやわらかさといたわりとを感じた。
 僕が裕に守られて眠りにつき、やがて目覚めると、裕は完全にその体を服で覆っていた。
「少し体が重い。慣れるといいけど」
足も手も、すべてカザムノで覆っている。これならば、もしこれからもっと寒くなっても、十分暖かくいられそうだった。
 僕達はなるべく急いで歩いていた。僕達の旅が遅れていると気付いた次の日から。疲れがたまらない程度に早足で歩き、狩りもなるべく迅速に行った。森に入ったときも、もちろん慎重になりはしたけど、慣れてきたこともあって、前よりはよほど速い速度だった。
 旅を続けてゆくうち、僕達はあることに気がついた。それは最初は、裕の一つの言葉からだった。
「第一世代がここを通ったとき、景色は春だったんだね」
その時僕の頭の中に、森の春の姿が広がった。春の初め、森には木の葉が少なかった。木の葉の間に、太陽ははっきりと見えていた。
「やっと判った。第一世代がここを通ったとき、森の中にいても太陽が見えたんだ。足もとには影ができたんだ。だから第一世代は、足もとの影を見ながら速く歩くことができたんだ。僕達は大変なまちがいをしていた。これでは、遅れて当たり前じゃないか」
これからはもっと森が多くなる。森が多ければそれだけ歩みが遅くなる。僕は自分の言葉にまっ青になっていた。
「渉、僕は計算していたんだけど」
渉の声はそれほど逼迫してはいなかった。僕の情けない顔を見て、笑みさえ浮かべていた。
「計算? 日にちのか?」
「そう。だけど渉と違って、もっと現実的な計算。渉は百二十日の計画を立てた。それは、僕の四回目の悪魔の日なんだ。森が多くなることも計算に入っていたと思う。だけど、第一世代の日程に基づいた計算だったから、少しずれてしまったんだ。だけど、ちょっと考え方を変えてみようよ。僕の悪魔は六回来るんだ。これは世代に関わらず六回。個人差もない。僕の六回目の悪魔のあと十五日目が、僕達が子供を作る最後のチャンスになる。ということは、少なくとも百三十五日目までに聖地につけば、僕達のチャンスは二回残る計算になるんだ」
「百三十五日のころはもう寒いんだ。凍えて死んでしまうよ」
「カザムを狩ってカザムノを作ればいい。これは暖かいから、体を全部覆えば少しの寒さは何とかなるよ」
「カザムだっていなくなる。それに、食料はどうするんだ。その頃にはもう、ルミノクもいない」
「代わりにルギドがいる。草も木も僕達より強いから、葉を食べれば凌げる。十五日くらいなら生きられる。ほかに質問は?」
僕は驚いていた。筋が通っていた。僕は百二十日でたどり着くことばかり考えていたのに、裕の発想はまるで違った。環境が悪くなるのならば、環境を変えたり、変わった環境を利用しようとしているのだ。だけど僕は、裕の考えに賛成しかねた。僕は裕がベストの状態で子供を産めるようにしたかった。カザムノで寒さを凌いだり、草だけを食べつづけたりしたら、裕の体にどんな影響がでるか判らなかったからだ。
「僕は百二十日の方針を変えようとは思わない。だけどもし、期限内にたどり着けないことがあるかも知れないから、頭に入れておいて、干し肉は絶やさないようにしよう。それから、裕が草だけを食べるなんて、論外だ。そんなことをして、裕が子供を産めない身体になってしまったら、僕達が生まれてきた意味さえなくなってしまうんだから。食べ物が草と干し肉だけになったら、裕が干し肉を食べるんだ。それでいいね」
 裕は少し考えていたけれど、僕の真剣な顔を見て、にっこりと笑った。
「判った。渉のいうとおりにするよ」
 旅を始めてから、既に八十五日の時が過ぎていた。あと三十五日しかなかった。僕は、その時間内に聖地にたどり着く自信を持つことは、到底出来そうになかった。

 それから三日もすると、今まで僕達には想像もつかなかったくらい美しい風景が、目の前にぱあっと広がった。
 森を通り抜けた直後だった。今までは森を抜けると、一面の赤いクラプトだった。それが、ここは一面の黄緑色だった。話に聞いていた草原だった。そして、まっ白い種子が、風に漂って聖地へ向かっていた。草原の種子は、この時期になると形を変えた。聖地に旅立つための、まっ白な翼をだいていた。
「すごい……」
漂う種子に、僕達は遠くが見えなかった。草は、長く首を伸ばして、自分の種子を風にのせようと懸命だった。風が吹くたび、種子は今まで暮らしたクラプトを離れ、聖地への第一歩を踏みだしていった。
「風が白い色をしている。種子は聖地へ根づくのだろうか」
「聖地で何世代かを過ごしたあと、再びこの地へ帰ってくる。第一世代の人間や、リグやマトナの身体を借りて」
「どうしてこんなにきれいなんだろう」
 この種子は、約三日間にわたってここから旅立ちつづけるのだという。僕達が見ていたのは、どうやら最後の旅立ちだったようだ。風に乗って、僕達よりも少し速いスピードで漂ってゆく種子は、やがて少しずつ、少なくなっていった。そして、すべての種子を旅立たせてしまった草は、そのまま枯れてゆくのだろう。新しい世代の行く末を、心の中で案じながら。
 僕達は、デールやルターのことを思い出していた。だけどそれは少しの間だけだった。種子は、枯れてゆく草のことは想いもしないだろう。ただ、未来だけを見つめて。
 僕達はただ僕達の行く先と、これから生まれてくる子供のことだけを見つめて。

 三回目の裕の悪魔は、この緑の草原で迎えた。三回目の悪魔は、今までにも増して、裕の身体を鋭くむしばんでいるようだった。
 裕は身体を横にして、手足を縮めていた。僕の左手をもてあそんでいる。僕は、裕が一番楽になれるように、出来るだけ裕のしたいようにさせようと思っていた。
「悪魔が来ると、僕は思うんだ。何かが僕を試しているんだって。僕が一体どれほどの苦しみに耐えることが出来るのかってことを」
裕があまりに儚くて、僕は胸が絞めつけられるようだった。悪魔が来ているときの裕は、僕が今まで見たことのない裕の姿を、身体の奥から引き出しているようだった。
「聖地には神様がいるのかも知れないって、ルターが言ってた」
「ルターがそんなことを?」
「うん。だから僕達が聖地について、もしも神様を見ることがあったら、ルターに伝えてほしいって。そうしたらルターは、すべての願いがかなうんだって」
ルターの願い。僕は聞いたことがなかった。
「それがルターの最後の願いなのか? そのほかの願いは何だったの?」
「デールといつまでもいることと、僕達を聖地に旅立たせること。そして、もう一度生まれ変わって、デールの子供を産むこと」
「生まれ、変わる……?」
「そう。ルターは、無駄な生き方と死に方をしなかった人間は、もう一度人間に生まれ変われるんだって、そう信じていた。だから、聖地で生まれる僕達の子供は、生まれ変わったルターなのかも知れない」
 そういうと、裕は目を閉じた。ルターと裕は、僕とデールとは、まるで別の話をしていたのだと思った。僕はデールに、戦うことのすべてを教わった。生き残るための知恵を、たくさん教わった。
「裕、僕も試されているのだと思った。僕の悪魔が身体にいるときに。僕達を試すのは、聖地にいる神なのだろうか」
「聖地につけば、すべてが判る気がする」
 すべてを知ることが裕の、そして、ルターの願いならば、僕はすべてを解き明かしてみたいと思った。そして、僕達が死んだあと、生まれ変わる前のルターと会えるならば、僕はルターに伝えたいと思った。愛すべき母である、守るべきルマであるルターに。
 裕は苦しそうに目を閉じていた。僕は裕の髪をなでた。裕は目を閉じたまま、唇に笑みを浮かべた。
「苦しいよ、渉。でも耐えられる。僕はルマだから。ずっと昔から、ルマが耐えてきたことだから。僕はこの苦しみさえ嬉しいと感じるんだ。渉の子供を産むためだから。僕が愛した渉の、たった一人の子供を産むためなんだから」
「でも、今までで一番苦しそうだ。もしこれからの悪魔がさらに苦しいものならば……」
「その心配ならいらない。ルターによれば、三回目までは段階的に苦しくなるけど、そのあとは嘘のように軽くなるって。そのころには身体の変化が終わるから、それと関係があるのかも知れない。渉、これが最後だよ」
「愛している、裕」
「僕もだよ、渉。このクラプトよりも」
 僕は裕を抱き締めていた。幸せだった。裕を失わないためならば、たとえ子供が生まれなくてもいいと思った。聖地にたどり着けなくてもいいと思った。裕以外のものをすべて失っても、それでもいいとさえ思った。
 僕のしあわせは、永久に続くと思った。これから訪れる出来事など、まるで思いもしないで。
 
 

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