赤い砂の大地


 第2話 ピジョンブラッド
 
 

 つぎの日から僕達は、裕が悪魔を迎えるための地を求めて、今までとは少し違った意味の旅を始めた。
 この岩の多いクラプトでは、洞窟があれば一番いいと思った。だけどなかなかそうもいかず、二日目のその日、今までで一番条件のいい突き出た岩山があったので、そこをこれから数日のねぐらに決めた。
 それからの僕は忙しかった。ある程度身を守るために、三個所、穴を掘った。万一マトナに襲われたとき、罠の一つでもはってなければ僕一人ではどうにも出来そうになかったからだ。裕はだいぶ身体が悪そうだったので、なにもさせずに寝かせておいた。草や焚き木を集めて、一日中火をたいていた。
 つぎの日、裕のからだに悪魔が降り立った。寝ている裕の大腿部を伝って、岩肌に血だまりをつくった。すごい量だった。
「裕、こんなに血が出てる。本当に平気なのか?」
 むせ返るような血の臭いに、僕はおかしくなりそうだった。裕は、本当はものすごく苦しいんだろうに、何だか笑っているような顔で僕に言った。
「大丈夫だよ。リグが死んだ時より少ないだろ」
「当たり前だ。あんなに出たら裕が死んじゃう」
「お願い、少し眠らせて」
 そう言って目を閉じた裕は、やっぱり苦しそうだった。この苦しみだけ、僕が代わってやれたらいい。だって、どうして子供を産むために、悪魔が必要なのだろう。こんな苦しみがなくて子供を産めたら、どんなにいいだろうに。
 僕は少しだけ裕のそばからはなれた。見張らなければならない。こんな所で、裕を死なせる訳にはいかない。僕は方々見張りながらチェルクを握りしめた。
 どのくらいそうしていただろう。僕は足音を聞いた。それがリグの群れだと判るまで、そうたいした時間はかからなかった。僕は全身の血が凍りつくのを感じた。すぐに取って返し、裕を起こした。
「リグの群れだ。十頭くらい。チェルクを握っていて、僕が倒し損なったのは裕が倒すんだよ。出来るだけここからでないで」
「渉」
「狙われてるのは裕だ。裕がここにいれば、何とかなる」
 そう言ってからは、もう裕のことは頭からはなれた。僕にとって、守るものは裕ではなく、この岩のねぐらそのものだった。たとえ一匹たりとも触れさせやしない。
 リグの唸り声に、身の縮むような恐怖を覚えた。とりあえず前にいるのは三匹。それを援護するかのようにほかのリグが回りを囲んでいた。うしろにはいない。僕は心を鎮めて、一番大きなリグを睨み据えた。
 ボスのリグが身じろぎすると、その左にいたリグが僕にとびかかった。僕は身をかわすことが出来なかったから、そいつの喉もとめがけて足げりを食らわせた。その直後、真中にいたボスと右にいた奴の両方が、同時に僕に飛びかかった。
 右のリグの喉を切り裂くことは出来た。が、ボスのリグに、僕が転がされてしまった。
 その瞬間、僕はやられると思った。ボスが狙っていたのは、僕の喉笛だったから。こいつが狙いを外すはずかない。僕の右手はチェルクを持って奴の右目を狙っていた。だけど、間にあうはずがなかった。
 その時、ボスの頭上に、とても軽いとは思えない衝撃があって、ボスはその場に崩れ落ちた。僕はチェルクでボスの喉を切り裂いた。吹き上げる血液が、僕の全身をぬらした。
 ボスのリグが死んで、奴等は完全に統制を失っていた。その中を、そいつはまるで舞っているかのように動いて、次々とリグたちを動けなくしていった。そいつはリグを殺していなかった。足やからだを狙って、戦闘能力だけを奪っていった。
 やがてすべてのリグが片づいた。その間は、おそらく一分にも満たなかっただろう。振り返ったそいつを見て、僕は息を飲んだ。そいつは、心を射抜くような、赤い目をした人間だった。
「無事か」
にこりともせずに言う。それで僕はやっと思いだした。裕だ。
 あわてて裕のところへ戻ると、裕はうっすらと涙を浮かべていた。
「渉……」
どこも怪我してない。良かった。裕が無事ならそれでいい。いつの間にか後ろに立っていた赤い目の人間を、僕は振り返った。
「ありがとう。僕はデルタ=渉。デールとルターの子。これは片方のデルタ=裕」
奴は少し髪をかき上げた。
「僕はピジョン=ブラッド。目がでかいのは家系か?」
 僕は少しむっとした。
「そっちはチビな家系なのか?」
「小さいのは僕だけだ」
思ったとおり、ピジョン=ブラッドもむっとしたようだった。
 ピジョン=ブラッドは僕や裕より拳一つ分くらい小さかった。髪は透けるような褐色で僕や裕より少し長かった。奴は視線を、リグの方に向けて言った。
「リグを一頭もらえればいい」
「自分の殺したのを持っていけばいいだろう」
「僕は一頭も殺してない。だからデルタ=渉の殺したのをもらいたい。一番小さいのでいい」
 僕は、ピジョン=ブラッドに助けてもらったから、そのくらいはやってもいいと思った。
「どれでも好きなのを」
 ピジョン=ブラッドは、もう一度リグの方を見て、それから少し笑った。
 印象が、がらっと変わった。
「目が大きいのは家系か?」
 僕は、デールやルター、それからレイ、リオ、あとセイルとロエラしか見たことがなかった。僕達以外の人間を見るのは初めてだった。僕の目が特別大きいと思ったことはなかったけれど、確かにピジョン=ブラッドと比べると大きいかもしれない。
「デールやルターもこのくらいの大きさだった。だから家系かもしれない」
「この間、デルタ=セイルとデルタ=ロエラが通った。同じようにここで悪魔をやり過ごしていた。話を聞きたいか?」
 ピジョン=ブラッドのこの一言で、僕達は彼を客として迎える事にしたのであった。

 僕とピジョン=ブラッドはまず、三頭のリグの肉を切り裂いて、たくさんの干し肉を作った。一番おいしいところは生で食べるためにとっておいて、残りは少しはなれたところに捨てた。理由の一つには、裕の血の臭いをごまかすことがあった。持ち切れないほどの干し肉を作ってもしょうがないこともあった。
 その作業が一段落してしまうと、僕達三人は火を囲んで、肉をかじり始めた。
「悪魔の来ているときに干し肉を作る訳が判った気がする」
 裕が言った。悪魔を迎えた人間は、リグやマトナにしてみれば襲いやすいのだ。群れに勝つだけの力を持っていれば、たくさんの干し肉が出来るのは必然だった。
 僕は、ピジョン=ブラッドにたいして、気になっていることが一つあった。
「ピジョン=ブラッド。君の片方は?」
「僕は一人で生まれてきた。片方はいない」
 ピジョン=ブラッドは目を伏せて言った。僕は驚いた。初めてあう人間が、まさか一人だったなんて。
「じゃあピジョン=ブラッドは子供を……」
「さあ、例えばデルタ=渉がリグに食われてからデルタ=裕だけ助けてたら、僕にも子供を作る可能性があったかもね」
 第三世代の最終目的が、聖地で子供を作ることにあるとしたら、ピジョン=ブラッドの言う通り、僕を見殺しにして裕を自分のものにする方が自然に思えた。もし僕がピジョン=ブラッドならそうしていたかもしれない。なのにピジョン=ブラッドはそうしなかった。僕は急に、ピジョン=ブラッドのことを信じる気になった。彼に助けられなければ、今の自分の命はなかったのだから。
「僕のことは、ただ渉でいい。それより、君はルマになることは出来ないの?」
「人間は自分のガイがいなければルマにはなれない。僕が子供を残そうと思ったら、悪魔を迎えたルマを奪うしかない。例えば、僕と渉が一緒にいても、僕がルマに変わることはない」
「僕は渉以外の人間の子供を産む気はない」
 裕は少し気が立っているようだった。僕のように、ピジョン=ブラッドを信用してはいなかった。少し考えて、どうやら裕が眠る時間だということに気がついた。
 僕は裕を眠らせた。裕をゆっくり眠らせるために、僕とピジョン=ブラッドはねぐらから少しはなれた。辺りを見張りながら、もう少し、ピジョン=ブラッドと話をしようと思った。
「ピジョン=ブラッドの親は何て言うんだ?」
「父はイーグルっていうらしい。僕は父は知らないから、母のピジョンを名乗っている。僕の前に生まれたのがイージョン=ファイアとイージョン=ブルー。聖地で会ったらよろしくいっといてくれ」
「もちろん。二人も赤い目をしているのか?」
「いや。赤い目なのも僕だけだ。二人とも黒い目と黒い髪をしている。似ているのは顔だけだ。背も、僕より手の平一つ分くらい大きい。たぶん、ブルーがルマになってる」
 ピジョン=ブラッドの情報は、僕にとっては脅威だった。一人のピジョン=ブラッド。彼の持つ情報は、僕に新たな興味をかきたてた。僕は、ずっとピジョン=ブラッドと話していたいと思った。
「ピジョン=ブラッドの話は、僕にとって新しいものばかりだからためになる。だけど、僕は君ほどの情報を持ってない。僕には交換すべき情報はないんだ。僕は君の話と何を交換すればいいだろう」
「渉の殺したリグ一頭、それから、もし僕の質問にすべて答えてくれるなら、それで十分だ。僕にも判らないことはたくさんある。そのいくつかは、渉の持っている情報だから」
「本当にそれでいいんだったら、手をうつ」
 ピジョン=ブラッドの髪は、僕より長い。セイルやロエラとほとんど同じ長さだ。ということは、セイルやロエラと同じころ生まれたのだということになる。そのピジョン=ブラッドが、ここで一体何をしているのだろう。セイルやロエラは僕より三十日も前に旅立った。本当なら、ピジョン=ブラッドも同じだけ旅を進めているはずなのに。
 セイルとロエラに会ったといった。それから三十日、ピジョン=ブラッドはここで一人で何をしていたのだろう。僕はそれが聞いてみたくなった。
「ピジョン=ブラッドはずっとここにいるのか?」
「渉とデルタ=裕が旅立ってから三日くらいしたら僕もここを離れる。ついていくつもりはないから安心してくれ」
「裕のことを怒っているなら許してくれ」
「普段は優しい人間なのだろう。悪魔が宿ると人が変わるのは知ってる。怒っているんじゃないんだ。僕は一人だから、歩くペースが渉やデルタ=裕と違う」
「それじゃ、僕達を追い抜いて行くんだね」
「見かけたら声を掛けるよ」
 会話が僕の思うとおりに進まなかった。これが他人というものなんだと、僕は納得した。
「どうしてここに留まっていたんだ?」
「別に。ただ、僕は子供が作れないから、どこで死んでも同じだと思ったから。でも、あと十日もするとすべてのルミノクたちが通り過ぎる。どこで死んでもいいけど、僕を食べる動物のいないところでは死にたくない」
 ピジョン=ブラッドの言葉に、僕は違和感を感じた。だから僕は、少しピジョン=ブラッドをさぐってみようと思った。
「セイルとロエラの話をして」
「ちょうど三十日前に、同じねぐらにいて、マトナの群れに襲われていたんだ。その時にセイルと僕はマトナと戦った。僕が体勢を崩したときに、セイルは僕を助けてくれた。セイルは渉よりも強かった」
「セイルはレイやリオよりも強かった。時にはデールよりも強かった」
「僕よりも強かった。僕はセイルに持ち切れないほどの干し肉をもらった。それを食べるのに三十日かかった」
 僕はピジョン=ブラッドの話で、彼がなぜここに留まっていたのか判った気がした。ピジョン=ブラッドはきっと、セイルに僕達のことを頼まれたのだ。僕達が無事に初めての悪魔を迎えられるように。命を助けてもらった事と、三十日分の干し肉の代わりとして。
 他人であることは、僕とピジョン=ブラッドにとっては、共に平等なのだと思った。こういう会話の魔術に、裕やセイルたちはひっかかったりはしないはずなのだから。僕がピジョン=ブラッドを知らないのと同じように、ピジョン=ブラッドも僕を知らないから、会話でさぐっている真意に気がつかない。同じように、僕もピジョン=ブラッドの真意には気がつかない。僕がピジョン=ブラッドの問いに正直に答えれば、それはピジョン=ブラッドの益になる。それは、どんな事実にも勝るほどの報酬なのだ。
 その時、ピジョン=ブラッドは遠くを指差した。それはやがて大きくなり、マトナの群れだということが判った。マトナの群れは僕達の方に近づき、リグの死体のところで、僕達の残した肉を食べ始めた。
「あの数ならあれで満足する。襲ってはこないだろう」
「水場を教えてくれ」
「教えてもいいが、遠くて時間がかかる。僕が汲んできてやるから、渉はデルタ=裕の側にいるがいい」
 僕はピジョン=ブラッドを信用して水筒を渡した。そのあとは、裕と干し肉の両方を見張れる位置に座って、ただもの思いにふけっていた。

 裕が目覚める時間になっても、ピジョン=ブラッドは帰ってこなかった。
「僕はピジョン=ブラッドは好きになれない」
 裕は少し気が立っているのだと思った。でも、そんな裕の気持ちを差し引いたとしても、裕がピジョン=ブラッドを好きになるとは、僕には思えなかった。ピジョン=ブラッド自身が人に好かれやすいとは、僕には思えなかったから。そういう僕も、ピジョン=ブラッドに好意を寄せてはいなかった。
「僕は渉がピジョン=ブラッドの肩を持つ理由が理解出来ない」
「恩を受けた人間に礼をつくしているんだよ。彼は僕の命を助けてくれたんだ。だから、ピジョン=ブラッドの欲しがるだけの情報と、彼がここに居やすいだけの環境は作らなければならない。選ぶのは僕じゃなくてピジョン=ブラッドの方だから」
「だけど奴は渉のことを渉と呼ぶくせに、自分のことはブラッドと呼ばせないじゃないか。渉にさえ心を許していない証拠だ。僕はこれ以上ピジョン=ブラッドと一緒にいたくない。渉がこの先もピジョン=ブラッドと一緒にいるというなら、渉は僕とピジョン=ブラッドのどちらかを選ばなければならない」
 裕の態度は強力だった。こんな裕は、僕には初めてだった。
「旅立つまでの辛抱だ。それでもだめか?」
「今すぐだ。これだけは譲れない」
「裕に会わせないようにする。それでも?」
「渉とあいつが会っていると思うだけで我慢出来ない。渉がそれでもあいつと会うというなら、どんな身体であろうと僕は今すぐに旅立つ」
「判った。そこまでいうんならピジョン=ブラッドに話す。ただ、ピジョン=ブラッドは今出かけているから、帰ってきてからだけど」
「ありがとう。渉、眠っていいよ。僕は大丈夫だから」
 裕のとなりで、僕は横になった。目を閉じると、裕が僕の髪をなでているのが判った。この安心感は、裕以外の誰からももたらされはしない。本当に僕に必要なのは、ピジョン=ブラッドではない。
 僕を眠らせてくれるのは裕だけだと思った。僕は裕の暖かさのなかで眠った。

 僕が目覚めると、裕は憮然とした顔で僕を迎えた。ピジョン=ブラッドが来ていることがすぐに判った。
「たぶん見えるところにいるよ」
 僕は裕をおいたまま、ねぐらをはいだした。少しはなれたところにピジョン=ブラッドが座っていた。
「水をありがとう。いつからここに」
「渉が眠ったころに。デルタ=裕には完全に嫌われてしまったようだ」
「裕が失礼なことを」
「半径三十歩以内には近づくなといわれた。それはいいんだ。僕は慣れている」
「慣れて?」
ピジョン=ブラッドは遠い目をした。裕のことが原因ならば、僕は精一杯に謝らなければいけないと思った。だけどピジョン=ブラッドが口にしたのは、全く別のことだった。
「第三世代は二人で生まれるけど、それがもし三人だったらば、渉の親ならどうしただろう。その三人目の子供の身体が、ほかの子供よりも小さく、髪の色も目の色も違っていたのだとしたら。その子供を殺してしまっただろうか」
 ピジョン=ブラッドの顔は限りなく悲しげだった。僕はなにもいえなかった。
「殺せなかったらどうしただろうか。三人目の子供に、お前は一人で生まれたのだと言い聞かせたのだろうか。一人で生まれたから、ほかの二人とは違うのだと。お前に子供を作ることは出来ないのだと。その子供がたとえ、ほかの二人と全く同じ権利を持っていたのだとしても。僕が、ファイアやブルーと同じ権利を持っていたのだとしても」
 僕はやっと、言葉をしぼりだした。
「君は三人目の子供だったの?」
「そのことを知った僕は、ファイアかブルーかどちらかを殺せるかと思った。だけどだめだった。僕は子供を残す権利を自ら放棄したんだ。僕にはデルタ=裕を君から奪うことも出来ない」
「人の何倍も苦しんできた君を、僕は尊敬したい。ブラッドと呼ばせてはくれない?」
「ブラッドとは血のことだ。それがピジョン=ブラッドになると、赤い色を表わすようになる。僕の目のような色だ。僕はあまりブラッドと呼ばれたくないんだ。血と同じ名前なんて、ぞっとする。色の方がいいし、そう呼ばれる方が嬉しい」
「ピジョン=ブラッド。僕を許して欲しい」
「また会うかも知れない。その時、デルタ=裕の気持ちが良い方に変わっているといい」
「僕もそう願っている」
 別れの言葉を残さずに、ピジョン=ブラッドは去っていった。はるかなる、聖地に向かって。
 もう一度会えるような気がした。悲しい心を持つ、赤い色の親友に。
 
 

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