第1話 旅立ち
遠い聖地に旅立つその日を、僕達はどれほど心待ちにしていたことだろう。
父と母は旅を知らない第二世代だった。聖地から旅をしてこの地に落ち着いた第一世代の両親から、たった二人の子供として生まれ、同じ地を守りながら生きてきた。種族のなかの二人の使命は、たくさんの子供を造ること。二人は六人の子を産み、育てた。最初の二人はレイとリオ。次の二人はセイルとロエラ。三番目の双子として僕――渉――と僕の片方、裕が生まれた。
いつものように裕が目覚めて、僕が眠りに入った。今日は水場を見つけた。つかるくらいに水を飲んで、簡単にからだを洗った。カザムノで髪をふいたら、何だか生き返ったような気がした。そのあとの眠りだったから、僕はとっても気分が良かったのだ。
僕達が住んでいた辺りは、砂が多く、林はちょぼちょぼと点在しているだけだった。旅にでてから二十日くらいたった今、ここに来て林は森になった。今までは林のなかは歩きづらいから、キラエトをとるとき以外は迂回していたのだけど、それも出来なくなってしまった。迂回しようにもはてが見えないのだ。
森を抜けてから三日もたったころ、裕の様子が目に見えて変わった。もともと歩いているときもあまり話はしなかったけれど、前にまして黙りこむようになった。話しかけても生返事しかしなくなり、眠っているときの寝がえりも、ずいぶん多くなっていた。
赤い風に追われ、赤いクラプトを踏みしめるその両足は、僕達を緑豊かな聖地へと導いてくれる。白く輝く太陽に向かって、僕達は歩いて行かなければならなかった。太陽の真下の、真冬で唯一暖かな聖地へ。
その日、深い眠りから醒めた僕達を迎えたのは、優しい母の声と、褐色に輝く二つのチェルクだった。
「渉、裕、チェルクが出来上がりましたよ」
僕と裕は同時に飛び起きた。裕は僕の片方だから、僕を鏡に映したかのような、そっくりな身体を持っていた。
「じゃあ、今日旅立てるんだね」
「デールは?」
裕の問いに、ルターは少しだけ悲しそうに答えた。
「昨日眠る前に、ほんの少しだけ風の色が変わったの。旅立ちには吉日を表わすから、デールは皆が眠っているあいだずっとチェルクを造ってたの。今は眠っている。デールに別れは言わなくていいから、早く旅立ちなさい」
レイとリオは七十日前に旅立っていった。セイルとロエラは三十日前だった。ルターが産みデールとルターが育てた六人の子供達は、今日、そのすべてが旅立ってしまう。冬になり、やがて凍りついてしまうこの地で、二人はどうやって暮らして行くのだろう。一緒に行きたいと思った。だけど、二人にはもう、その力は残ってはいないのだ。
旅立ちの儀式で、僕と裕は、ルターの双の手からチェルクを受けた。これから始まる長い旅と、太陽の真下に輝く最終目的地、聖地に思いを馳せながら。
第二世代から生まれた子、第三世代の僕達は、再び聖地への旅を始める。そして聖地で僕と僕の片方の裕は、たった一人の子を造る。僕達の血を最大に受け継いだ、一番強い種の第四世代だ。彼は長く冷たい冬を生き延びて、春になるころ、同じように冬を越した子供と新しい子を造るだろう。そして、生まれてくるのは双子の第一世代。聖地を離れ、第二世代と暮らす地を求めて旅を始めるのだ。
赤い風は追い風。太陽に向かって歩く僕達に、短い影はうしろからついてくる。この影が完全に僕達に重なるところまで、僕達は歩かなければならなかった。冬が来て、このクラプトが氷に閉ざされる前に、聖地で冬を越せるほどに、子供を大きくしなければならないのだ。
冬を越せない僕達は、聖地でリグやマトナの貴重な食になることだろう。そして、僕達を食したリグは、第四世代の貴重な糧となるのだ。
「渉……」
見送りに立つ母を、裕は時々振り返っていた。振り返るのは裕一人でいいと思ったから、僕は一度も振り返らなかった。そしておそらくルターの姿も僕達が暮らした地も遠く霞んで見えなくなったころ、僕の隣で、裕がいった。
「デールはもういないような気がする」
裕は、僕が思っていても口にださなかったことをいった。たぶん、デールは眠っていたのだ。それがたまたま、永久に醒めない眠りだっただけ。
「たとえそうでも僕達にはなにもできないよ」
「ほんと。悲しむこともできやしない」
近くにマトナの群れがあった。ルターはマトナたちにデールを与え、代わりに自分が生き延びるためのマトナの子を得るだろう。そしてルターが力つきるころ、マトナは再び、ルターを食いに現われる。戦いの末、ルターは食われ、残骸はルミノクに掃除される。白い骨は赤い砂に覆いつくされ、僕らの孫が再びこの地を訪れるころには、なにも残さないきれいな砂のクラプト――
「渉、なにか話してよ」
裕は恐れているのかも知れないと思った。たぶん、本当に恐れているのだろう。これから先、僕達を守ってくれるものはないのだから。この、デールの造ったチェルクのほかには。
「おなかが空いた?」
「まだ」
「ルミノクがいたら教えて。前に林が見えるけどキラエトがいるかどうか判らないから。あと、必要なのが水。さっきから喉が渇いてしょうがないんだ。これだけじゃ、たぶん三日も持たないから」
「なにもこんなときに不安になるようなこと言わなくたっていいじゃないか」
「裕が話せって言ったから」
僕はそう言ったけど、やっぱり少し反省した。裕だって事実から目を背けてる訳じゃない。ただ、今この時だけ、自分のなかの恐れを見たくないだけなんだ。僕は気分を変えて、別のことを考え始めた。
「ずいぶん前にさ、デールとルターの昔の話を聞いたことがあったよね。デールとルターがまだ僕達くらいだったころ、二人はやっぱりそっくりな身体をしてたって」
僕の話で、裕は目に見えて明るい顔になった。
「ある日ルターに悪魔が降りたんだ。ルターの身体を子供が産める身体に造り変えたって」
「微熱が出て、おなかがいたくなって、たくさんの出血があって、死にそうなくらい苦しんだ。デールはものすごく心配したけど、五日もたったらまたもとに戻って安心した。それが最初の身体の変化だったんだ」
「僕はさ、渉、それを聞いてわくわくしたよ。きっと、降りてきたのは悪魔じゃなかったんだ。だって、その変化がなければ、ルターは僕達を産めなかったんだもの」
「僕は恐ろしかったよ。だって、僕か裕かどちらかの身体に、悪魔は必ず降りてくるんだもの。僕は、自分が苦しむのも、苦しんでいる裕を見るのもいやだと思った」
僕の言葉に、裕は少しほほえんだ。
「渉は本当はとっても臆病なのかも知れないね。願わくば、渉のからだに悪魔が降りませんように」
そう言った裕は、何だかとても嬉しそうだった。そんな裕が、僕にはずいぶん不思議に見えた。
「裕は平気なのか? 悪魔が恐くないのか?」
「だって、本当は悪魔じゃないんだから」
「裕はどちらがいい? デールと、ルターと」
「僕はルターになりたい気がする。ルターのようになって、渉の子供を産みたい」
「僕はどっちでもいい。でも、裕がルターになりたいんだったら、僕はデールのようになって裕を守るよ」
「希望通りになるといいんだけどね」
僕は何より、今裕が元気になってくれたことを喜んだ。僕にとって、片方である裕は特別だったから。裕のことは何でも判った。おそらく自分自身よりも自分に近い存在だと思った。裕は僕のことをすべて知っていた。自分自身でさえ気付かなかった僕自身についてさえも。もちろん裕のいない自分なんて考えられなかったし、裕にとっても、僕のいない裕なんて、まるで思いもしなかっただろう。
たまに、ごく稀にだけど、一人で生まれてくる第三世代がいるのだという。僕は一人で生まれてこなくて良かったと思う。裕を失わないために、僕は本当の悪魔に変わることがあるかも知れない。そんな風に思えるほど、裕は大切なのだ。自分自身以上に。
裕に眠気が訪れたころ、僕達は枯木を集め始めた。それで焚き火を始めれば、よほどの飢餓状態のリグが近くにいないかぎり、安全だった。
裕が眠るための枯草を敷き詰めて、それに裕を押し倒す。照りつける太陽は、裕が眠るためには少し強すぎるかも知れない。僕は一番大きなカザムノを、裕の身体にかけてやった。
「どうして僕だけ寝るの?」
おき上がろうとする裕を、僕は強引に砂に押しつけた。
「二人しかいないんだから、どっちかが起きて見張ってなければならないだろ。大丈夫。裕が起きたら今度は僕が眠るから」
「聖地までは七十日かかる距離だってルターが言ってたじゃないか。間にあうのか? かわりばんこに眠ってたら、一日で歩く距離は半分になるんだよ。百四十日もかかってたら、僕達は凍死だ」
「大丈夫だよ。見張っている間は休めるんだから、歩いているときは休まずに済む。そのペースで歩けば、百日くらいでつけるはずだ」
「その間に三回か四回の悪魔がくるんだよ。僕か渉かは判らないけど、悪魔が来れば、三日は歩けない。ちゃんと計算に入ってるんだろうね」
「悪魔が来ている間は干し肉を作れば、そのあとの何日かは狩りをしなくて済むんだから、その分歩けるよ。そうやってデールの親は百日であの地にたどり着いたんだから、僕達も行けるよ。ちゃんと考えてる」
「判った。任せるよ」
そのまま、裕は眠りに落ちていった。僕は裕の髪をなでながら、燃え落ちる焚き木を眺めていた。出発前にルターの用意してくれた干し肉は三日分くらいだった。それがなくなるころ、僕達はまた狩りをしなければならない。人間じゃないほかの動物は、人間よりも足が速いから、僕達よりも遅く出発して、僕達を追い抜いていく。だから、僕等が旅をしている間は何度もすれ違うだろう。群れからはぐれたカザムや、神出鬼没のルミノクは、僕達の一番の食料になる。それにこの辺りにはまだルギドがいるはずだ。土のなかを移動しているけど、見つけさえすれば捕まえるのはたやすいはずだ。
そう、問題は水なのだ。僕達には遠くの水の臭いを嗅ぎ分ける力はない。第一世代が通ったときの情報はいくつかもらっているけど、水場は変わっていることが多いから、やっぱり自力で見つけだすしかない。今日だって、水場の多そうなルートを歩いてきたはずなのに、一日歩いて一つも見つけられなかった。水も持ってあと二日。いよいよのときにはルミノクの血を飲むこともできるけど、それも急場凌ぎにしかならないから、深刻な問題だ。水を節約することも考えなければ。
裕の寝顔を見ながら、僕はこれからのことを考えにまとめた。不安もある。だけど大丈夫だ。狩りの仕方は習っている。水場が見つからなかったらカザムの群れをつければいい。彼らは僕達よりも優秀な鼻をもってるから、ちゃんと水場まで案内してくれるだろう。
眠っている裕は、世界で一番平和そうだった。僕は、裕の寝顔をいつまでも守ろうと思った。かつて、デールがルターを守り通したように。
かなり深い眠りから、急激に引き戻された。原因はほんの小さなもの音だった。こういうとき、身体を動かしたりしてはいけない。目だけをあけて回りを見ると、隣で裕が、緊張したおももちで身を縮めていた。その裕が、小さく言った。
「そのまま寝ていて。ルミノクがいる」
ルミノクは小さいから人間を襲ったりしない。僕達は今、水だけはたくさん持っていたけれど、食料は干し肉が少しだけだったから、裕は食べるためルミノクを狩ろうとしているんだ。
裕は機会を見計らってとびだした。ルミノクはもちろん僕達がいることは判っていただろうけれど、火がついているのを見て眠っていると思い込んでいたのだろう。驚いたが逃げはしなかった。裕を見て、爪を剥いて裕にとびかかった。
「裕!」
僕はびっくりして裕に駈け寄ろうとしたが、次の瞬間、裕のチェルクはルミノクの首をかき切っていた。
ルミノクは失速して地面に落ちた。そのあと、僕は当然裕がルミノクを拾ってこっちに来るだろうと思ったのに、なぜだか裕は、いつまでも立ちつくしたままだった。僕は裕が怪我でもしたのかと思って、あわてて裕にかけ寄った。
「どうした、裕」
「子供がいる」
見ると、足元のルミノクの死体の傍らに、ルミノクの子供がすがりついているのが見えた。時々小さい声でないている。まだほんの生まれて三十日かそこらの、とても小さいルミノクだった。
「そこにルギドの死体がある。これを食べてたんだな」
「渉、こいつも食べる?」
「小さすぎておなかの足しにはならないよ。ルミノクは干し肉にも出来ないし。裕食べる?」
「僕もいらない。放っておけばきっとマトナかリグが食べるよね。大丈夫、無駄にはならない」
すがりつくルミノクの子を払い落として、僕達は火の前に戻った。
僕はルミノクのまる焼きを食べたあと、また少し眠った。目が覚めるころ、ルミノクの子は既にいなくなっていた。ルギドに食べられたのかも知れなかった。
森に入って一番心配だったのは、方向感覚を失うことだった。木の葉に隠されて太陽は見えないし、もちろん影も出来ない。同じような木がすきまなく生えていて、まっすぐ進むことは困難だから、いつの間にか聖地から遠ざかっているということもありうるのだ。
僕も裕もそんな事はとっくに理解していたから、休憩ごとに進行方向の確認を怠らなかった。森には木の実が多かったから、木の実のなる木に登って太陽の位置を見たあと、保存のききそうな実を選んでとった。
行程は遅々として進まなかった。途中、下生えの濡れたところがあって、そういう所は底なし沼になっていることも多いから、かなりの範囲で迂回しなければならなかった。それでもやっと、森の外れが見えてきた。恐れていた方角の間違いもなく、ほっとして久しぶりの砂の感触を確かめた。
森を出ると、少し風景が変わっていた。今まであまり見かけなかった岩肌が、所々に見られる。風は相変わらずの追い風。だけど、赤い色はしていなかった。
「風の赤い色は砂の色なんだね。ここには砂が少ないから風が染まらないんだ。森の向こうより風が澄んでいる気がする」
空気がきれいだから、裕はちょっとはしゃぎぎみだった。僕はもう少し別の事を考えていた。
「ここにはルギドがいないかも知れない」
「岩だらけだから住みにくそうだね」
「ルギドのいないところにはルミノクもいない」
「ルミノクもちゃんと森を渡ってくるよ。それより、カザムがいないかも知れない。カザムがいないとカザムノがつくれない」
「カザムノならあるじゃないか」
「もう少し必要になる。あと、そうだね、四十日くらいしたら。僕はルターにいろいろ聞いたから」
「ああ、そうか」
裕か言うのは、きっと悪魔の日のことだ。悪魔のとき、身体からたくさんの血が出る。歩きながら血の跡を残す訳にはいかないから。
「カザムはあの森を通れないな。そうすると、僕達のルートとはかけ離れたところを通っているんだ。暫くは見つからないと見ていい」
「今日までで、二十五日くらい? 渉」
「うん、そのくらい。あ、そうか。悪魔の日が近い」
「ルターの予想だと、あと五日ぐらいだって。とりあえず前ぶれがあるって」
「何だろ。聞いてもいいか?」
「怒りっぽくなって判断力が鈍る」
「とんでもない前ぶれだな」
「それが三日くらい前で、そのあとは腰が痛くなってそのつぎはおなかが痛くなる」
「狩りが出来なくなるね。マトナの群れに襲われたら最後だ」
「出来なくはならないと思うけど、血の臭いがすれば、襲われやすくなるのは確かだから、危険だよ」
例えば、マトナの群れに襲われたら……。一対一なら勝つ自信はある。でも、群れに一人で立ち向かったことなんてない。群れと戦ったことはある。だけどあのときは、デールが一緒だった。だけど、もし一人だったら……
デールは負けなかった。僕も負けずにいられるだろうか。デールがルターと僕達を守ったように、僕は裕を守れるだろうか。ルターはデールを信じてデールと共に戦った。僕は裕と共に戦えるだろうか。
ルターはあの日、涙を見せなかった。僕には出来るだろうか。僕は二人のようになれるだろうか。
変化のときは近い。僕にはまだ、自分の身体に悪魔を迎える覚悟も、裕を守っていく覚悟も、出来てはいなかった。
裕が目覚めて、僕が眠りにつくころ、僕は聞いてみた。
「裕、身体の調子がおかしいのか?」
「え?」
裕は、自分の身体のことが判っていないような、そんな顔をした。
「僕には裕の様子がおかしいように思えるんだけど、ひょっとして、裕のからだに悪魔が来るんじゃないのか?」
「僕の、身体に……?」
確かに、裕の集中力は低下している。本当は、裕の方が詳しく知っているはずなんだ。僕と裕は、僕がデールの知識のすべてを、裕がルターの知識のすべてを受け継げるように、二人に別々に習っていたのだから。
「渉、僕はおかしい?」
「今日一日は歩きながら眠っているみたいだった」
「僕は変化するんだね。僕の身体が子供を産めるからだに。僕と渉は、僕が選ばれたんだ」
「ほとんど、まちがいないと思うよ」
「渉!」
裕は突然、僕の首にしがみついた。僕は危うく倒れてしまうところだった。
「ルターに話を聞いたときから夢見ていたんだ。いつか僕の身体が変化するかも知れないって聞いて、僕がルターのようになれるかも知れないって思って、嬉しかったんだ。渉、知ってる? ルターの身体はやわらかいんだよ。胸が二つにふくらんでて、滑らかな肌をしているんだ。今僕の身体は硬いけど、もうすぐやわらかい身体になれる。子供を産める身体になれるんだ」
いつしか僕は、裕を抱き締めていた。裕の喜びは僕にも伝わってきた。裕が喜んでいる理由は僕には理解出来なかったけれど、裕が喜んでいるっていう事実だけで、僕は喜ぶことが出来た。だって、裕が一番大切だったから。僕には片方である裕しかいなかったから。
「渉の子供が産める。渉と、僕の子供が」
「産めるよ、裕。僕が命に代えても守るから。誓うよ」
「渉、このままでいて。少しだけこのままで」
今初めて、僕にも覚悟が出来た。遠い昔、デールは今の僕と同じ気持ちを味わったのかも知れない。ルターは、裕と同じように喜んだのかも知れない。僕は、デールやルターと同じ流れの中に生きている。
僕は一生、この日を忘れないだろう。僕が初めてガイとして、裕を抱き締めた日のことを。