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亡国政権の誕生

花田達夫

民主党が圧勝する形勢である。民主党の中には国を守ることを考えている政治家が誰もいない。中学や高校の生徒会レベルの人たちしかいない。まさに亡国政権の誕生と言うことになるだろう。その亡国政権を見たいと言うのが、国民の多数らしい。つまりそれが日本国民の今のレベルなのだ。今日のめしさえ食えればそれでいいのだ。国民はそれでいい。

しかし政治家は国を守る義務がある。馬鹿な国民がなんと言おうとも、10年後、20年後の国のあり方を思い描き、政治をする必要がある。国民に迎合する政治は国民を不幸にするのだ。といって迎合しなければ票が入らない。ここに選挙を行う民主政治のディレンマがある。

マスコミは既に公器たるを放棄している。いまや自由な言論はネット上にしかない。けれども国民の多くはまだネットを活用していない。あほな国だ。これだけ教育水準の高い国でありながら、亡国政権を選択しようと言うのであるから。これも明治の精神を殺した米国ののろいだろうか。

ああ、愚痴は言いたくないものだ。しかし・・・。(2009/8/24)


取り返しのつかない話

右浦耕大

法話
私はこのように聞いた。或る時、お釈迦様は次のように語られました。

あるところに鶏小屋があって多くの鶏たちが暮らしていた。鶏たちはその守りに長年、一頭の番犬を置いていた。ところがこの番犬、よる年波には勝てず、居眠りはするは粗相はするはで、蛇が入ってきたりするのにも気づかない始末。ときどき卵も盗み食いしているようだ。鶏たちは、「老犬はもう駄目だ。誰か代わりの番犬はいないだろうか」と思うようになった。

すると、この時に当たって、「私が番犬をしましょう。一度やらせて見てください」と、いう者が出てきた。若い狐である。ちゃんと見張りをして、鶏たちが安心できるようにしますよ、という。よぼよぼの老犬と比べると、颯爽としてよく働いてくれそうだ。そこで、老犬に替えて狐を番に当たらせることにした。

その後、その鶏小屋はどうなったであろうか。ある人が見に行くと、狐も鶏も全部いなくなって、辺りには羽が散乱していた。調べてみると、番をしていた狐が仲間を呼んで、小屋の中の鶏を襲ってその多くを殺したことが分かった。

さて、舎利子よ。そのときの番犬とは自民党であり、狐は民主党である。狐の仲間とは中共・朝鮮であり、鶏は国民である。犬と狐を、形が似ているからといって、不用意に取り替えてはならない。一度の取替えが取り返しのつかないものになることがあるのだ。物事の本質を見極めなければならないのである、と。

番犬の代わりは番犬です。ところが今変わりの番犬がいません。番犬になろうとしていた民主党は、いつの間にか狐になってしまっています。番犬だと思っていたのが狐だとわかってすぐに取り替えられればいいですが、そうできなかった場合が大変です。

今はヨタヨタの老犬である自民党を支持するしかない。より害の少ない選択として。次に出てくるであろう若い犬に期待しつつ。(2009/8/1)


「試しに民主党に」の軽い気持ちは、国を滅ぼす

花田達夫

衆議院選挙が近づいてきた。このままで行くと民主党が勝ちそうである。なぜなら、気分的に自民党は駄目だから民主党に入れようとか思っている人たちが多くいるし、保守層の中にもかなりの割合で、今度は民主党だという人たちがいるからだ。そしてその多くが口にするのが「一度民主党にやらせてみよう」という言葉である。まさに、民主党の思惑通りになってきた。それは単なる民主党のスローガンに過ぎないのに。

民主党を一度試してみようという人たちは、何か勘違いしているのではないだろうか。鶏小屋を守るのに、これまで使ってきた番犬がよぼよぼになってきたので、狐に代わりを任せるようなものである。同じイヌ科の動物であるが、鶏を守るどころか食ってしまうだろう。一度試してみようとして鶏が全滅してしまっては元も子もない。番犬にしていた秋田犬が駄目になったので、柴犬に変えるというのなら話が分かるが、狐に変えるというのは気違い沙汰である。

民主党試用論を言う人たちは民主党が「狐」であることに気づいていない。自民党とは違うが同じ「犬」だと思っている。若い犬だから、これまで老犬には出来なかったいろんなことをやってくれるだろうと思っている。民主党の政権になればすべてのことが解決すると幻想している。しかし、民主党は保守政党ではない。彼らの政権は本格的な左翼政権になる。二大政党制は基本的に二大保守政党間で行われるべきであるのに、自民党と民主党は「保守党と革命党」なのである。

民主党の目指すもの、外国人参政権(在日韓国朝鮮人に選挙権)を与える、人権擁護法(同和団体・朝鮮総連・民団などの活動を認める)、靖国神社を蔑ろにし、教育を破壊する。従軍慰安婦を認め、日本の戦争を犯罪扱いし、日本国民を骨抜きにする。つまり、民主党のいう「国民」は日本国民のことではない。ちなみに鳩山新代表は「日本列島は日本国民だけのものではない」と発言した。まさに売国奴の言である。

民主党の支持母体は、日本労働組合総連合会=連合、日教組、自治労、民間の各労働組合、部落解放同盟、反日宗教団体、また在日本大韓民国民団=民団、パチンコ関係の諸団体、そして朝鮮総連に関係している議員もいるという。 まさに確信的な左翼政権が出現するというわけだ。愛国心などどこにもない。

民主党が政権をとっても駄目ならまた選挙で替えればいいじゃん、という人たちは、民主党政権下で立法される法律は次の政権下での改正までは施行されるということに考えが及ばない。あるいは選挙法の改正で、次の政権交代が出来なくなるようになるかもしれない。そして我が国は「遅れてきた共産主義」によって没落していくかもしれない。あとは中共に飲み込まれるだけである。皇室典範も改正され、天皇も消滅するだろう。かつてドイツでは選挙で「ナチス党」が政権をとった。ドイツ国民は「試しに」ナチスにしたのだろうが、結果は亡国であった。

それでも、「ためしに民主党に政権をゆだねる」つもりですか。国を愛するまともな日本人なら民主党は選べない。腐っても自民党がましである。(2009/6/2)


今の政治家に国が守れるか

花田達夫

2008/11/11の田母神氏を参考人として招致した参議院外交委員会を見て思ったのは、日本の政治家には国防の意欲が無いという事であった。軍人が愛国の情を表明するのを恐れ、発言を制限していた。参考人として呼んで置きながら、発言させないとは馬鹿な話である。

自衛隊は何のためにあるのか。命を掛けて日本を外敵から守るためだろう。命を掛けるためには日本に対する愛が必要である。そこには、愛するに足る日本がなければならない。ところが、戦後日本人は日本を愛することを躊躇するようになった。戦争に負けて、連合国から押された悪者の国という烙印を消すことが出来ずに来たからだ。悪い国なら愛せない。でも、その評価は戦勝国が押し付けたものであって、それを真に受けるほうがどうかしている。

戦争は悪いことではなかった。勝ち負けは善悪とは関係ない。然るに、七年の占領下で、日本人は日本が悪かったから負けたのだと洗脳されてしまった。またその間に反日の思想を持ったものが公的機関やマスコミ言論界に入り込んでしまった。日教組はその最たるのもであろう。そして愛国を知らない世代がいま日本中に蔓延している。民主党をはじめとする野党の政治家はもちろんや自民党の政治家の中にも生息している。彼らは日本を愛していない。彼らが考慮しているのは幻想の「平和を愛する諸国民」なのである。

国防とは国家の存続を掛けた戦いに備えるためのものである。武力がなければ国は守れない。これは実に国家のエゴであり、本能である。善悪はない。是非もないのだ。個人が無抵抗で善良で死んでいくのは勝手だが、国家が滅んでしまっては元も子もない。そして日本とは、滅んでしまっていいような国ではないのだ。

田母神氏は日本を守るためには日本に対する愛がなければならないと説いた人なのである。国防に当たる者にまずこれを求めた。当然のことである。日本人はこれを是としないでどうするのだ。政治家がこれを頷首しないでどうするのだ。ところが逆に、彼らは田母神氏の考えを封殺しようとした。それはなぜか。彼らは日本ではなく「平和を愛する諸国民」(特にチナやコリア)の反応を恐れているからである。その背景には、彼らが過去の日本を後ろめたく思い込んでしまっているということがある。なぜこうなってしまったのか。

田母神氏はその原因を挙げて、それを取り除こうとした。そして先の大戦は一方的に我が国に非があるのではないと説いた。日本は悪い国ではないと説いた。すばらしい国であり、愛するに値する国であると説いた。そしてその愛ゆえに国を守ることが重要であると。

このような人物を更迭して何の益があるのだろうか。軍人が国を愛せないでどうして国防の任につけるだろうか。そういう軍人を守らない政府というのは一体何なのだ。民主党や共産党や社民党は国防を論ずる資格などありはしない。お前たちの存在は国があって始めて許されるのだぞ。

いま、日本周辺はキナ臭くなってきている。北コリア、チナは核を持ち日本に照準をあわせている。チナは西太平洋をわが海にしようとしている。ロシアも軍備増強をしている。アメリカは相対的に力が落ちてくる。国は自衛をしなけば誰も守ってくれないのが国際社会だ。我が国の政治家はこれに対処できるのか。今の文民統制では自衛隊は動けないぞ。なぜなら、文民に国防意識が希薄だからだ。日本国民よ。目を覚ませ。(2008/11/13)


ついに登場「ステレオデジタルカメラ」

右浦耕大

2008年9月26日の新聞によると、ステレオカメラ愛好家たちが待ち焦がれていた「ステレオデジタルカメラ」を富士フィルムが世界で初めて開発したという。発売は2009年になるそうである。

ステレオカメラとは左右の2つのレンズで被写体を写すもので、出来上がった画像を専用のviewerや裸眼で立体映像として楽しむことが出来るものである。普通のカメラが単に平面画像しか撮れないのに対して、本当の意味での「写真」をとることのできるものである。

今回富士フィルムが開発したものは、従来のフィルム式ステレオカメラと比べると、デジタルならわでの様々の機能が付いており、撮影からプリントまでを一つのシステムとして構成している。3D viewer である「3D液晶モニター」、プリントは「3D プリントシステム」が用意されている。動画もOK。二つのレンズの設定を自由に変えられるので、同じ瞬間を左右別々で異なった2D映像を撮影できる。さらに動画と静止画像を同時に撮影できる。左右同時撮影のパノラマも合成できる。

価格が気になるところだが、5万円以下なら則買いだ。富士フィルムさん有難う。これを期に各社が3Dデジタルカメラを出してくれることを望むものである。(2008/10/1)


北京五輪とチベット問題と中国人

花田達夫

2008/3/14にチベットで起きた静かなデモは、数日後大きな騒動に拡大し、ついに世界中に嫌中感情を引き起こすまでになった。五輪灯火リレーにおける中国のやり方はそれを助長し、各国の人々に中国に対する不快感を植えつけた。さらに中国当局者が西側に発するコメントは、全て自己中心的なもので反省の弁などひとかけらもなく、かえって傲慢さが前面に出るがゆえに、言えば言うほど中国人の醜さが表面化してくる様相を呈することになってきた。

ペマ・ギャルポ氏によると、中国側が意図してチベット騒乱を起こしたのだろうという。北京五輪前に不穏分子をあらかじめあぶり出し拘束して、五輪中に妙な動きをさせないためにである。もしそうなら中国当局は寝た子を起こしてしまったことになる。加えてほかの周りの子も起こしてしまったということだ。上層部では責任問題で揺れていることだろう。

今回の騒動で分かるのは、中国人は世界中で嫌われ始めているのだなあということである。彼らの正体が明らかになりつつあるのだ。ラルフ・タウンゼントが『暗黒大陸中国の真実』で中国人をこき下ろしたのは75年前だ。しかしその記述は今でもそのまま通用する。

中国当局は五輪と政治は別だという。しかし、過去1956年から1980年まで彼らは政治上の理由で五輪をボイコットしてきたのだ。いったいどの口で言えるのだろうか。彼らに誠実さを求めるのは木に寄って魚を求める如きものなのだろう。無駄なことである。(2008/4/11)


映画『靖国』

花田達夫

上映中止から一転して、当初の予定より拡大上映に変わってきた映画『靖国』。未見だからどういう映画なのかは分からないが、大体予想は付く。

制作会社は中国中央テレビの日本法人で、監督、製作総指揮者、プロデューサーはすべて中国人であり、協賛に釜山映画祭の委員会が名を連ねている。また、メインキャストは南京虐殺肯定派ばかり。ラストでは中共がプロパガンダとして使っている真偽不明の南京虐殺写真が「靖国刀」と並んで出てくるらしい。

これに文化庁が750万円の助成金を出した。助成金が欲しいということは制作費が足りなかったのであろうと思うが、どうもそうではないようだ。なぜなら朝日新聞の夕刊の全面を使ってこの映画の広告が出たからだ。驚くべきことにその費用は5736万円という。この費用の出所は不明だが(といっても多分中国からだろうが)、ともかく製作者側に金がなかったわけではないのは明らかである。つまり助成金が欲しかったわけではない。文化庁の名前が欲しかったのだ。彼らはこの映画が日本政府の「お墨付きだよ」といいたいのである。中国人の狡猾さには恐れ入る。

もともとこの映画は「靖国刀」の製作過程のドキュメンタリーを作るという触れ込みで、刀鍛冶に協力を依頼したらしい。ところが出来上がったのは全く別の意図を持った映画だったというわけである。利用された刀鍛冶こそいい面の皮だ。
中国人を信用すると破滅するということである。(2008/4/10)


安倍首相の辞任劇から見える日本の危機

花田達夫

今回の辞任劇から分かってきたのは、もはや我が国には保守の政治家は少数しか居らず、彼らもまた頼むにたらないということである。日本国の再生は一人の指導者ではどうにもならないということである。

福田氏の擁立に自民党のほとんどが加担しているのを見れば、安倍首相がどういう状況で日本の建て直しを図ろうとしていたのかがよく分かる。安倍氏の主張は多くの自民党議員には、「ぬかに釘」だったのだろう。笛吹けど踊らぬ自党の議員たちに悩み、失望したのだろう。それはつまり、保守の集まりであるはずの自民党がすでに保守ではなくなってしまっていることに愕然としたのではないかということだ。戦後レジュームが思いのほか強固であったということでもある。

安倍氏は小沢氏から「民意」を受けていないといわれて討論を断られたと言った。それが辞職の口実となったらしい。しかし安倍氏は民意を受けているのである。小沢の言葉は単なる目くらましなのである。なぜなら安倍氏は国会議員によって選ばれているからである。その議員たちは国民によって選ばれている。国民の民意は代議士によって表明されるのが代議制という間接民主主義である。安倍氏はそんなことは百も承知のことだったろう。しかしそれでも辞職することにしたのは、ともに戦うべき戦友を見出せなかったのだろう。

戦後60年。日本人は変質し、自民党ももはや護国の党ではなくなった。戦後体制の見直しに果敢に挑戦した安倍氏は討ち死にした。そして今、戦後体制を疑わない福田氏が総裁になろうとしている。日本はこのまま溶けていくのであるか。我が国は明治維新後最大の危機に入ったといって過言ではあるまい。(2007/9/17)


安倍首相続投宣言

花田達夫

democracyを衆愚政治(衆愚主義)と理解すれば、 建前上aristocracyを標榜している参議院(戦前は貴族院)議員を選ぶのをdemo(民衆)に委ねるのは、豚に便所掃除をさせるようなものではないか。

今回の自民党の大敗と民主党の大勝は異常であると思う。

democracyは民衆主義(民主主義とは言いたくない)だから、大衆(mass)を操った者が、つまりマスコミを味方に付けた者が勝つ。これだけなら大して問題にもならないが、ことが国家の安全に関わることになるとマスコミの責任は重大になる。今回の選挙について民主党側に付いたマスコミにはそのことについての自覚があったのだろうか。たぶん、あったに違いない。マスコミは自覚的に日本の無力化を目指しているのであろう。自国を無力化しようとするマスコミが存在することは驚きである。国家転覆罪に当たるのではないか。他国には例がないのではないか。

また衆愚側はすでに去勢されていて、思考力はなく、反政府的言動をするTV報道に踊らされているようである。民主党の目指すものが何かぜんぜん分かりもしないのに、「生活が第一」というような腑抜けたスローガンに一票を投ずるのだから。

続投を宣言した安倍首相は理念の人であるようだ。並みの政治家なら辞任をするだろう。参議院は衆議院と違うことを盾にとって、辞任を拒否した。権力に恋々としていると取られるのを承知の上のことだろう。彼にはまだやることが残っている。

盲の集団にいるなら目明きがそれを指導しなければならない。盲の言うことを聞いていては穴に落ちてしまう。明治維新のとき、もし国政選挙があったとしたら、あの大改革を推進しようとする政党には票は入らなかったであろう。そして日本は欧米諸国の植民地になっていただろう。

今我が国は維新のころと同じような状況にあるのではないか。そしてそれを安倍首相は自覚しているのではないかと思う。これが首相をして続投宣言をさせた理由ではないか。

潔く辞めることは簡単である。しかしそれが後からみれば短慮だったということはあることだ。
たとえば満洲事変後の諸情勢の中、国際連盟脱退をカッコよく宣言した松岡外相は国民から大喝采を受けたが、後世の歴史はそれが短慮であったことを示している。また、中共が国連に入るとき、中華民国(台湾)政府はそれを嫌って脱退した。ところがその後再び国連に加入したいと申請しても認められないでいる。WHOにも加盟できないままだ。日本も台湾も我慢すべきであったのだ。

安倍首相は我慢する気でいるのではないか。もしそうなら、支持してみようと思う。しかし内閣改造はしてもらいたいね。(2007/7/30)


第二次安倍内閣

花田達夫

今回の参議院議員選挙は自民党の負けになるとマスコミは予想している。もしそうなったら日本はどうなるのかということに無頓着である。マスコミはもはや害毒以外の何物でもない。一般の衆愚たちは安倍内閣の退陣を希望しつつあるように見える。鮫がうようよいる海の中で、乗っている船の底に穴を開けようとしている鼠みたいなものである。船が沈んでもいいのか。

野党が選挙の争点に仕立て上げた「年金問題」は安倍内閣の過失ではない。それどころか安倍内閣はこの問題を適切に速やかに解決しようとしているではないか。年金問題を選挙の争点にしてはならないのだ。これを争点にするということは、まさに衆愚政治を現出させてしまうことになる。民主党はこれをやった。政権をとりたい一心で民主主義の「禁じ手」を使った。そして掲げるのは「生活が第一」という低レベルの甘言である。中共はこれを笑っていることだろう。
国民生活は国があってのものである。金は失っても取り戻せるが、国を失っては元も子もない。民主党には国を守ろうとする姿勢がない。一年ぐらいで決着のつく年金問題は些細なことである。

今回は不幸なことに自民党は負けを覚悟しなくてはならないだろう。衆愚は明日の食事が大切なのであり、美しい国など考えてはいないからである。だからこそ政治家が考えなければならないのである。参議院は国の将来を見据える人たちの議院でなくてはならない。日本を売り渡すような候補者を立てている民主党が勝てば、国政は混乱するだろう。
しかし今回の選挙で自民党が大敗して、これといった失政もなかった安倍内閣が退陣になったとしよう。そうなることは望まないが、それでも安倍首相はそう悲観的でもないに違いない。

安倍内閣はたった10ヶ月の間に、目覚しい成果を上げている。教育基本法改正、防衛省の実現、国民投票法の成立などは、戦後60年間どの内閣も出来なかったことだ。戦後体制から抜け出し、本来の日本の姿を取り戻そうとして戦っている。拉致問題についての取り組みはその象徴である。今までにこのような内閣はなかった。マスコミには大衆に正当な情報を与える使命があるはずだが、いたずらに倒閣運動を煽っているマスコミもいる。彼らは日本をどうするつもりなのか。

マスコミが攻撃すべきなのは「キャリア官僚」のはずだ。年金問題は彼らがずさんな仕事をしていたのが原因だ。その元凶を断つべく、「公務員制度改革法」を通した。これも明治以来初めてのことだという。安倍首相は支持率が低下し続けたとき、選挙で大敗して退陣することがあるかも知れないと覚悟したと思われる。そこで、「基礎工事」だけは済ませられたという安堵感をえたいと思ったのであろう。国会を延長させてでもこれを通そうとした。
これらの法律の基礎工事で日本は方向転換をしていくだろう。ここで倒れても安倍内閣は歴史的内閣として評価されるはずである。

しかしまだ、憲法改正、皇室典範、靖国問題、人権法案、河野談話などの問題が残されている。安倍内閣の次の内閣がこれらの問題をうまく処理できないとき、安倍氏の再登板を望む声が起きるかもしれない。第二次安倍内閣の誕生である。そのときが日本国の正念場である。
自民が大敗したとして,なおも安倍氏が退陣しないとき、正念場は早く来ることになる。どちらにしても第二次安倍内閣の仕事になる。(2007/7/23)


光化学スモッグはどこから来るか

有村峰伯

平成19年5月9日に福岡、山口、長崎、熊本の各県で、5月10日には大分、熊本、福岡の各県で光化学スモッグ注意報が発令された。北九州市は2日連続である。早速役所は工場などに操業の自粛を求めたというが、原因は日本の工場ではあるまい。
今回の発令は福岡市では11年ぶり、北九州市の全7区に発令が出たのは1970年の観測開始以来という。八幡西区塔野では過去最高の濃度を観測。今回の光化学スモッグは突然出てきたのである。北九州市の工場が注意報発令にいたるほどの汚染物質を出すことなど、もはや考えられない。また長崎県でも、平戸、松浦、佐世保、諫早、西海、五島の各市で発令された。このうち佐世保市は1979年より観測を開始しているが、昨年5月に始めて発令、今年は4月27日にも発令され5月9日で二度目となる。今回は中学生数人が気分が悪くなったという。長崎県には大工業地帯などないのに。
長崎の田舎町にどうして光化学スモッグが発生するのか。考えられるのはただ一つ。そのガスはシナからやって来たのだろうということだ。
グーグルの衛星写真でも分かるように、渤海の海の色は尋常ではない。今年の黄砂には汚染物質が含まれているというので韓国では大変だったという。海を隔てた西日本まで注意報が発令されるほどの光化学スモッグが漂ってきているのだ。発生源のシナの大気は如何ほどのものだろう。察するに余りある。
さて、そんな中でオリンピックが行われる。マラソン選手は大丈夫かね。人ごとながら心配になる。(2007/5/11)


沿岸地域の土地は値下がりする

花田達夫

H19年3月5日付毎日新聞によると、「地球温暖化による海面上昇の影響を避けるため、海抜1b未満の沿岸地域を新たに開発するのは避けるべきだなどとする提言を、日米など12カ国の科学者グループが先月27日、発表した」という。これは国連の要請で18人の科学者がまとめたものである。また、3月9日付の同新聞には、アメリカ東海岸のチェサピーク湾岸にある古い墓地が海面上昇による侵食にさらされ、埋葬されていた棺が流し出されている場所もあり、フロリダでは住民が土地を捨て移住しだしているという記事も出た。
国土交通省はすでに5年前に研究報告書を作成している。(「地球温暖化に伴う海面上昇に対する国土保全研究会」報告について(2002.5.2)) しかしその後、たとえば東京湾岸にはビルが続々と建っていった。それらは数十年後には廃棄されるだろう。太平洋のツバルは国自体が文字どおり消滅するだろう。
海抜1b未満の沿岸に土地をお持ちの方は、いまの内に売り払って高台の土地を購入したほうがいいのではないでしょうか。この国連の提言をみんなが知るようになると、沿岸地域の土地は値下がりするでしょうから。(2007/3/9)


安倍首相は堅実である

花田達夫

大衆受けを狙った理念なき小泉前首相とは異なり、安倍首相は自ら言うように実務型内閣を作ろうとしている。そしてそこには伝統を重視した国家再生という理念が背景にある。このような内閣は戦後なかったであろう。文字どおり戦後体制の見直しと、そこからの脱却を目指しているのである。これは「パンとぶどう酒」を欲しがる大衆にはなかなか見えないし、野次馬でしかないマスコミには面白くないであろう。
安倍政権がわずか3ヶ月でやったこと、そしてこれからやろうとしている事は大事なことばかりである。大衆の支持率などに惑わされずに、実績を積み重ねていってもらいたい。大衆などは国家の将来を考えてはいないのだ。世論などはその時々の「気分」である。政治家は気分に流されずに行く末を思わなければならない。安倍首相はそういった少ない政治家の一人である。確実に成果を挙げていって欲しいと思う。閣僚のくだらない失言を取り上げて、大騒ぎをしているような野党や与党の一部議員たちにはなんら期待は出来ないのだから。(H19/2/1)


2チャンネルはマスコミの天敵である

右浦耕大

新聞、TVなどのマスコミは長い間、「言論の自由」を振りかざして、政府の批判ばかりしているうちに、左に傾き、国益を蔑ろにしてきた。マスコミを抑制する天敵がいなかったので、そこに巣食う虫たちはのうのうと太って尊大になっていた。しかしここに天敵が現れた。2チャンネルである。
2チャンネルの言論界はマスコミの取り上げたニュースを俎上に載せ、分析し、批判し裁断するのである。そこに飛び交う言論は玉石混交であるが、しばしば大新聞社の記事よりも優れたものが見られる。2チャンネルの言論界は基本的には「酒席の雑談」であるが、参加者の資質が高い場合には、それなりの意見の交換がなされ、読む者の蒙を拓いてくれるものがある。マスコミが利用している識者よりも「雑談」のほうが見解が優れていることがある。マスコミが誘導しようとしている主張を笑い飛ばす力がある。2チャンネルの利用者にとってマスコミはからかいの対象になってしまっているのだ。(H18・12.8)


紀子妃殿下は「男の子」をではなく「親王」をご出産になったのである

右浦耕大

平成18年9月6日、宮内庁発表は「文仁親王妃紀子殿下には,本日午前8時27分,愛育病院(港区)において御出産,親王が,無事御誕生になりました」ということであった。ところが当日、NHKはじめ各マスコミは「親王」ではなく「男の子」が生まれたと報道した。安倍官房長官への質問のときにも、記者たちは「男の子」という表現に固執していた。安倍長官が「親王殿下」といっているにも関わらずである。各マスコミは「男の子」という表現をすることによって、事の重大さを意図的に低く印象付けようとしているのではないか。
このたびの男子ご出産は、一般家庭の「男の子」出産とは次元が違うのである。その男子は「親王」としてお生まれになったのである。もし「内親王」であった場合は現皇室の系譜は途絶え、下手をすると女系の偽天皇を将来することに繋がることになったかもしれないのである。そうなると、わが国の文明の中心が失われ、求心力をなくしたわが国は中華圏に吸収されて瓦解することになるかもしれない危惧があった。
よって、この視点で見れば紀子妃殿下は救国の国母であると言ってもよいのである。「男の子」出産という報道表現は皇室を貶め、ひいては日本国の弱体化を齎そうとする売国の表現である。
わが国を愛し、安定と誇りある発展を願うものは、自ずと「親王殿下」誕生と表現し寿ぐものであろう。「親王」か「男の子」かで愛国心の度合いが測れると言うわけである。(平成18年/9月/6日)


靖国神社は鎮魂社

花田達夫

人は死ねば肉体は滅びるが、魂は肉体から抜け出て浮遊するというのが、日本人の霊魂観である。そこで、その浮遊している魂を呼び寄せ、祀ってお鎮まりいただくという場所が考え出された。それが社(やしろ)である。靖国神社が最初「招魂社」といったのはそういう意味からである。招魂して鎮魂しなければならない理由は、この世に未練があったり、恨みがあったりする霊が、この現世の人々に祟らないようにすると同時に、慰撫することによって守護霊となってもらうためである。お盆の行事を考えればこのことはよく分かるであろう。あるいは菅原道真や崇徳院の怨霊を鎮め神として祀ったことを思ってもよいだろう。

であるならば、靖国神社は鎮魂社なのである。ここに招魂された霊を慰めなければ現世に祟るかもしれないのである。世界に災いを齎すかもしれないのである。よって、靖国参拝は世界の平穏を祈る行為となる。これに反対するのは、災いや疫病や争いが蔓延して、世の中が乱れてもいいということになる。中国や韓国の反靖国に対しては以上のように反論すればいいのである。あなた方は平和を望まないのかとね。(2006/8/15)


紀子妃殿下の御懐妊は天佑神助である

右浦耕大

平成18年2月7日宮内庁発表によると、秋篠宮紀子妃殿下が御懐妊であるという。来月にも予定されていた皇室典範改正法案の提出が、これによって微妙になってきた。皇室典範改正で国体の解体を狙っていた小泉の思惑が頓挫するかもしれない。いや、そうならねばならない。

今回の改正案では女系の偽天皇が出現する。現状では国民の多くが女性天皇と女系天皇との区別もつかないままで、改正案に賛成している。反対論者には国民への啓蒙に時間がなく、なし崩しに改正案が成立する可能性が高かった。ところが今回の御懐妊の発表で、国民や国会議員も一気に改正案の問題点に気づくだろう。小泉も無理押しができなくなるだろう。

このタイミングで御懐妊とはまさに天佑である。神助である。日本国はまだ「神の国」であることが示されたのではあるまいか。(2006/2/8)


天皇位は民意ではなく、神意であり、超法規である

花田達夫

現在の大方の日本人が民主主義的であるのはいいことだ。これは人々はみな平等であるという観念を持っているからだろう。西洋が人権概念を出して、民主主義を発展させてきたのも、根底にその観念がある。そしてその前提になっているのが、人間が神の被造物であるという考えである。日本においてはこれは、「天孫民族」ということになるのである。このように、民主主義を支える思想というものがある。
ところで、西洋人は神を民主主義で選んだのだろうか。そうではない。同じく、日本においても、神を人々が選んだわけではない。逆である。一神教において世界が神の被造物であるように、日本は高天原の神の被造物である。もっとも両者の神概念は異なるけれども。アナロジーとしては同様なことがいえるのである。

そして皇位継承は神意で男系とされているのである。この神意を民主主義で変えられるわけがない。それは本末転倒である。いま、議会でこの神意を否定しようとしている議員たちは、ことの本質が分かっていない。皇位継承は民意による立法で決めることではないのだ。人法ではなく神法なのだ。祖法であり宗法である。
たとえば聖書の民が「十戒」を時代にそぐわないからと言って、議会で論議して改正するだろうか。仏教徒が仏陀の決めた「五戒」を改定するだろうか。ありえないだろう。皇位継承もそれと同様に超法規的なものなのである。これに手をつけることができると思うのは、まさに信仰心のない共産主義者であるか、異教徒であろう。

小泉は無識で無礼な朝敵であり、みんなの乗っている日本という船の底に穴を開けようとしているのである。船の改造ぐらいならしてもよいが、船長だからと言って何をしてもいいというわけではないのだ。こういう船長には降りてもらおう。(2006/2/1)


平成18年:年頭言

右浦耕大

日本は天皇を祭祀長とする神の国である。国賊吉川を座長とする朝敵小泉首相の私的諮問機関が女系の天皇位簒奪を画策している。天皇位継承は法律を超えているものなのに、国会決議で万世一系に終止符を打ち、天皇を消失させようとしている。たった十人の「無識者」たちがわが国の国柄を変えようとしている。国始まって以来の亡国革命が進行中である。小泉は自民党ではなく日本を壊そうとしている。

吉川=小泉案の皇室典範改正が可決され、将来女系天皇が出現すれば、ほぼ日本全国の神社はその権威の根拠を無くす。天照大神との関係が切れ、恩恵が及ばなくなるからである。八百万の神は統制を失い混乱し、人々の祈りは行き場を失う。これまでの安穏な日本とはまったく異なる、中核を失った国が出現するだろう。もはや外敵に対する挙国的な抵抗力は生まれず、守るべきものや伝統を見失った哀れな国になるだろう。神々に見放された日本の崩壊と没落が始まるのである。

天照大神は子孫の男系男子の天皇がいる日本しか庇護しない。天皇は神々や神話に繋がっている。天皇とは天皇霊を引き継ぐ者をいう。それは男性しか引き継げない。よって男性以外は本当の天皇ではない。この男系男子継承法こそが時代を超えた唯一安定的で正当なものである。この継承が続く限りにおいて、天照大神はこの豊葦原の瑞穂の国の五穀豊穣を約束したのである。我々がいろんな神に祈って儀式や祭りなどを行う根拠はここにある。女系では天皇霊を引き継げないのでこの根拠が無くなる。今まで女系天皇が出ていないのは当然である。天皇位は法律で決めたものではない。国民が皇室典範を弄って女系を認めても神が認めないから偽天皇である。偽天皇の世に神の庇護はない。神社やお祭りや地鎮祭で祈っても無駄になる。日本の国土山川草木が認めないからである。

天皇位は一皇室の私物ではない。現皇室は男子の継承者がいなくなればそれで終わる。その場合別系統の皇統の男子が天皇位を継承する。過去そうやって天皇位は引き継がれてきた。女系の偽天皇を認める皇室典範改正は日本国の有りようを否定するものである。祖先と、そして子孫に対する反逆である。よって女系天皇容認には反対である。(平成18年元旦)


靖国神社は日本にある

花田達夫

平成17年10月17日、小泉首相は靖国神社に参拝した。これに対して予想されたように、中共、韓国からイチャモンがつけられた。それに前後して、国内のTV報道,新聞など、また野党や公明党、それに自民党の一部の政治家たちが小泉首相を批判する声明を出した。それらは中共や韓国のイチャモンを補強するものだった。その批判の根拠はいわゆる「A級戦犯」の合祀と政教分離違反と言うものである。

中共や韓国がイチャモンをつけるのはいわば、言葉の暴力でもって日本を貶め、日本に対して影響力を及ぼそうとする企てであり、それが効果をもたなくても言うのはただなのであるから言っておこうというぐらいのことなのである。しかしこれが思いもよらずに日本に対して効果があったために味を占め、繰り返して責めているのである。この背景には日本を格下に見る「中華思想」がある。下位のものに対しては無理難題何を言ってもいいのである。論理的であろうとなかろうと言いがかりをつければいいのである。内政干渉とさえ思っていない。日本は中華思想の圏外にあるのだから、彼らの言う事を聞き流していればいいのである。やくざまがいの恐喝には乗らない事である。

ところが、今の与党の一部と野党の政治家やマスコミの報道はこれを鵜呑みにして、自国の立場にたたずに、中・韓の立場から批判をしているのがほとんどだ。これは利敵行為である。先の民主党党首岡田は「中国に(参拝の)許しを得たのですか」と首相に迫った。どの国の政治家なのか。
甚だしきはTV報道である。どこの国の報道機関なのか。靖国参拝に批判的な政治家ばかりのコメントをとり、それがあたかも日本人の多数意見のように見せかける。先の選挙の結果からもわかるようにマスコミの予想と実際は違ったのである。今回も同じだろう。首相の参拝には少なくとも国民の半数は賛成なのだ。問題はここにある。マスコミはその報道で隣国側に立ってはならないのだ。なぜなら国民を分裂させる事は国益には繋がらないからだ。中・韓の支配力を強めてしまい亡国の道を開いてしまう事になるからだ。中国も韓国も日本の助力であそこまで成長した。国の政治家や報道に携わるリーダーたちはそのことを知っておかねばならない。(する必要のない)謝罪はすでに終わっている。隣国の勝手な戯言を増長させるような報道はするな。

「兄弟(けいてい)墻(かき)に鬩(せめ)げども外その侮りを禦(ふせ)ぐ」と言う言葉がある。兄弟は内輪喧嘩をしていても、外部からの侮辱を受ければ、一つになって防ぎ守ると言う意味だ。
靖国問題は国内問題である。与野党やマスコミが議論するのは構わない。身内の冠婚葬祭をどうするかの話だからだ。しかしこれについて、歴史や伝統、宗教的考えも異なる他国が口をはさむのを許すのとはまた別問題だ。マスコミが他国の口車に乗って自国の精神的核心を揺るがそうとするのは、国家転覆罪にあたる。マスコミがしなければならないのは他国の干渉を排しなければならないと言う報道である。そうでなければマスコミの存在意義はないのである。

靖国神社は日本にあるのだ。日本人が国内のどこへ行こうと他国人からどうのこうの言われる筋合いはないのである。中・韓国人にはそのことが理解できないようだ。わが身を他人に置き換えて考えると言う事が出来ない人種なのであろう。こういう手合いとは距離をおいて付き合うしかなかろう。(2005/10/18)


小泉首相には愛国心がない

花田達夫

2005年8月15日戦没者追悼式に於ける小泉首相の式辞には矛盾がある。
「先の大戦では、多くの方々が、祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後遠い異郷の地に亡くなられました。この尊い犠牲の上に、今日の平和は成り立っていることに思いを致し、衷心からの感謝と敬意を捧げます」といいつつ、「わが国は多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対しても、多大の損害と苦痛を与えました」と続ける。前半では戦没者に対して感謝と敬意を表するといいながら、後半ではその戦没兵士たちがアジアの諸国民に損害と苦痛を与えたと言っている。つまり、戦没者に向かっておまえたちは「戦犯」だと言っているのだ。
また、同様に「私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し」といいつつ、「かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対しても、多大の損害と苦痛を与えました。」と繰り返し、戦没者たちを悪者にし、さらに「歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」と続ける。この「反省とお詫び」の文には目的語がないのであるが、一体誰に向かって表明しているのだろうか。戦没者に言うべき言葉だろうか。

小泉首相は歴史の事実についてもあまりご存じないところがある。「かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対しても、多大の損害と苦痛を与えました」という表現からは、わが国がアジアの多くの国々を植民地支配や侵略したと小泉氏が考えていることがわかる。
小泉氏が植民地支配と考えているのは韓国併合かもしれない。しかし併合は植民地化することではなかった。また侵略と考えているのは中国や東南アジアへの戦線拡大を考えているのかもしれない。中国に対する侵略は防共という意味もあり、また東南アジアへの進出は欧米諸国の植民地であった諸国の解放という意味を持っているので、一概には言えないのである。
「植民地支配と侵略」がなされたとみなし得るのは「満州国」だけであろう。しかしこれも、辛亥革命で国を追われた清朝が故国の土地に独立国を建てるにあたって支援したということでもあるのだから、一方的な植民地支配や侵略とも言いかねる。

小泉氏には日本が戦争への道を選ばざるを得なかった当時の事情に関する考察がない。日本を「悪」と考えているのだろう。そういう人が「愛国心」を持っているはずもなかろう。(2005/9/1)


皇位継承問題で見過ごされているもの

花田達夫

2005年7月下旬、首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は皇位継承権を男子男系でいくか、女系を認めるかの二つに絞っていると報道された。ここで意図的かどうかわからないが、ほとんど報道されていないものがある。それは天皇の資格問題である。なぜ今まで男子男系で皇位が継承されてきたのかという根本問題である。

天皇は男子でなければ継承できないのである。天皇は天皇霊を引き継がなくては天皇になれない。この天皇霊を引き継ぐ儀式は男子でなくてはできないのである。これが第一の条件であるはずなのにあまり語られる事がないのはどういうわけであろう。この天皇霊は我が国の稲作と重要な関連がある。天皇霊は稲作の守り神である。女系天皇を認めるということは我が国体が稲作と手を切るということである。それでいいのかどうかをもっと国民に知らせる必要があるのではないか。
有識者会議に外部から呼ばれた学者の中にも天皇霊について言及した人もいる。マスコミはそれについては一言も報道しない。これは見過ごすにはあまりに重大なことではないか。(2005/7)


中国人の心性について

花田達夫

2005年5月の中共政府の靖国神社に関しての言動をどう見るのかについて、以下は参考になるだろう。
1933年の時点での1アメリカ人元外交官の見解。ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』より。(書評欄においても紹介しています。)

「真顔でこういう法螺を吹いて相手を納得させてしまうのが典型的な中国人役人である。」(p9)
「致命的に欠けているものが二つある。それは正直と協調性である。」(p28)
「どだい言葉には何の意味もないのである。また金もかからないから言葉を湯水のように使う。些細なことを長々と論じたり、心にもない賛辞を滝のように浴びせたりするが、ウソだと顔に書いてある。」(p35)
「西洋人は道徳観は人類に共通するものと考えている。が、間違いである。」「これが中国では通用しない。恩義を感じないのである。」「親切の『お返し』というのもがないのである。同情も、西洋人は共通の感情であると思いがちであるが、間違いである。」(p62)
「猛獣と同じだ。『話せばわかる』と思われているが、とんでもない。殴らないと分からない。」(p77)
「中国人が、もしこの国際法を尊重するようになったとしたら、世界中が平和になるが、違うのである。逆に、彼らの強烈な国民性ゆえに、中国関係はギクシャクしているのである。」(p86)
「中国人の行動を理にかなったものとして受け入れるという意味で『理解する』ことは不可能である。」(p88)
「『中国人は嘘が好き』である。」「我々にとって『嘘』は軽蔑に値するものだが、中国人にはそんなことはない。したがって、『人格に欠陥あり』と考えるのは我々の認識であって、彼らはそうは思っていない。交渉する時、忘れてはいけない」(p93)
「『後でばれても今さえ良ければ良い』というのである。役人全体こうであり、特にいわゆる上級クラスははなはだしい。」(p95)
「中国人の嘘は、嘘が嘘ではなく、『答』なのである。面倒で不愉快な相手を不安にし、やり込める手である。」「いよいよだめだとなると、顔色一つ変えず、また同じく前言と矛盾する嘘をつく。そしていよいよ追い込まれると新手を繰り出す。諺の連発である。」(p96)
「言葉も契約書も信じられない。」「中国人は契約の抜け道を探す天才で、信じられないからである。」(p106)
「感謝の気持ちはさらさらない。当然の権利だと思っている。」(p117)
「建前は使える。自分にではなく相手に、である。立派な建前を持ち出し、法に従うふりをするのである。」(p120)
「中国人は神だの道徳だのとは全く無縁の国民である。」(p144)
「世界にこれほど『口先だけの人間』はいない。」(p148)
「感謝はともかく、まさか『しっぺ返し』されるとは誰も思っていない。こういうささやかな願いを無残にも踏みにじるのが中国人である。」(p166)
「表では『正義・公平・協力』を叫び、裏では実に見事に共謀・妨害・暗殺・略奪を働いている。」(p182)
「彼らは、義捐金をさっさと受け取りながら、後で『これは米帝国主義的搾取の野望を込めた中国民族の精神と文化の破壊の証拠である』と騒ぎ立てる。」(p184)
「権力者はまず間違いなく悪人である。」(p230)
「いくらわかっていても、立ち上がって中国人のスポークスマンに」『大嘘つき』と言うわけにはいかない。毎度ながら、これが中国人のご自慢の騙しのテクニックである。」「国際会議では遠慮がちに事実関係を述べるより、嘘でも何でも堂々と主張した方が勝ちである。中国人の『はったり』には誰も敵わない。」(p246)
「中国人は世界に冠たる詐欺師、ペテン師である。」(p260)
「中国ほど残忍で愚かな国はない。」(p268)
「こちらが寛大なのを見越して、少しでも隙を見せると襲いかかるのである。」(p283)
「国家の指導的立場にある人間も同じ。ある国が中国に優しく接したとする。そういう優しさが理解できないから、これ幸いとばかりにその国の人間を標的にする。」(p286)
「こちらが下手に出ると、付け上がる。強気に出ると、引き下がる。これが中国式外交である。」(p288)
「善意で彼らに接し、多くの慈善事業を提供した。彼らはこれが理解できず、逆に利用し、どんなひどいことをしても構わないと思っている。」(p291)
(2005/5/26)


小泉首相の謝罪を肯定的にとる2チャンネラーに対する、2チャンネラーの反論(2005/4/22〜23より)を読む

花田達夫

小泉首相はインドネシアで開かれたAA会議での演説で日本が行ったとされる「植民地支配」を謝罪した。このことに関して2チャンネル上では7対3ぐらいの割合で肯定する意見が多かった。しかし否定的な2チャンネらーもいたわけで、以下はその意見の概要である。

「靖國の英靈は、日本人は、植民地支配と侵掠のために戰つたのか。靖國の英靈は、日本人は、植民地支配と侵掠の ために戰つたのか。ほんたうに日本人は、植民地支配と侵掠のために戰つたのか。もしさうであるなら、そんな國はなくてもよい。滅べ。滅べ。滅べ。」

「日本は日露戦争以来一貫して反植民地政策に貢献してきました。その結果、世界から植民地は無くなりました。日本は植民地を持ったことはありません。」

「日本の国粋主義者は民族自立のため、中国の共産主義者、自由主義者への支援を惜しみませんでした。」

「日本が軍事大国だったからこそ植民地から独立できた。多くのアジア諸国はこの演説に矛盾を感じないのだろうか。」

「世界世界って、世界は日本の歴史なんか知らないし、どうでも良いんだよ。大戦の謝罪なんて関係なし、あっさり謝罪した日本、知らない国は『良かった良かった、これで暴動がなくなる』で、『結局日本が悪かったんだね』で終わりだよ。それ以上でもそれ以下でもない。」

「小泉はまったく国内のことは考えてないな。馬鹿。植民地支配なんてしてないだろーが。大体あの頃のアジアなんてほとんど欧米に植民地されてたのに馬鹿かよ。嘘で謝るなんて日本人が誇り持てないし自殺者減らないしニート増えるのも納得だ。ぼけ死ねコイズム」

「小泉のゴキブリ売国奴には、全く日本への愛情が無いので、今日の国際会議での 言も、『アジア≪諸国≫を≪植民地支配≫した日本から謝罪と反省を・・云々 』って、抜かしやがった。  こうやって、日本軍の先人方が命を落としてアジア諸国を、白塵どもから≪ 解放・独立 ≫ させた真実が、隠蔽され只管、『日本=悪』の洗脳がされていく・・・。   可哀想な先人方。  可哀想な英霊さま方。クソ小泉始め、戦後のゴミ政治禍どもが、テメェの利権や保身の為に悉く、【 大日本帝国を貶めていく・・・】可哀想な英霊様・可哀想な先人達。」

「過去の歴史を謝罪するな! 過去の歴史を否定すれば自らを葬る事になる。我々の人間性、文化は一体どこから来たのか?我々自身で築いたものなのか。否、我々は歴史によって育まれ、偶然その尖端に存在するだけである。中共の狙いは日本人の人間性否定、文化否定だと断言する。過去の謝罪を弄べば、火の粉は自分自身に振りかかるであろう。」

「『欧米諸国は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の十七年間の経緯を、罪悪と烙印することが目的であったに違いない。それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかる筈だ。満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史をどうか私の判決文を通じて充分研究して頂きたい。
 日本人の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れて行くのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。あやまられた彼等の宣伝の欺瞞を払拭せよ』 パール先生…申し訳ありません…日本は…日本はもう…… 」

「過去に対して謝罪するのはやめないさい。我々は先祖に感謝こそすれ、断罪する資格も権利も無いはずです。小泉首相だって同様です。現在の我々が過去を否定できるならば、我々は未来の日本人から否定されるでしょう。まさに永久革命です。将来の日本を不安定化する要因になると危惧しています。」

「小泉よ。お前、国の代表が謝ると言うことはどういうことか、分かっているのか。自己の政権維持のためなら、何処へ行ってもペコペコか。お前、自分の利益のために、国民をさらし者にするんじゃないよ。いつもペコペコするから、小突き回されるんだ。そもそも、お前に、歴史的事実について、謝罪する資格があるのか、考えてみろ。これから政府代表が謝罪する時は、国民全てのチンポくわえてからにしろ。ドアホ。」

「>『経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を堅持している』
武力を持たない日本なんて三馬鹿国家を除いたアジア国家からは頼りないし存在価値の無い国に映るだろうな。何のために日本に食料を輸出したり安い労働力を提供したりしてると思ってるんだ? 暴走する中国をやっつけてくれるアジアのスーパーマンが日本の役目だろ。力を持たないスーパーマンなんてただのサラリーマンじゃねえかよ。ただ豊かな生活をするだけの豚かよ。」

「その通りだと思うよ。軍事力の無い日本なんて日本人である俺自身が嫌だもん。中国に対抗する軍事力を持ちたくても持てない弱小アジア国家にとって日本は守り神みたいなもんだろ。その守り神が武器は持ちませんと言い放ってしまうんだから、ちょっと待てよと思うのが中・韓・北以外の他のアジア国家だと思われ。
中国を圧倒する武力を持った上で謝罪するならまだしも、謝罪した上に武力は持ちませんって、それってただの負け犬じゃねえか。喧嘩の達人だけど喧嘩しないってならかっこいいけど、今の日本は、弱いから理不尽なことをされても、喧嘩になりそうになっても逃げ回るしかないサラリーマンみたいなもんだろ、すげえかっこ悪い。こんな国になってしまった日本は絶対に俺達の世代で本来あるべき姿に戻さねばと思う。今の日本は正直言って最悪の一歩手前だ。」

「もういいよこの問題。日本は終わってるよ。これからもずっと謝り続けるし、南京大虐殺の汚名はもう消えないよ。日本の兵隊さんを弁護するのは日本人しかいないのに、首相からマスコミまで誰も反論しないんだもの。ドイツ人は仲間ができたみたいで嬉しいだろうね。」

「お国のため,大東亜共栄圏のために戦った英霊たちに失礼だから、小泉は靖国参拝しなくていいよ。

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス」

「もし第二次世界大戦がなかったら…
アジアの中で唯一列強と互角以上に戦えた日本がなかったら…
アジアの国々はそのことをよく考えておくように。」

「おまえらは村山談話が世界中に流れるのがそんなにうれしいのか?日本はひどい国だったってことでGJなのか?戦術でなく、戦略としては最悪ではないのか?謝るべきことなんて何ひとつないのだ。
今をのりきるために一番大事なものをないがしろにしてどうするのだ!」

以上並べてみると、否定派の慟哭が聞こえてくるようである。小泉首相はまったく日本国民の矜持を、誇りを、自尊心を踏みにじっているとしか思えない。まさに自虐である。わが国民は頭をたれながら世界に出て行かねばならないのか。これでは我が国の子孫たちは胸を張って世界に伍していけない。歴史的事実はそうではないだろう。当時、全世界は西洋人の物になろうとしていた。もし日本なかりせば、AA会議そのものが存在していないだろう。中国や韓国自体も存在していないだろう。日本はアメリカに負けたとはいえ、決して卑屈になる事はなく、世界史を大転換させたという自負を持って、堂々と胸を張って世界に出て行く資格が充分にあるのだ。小泉首相にはそんな歴史認識がまったくないのである。政治家が自国に愛情を持たないでどうなるのか。暗澹たる気持ちになってしまった。(2005/4/25)


笑い事ではない韓国人の歴史知識

右浦耕大

朝鮮日報(web版日本語版)によると、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領のドイツ、トルコ歴訪に随行している潘基文(パン・ギムン)外交通商部長官は4月14日午前、MBC「孫石熙(ソン・ソッキ)の視線集中」に出演し、(日本は)「根本的に歪曲された歴史を青少年に教育しており、歴史をありのままに記述する是正措置が必要であり(韓国が)実効的に支配している独島(トクド)についても、これ以上領有権を主張しない態度が求められる」と強調したという。

これを読んで大笑いした人は大勢いる事だろう。ことほど左様に彼らは自国主義であり、なおかつ教科書で習った歴史をそのまま信じ込んでいるということが分かった。自分で歴史を調べなおした事もないのだ。これまでの日本統治時代を経験した韓国政治家は、韓国の教科書の歪曲性を知りつつ、それを隠し、日本を攻めていた側面があったろうが、戦後教育を受けた「ウリ党」の若い(日本でいえば団塊の世代)閣僚は盧武鉉も含めて、自国賛美の反日歴史教科書で仕入れた知識を無批判に受け入れてしまったようだ。韓国には歴史学者がいないようである。

藩氏が思っているありのままの歴史とは、韓国の歴史教科書の記述の事であろう。一国の外相が、自国の高校教科書程度の歴史知識で、隣国の歴史教科書の記述を否定するというのは、まさにお笑いである。そこには自国の歴史教科書に対する自省も疑いもなく、全てが正しいと思い込み、それと異なる記述をしている隣国の教科書を一方的に否定するという、まさに小学生並みの夜郎自大性が見て取れる。もし「歴史をありのままに記述する」ことになると、日本史はますます輝き、韓国史は惨めな歴史しかないということが、無知ゆえに分からないのである。さらにいえば、どう見るかによって歴史の記述は変わってくるのであり、「歴史をありのままに記述する」ことなどできないのである。だからこそ各国は独自の教科書を作るのである。

「歴史をありのままに記述」しようとして出てきたのが扶桑社の『新しい歴史教科書』である。それでも韓国などに気兼ねしているところがある。藩氏はそんな事を止めて、もっとありのままに記述しなさいと言っているのであるから、大笑いなのである。しかし彼の言動で分かった事は、政治家も含めて韓国人は自国史のみが正しいと思い込んでいるということである。学問としての歴史学がないらしいのである。そんな韓国と付き合っていかなければならない日本は、笑ってばかりもいられない。無知な者と論争すれば負けるのである。強引に打ち負かすと彼らは恨む。日本人がいくら資料を駆使して論理的に説明したところで、彼らの洗脳は解けないであろう。なぜなら彼らの歴史教科書が教えるところによれば、日本人は下等で野蛮で信用できないのだから。

     おもしろうて やがて哀しき 韓国人

(2005/4/15)


ハングルの意味

有村峰伯

韓国語の学習書などを見ると、「ハングル」の意味は「ハン」(大きな・立派な・偉大な)、「グル」(文字)と分解して、あわせて「偉大な文字」のことと解説している。これは眉唾物だと思われる。小学館の『朝鮮語辞典』によると、「グル」は「文字」で良いようだが、「ハン」には同音異義語が9つあって、「大きい」はその一つでしかない。その他の中には「韓」の意味もある。すると「韓の文字」と言う意味だって可能である。この方が本当らしくないか。そこで同辞書で「ハングル」を引くと、「ハングル(朝鮮固有の文字)」とあり、偉大な文字の意味だとは書いてない。解説には「1443年に創製され、1446年に『訓民正音』という名称で公布された朝鮮語の表記に用いられる音素文字。『ハングル』という名称は19世紀に入ってから生まれたものであり、韓国では現在広く用いられているが、共和国ではふつう『チョソングル』(朝鮮の文字)とよんでいる」とある。そうであれば、「ハングル」も「韓の文字」という意味がもともとのものだった可能性が大きいのではないか。

韓国人はハングルを世界一の文字だと自慢する。それで「偉大な文字」という意味だというのであるが、ハングルの普及は高々百年前に始まったに過ぎない。偉大な文字というならなぜもっと早くから普及しなかったのか。560年も前に公布されたというのに。韓国人はそんな事も考えないのである。
ハングルは以前は「諺文」と呼ばれた。「漢文」に対してハングルを低めて呼んだのである。ちょうど我が国で「漢字」を「真名」と呼び、それに対して我が国の文字を「仮名」と低めて呼んだのと同じである。諺文は漢文の代わりに作られたものである。朝鮮王朝時代は漢字こそ「偉大な文字」であり、諺文は卑しいものとして知識階級では無視されていた。「諺」とは俗話、俚言のことであり、口偏に彦と書くこともあり、その場合は粗俗という意味であった。また「訓民正音」とは「民を訓して音を正しむる」ということで、人民が字(漢字)を読めないのを哀れみ、愚民のために文字を作ってやったから、それで日用せよといったものである(「訓民正音」序文より)。

以上のことを考えると、ハングルには偉大な文字という意味はなかったというのが本当のところであろう。中国に事大していて歴史でさえ中国史を読んでいた朝鮮人が、漢字ではなく、漢字の代わりに用いる粗俗なハングルを「偉大な文字」と考える事はありえないのである。単に「朝鮮の文字」と読んでいる共和国のほうが常識的というものである。(2005/4/10)


売国奴:日本衆議院議長 河野洋平

花田達夫

平成16年8月17日、福岡で開かれた毎日新聞社主催の世論フォーラムで、河野洋平は次のように語ったという。
@パウエル米国務長官が、日本の国連安保理の常任理事国入りには憲法9条の改正が重要だと述べたことに関して。
「日本のバックボーンになってきた主張を変えるとどうなるか、よく考える必要がある。安保理常任理事会入りをやめる選択もある。」
これは、憲法改正してまで常任理事国入りなどしなくて良いということ。
A武器輸出3原則の緩和を求める動きについて。
「なぜ今、見直されなければならないのか。武器を輸出しないという大きな柱こそ、日本外交の武器だった。堅持していく必要がある。」
B8月の終戦記念日に関して。
「『何月何日にはどうしてもお墓参りに行きたい』という信念、心情は消しようがない。しかし、その信念、心情を貫くあまり、いろいろな問題を起こすのなら、もう一度考えてみる必要がある。」
靖国参拝問題で日中交流が途絶えている現状に懸念を表明したということ。(以上8/18毎日新聞より)

河野洋平は外務大臣だったとき、日中外相会談のためバンコクを訪れる途中天候不良で台湾に一時着陸した際、飛行機から下りずにいて、バンコクで会談した中国要人に「私は台湾の地を一歩も踏みませんでした」といって、中国に忠誠をあらわした(小林よしのり『台湾論』p95)といわれる人物である。上の発言もその文脈で読まないといけない。つまり日本は中国と対等以上になってはいけないというのである。中国より下にいなければならんというわけである。
上の発言は中国の政治家が言うのならわかるが、日本の政治家が言うべきことではない。河野洋平は中国の犬である。(2004/8/31)


小泉は小さな泉。底が浅いし、透けて見える。良く見るとゴミばかりだ。

花田達夫

2004/5/27、参院イラク武力攻撃事態特別委員会で、小泉首相は金正日の印象について「独裁者と言うとおそろしい、不気味というイメージを持っている人が多いと思うが、おだやかで快活な、冗談を飛ばす、頭の回転の速い人だ。信頼できようができまいが、交渉していかなければならない」と述べ、評価した(「毎日新聞」5/28)。
なんと言うことだろう。これを追従という。いくら核が怖いからといって、世界第二の大国の首相が、「私はアホです」ということを自ら国際社会にばらしてしまうとは。

ヒトラーに会って取り込まれてしまったイギリスの首相ネビル・チェンバレンのことを、小泉は知らなかったのか。チェンバレンの外交の失敗でその後世界は戦争へと向かったのである。
北朝鮮の経済は持ちなおしてきているという。もし今年秋のアメリカ大統領選挙でブッシュが負ければ、北朝鮮はますます安泰になる。核もどんどん作るだろう。そんなときに信頼もできない相手と交渉してきて、一方的に援助を表明した。戻っては朝鮮総連の記念日に祝辞かなんかを送っている。これは金正日の勝ちである。なんともはやチビリまくりの小泉ちゃん。日本は朝鮮に毅然としていいのだぞ。もっと堂々としろよ。核なんて怖がるなよ。すでに経験があるだろうが。

小泉首相は「独裁者と言うとおそろしい、不気味というイメージ」を持っていたんだね。まるで小学生だ。独裁者は普通「おだやかで快活な、冗談を飛ばす、頭の回転の速い人」なのですよ。だから小泉さん、あんたが会ったのは紛れも無く「独裁者」だったんですよ。その人と「信頼できようができまいが、交渉していかなければならない」とはどういうことですか。信頼できないのに交渉なんかできますか。約束しても保証がないよ。つまりは相手は好き勝手を言えるということだ。そしてこちらはそれを受け入れるしかないということだ。これは外交なんかではない。朝貢だ。

小泉は朝貢をやってきたのだ。日本の歴史上驚くべきことなのだ。彼はそんな自覚も無い。日本の歴史も知らない。国の誇りも知らない。国のあるべき姿についての認識も無い。彼がそうした人間であることが今回ようやくはっきりした。彼は屑である。他の政党の党首たちと同じく、塵である。小泉はもう役済みである。早くやめてくれ。(2004/6/30)


イラクの日本人人質事件でみる家族らの身勝手さ

花田達夫

2004/4/8、イラクで拉致された3人の日本人の映像と犯人の要求が、中東のアルジャジーラ放送で放送された。要求は「3日以内に自衛隊を撤退させろ」ということであった。これを受けて3人の家族がマスコミに現れてすき放題言っている。恥である。

3家族の1人として「迷惑をかけてすみません」という者がいないのには驚く。自ら被害者顔して憚らない。しかし被害者は日本国なのだ。あんたらの身内の身勝手さで日本が苦境に立たされているのだぞ。それがわからんとは。北朝鮮に拉致された家族とはまったく立場が異なるのだよ。3人はイラクで自分たちに何かあったら日本政府がどれだけ困るだろうかということも考えずに行ったのだ。3人の命を助けるために自衛隊を撤退させてくれと政府に頼んでいるのにはあきれて言葉もない。 あなたたちは醜い平和ボケ3家族であり、利己主義の塊である。日本政府がどれだけ苦労して自衛隊をイラクへ送っているのかわからないのか。そして自衛隊を撤退させることがどれだけ日本の国益を損なうことか考えてもいない。

3家族は、国家や日本国民なんかどうでもいい、身内が助かればいい。という考えだ。国のために殉じるという姿勢はもともとないのだ。戦後民主主義の行き着いた先がこれである。なぜ「見捨ててください。政府には迷惑はかけられません。」と言えないのだ。政府の勧告を無視して行ったのだから、自分のことは自分で責任を持つということだろう。政府に反対の意思表示をしていて、いざとなったら政府になきつくのかよ。良く考えてみな。それがどんなに破廉恥なことかを。
ぬけぬけとTVに出て、自らに義があるごとくに言う。自衛隊の家族のことを考えてみよ。彼らは覚悟しているぞ。あんたらだって覚悟して身内を送り出したのではないのか。そうではないのか。

子供というのはあなたの子供というだけではなく、社会の子供であり国の子供でもあるのだ。そのことがあなたたちの考えから抜け落ちていた。あなたたちはあなたたちだけで子供を育てたのではなかろう。社会、国の中で育ったのだ。日本語がしゃべれるというのはそういうことだろう。その国を危険にさらしてまでも自分の子供だけが助かればいいのか。自衛隊を撤退させろというのは、日本を危険にさらすことである。国の格を下げることである。国の名誉を汚すことになるのだ。3人と1億2千万人とではどちらが大切かは考えるまでもなかろう。3人には死んでもらったほうが日本のためである。個々の命よりも大切なことがあるのだ。殉国というのを考えて見ることだ。平和ボケの皆さんよ。(2004/4/10)


中共は中華帝国の再構築を始める気だ

花田達夫

 2004/2/25付けの毎日新聞によると、中共は「北東アジア地域の安全保障をテーマにした協議機構の創設を検討している」という。「実現すれば、アジア地域で初の中国指導の安保協議の枠組みとなる。」「この機構は『北東アジア安全協商会議』と呼ばれ、北朝鮮のミサイルや生物・化学兵器、在日・在韓米軍、日本の『軍事大国化』や領土紛争など各国が関心を持つテーマを話し合うことが想定されている」という。参加対象国は中共の他に日本、韓国、ロシア、北朝鮮、アメリカを想定しているらしい。6カ国協議枠を維持し主導権を握ろうというわけだ。新聞は「中国が北朝鮮核問題を突破口に、北東アジア全体の安全保障を長期的な視野で考えようとしていることがうかがえる」としている。

これはアジア版NATOを作り、その盟主に中共が収まろうということである。もしこれに参加しないなら東北アジアの平和を望まない勢力だと断罪するつもりなのだ。この地域を自分の好いように牛耳ろうというわけだ。こんな見え見えの魂胆に誰が同調しようか。
中共は昔日の中華帝国を夢見ている。皇帝のところに各国が朝貢する光景を夢想している。中華思想が膏肓に至っていて治しようもない。中共の傲慢さを看過していると、そのうち東アジアは中共の我儘や無理をきかなければならなくなる。自由と民主主義の消滅だ。彼らには話し合いは無駄であるし、話し合う気もない。自らの痛みは訴えても他人の苦痛には無頓着である。チベットやウイグルを見てもわかるし、台湾に対する態度やそもそも自国民に対しても弾圧することをなんとも思っていないのである。二千年変わらぬ中華思想である。

中国は闇である。呑み込まれないように心しておきましょう。(2004/3/20)
 


こき下ろし『ラスト・サムライ』

右浦耕大

映画・ラスト・サムライ”The last Samurai” 監督エドワード・ズウィック
2003 米 150

 インディアン討伐の英雄オルグレン大尉は、理不尽な虐殺に加担したことに心を痛め自暴自棄になっていた。そこへ近代化を急ぐ日本政府から軍事教官としての招聘が来る。日本に渡り、近代化に抵抗する「サムライ族」を殲滅する作戦中、戦闘になり「サムライ族」の捕虜になる。インディアンのように「サムライ族」も亡びようとしているのを見て、今度は「サムライ族」側に身を置き、近代化した日本政府軍に対する絶望的な戦いに参加するというお話。

 あのさあ、何なのよこれ。アメリカ人が作ったお話で、おかしなところが随分あるのに、驚いたのはこの映画を見て泣いている人たちがいたことよ。何見て泣いてんのよ。ラストあたりではあまりにおかしな設定でおかしな戦闘だから、つい笑ってしまったけど、その同じ場面で周りからすすり泣きの声が聞こえてきたのでびっくりした。おいおい、お前たちは日本人かよ。アメリカ人にしてはよく作ったねといって誉めるぐらいのもんであって、感情移入なんかできる代物じゃないよ。

 いまの若い奴なんかたった130年前の日本についても、アメリカ人と似たり寄ったりの歴史知識しかないんだから。歴史考証がTV時代劇にも及ばないのは困るよ。細部が全体を規定するのよ。虚構を活かすためには考証や設定を細部まで厳密にしなくちゃ。あの『タイタニック』が素晴らしいのは二人を巡る物語以外はすべて考証済みであったからでしょ。

 映画の時代背景は明治10年の「西南の役」の頃だ。日本には一般人とは別に「サムライ族」がいて政府の権威を認めていないらしい。日本政府の大村はこのサムライ族を敵視し滅亡させたがっている。忍者を使って酋長を暗殺しようともする。政府軍の訓練はサムライ族の殲滅のためのようだ。サムライ族の人々は富士山の麓にひっそりと暮らしている。そこは冬になると雪が積もって交通が遮断される。それなのに麓にはビンロウジュか椰子の木みたいなものが生えているぜ(これは鹿児島をイメージしたものだろうね)。そこから東京の宮城まで旅装もせずに馬で通えるらしい。サムライ族の酋長勝元(モデルは西郷隆盛ですね)によると五百人の戦士がいるという。「武士」五百人を養うには2万人から3万人の人口が必要なんですよ。つまり小大名クラスの「国」の規模なんですよ。映画の中の山間部落には水田もない。廃藩置県で城は取り壊わされたとしても、あるのは農家ばかりで城下町も商家も武家屋敷もない。剣術の道場も馬術の訓練をする馬場もないので野原でやっている。笑うよ。勝元によれば千年も前から代々住んでいる(大名の国替えがあるのでそういう武士はいないはず)というのに、道も整備されていないとはね。どうやって生活してんのよ。

 このサムライ族部落は野武士や野盗の類の部落のようだよ。酋長もそれにふさわしく渡辺健は無頼漢みたいね。それなのにどこで習ったか英語が喋れるんです。町の中に徒党を組んで馬で乗り込んだりして。裃さえない。品もない。だから、ちょんまげをし、着物を着て、刀を差している「サムライ」を市井の人々は嘲り、また恐れてもいるというわけ。

 天皇と政府と勝元の関係がよくわからないし、勝元の戦う大義名分も不明だし、何のための戦いなんだろう。西南の役は不平士族の食うための戦いだったんですよ。映画のように絶滅を目的に誰が戦うもんかね。戦いは勝つためにするんでしょ。戦国時代だってあんな戦い方はしなかった。なんで背後や側面から政府軍の指揮官を狙わないの。インディアンもそうだったように武士も鉄砲を使ったし、西南の役では薩摩軍も鉄砲や大砲を使った。大体刀と弓矢だけしか使わないというのはあまりにも非現実的ですよ。あんなばかげた戦いはしないよ。武士道は犬死を何よりも恐れたもんだ。ラスト近くの勝元やサムライの死にたいする政府軍の兵士たちの態度もおかしい。仲間が殺されているのだぞ。賊軍に敬意を表するわけがないでしょ。

 臣下が天皇に刀を献上するなんてなかったのではないかな。それが二度にわたって行われ、二度目は外国人が刀を持って天皇の前に押し入ってくるんだから滅茶苦茶よ。

 まあ、アメリカ映画でアメリカ人が異民族の言葉を使おうとするのは『ダンス・ウイズ・ウルブス』以来のことで、これは評価しようかね。

 さて、編集ミスを一つ指摘しておきましょう。ラストの戦闘の中でトム・クルーズが一度投げた刀が次の場面では彼の手に戻っているよ。こんなのに気づいたら感動なんてなくなるね。『ラスト・オブ・モヒカン』のほうがずっとサムライ的で感動的よ。

 この映画はDVDになって世界各国で販売されています。日本の武士道がこんなもので誤解されていくのはあまりにも悲しいよ。もっとも日本人も武士道を忘れてしまったので、こんなので泣くのね。(2004/1/14)


イラクへの自衛隊派遣は絶好のチャンスである

花田達夫

 今回の自衛隊派遣についてイラクの人々は「誤解」して過剰な期待をしているという報道がある。日本の企業も来て仕事をくれると思っているというのである。失業で収入のない人々が過半数を超すといわれるなかで、デモも起きている。そんな中に行って自衛隊は何をするのだという批判めいた文脈で日本のマスコミは報道する。日本のマスコミは国益を損なっているとしか思えない。現地特派員が伝えて来るこうしたイラクの人々の声を、日本の国益に資するようにもっと建設的な提案や見通しを述べるために使うべきではないか。

 イラク人の「誤解」を実現すればよいのである。彼らの期待通りの働きをすれば、日本は彼らの信頼を獲得することができるだろう。そしてこれらの働きはいまのところ自衛隊しか出来ないのである。
 自衛隊は現地で水道や電気、道路の補修などのインフラ整備に当たる事になっているという。数百人規模の派遣では独力でやるにはイラクは広い。そこでどんどんイラク人を雇うのである。インフラ整備の実労働力をかれらに求めるのである。自分の国の復興であるから彼らの意気も高いだろうし、給与が支払われることで生活が安定する。生活が安定すれば治安もよくなる。そうなればますます復興が加速される。自衛隊に対する評価が高まり、日本に対する期待が満たされるというわけだ。国際社会の中の日本の地位も向上するだろう。

 日本が台湾統治をしたときも同じようなことをして台湾を近代国家にした。実は朝鮮のインフラを整備した時も現地の住民を雇い給与を支払ったのである。韓国人は強制労働だというが全く違うのである。それが証拠に反乱など起きてはいない。また、義和団の北京包囲を日本を中心とする連合国が解放した後、日本軍が治安維持にあった地域では秩序が守られてシナ人が大勢流入したという。今回自衛隊は治安維持には参加しないようだが、今回の活動が成功すればおのずと治安がよくなり、自衛隊のいるところに人々がやってくるかもしれない。

 朝鮮とは異なり台湾では最終的に原住民の平定には20年以上かかっている。犠牲もあった。しかし現在の台湾は親日国家である。今回のイラクでの活動でも犠牲者が出るかもしれない。しかし将来の親日国家になるかもしれないのだ。国益にとってこれは重大である。自衛隊の派遣は日本にとって名誉ある国際国家になる絶好のチャンスである。これを逃すべきではない。マスコミもそのことをすこしは考えるべきだろう。日本人ならばね。(2004/1/20)


「ら」抜き言葉についての一考察

有村峰伯

 中学校の国文法に於いては次のように教える。可能動詞を作れるのは五段活用の動詞からだけであり、それ以外の動詞から作るのは間違いであると。「書く」、「飛ぶ」は五段活用動詞だから「書ける」「飛べる」がすぐ派生するが、上一段、下一段活用動詞の「見る」「食べる」からはすぐには派生しない。これらを可能動詞にするには、可能の助動詞「られる」をつけて「見られる」「食べられる」とするのが原則であると言う。よって「見れる」「食べれる」と言えば、「ら」が抜けていると言うわけだ。
 
 もう少し言い足してみよう。可能動詞は五段活用動詞の仮定形に「る」がついて出来ている。それなら同じように、上一段、下一段活用動詞の仮定形に「る」をつけて「見れる」「食べれる」としても不思議は無いようだが、それは誤用だといわれる。後者の場合は可能の助動詞「れる」「られる」をつけるのが正しいと言う。「れる」「られる」は動詞の未然形に接続するので可能動詞の派生過程とは違っている。さらに、助動詞「れる」「られる」は「受身」「可能」「自発」「尊敬」を意味する。よって、上一段、下一段活用動詞からは可能だけの意味を持つ動詞は派生しないというわけだ。(ところで五段活用動詞は両方出来る。たとえば「作る」からは「作られる」ができる。一方、「作る」の可能動詞は「作れる」である。「可能」だけを意味する。)

 それでは何故、現実に「見れる」「食べれる」という語が発生し通用しているのだろうか。これは単に「誤用」なのだろうか。しかもこれらの表現は「可能」だけを意味しているではないか。前述したように、動詞の活用形の仮定形に「る」をつけて「可能動詞」とする、と考えればそれですむことではないか。そもそも可能動詞が五段活用動詞からのみ派生するという前提をこそ、疑ってみるべきなのではないだろうか。なぜなら、生きた日本語の世界では、仮定形に「る」をつけているのが現実なのだから。

 別の見方をしてみよう。

活用の種類 基本形 語幹 未然 連用 終止 連体 仮定 命令
五段 nomu nom a
o
i u u e e
上一段 miru mi - - ru ru re re
下一段 taberu tabe - - ru ru re re
カ変 kuru k o i uru uru ure oi
サ変 suru s i
e
a
i uru uru ure iro
eyo

 こうしてみると五段活用形とは子音語幹で、上一段、下一段活用形とは母音語幹であるのがよく分かる。
 助動詞「れる」「られる」は未然形につく。上一、下一段には未然形に「ra」を添加した後で付く。ここで「ra」を抜くと「受身」「可能」「自発」「尊敬」の意味が出来ない。
 問題は仮定形のところである。すべて「e」で終わっている。ここに「ru」をつけて可能動詞として使っているのが最近の例なのである(ただしカ変、サ変を除く)。これは文法的にも整合性がある使い方ではないだろうか。「e」を金谷武洋氏は「可能母音」と言っている(2003.日本語文法の謎を解く.ちくま新書.p144)。仮定も命令も「可能」の意味があると考えれば妥当な表現だろう。とすれば、「可能動詞」は五段活用だけでなく上一、下一段活用からも作れるとするほうが無理が無いのである。

 ローマ字分析をしてみれば、「ら」抜き言葉と言うのは、未然形につく「受身」「可能」「自発」「尊敬」の意味を持つ「れる」「られる」に関して言えるものであり、仮定形につく「可能動詞」の意味を持つ「る」に関しては当てはまらないと言うことが分かるのである。つまり「可能動詞」として使った場合は「ら」抜き言葉ではないのである。その前提は「可能動詞」が五段活用動詞のみから作られると言う「常識」を疑うことにある。
 
文法は現実の言語使用を説明できなくてはならない。「ら」抜き現象は何らおかしくは無いのである。
 (この考察は金谷武洋『日本語文法の謎を解く』ちくま新書、2003、に触発されたものである。)(2003/7)

イラク戦争終結と直後の混乱とイスラム教

花田達夫

 戦争をしたのに相手側の政府がないという事態は困ったことである。これでは終戦協定も講和条約も結べないではないか。即刻イラクは臨時政府をつくって事にあたるべきなのに、そういう動きがないのはどうしたことか。

 フセインが逃げた後、市民は公共の施設などに対して略奪を始めた。病院や博物館に対してもそれを行ったという。イラク人の民度とはその程度のものであったのか。彼らは敬虔なイスラム教徒ではなかったのか。毎日5回も礼拝しながらそんな体たらくなのか。アッラーは盗みを見逃すのか。そうではあるまいに。結局彼らはイスラム教を信じてはいなかったのだろう。宗教行為をすることもフセインを賛美することも、彼らにとっては外からの押し付けであったに過ぎないのだろう。周りがやっているからやっていただけなのだろう。箍が外れれば好き放題と言うわけだ。

 日本が戦争に負けたとき、日本人は略奪をしたろうか。政府の指導者は逃げただろうか。そんなことはなかった。戦後日本人は指導者に騙されていたと自己欺瞞で知らん振りをして、責任逃れをしたが、それでも秩序は保った。日本の国民性は立派だったのだ。

 これを見かれを見れば、イスラムという宗教は人間精神に成熟を与えるものではないことが分かる。(2003/4/18)


三国干渉

花田達夫

 イラク攻撃に待ったをかけている国、フランス、ロシア、ドイツ三ヶ国の名前を見て、日本人なら思い起こすことがあるだろう。そう、「三国干渉」だ。
 清への既得及び将来の利権を失いたくないばかりに、日本が清から獲得した遼東半島を清に変換させるように圧力をかけてきた国々だ。今回アメリカの攻撃に反対しているのも、イラクにおける自国の利権をみすみすアメリカに奪われたくないがための「干渉」である。イラクを民主化させようという意図はないのである。
 戦争反対というと現在の日本人なら、疑うことのない自明の正義だと思い込んでいる。「よい戦争、悪い平和などない」というのが真理だと思っている。果たしてそうか。「悪しき平和は戦争よりも悪い」とタキティスは言った。イラクも平和であった。北朝鮮も「平和」である。そのような平和は価値があるのか。
 フランスなどが言う戦争反対は自国の国益のみを第一に考えるものである。勿論外交とはそういうものであろう。それが他国に脅威を与えないのならそれでよろしい。「公共の福祉に反しない限り」OKである。しかし今回はそうではないだろう。フランス、ロシア、ドイツはこの点で間違っているのではないか。(2003/3/20)


「Korea」と「Corea」

有 村 峰 伯

 サッカーW杯の韓国の健闘は感動的なものだった。以下書くことはこの感動とは別のことである。
 競技場を埋め尽くす赤い怒涛は迫力のあるものだった。TVで我々は何度もそれを見た。しかし見えてはいるのに、TVの解説者もキャスターもだれも話題にしなかったことがあった。それはスタンドで応援する赤い服の韓国人サポーターたちが手に手に持ってTVに写るようにしていた、帯状のペナントについてである。そのペナントには「Corea」と書かれていたのだ。誰もが見たはずである。なぜ「Korea」ではないのだろうか。誰か話題にしてもいいではないか。ところが誰もそのことについてなにも言わない。実はこれには日本側が話題にしにくい事情があるのである。

 韓国人には過剰な自意識と夜郎自大な無意識と思想としての反日観があることは、すこし韓国について調べてみればすぐに分かる。「Korea」を「Corea」と宣伝することは、実はこの反日思想と関係があるのだ。W杯を共同開催し仲良くしましょうといいながら、一方で反日思想を宣伝していたのだから、日本のマスコミはこのことに気付かないふりをしていたのである。では、「Korea」を「Corea」と表記することにどういう意味があるのだろうか。この疑問に答えるのに格好の本がある。野平俊水著『日本人はびっくり! 韓国人の日本偽史』小学館文庫(2002/5)がそれである。

 この本の第一章「韓国人による文化伝達偽史と侵略偽史」の第四節に「『korea』という韓国の国名の英文表記は日本による陰謀である」という一節がある。
 韓国人が言うには、もともと韓国の英文表記は「Corea」だったのに、日本人が日帝時代に、アルファベット順で韓国がJapanより後になるように「C」を「K」に強制的に変えた。だから元のように「Corea」に戻さなければならないのだそうだ。
 事実は根も葉もないことである。韓国人は反日に繋がるものであれば事実の検証などしないで、その気分に快く浸リ、行動するのである。
 この俗説はネットを通じて若い世代に拡がったと思われる。その結果今回の韓国人サポーターたちは「Corea」のペナントを振りかざしていたのだ。TVで見ていた日本人のほとんどは、そのことの意味についてなにも気付きもしなかったろう。気付いていたなら、韓国チームの応援を素直な気持ちでは出来なかったろう。けれども一方の韓国人のサポーターたちは心の中で、日本のことを「Corea」を「Korea」に変えたずるい国だと認識しつつ、日本チームを見ていたことになるのだ。

 今回の日韓共催はうまくいったということになるだろう。とくに若い世代間での交流が進むきっかけになるだろう。けれども両国の間には、しばらくは埋まらない溝があることも確かなのだ。もう少し韓国が成熟して「反日」から開放されるまでは、この溝は埋まらない。このことに関しては、日本に出来ること何もない。感情ではなく、事実で語るようにするだけだ。(2002/6/29)(W杯三位決定戦の前に)


「自国の政府ではなく他国の政府を信じるのですか」だって

花 田 達 夫

 5月の中国審陽の亡命騒動で、小泉首相も福田官房長官も「自国の政府ではなく、他国の政府を信じるのか」といった発言をしていた。何をあほなことを言っているのだと思った。信じるに足る材料がないから疑念が湧いているのだ。さらに国民は政府を信用しないのではなく、外務省を信じていないだけなのである。よって、信用できない外務省の役人の言葉を信用している政府を無条件に信じるわけには行かないと思っているのだ。そこのところが小泉も福田も分かっていない。
 失態を演じた総領事館職員たちが外務省の調査官に自らの墓穴を掘るようなことを報告するわけがない。彼らは保身が第一であり、国益などは眼中にないのだから。だから、首相らが上記の発言をした後で、ぼろぼろと新事実が出てきたではないか。言わんこっちゃない。そもそも事実を争うのなら、自国であろうと他国であろうと、説得力ある証拠によって論証した方が勝つのである。
 昔、「大本営発表」なるものがあった。国民はそれを信じるしかなかったが、それは嘘だったじゃないか。しかもそのことについて謝罪があったことなど聞いたことがない。今は自国政府の言い分だけではなく、他の政府の言い分も聞くことができるのである。だからこそ、正当性を訴えるなら、ゆるぎない論拠を示さなければならないのである。それができなければ、信用しろと言っても無駄だよ。
 しかし、誤解なきように言っておくが、筆者は中国政府の言うことを信用しているわけではないぞ。むしろ、最初から眉唾で接しているよ。皆さんもそうしなさい。(2002/5)


ブータンは亡国へ歩む

右 浦 耕 大


海水が上がってくるぞ

花 田 達 夫

 国土交通省は地球温暖化による海水面上昇が及ぼす影響について研究し始めている。研究会報告書は2002年4月下旬に出される。
 報告書は単なる提言になるだろう。しかし、日本の海岸線に及ぼす海水面上昇の影響を危惧するはじめての提言になるはずだ。人口や産業が集中している主要な海岸では、潮位の観測を強化することが盛り込まれる。また、どうやって国土の保全をするかについては、海岸線に対する堤防の建設の提言もあるだろう。よって、日本列島海岸線改造が論議の対象になってくるはずである。海水面上昇に対してはオランダ化するしか方法はないからである。これで建築会社は不況から脱することができるかもしれない。
 今後百年間に最大1m近く上昇する可能性が指摘されている。防潮堤防がない海岸平野はかなりの部分水没する。国土交通省は早晩海岸地帯での建物の建築を見合わせるように勧告を出す。事態はそこまで切迫している。重要でない海岸平野地帯に土地をもっているなら、さっさと売ったほうがいいだろう。孫の代にはそこは水没しているだろうから。
 海水面の上昇はもう止めようがない。地球規模の変動だから、さまざまな要因が絡み合って上昇の幅と速度の予測は難しいが、確実に上昇するだろう。しかしながら、海に囲まれてすんでいる我々日本人はこのことに関してあまりにも無関心である。人々は電気や石油を思う存分使っている。ガソリン車を何の疑念もなく乗り回している。暑いの寒いのといってエアコンをがんがん効かせている。二酸化炭素のことなど何の考慮もない。政府はもっと啓蒙活動をすべきなのである。国土を守るのが政府の仕事だろうに。
 今年(2002年)は暖冬で暖春で季節が1〜2ヶ月早い。多分これは地球温暖化の影響だろうと人々は気付いているだろう。三寒四温で春が来るように、来年は平年並みの気温になろうとも、確実に温暖化していくのは避けられない。よって、次第に海水が上がってくるのである。皆さん覚悟はいいですか。(2002/4/9) 


族議員は国家の賊

花 田 達 夫

 田中真紀子、鈴木宗男といった道化がいたおかげで、政治が娯楽化して、苦しい不況下でもすこしの笑いを提供してくれる。野党の突っ込みに外務省のお坊ちゃまたちがボケを演じる国会演芸場は大盛況である。しかし笑ってばかりもいられない。そこに見えてくる政治の貧困さが日本の行く末に暗雲をもたらして来るからである。

 鈴木宗男という人物が外交の要である外務省を私物化していたということが、国民の目の前に明らかになってきた。田中真紀子はこれを排除しようとしていたこともわかってきた。小泉首相はこれに抵抗したわけだが、驚くべきことに、首相は鈴木氏が外務省を私物化し、外交を壟断していたことに無知であったことが露呈したのである。今回、田中氏の更迭によって鈴木氏の行状が露になり、外務省人事が一新されようとしている事は、瓢箪から駒といった事態が起こったということである。首相の怪我の功名といったところだろう。首相はこのことを見越していたわけではないからである。そのことは、共産党が鈴木氏の事を追及するまでは、首相も鈴木氏の所業を知らなかったことを吐露したことでもわかる。ということは他の自民党の議員たちも知らなかったことかもしれない。これは恐るべきことである。

 各省庁の長は大臣であり、一議員が特定の省庁に影響を及ぼしてよいわけがない。これは議会制民主主義を無みするものだ。いわゆる族議員は国家の賊である。
 政治家主導の国家運営と言う時の政治家とは内閣にいる人々のことである。だから内閣が変われば政治が変わることを国民は期待しているのだ。各省庁の官僚は大臣の意向によって動かなければならないはずなのだ。ところが、大臣ではなく族議員の意向で動く省庁の官僚がいたとすれば、大臣が変わってもつまり内閣が変わっても政治が変わらないことになる。これでは国民の選挙によって議員を変えても何も変わらない。つまり議会制民主主義が機能しないことになる。よって族議員は議会制民主主義の敵なのである。
 一議員が特定の省庁に接触できるような構造はあってはならないのである。一議員は内閣を通して省庁に影響力を及ぼすべきであり、直接に省庁に怒鳴り込むことはできないようにすべきなのである。ここのところも小泉首相はわかっていないのであった。彼は、各省庁に「いろんな人がいろんなことを言ってきますよ。けれどもどれをとるかは各省庁が独自に判断すればいいのだよ。」などといっている。これでは一議員の各省庁に対する影響力行使を認めてしまっていることになる。なんための内閣かがわかっていない。それでも総理大臣なのか。構造改革などできないよといっているのに等しいではないか。

 今回の外務省と鈴木氏との癒着問題は、政治家の薄っぺらさと官僚の質の劣悪さを白日の下にさらけ出した。大なり小なりこれらは各省庁にも言えることであろう。日本沈没が近いということである。ではどうするか。自民党の解体と官僚の総入れ替えが必要だ。自民党の解体は我々が選挙で選択すればよい。官僚の入れ替えは応急処置として更迭すれば良いが、長期的には官吏登用試験で採用するは下級事務官だけにして、上級官僚は大臣が民間から採用するようにすればいいのだ。それで内閣が変われば政治が劇的に変わることができる。よって、国民が自分の一票に責任を持つようになるだろう。(2002/3/4)


韓国政府は教科書問題をどうするつもりか

有 村 峰 伯

 金大中大統領が教科書問題で強硬な態度を示した(2001/7/10)。政府内での力関係が変化したのだろうか。この問題は出口がないものである。他国の教育内容に必要以上に干渉すべきではあるまい。金大統領はそれを分かっているはずである。

 毎日新聞ソウル支局の澤田記者が、韓国から見ると日本は大国なのであると書いていた(2001/7/10)。その通りである。中国も大国であり、ロシアもまた大国であるが、日本はこれら2国を経済力では遥かに凌駕している大国である。日本の方は自国が大国であることを自覚していないが、そうした国に対して韓国は今まで影響力を行使できていたのである。
 いままでなら日本は韓国の抗議に対し、教科書の記述を変えたかもしれない。ところが今回はあまり譲歩しない姿勢である。日本国内がすこし変わってきた。韓国にとっては、日本が韓国の意見を聞かなくなり、勝手に進み始めるのではないかという危惧があるのだろう。ちょうど、子どもが小さいころは親のいうことを聞いていたのに、大きくなったら言う事をきかなくなってきたと同じに考えているのかもしれない。まだ親の力を誇示したいということだろうか。
 韓国内に対して韓国政府が日本に影響力があるということを示すことは重要なことかもしれない。日本政府も譲歩できることならするだろう。けれども今回の韓国政府の要求は、すこし度が過ぎているように思えるのである。日本国民の反発を招いてしまっては逆効果であろう。どこに落し所を見つける気だろうか。

 扶桑社の教科書問題に端を発した今回の騒ぎで、他の教科書や韓国の教科書を読み比べるという動きが出て、その成果が雑誌や本として世に現れてきた。それらを見れば韓国政府の抗議は的外れである。批判のための批判である。日本政府としてもこれは飲めないのである。韓国の教科書を読めば、韓国が自国の優秀さを国民に植え付けたいという姿勢があらわである。それは裏を返せば小国であるということの告白である。日本が悪者であると言い続けてもどうしようもあるまい。もうそういったことだけでは韓国の発展はないということを、韓国人自身がいい始めてもいる。日韓両国は協力していかねばならない。韓国政府の今回の頑なな態度はこれに水を差すものである。

 日韓の国民レベルでの意識は、過去の歴史を超えて、理解が深まりつつある。この良好な状態を続けるべきだろう。金大統領にはこの流れを変えてもらいたくないものである。(2001/7/11)

<補足>

 韓国政府は日本の大衆文化全面解放を中止すると発表(2001/7/12)。また、民間の交流も拒否するといってきた(2001/7/13)。日本に対して鎖国する気なのであろうか。韓国人は一枚岩なのか。そうではあるまい。いろんな考えをしている人たちがいるはずである。日本の味方をするのはいまだにタブーなのであろうか。「攘夷論」ではやっていけないだろうに。
 政府レベルと民間レベルとでは別であることがいいのである。今回の韓国側のヒステリックな対応は理解に苦しむ。両国の民間レベルの相互理解をさせたくない事情が韓国側にあるのだろうか。民間レベルの接触が進めば、誤解は解けるはずなのだ。韓国側は「誤解」を解きたくないのであろう。誤解が解ければ、自分達の教科書の「偏向性」が明らかになってくるからだ。そうすれば自分達のアイデンティティが崩れてしまうと恐れているのだろう。

 危惧は分からないでもない。韓国側からすれば、日本は面積で約4倍、人口で約3倍、GDPで13倍以上にもなる大国である。また日本に飲み込まれてしまうと恐れているのかもしれない。しかし民間の交流が深まれば、そんなことはないと分かるはずである。知らないから恐れるのである。なにも、おとなしい牛をつついて怒らせることもないだろうにと思う。
 韓国側は対応を誤っている。このままエスカレートすれば、日本国民が怒り出す。そうなったらますますこじれてしまうではないか。korean pops を愛する一日本人として憂慮に堪えないのである。(2001/7/13)


ブッシュ大統領への手紙

 2001/3にアメリカ大統領ブッシュが出した「京都議定書」からの離脱宣言に対して、TIMEは4/9号に特集記事を載せたが、そのEssay欄に、以下のような10人の署名入りで書かれた手紙を記載した。ここにそれを翻訳して載せます。
(花田達夫)(2001/4/4)

拝啓、大統領殿

 我々が直面しているものの中で、地球の気候変化という脅威ほど重大な課題はありません。京都議定書の今の諸条項は理に適った議論をすべき問題ではあります。しかし状況は差し迫ってきており、合意をし、行動を起こすときなのです。経済成長が減速することなく、温室効果ガス放出を抑制するための方策はいくらでもあります。それどころか、進歩した清浄技術を普及させる方が、危険を冒すよりもむしろ経済的見込みがあります。我々は貴殿に、アメリカが温室効果ガスの生産を減少させるための計画を進展させるように、強く要望します。我々の子供たち−そしてその子供たち−の未来は、貴殿や他の世界の指導者たちが示す決意に懸かっているのです。

敬具

Jimmy Carter                                              Mikhail Gorbachev
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英語の習得は国民的課題ではない

花 田 達 夫

 2000/12/14付け毎日新聞によると、文相の私的懇談会「英語指導方法等の推進に関する懇談会」は、年内にもまとめる報告書の中で、小学校の英会話学習について、将来的に教科とする可能性を検討するように求め、それに先立って2002年度から、小学3年以上で実施する「総合的な学習の時間」で英会話学習を扱うことを提言することになったそうである。国民全体に英語で日常的な会話や簡単な情報交換が出来るよう求めるらしい。また、その学習の眼目は「英語は面白い」という動機付けに置くらしい。懇談会の座長は東京外語大学長の中嶋峰雄である。他のメンバーは不明だが、はっきりいってこの人たちは日本文化の敵である。アホである。いやらしい虫である。外国語学校の人間を座長にすれば、こんな馬鹿な提言が出ることは判りきったことである。この人たちは日本語のことなど何も考えていないのである。外国語学校の役割は外国語の出来る専門的人材を育てることである。国民全員に外国語を押し付けることではない。中嶋氏には分をわきまえてもらいたいものだ。

 日本人のほとんどにとって英語は必要ではない。英語なしで高等教育が出来るからである。英語が世界公用語になりつつあるといっても、それを日本国内に当てはめることは見当違いである。「国民全体に英語で日常的な会話や簡単な情報交換が出来るよう」にする必要はまったくない。何のためにそうする必要があるのだろうか。一体誰と会話するのだろうか。懇談会の提言は極めて愚かである。

 また、「英語は面白い」というのを植え付けようと意図しているが、これは他の外国語と差別化することである。言語差別を助長する提言であり許しがたい。こんなアホの人々の懇談会なんかで日本文化の根幹に関わることを決めるな。

 インターネットでの英語優位はしばらくは続くだろうが、それを追認しているようでは国家の大事を誤ってしまう。早晩、優れた自動翻訳ソフトが出現し、英語情報ぐらいは簡単に日本語で不自由なく読めるようになるだろう。そんな時代が来るのに、何を苦しんで小学校から英語を勉強しなくてはならないと提言する必要があるだろうか。時代錯誤もはなはだしい。英語学習にかける時間を別の分野に費やすほうがずっと国益に適うことになるはずである。

 そしてまた、もっと大事なことがあるだろう。日本語の運用能力を高めることが先である。日本語の国際化を目指すことである。それは日本語を世界に広めると言うことではない。日本語の発表能力、伝達能力を磨くということである。容易に他の外国語に翻訳できるように、論旨のはっきりした物言いができるように訓練することである。それと同時に日本語文法の国際化も図るべきである。国語審議会にはこういった視点はない。「日本語指導方法等の推進に関する懇談会」が必要だろう。そこでは日本人向けだけでなく、日本に来る人々や日本語を学習しようとする人々をも視野に置いた日本語指導法を探るのである。日本語は日本人だけが使っているわけではない。日本で暮らしている人間は日本語だけで用が足せなくてはならない。英語を知らなければ日本で暮らせないという社会にしてはならない。 日本語はそれだけで国を維持できる言語なのである。第二公用語は不要である。

 小学校から英語を導入することは間違いである。それは日本語軽視を生み出すもとになる。基礎教育課程(小、中、高校)では言語教育は母国語の正しい習得を旨とすべきだからである。日本人が習得すべき言語は日本語であって英語ではないのである。英語を習得するなということではないが、英語の習得は国民全体に課すべき課題ではないということをはっきりさせておくべきである。(2000/12/25)

付記:
 2001/1/20付け毎日新聞によると、文部科学相の私的懇談会「英語指導方法等の推進に関する懇談会」(座長、中嶋峰雄・東京外語大学長)は、1月19日に最終報告をまとめたそうである。教師が授業を英語で行うことを推進することや、英検、TOEICなどを受けて自己啓発に努めることを求めている。その他の概要は以下の通り。

 国民全体に求められる英語力を「日常的な会話や簡単な情報交換ができる」レベルとし、中学、高 校での到達目標や評価基準を都道府県教育委員会などが開発することを提言した。
 英語教育の留意点として、コミュニケーション能力を高めることや文法的な細部にこだわらずに積極的に英語を使うことを求めた。
 小学校の英会話学習については、2002年度から3年生以上で本格的に始まる「総合的な学習の時間]で、歌やゲームなどを中心に[英語は面白い」という動機付けをすることが重要と指摘。外国人や海外勤務経験者を活用し、指導教員の研修も進めるように求めた。また、将来的には「教科」にする可能性について積極的に検討を進めることも提言した。入試でもリスニングテストを拡大するように求めた。
 これを受けて文部科学省は、来年度から小学校に非常勤講師を配置する予算措置をとるほか600人の教師を2週間程度研修させることを決めた。

以上。
 まさに本邦の教育始まって以来の愚挙である。文部科学省がこんなに愚かだとは思わなかった。かくなる上は、速やかにこの動きが、全国民の総スカンによって挫折することを願うのみである。(2001/1/25)