徒然
■□
2000/01/20 「優しさ」
『優しさ』といわれて、どんなイメージを持ちますか?
「あの人は優しい」といった場合に、自分は「その人は、自分に対してはどうなんだろう?」などと考えてしまいます。(嫌な性格ですね)
論理的にはその二つの軸を考えた場合、4通りの人間ができあがります。
1 自分に優しく、他人に優しい人
2 自分に厳しく、他人に優しい人
3 自分に厳しく、他人に厳しい人
4 自分に優しく、他人に厳しい人
この場合先に話をした「あの人は優しい」といった場合は、1か2になると思いますが、1と2では、天と地ほども違うはずだと思います。
一般に、「本当の」『優しさ』とは、2になるのではないかなと思います。
それはなかなかできるものではありませんし、自分もそれができたらどんなにかすばらしいだろう!とも思います。自分としてはできることなら目指してみたい人格の一つです。
ただ、ちょっと考えてみると、「優しく」される人にとっては、どっちも同じであるんではないですかね。その人が自分に対して優しくしてくれる、といった事とその「優しい」人が、自分自身に「優しい」か厳しいかは関係ないわけです。
だから、たとえその人の余りの部分で優しくしても、卑屈になる必要はないのではないかと思うんですよ。 つまり、例を挙げれば・・・自分が餓死しそうなほど飢えているのに、自分の持っているパンを同じように飢えている他の人に与えられるかという自己犠牲的な優しさでも(もちろんそれはそれですばらしいのかもしれませんが)、自分がたくさん持っているから、それを人に与えるということでも、現実的には優しさなのではないでしょうか? 無論、高慢になっていたら論外ですが。
今の自分が少し変化をしてきたであろうから気がついてきたのでしょう、過去の自分自身が明らかに陥っていたのは、先に述べた4類型の中の「2」を目指すあまり、自分ができることを見過ごしてしまう、また、できたとしても自分が許せなくなってしまうということが、多々ありました。 ですが、最近(ここ1.2年の話ですが)ナンセンスなのではないかと思うようになってきました。もっと言うと、「2」を目指すあまり、「3」になってしまっていたわけです。正に本末転倒ですよね。 つまり、自分が人にできる「優しさ」ではあるけれども、それが自分の心の中100%「優しさ」で占めていなければならないと考えるあまり、それができなくなってしまう・・・・気がついたらまた「3」になっている。 「自分は人にしてあげているんだ」という奢りが自分の中にひとかけらでもあったとき、その「優しさ」は、表に出てくることがなかったのです。(ご想像の通り、私は周りから「厳しい人間」と見られていることが多いようです。)
気がついたとき、「自分はなんて馬鹿なのだろう」と思いました。(なんだか宗教臭くなってきましたね)それに付随して、価値観が変わってきた、もっと細分化されて複雑になったといってもいいかもしれません。
■□
|