1. マナーの悪い車

休日に行楽地へ出かけたりすると、よほどマイナーな場所を除いて、日本中にこんなに車があるのかと思うくらいの大渋滞に見舞われる。混雑すると分かっていれば、何も申し合わせたように同じ休日に日本中が繰り出さなくても良いと思うのだが、そこは日本のお父さん、「家族サービス」という、普段の仕事とは別のお勤めがあるからだ。
こんな時、交通の流れを成り立たせるのは「譲り合い」という不文律だが、これだけの日本人が同じところに集まると、必ず、自分さえ良ければ、という輩が含まれている。
A man drives as he lives(運転が示すあなたのお人柄)という言葉は万国共通だが、例えば大都会の雑踏などと比べても、人が一旦車に乗るとそれは一段と露骨に表れる。そう言われて、危なかったり腹立たしい経験を思い出される方もいるだろう。
そして、人間の記憶というのはその時同時に居合わせたもの、すなわち見たものや聞いたものを同時に刷り込まれるらしい。たとえば何年か前のヒット曲を聴かされると、当時の自分の思い出がセットで蘇ってくるという具合に。
そして、これを上の例に当てはめると、車を運転している時、ある車種を見ただけで、その車のマナーが悪そうだ、と考えてしまうことはないだろうか。この辺は思い込みに左右されてしまう人とそうでない人に分けられるかも知れないが、恥ずかしながら私はどちらかと言えば前者である。
で、その車種だが、どうもマナーが悪い車はその時代の流行りの車である、という意見では数人の見解と一致している。バブルの頃ならアッパーミドルセダン、最近ならRVやミニバンという具合だ。逆は必ずしも真ではないので、前述したような思い込みには注意が必要であるが、なぜそうなるのか?という疑問があった。しかしある時、私はその端的な例を見る事ができたと思った。
私の独断と偏見は避けることができない事を最初にお断りしておかなければならないが、私が知るその人は結構な頻度で車を買い換える。その車に飽きたり時代遅れになったりすれば、また買い換えてしまうのだ。
良く言えば思ったことをすぐに実行する行動力があるとも言えるが、要は欲しいものは後先顧ずすぐに手に入れるという事である。その時自分が失うものとか、いろんなことを天秤に掛ける慎重さがないのだ。これが共存社会のモラルという自己犠牲の精神に通じるのではないかと思ったのである。
大渋滞の高速道路、路側帯をどんどん上がっていく車や、何食わぬ様子で並んでいる車の前方に割り込んだりする車に腹立たしさを覚えながらも、自分も時間に追われたりすると、同じことをやろうかと悩んだ経験はないだろうか。
彼らはこれを悩まずに実行しているだけの話なのである。
困った事に、彼らはその行動によって何の罰を受ける訳でもないことを体で知っている。
こんな事を言ってはなんだが、今の世の中、正直者がバカを見る、やったもの勝ち、という事は疑いようが無い。
あとは自分自身が、自分の良心を貫く事にどれだけの価値を見出せるか、という事次第ではないかと思う。
交通マナーの話が大喪な精神論になてしまったが・・・
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