白虎隊の犠牲も国を思ふ叫び

建碑式に際して  山川健次郎男の感慨

 

 白虎隊の栄誉も聖代に至って各方面からその義烈が称えられ殊に今回はイタリー首相ムッソリーニ氏から贈られた彰忠碑建設等海外にまで勇烈の響き渡った事は泉下にある。
……枯骨の光栄これに比するものはない。顧みれば維新当時長州の倒幕一点張りの過激論に対し日本を如何に安泰にし海外の侮りを避け国威発揚に努めるかとの方策は当時ありとあらゆる責任ある人々、たとえば島津斉彬、松平容堂、岩倉具視等は何れもこれを憂い公武合体の穏健主義により国運の隆昌、民心の統一を期し吾々もその説の最も有力なるに賛した。
 しかし若松藩内でも倒幕に賛成するものもあり結局時局はあの籠城となるに至ったので吾々藩内の者は少年と雖も十五、十六、十七歳の身をもって白虎隊を組織することとなった。白虎隊といえば飯盛山で自殺したもののみであるかの如く伝えられているが、事実白虎隊は士中組二隊、寄合組二隊、足軽組二隊の六中隊に分れていた、私は士分であったので現在飯盛山生残りの従弟飯沼貞雄翁と共に士中組に加わっていたが当時私は満十四歳にもならぬ身で気概は高くも体が伴わず重い銃を荷なって走り廻る事が出来なかったので城詰となって活動した。それがため白虎隊は十六、十七歳のものが第一線に立ったのである。飯盛山で自殺した十九名はこの士中隊のものでその他寄合、足軽のものは何れも美しい少年隊として華々しく戦死を遂げ実に壮烈を極め子供も婦女子も戦って死んだ、白虎隊全員二百五十余名中生存者中今では飯沼翁と私と足軽組に一人あるとの事で合計三名という心細さである。
 それに飯沼翁は盲腸炎を手術して来られないとの話である。ああした同胞相食むの惨状を呈したのも主として長州の倒幕一点張りが勢力を得て主義主張の争いが昂じて遂に感情問題を誘発して幾多悲惨な戦いが起ったのである。しかしこうした色々の意味の犠牲も結局は国を憂うる士の叫びであって如何にして完全な建国をせんかと努力した反映でこの人々の霊が今日招かれ讃えられる事は戦塵にあった自分としては一層感慨深いものがある。


これは、イタリアより寄贈された記念碑の建碑式での山川健次郎男爵の講演。

「戊辰戦争と白虎隊」 編集者・発行者 堀内潤平
昭和3年3月25日第1刷、昭和9年第11刷、会津白虎隊看守所(福島県若松市外飯盛山)発行より転載。
なお、この本の頒布取扱所は報国義会で、本部は若松市栄町2-144。
支部は仙台市光禅寺通り47(飯沼貞雄別宅と思われる)。





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