百年目にでてきた白虎隊の新事実
飯沼、助けた農民の記録

「會津魁新聞」 昭和42年10月6日付

 

 参内傘の光栄を誇った会津藩が城とともに滅びていったとき、白虎隊もまたその悲しい運命をわかちあった。そして歴史の一ページにきざみ込まれた白虎隊は、いまも会津をはじめ全国の人々に語りつがれている。ことしは明治戊辰百年ということで会津若松市では多彩な行事がくりひろげられているが、このほど東山の旧家から白虎隊の生きのこりである飯沼少年の救助されたときの状況をくわしく知る史料が見つかった。

慶山の渡部さん宅から発見 
 会津若松市東山町字慶山、農業渡部佐伊記さん(61)ではこのほど東山バイパス工事のために二百余年も前に建てられたという古い家屋を取りこわしたがその時、神だなの中から明治十年十月付け
(注1)と書かれた書籍ばさみが出て来た。中には和紙四枚に達筆な毛筆でぎっしりと飯沼少年を助けたときの模様が書かれている。
 これまでの話しだと自刃後藩士印出新蔵の妻おはつが子をさがしに飯盛山にきて偶然白虎隊を見つけその中の一人飯沼貞吉がまだ息絶えていないのを知り背負って帰ったと伝えられているが、証拠となるものは何一つのこされていない。
 この史料によると飯沼少年を助けたのは慶山の百姓渡部佐平とその嫁うめ
(注2)で佐平は当時58歳、うめは27歳である。史料の一部を紹介すると、「明治元年旧八月廿三日飯盛山で白虎隊は自刃した 雨はだんだんとはげしくなり、飯沼貞吉はのどをつき身体をたおした。何者かが白虎隊の死屍を見つけ懐中物をとろうとして飯沼貞吉のふところに手を入れて来たとき、飯沼は気がつきその手をしっかりつかみ敵方を思ってか、しがみついてきた。その者は事情を説明して「私共のかくれ家までご案内致します」といって白虎隊の自刃地より慶山八ヶ森の岩山につれて来て「水をくんできてあげます」とだまし刀を取りあげ逃げてしまった。(注3)それとは知らず飯沼は苦しい息の下から「水をくれー」とさけんだ。
 そのうめき声をききつけてきたのが渡部佐平とその嫁うめで(当時印出おはつはわが子を二男白虎隊に出陣させていたので
(注4)、わが子をさがしに来て佐平方にかくまわれていたらしい(注5))姓名は……とたづねると「本三之丁の飯沼の二男十六才也(注6)」と答えたという、おうめは手ぬぐいで飯沼ののどの傷を手当てして、ふくろ山の岩屋につれてきて血だらけの上衣をぬがせ自分の着物をきせ血だらけの衣服は遠方にすてて、三日三夜タンスとふとんのかげにかくして介抱した……」
 和紙四枚にはこれらのことが細かく書かれている。飯沼はその後仙台に住み晩年まで生きのこりを恥じ救助のもようはいっさい口外しなかった。
 また渡部さん方からは十四、九センチの槍と五連発の古びた短銃が出て来たが、これは白虎隊とは関係ないらしい。


管理人注記
(注1) 明治三十三年旧三月二十五日の間違い。
(注2) 正しくは渡部むめ。
(注3) 飯沼貞吉がこのような事を語ったという記録はない。
(注4) 印出ハツの息子は白虎隊名簿には載っていない。
(注5) 印出ハツが佐平宅に「匿われていた」という記録はない。
(注6) 飯沼貞吉の生家は本二ノ丁。




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