逝ける飯沼翁を白虎隊墓に合祀

 

「会津日報」 昭和6年2月14日付

会津戦争当時飯盛山で自刃した白虎隊十九士と行動を共にしたが生残り仙台市定禅寺通り(注1)六十二番で余生を送っていた飯沼貞雄(79)翁は十二日午前五時風邪から肺炎を併発して永眠した

翁は嘉永六年現在の若松市第五小学校辺で会津藩組頭飯沼時雄氏の長男(注2)と生れ白虎隊隊員として実戦に参加したのは十六才のときであって飯盛山で十九士と共に割腹して君侯のあとを追ったが同じ藩士の印出八次郎という人の母某女
(注3)に虫の息となって居る所を救われたものでその後仙台に居住永らく仙台逓信局に勤め去る大正二年六月退職それより和歌、俳句などに親しんで居たが自分が只一人の生存者であることを恥じて白虎隊について多く語るを避けて居た

管理者注記
(注1) 光禅寺通りの誤り。
(注2) 飯沼時衛氏の次男の誤り。
(注3) 印出ハツのこと。



飯沼氏の合祠 地元では反対

 

「会津日報」 昭和6年2月24日付

既報白虎隊の生存者で過日仙台市で死去した飯沼貞雄翁(79)の白虎隊墳墓の合祠に就いては目下地元の若松市方面の関係者間に是非を論じられているが各方面の意向をただすと現在の白虎隊碑と並んで翁の碑を建てることには相当反対する人が多く、合祠説は合祠説としてその儘に終わる模様で只仙台市の遺族の希望によっては遺髪などを飯盛山の一部に葬ることになるらしい 会津弔霊義会野村理事は語る
昨夏松平家顧問の藤澤正啓氏が来若して、この問題に就いて話があったが、其の後理事会の集まりがあった時相談したら、相当の礼は尽くすが合祠することには何れも反対であった
弔霊義会の方で合祠運動を起しているなどどは何かの間違いだ硬骨な旧藩士だった老人間にも「生きかえるような切腹の仕方は会津武士らしくない」と非難している人さえある。それに十五六歳の年齢ばかり並んだ墓に七十九歳というのは釣合わぬではないか
また穴澤義弘氏は
今更白虎隊と一緒にすることか何(ど)うか、私一個の考えとしては付近に離して建ててはと思っている」云々
赤羽祐之氏は
「日清日露の戦いに生き残った人々が今になって死んだからと言って靖国神社に祠らないと同じように公的に考えて厳密にいえば合祠することは考えものだ」云々
と語っている。




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