飯沼貞雄翁の遺髪と義歯

大沼郡本郷町 根本 一 「会津会雑誌」 第38号(昭和6年)掲載

 

 余は本年六十七歳、慶応戊辰の役には年僅かに四歳、会津戦争の事は何も記憶なきも只祖父と伯父と厳父出征後の留守宅に石筵口の戦破れて帯刀者の家族は婦女幼児は皆官族賊に殺さるるとの説に、従弟は伯母の背に妹は母の背に余は祖母の背に負われ、尾岐村寺入の深山に逃げ入り杉森中に細縄や細紐を張りて傘や合羽を家根として数日間を此処に雨露を凌ぎて宿泊せるの覚えあるのみ。此故に余は少年時代は白虎隊の飯盛山に自殺せることを聞き、自分等も彼の場合に切腹することなどは何んでもないと平気に考え居りしものなるが、年の長ずるに及び殊に近年老ゆるに従い、僅か十六七歳の少年が御城の姿が銃砲火災の焔煙の中に隠顕するを山上より望見し、揃って割腹して殉死せる其心情を思う時、其忠烈悲惨の状実に涕泣禁ずる能わざるものあるに至れり。
 然るに其尊き白虎隊の生存者飯沼貞雄翁は仙台逓信局長辞退の老後は詩歌や庭園に閑日月を送られしに、永々の病臥に天寿七十九歳を一期とし今春遂に永眠せられたりと。余は此事新聞に一見し喫驚間もなく令息一精君より訃報に接し嗟嘆生前一回も尊顔を拝せざりしを遺憾とし、就ては其分骨を飯盛山上白虎の墓へ埋葬あるものと信じ居たりしに、仙台に埋葬済の報あり、而して新聞に飯沼家にては遺髪と義歯とを箱に納めてあり、若し会津の方より希望あらば贈りてもよいとの遺言ありたりとの記事を見て稍安心し、若松の弔霊義会九名の理事の方へ御伺せしに其事は重大問題なれば理事会協議の上決定するとの事にてありし。
 余は其後病魔に犯され長々臥床の後此頃旧友なる弔霊義会理事の方に翁の遺髪の事に就き御尋ねせしに其事は全然問題に成り居らずとの答弁には大に喫驚したり。
 物は見方と解釈に依るものなり、遙かに鶴城を臨み見て君公の跡を追わんものと一同揃て殉死を決行したるは死して護国の鬼となり七生報国の尽忠至誠に出でたるものなり。其奇跡的残存は別問題なり、寧ろ翁が偶然老媼の為めに蘇生されしは会津の為めの好方便と云うべく、若し翁の蘇生なかりせば殉死当時の壮烈の実況は誰に依りてか知悉する事を得べきや。伊国の奇傑ムッソリーニをして会津白虎隊は世界的武士道の鑑なりと激賞措く能わざらしむるに至りしは全く翁残存の賜ものと云うべし。
 飯沼翁の殉死決行当時の心事は他の白虎十九士と異なる処何れにあるや、単に蘇生せるを以て区別を為すは不可なり。彼の月照と薩海に投じて蘇生せる大西郷が帝都上野に大銅像と祭られしは何ぞや。嗚呼鮮血淋漓たる姿を一老媼の肩に助けらるる白虎飯沼少年の絵はがきを見て同情崇敬措く能わざるもの誰か是を白虎の墓地に埋葬するに反対するものあらんや。
 曾て重野安繹博士が児島高徳は歴史上確証なき故に或る学者の作物なりと論ぜしに対し、世人挙て反対して曰く、歴史は国の花なり、古来有りとせる歴史の美観を殊更に之を無しと抹殺するは学者の本分にあらずと、爾来彼を抹殺博士と笑殺せり。
 彼の戊辰戦直後飯沼翁の蘇生に関し、彼是悪評を試みし者ありとのことなるが、要するに自己の子弟が戦死せるに飯沼は生存せりとて一の羨望的の感情より出でたる老婆的繰言にして、恰も旅順の戦死者の父老が乃木の野郎に吾が愛児を殺されたりと将軍を罵倒せる者と一般なるべし。彼を思え是を考うれば此折角の遺言までされたる其遺髪と義歯とを飯盛山上に埋葬する能わざるは甚だ遺憾の至りなり。
 余敢て飯沼翁と些の縁故あるものにあらず、又一回だも面識あらず、唯幸に近年親しく文通の光栄を得たるあるのみ。而して余の此言をなすは一の会津人として衷心の希望を述ぶるもの、敢て大方諸賢の高見を問わんとす。
 序ながら余は芦名公の墓地、藩祖正之公と天海僧正と当時共に天下に名ありし山鹿素行先生の誕生地を有し、且つ近々国立公園を有せんとする会津の名をより更に大に広く天下に発揚あらんことを若松の諸賢に希望して止まざるなり。(五月廿六日)




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