北越戊辰戦争日誌 1 (慶応4年閏4月26日〜5月9日)



日付 長岡藩 同盟軍(東軍)
慶応4年
閏4月26日

午後4時頃、長岡藩兵、中島の兵学所に集合。藩主・牧野忠訓、軍事総督・河井継之助の演説の後、第一陣が摂田屋の光福寺(長岡藩本陣)に入る。

【長岡藩戦争之記】
閏四月廿六日、総督河井継之助、大隊長山本帯刀、軍事掛リ萩原要人、銃士隊長大川市左衛門・斎田轍・波多謹之丞・本富寛之丞・銃卒隊長田中稔・田中小文治・渡辺進・牧野八左衛門八小隊、大砲二門
四斤施条砲 一、十二寸忽砲 一ヲ率シ長岡ヲ発シ、城南巡邏、遂ニ摂田屋村ニ宿ス
 但、一小隊人数、隊長・小令・半令・皷者・銃手三十三人、都合三十六人也

雪峠・芋坂の戦い
会津藩衝鋒隊(旧幕府歩兵連隊の脱走兵)連合軍と、松代・高田藩など新政府軍に属する信越諸藩が雪峠と麓の芋坂で衝突。当初優勢であったが、新政府軍の援軍に側面から攻め込まれ、午後8時頃、小千谷に引揚げた。

24日の三国峠の戦いの後、小出島陣屋に戻ったばかりの郡奉行・町野源之助(会津藩士)のもとに、小千谷から援軍に来た井深宅右衛門、山内大学らの会津藩諸隊が集結。

会津藩・朱雀士中四番隊、加茂を午前7時に発ち、三條、太田を経て午後6時頃に見附に到着。

閏4月27日

長岡藩兵の第二陣が中島の兵学所を出発。草生津村に宿陣。

【長岡藩戦争之記】
同二十七日、第隊長牧野図書、軍事掛リ花輪求馬、三間市之進、銃士隊長稲垣林四郎・安田多膳・九里磯太夫・鬼頭六左衛門、銃卒隊長大瀬庄左衛門・長谷川健左衛門・倉沢喜惣次・槙三左衛門八小隊、大砲八門十五寸忽砲 一、仏蘭西忽砲 二、元込砲 二、施条砲 一ハ前嶋ニ次シ、三間市之進・稲垣林四郎・倉沢喜惣次其二小隊・大砲五門ヲ率シ、草生津村ニ宿ス

牧野八左衛門隊、宿陣替えの通知により、六日市から十日町村へ移動。

午前11時頃に長岡入りした
朱雀士中四番隊の隊長佐川官兵衛、摂田屋本陣(光福寺)で軍議中の河井継之助のもとへ乗り込んで来る。長岡藩の真意を確認後、出立。

小出島の戦い
町野源之助隊井深宅右衛門隊山内大学隊と、浦佐から北上してきた新政府軍(薩摩、長州、尾張、松代藩等)との間で激戦。小出島、四日町が戦場になった。

鯨波の戦い
桑名藩会津藩と新政府軍の高田藩・加賀藩・薩長勢との間で起こった激戦。兵力では新政府軍の1/5という劣勢を、桑名藩雷神隊(この時は一番隊)隊長立見鑑三郎が巧みな用兵で優勢に立ち、敵を撤退させたが、雪峠での敗戦が伝わったため、柏崎から妙法寺まで退却。因みに、薩摩藩参謀は黒田了介、長州藩参謀は山県狂介であった。

朱雀士中四番隊、見附を朝6時前に出発し、午前11時頃長岡着。昼食後すぐに出立、午後4時頃に妙見村到着。

衝鋒隊も妙見村に到着、古屋佐久左衛門は会津藩の一ノ瀬要人らと会い、ともに摂田屋村に赴き、河井継之助と軍議。

閏4月28日

残りの7小隊が出陣、城下付近の村々に駐屯。

【長岡藩戦争之記】
同二十八日、蔵王村ヘ銃士隊長武作之丞、銃卒隊長毛利幾右衛門之二小隊大砲三門、下条村ヘ銃卒隊長佐野与三左衛門、長谷川五郎太夫之二小隊大砲三門ヲ配屯、又銃士隊長倉沢竹右衛門・今泉岡右衛門、銃卒隊長稲垣善右衛門之三小隊ハ市中近傍ヲ巡邏ス

朱雀士中四番隊、長岡渡町妙念寺(寺町の妙宗寺か?)に宿陣。
萱野右兵衛隊砲兵隊土屋隊(朱雀寄合二番隊)浩義隊金田隊新遊撃隊なども長岡入り。

閏4月29日

軍事総督河井継之助、下条村の長谷川五郎太夫隊の銃卒43名を呼び戻し、藩校崇徳館に駐屯させる。

朱雀士中四番隊、長岡城下の宿陣を引き払い、与板城に向かう。

5月1日

長谷川健左衛門隊、下条村から四郎丸村の日光寺へ宿陣替えを命ぜられ、森立峠付近の巡邏に出る。

会津藩萱野右兵衛隊、蒲原の水原陣屋を発し、長岡城に向けて出陣。

5月2日

小千谷談判
河井継之助、小千谷の慈眼寺にて新政府軍軍監岩村精一郎と会見。
新政府軍側は、岩村のほかに薩摩藩の淵辺直右衛門、長州藩の杉山壮一・白井小助がおり、河井に付き添って来た目付の二見虎三郎は次室に控えた。
この時の談判が決裂し、長岡藩は北越戊辰戦争への道を進むことになったといわれる。

萱野右兵衛隊、加茂宿に到着。

関原村で昼食を済ませた朱雀士中四番隊、小川求馬、飯河岩之進、小原勇等を片貝村へ物見に出立させる。

5月3日

河井継之助、川島億次郎、大川市左衛門を伴って摂田屋の本陣・光福寺に帰り、「開戦やむを得ず」の演説を行なう。

【夢之幻】
「摂田谷村ニテ河井氏ヨリ到底建白ハ容レラレズ止ヲ得ズ開戦スル外策ナシトノ嘆息ノ語気ヲ以テ演ラレ士気大ニ激シ六日町(市)村ニ尾州藩士ノ居ルヲ聞キ先ツ彼レヲ捕ヘ血祭リヲナシ開戦ノ祝ヲセント会津藩士八名予等八名六日町(市)村ヘ進ミ藩士三名ヲ捕ヘ来リシニ摂田谷村本陣ヘ送ルベシトノ命ニテ摂田谷村ヘ送レリ」

夜、暴風雨の中、「十日町、片田の辺りに敵襲来」との注進があり、
大川市左衛門隊(刀隊)斎田轍隊が迎撃のため急行することに決定。後軍として安田多膳隊(槍隊)を送り、挟撃を狙うことになった。指揮は軍事掛の花輪求馬で、花輪は安田隊を引率して出兵。闇夜の中、高山村の近くで遠くに提灯の明かりが見え、指揮官の敵との判断にて相手が近づくのを待って一斉に槍隊が飛びかかっていったところ、相手は敵ではなく、波多謹之丞隊であった。誤った情報と血気にはやった勇み足の行動による不幸な同士討ちで、波多隊の7、8人と槍隊の1人が犠牲になったという。
槍隊士であった屋井緑の手記に、下記の記述がある。

【槍隊戦功実録記】
「私等隊に花輪求馬殿附き参られ、それよりソロソロと忍び行き候処、向こうより提灯一張見え候に付、花輪申され候には、敵此方へも参り候に付、一統用心致すなりと仰され候に付、本より期したる事なれば、直ぐ土手下へ埋伏いたし居り候。然る処、大概通り過ぎ候節、二三発打と等しく、素より決戦の心持に付、鉄砲を投げ捨て、槍長刀を持ち、飛び込み候処、残らず川或いは田の中へ転げながら落ち、若しや同士討ちに之無き哉と申し候に付、誰と申し候処、波多謹之丞隊と答ふ、其より始終を話し合い候処、全く私等が廻り候場所にあらず過りに御座候、それより双方人数調べいたし候処、波多隊にて七八人、此方にて何某一人見ず、此事くやみ居り候え共致し方無く、依て双方へ相分かれ、波多隊は前島村へ行き、私等隊は高山村へ参り、今や戦争始まるかと待ち居り候処……(後略)」

片貝の戦い
朱雀士中四番隊朱雀寄合二番隊などの会津藩兵、新政府軍(軍監・岩村精一郎率いる松代・飯田・尾張藩兵)と片貝村で激戦。朱雀士中四番隊の討死2名(小川求馬、兵粮方下役・薄井鉄太郎)、手負1名(半隊頭・桃澤克之丞)。


妙法寺の戦い
鯨波の戦いの後、柏崎から退却して来た
会津藩兵らが草津油で地雷火を仕掛けて妙法寺に陣取ったが、新政府軍の銃撃により辺り一円炎の海と化し、同盟軍はこの地から引揚げざるを得なくなった。

5月4日

朝、摂田屋村にて軍議。河井継之助と佐川官兵衛、激論を交わした後、協定を結ぶ。←この協定締結で長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったとする歴史書(『仙台戊辰史』 等)が多いが、列藩同盟への加盟について書かれた長岡藩関係の記録は見当たらない。

鬼頭六左衛門隊
、栖吉村東の萱峠を巡邏。(翌日、農兵隊と交代)

朱雀士中四番隊、夕方4時頃、長岡渡町に到着、宿陣。

5月5日

午前10時、軍事総督河井継之助以下諸将および長岡藩兵、摂田屋の長岡藩本陣に到着した砲兵隊朱雀士中四番隊結義隊を整列して迎える。
長岡藩主・牧野忠訓、すべての会津藩兵に酒肴を贈る。

砲兵隊朱雀士中四番隊、摂田屋村に出張。

【朱雀四番士中組戦争調書】
「砲兵隊、我隊摂田屋村出張仰せ付けられ、長岡渡リ町朝五ツ時頃出立、四ツ半時頃攝田屋村へ着。此処へ長岡勢出張致し居り、家老川合続之助(河井継之助)、軍事奉行萩原要人罷り出、隊長始め兵士迄会釈致し候。同所宿陣中、長岡侯より一度酒肴下され候。毎夜、一と碌ずつにて夜廻致し候事」

5月6日 長雨のため、長岡藩兵は本陣に留まる。

早朝、渡町の会津藩駐屯地に、赤田・妙法寺方面を守っていた桑名藩兵衝鋒隊から、西軍が柏崎より進軍を開始したとの報せが入り、鎮将隊の一部が応援に向かうが、途中の上除村で引上げてきた桑名藩兵衝鋒隊士らと出会う。雨はさらに激しくなり、進撃不可能と判断、一行は農家で一泊。

5月7日

尾州藩士、銃士隊長某(年齢30歳くらい、風格高秀)が六日市村に来て、長岡藩銃卒隊長・渋木成三郎、砲軍司令士・松井策之進と遭遇。尾州藩士は長岡藩に戦いを止めることを勧め、再考を促したため、本陣へ帰って相談をするので一両日後に再び会うことを約して別れる。

この日も嵐がやまないため、鎮将隊は長岡城下へ引揚げることに決し、本大島村まで戻ったものの、雨で信濃川が増水、船が出せずに滞陣。赤田で敗戦後、迂回して引揚げてきた萱野右兵衛隊75名、片貝方面から引揚げてきた会津藩兵も渡船場にやって来たが、渡河できず。

5月8日

栃尾郷、石嶺へ 鬼頭六左衛門隊、大砲三門を出し、田代村付近へ農兵を出して巡邏。

会津藩兵は渡河を強く望んだが、水夫らが承知せず。本大島村に滞陣を余儀なくされる。

5月9日

東軍の諸将、長岡城下で軍議を開く。各藩の主な出席者は下記の通り。

長岡藩 : 河井継之助、花輪求馬、萩原要人、三間市之進
会津藩 : 一瀬要人、佐川官兵衛、萱野右兵衛、井深宅右衛門
桑名藩 : 山脇十左衛門、立見鑑三郎、町田老之丞、松浦秀八
衝鋒隊 : 古屋佐久左衛門

この日、会津藩兵らはようやく渡河。
洪水のため、破壊されて流失する町家は数十軒あったという。

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