北越戊辰戦争日誌 2 (慶応4年5月10日〜5月14日)



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日付 長岡藩 同盟軍(東軍)
5月10日

新政府軍は妙見に在り、その一部は信濃川西の三仏生村に陣を置いたとの報せがあり、摂田屋本陣の兵を二分し、斎田轍隊、本富寛之丞隊、田中稔隊、渡辺進隊の4小隊と、軍事掛・萩原要人、大砲二門は本道妙見村へ直進、軍事掛・川島億次郎、大川市左衛門隊、波多謹之丞隊、田中小文治隊、牧野八左衛門隊の4小隊は村松村東の金倉村より妙見村南の古城跡に向かい、敵の陣を奪取するのを目的として出立。

7日の尾州藩士の件、長岡藩政府は既に抗戦を議決しており、もはや和を欲せずとして、本道を進む斎田轍が配下を率い、六日市の茶店で件の尾州藩士らを捕らえる。捕らえられたのは、尾州藩士・佐藤伝九郎、福島伝左衛門、上田藩軍事嚮導・村上佐兵衛ら。
なお、大瀬紀興著「追考昔誌」には、これを8日の出来事として下記のように書かれている。

【追考昔誌】
「政府既ニ抗戦ノ議決シ、更ニ和ヲ欲セズ。乃誘テ之ヲ擒セシム。銃士隊長斎田轍、手下ヲ引テ民家ニ伏シ、尾士ノ至ルヲ候シテ、終ニ之ヲ擒ス。弟紀幹与ル。僕奴合セテ二人、縛シテ帰リ、直ニ之ヲ獄ニ下ス」
(紀興の弟、紀幹は斎田隊に属していた)

榎峠の戦い
萩原要人に率いられた
長岡藩兵は、佐川官兵衛の朱雀士中四番隊と共に三国街道を南へ進み、榎峠の高地に在陣する上田藩兵と尾張藩兵、三仏生村の松代藩兵らと銃撃戦になった。金倉山方面から山地を横断、榎峠へ向かった別働隊(川島億次郎に率いられた長岡藩兵萱野右兵衛隊雷神隊神風隊など)が浦柄村に屯集しつつあった西軍兵と戦闘になり、西軍兵を小千谷方面に退却させた。

左記、尾州藩士の件は、「朱雀四番士中組戦争調書」にも記述がある。

朱雀四番士中組戦争調書
「昼後より摂田屋村へ繰出し、蛇山村迄参り候得ば、尾州藩小隊頭位の者一人、足軽体の者二人、長岡の手にて生け捕り参り、又七八丁参り候得ば、信州上田の者二人生け捕られ来たり候処……(後略)」


萱野右兵衛隊、金倉峠を越えて小栗山に至り、そこで西軍兵がいるのを見つけ、探索に出るも見失う。午後になり、西方で砲声が激しく聴こえ、暫く撃ち合う。この日は小栗山・寺中に宿陣、浦柄に偵察を出す。

5月11日

大川市左衛門隊(刀隊)は、朱雀士中四番隊、山脇十左衛門指揮の桑名藩兵と共に榎峠の南面に在り、戦慣れしている佐川官兵衛・山脇十左衛門の提案から、朝日山占領作戦を協議。東軍各藩に即刻伝えられた。
安田多膳隊(槍隊)田中小文治隊萱野右兵衛隊雷神隊は一気に榎峠を駆け降り、浦柄村を横断して朝日山に登り始めた。
これに気づいた西軍も、朝日山の重要性を知っており、長州奇兵隊の精鋭を朝日山に向かわせる。

槇三左衛門隊は、大工町の本妙寺を宿陣とし、寺の裏側を流れる信濃川沿岸を警備。

長谷川健左衛門隊毛利幾右衛門隊も兵学所を出発、長岡城下の西にある寺島(信濃川沿岸)に出張し、対岸を監視しながら警備にあたる。

小栗山の庄屋・監物多左衛門宅を東軍の本陣とした会津藩越後口総督・一瀬要人は、多左衛門に付近の村の庄屋、組頭を出頭させ、兵粮米の提供と炊出しを命じた。
本陣となった庄屋屋敷には、
会津藩桑名藩長岡藩の兵士が詰めた。
会津藩砲兵隊衝鋒隊、遊撃隊、金倉山より浦柄村の西軍兵に向けて砲撃。
応援を命じられた
朱雀士中四番隊は六日市から妙見村に向かうが、西軍兵の銃撃を受け、応戦しながら金倉山へ登る。

朱雀四番士中組戦争調書
「明け六ツ時頃より妙見村と川向いの高梨子村と砲戦相始まり、妙見城山谷合浦ネ村屯集の敵と、山手へ出兵の長岡勢、桑名勢、衝鋒隊、遊撃隊、昨日より大苦戦の様子に付、我が隊山手へ出張致し候様申し付けられ、六ツ半時頃本陣へ相揃い、六日市村出立、妙見村近く参り候得ば、敵、我が隊を見掛け大小砲雨霰の如く発砲、此処を通り抜け、山の絶頂へ登り詰め候は五ツ時過にも之有らず、敵は浦ネ村を本陣に致し専一の要所城山へ陣取り居り、城山より厳敷く打下され、大苦戦の処、木村大作、松田昌次郎等、少しも痿えず、益々兵を励まし破竹の勢いにて昨日城山を乗取敵は此処を敗走致し、二三丁隔向の山へ陣取り、衝鋒隊へ城山より砲戦致し居り候に付、直に衝鋒隊、遊撃隊へ交代致し、新手にて烈しく砲戦致し、桑名勢、長岡勢は城山より一丁位ずつ上へ離れて陣取り、三方より大小砲発し致し候得ば、敵大いに辟易し、日暮方には敵引色に相見え候処、夜に入り又々砲戦相始まり、終夜大合戦致し候事」

庄内藩兵、越後に向けて鶴岡城下を出立。

【酒井忠宝家記】
「同月十一日、羽州鶴ヶ岡ヲ立テ、越後路ニ発向ス」

5月12日

砲兵隊、榎峠に砲車を上げ、対岸の三仏生から銃撃する西軍兵に向けて応戦。
また、
会津萱野隊朱雀士中四番隊桑名雷神隊神風隊衝鋒隊等とともに、対峙する浦柄村の西軍兵に金倉山方面から銃撃を加える。

寺島を警備する長谷川健左衛門、守備線の長さに不安を覚え、増援を求めるが、軍事掛の花輪求馬らは余分な派兵ができず、砲二、三門を派遣することのみ約束。


朱雀寄合二番隊、長岡新保の守備につく。

5月13日

午前六時、長州藩奇兵隊の時山直八が奇兵隊の二、五、六番小隊、合わせて二百人ほどを従えて朝霧に乗じて朝日山を攻め登った。


【長岡藩戦争之記】
「第六字、官軍朝霧ニ乗シ渓谷ヲ潜行シ、決然旭(朝日)山ノ胸壁ヲ侵襲ス、我銃士隊長安田多膳之一隊殆ント危シ、而シテ苦戦防御遂ニ之ヲ斥ソク」

【槍隊戦功実録記】
「十三日と相成り候処、東雲朝霧に紛れ、敵二百人計襲来いたし候処、此方より早く見附烈敷く打ち懸け候得共、敵少しも畏れず藪の中、或は峰などより打ち出居り、其の内に右手の方へ廻り、三四間の処迄進行、既に槍を入れんといたし候処、桑名隊長立見勘一郎(鑑三郎)と申す人、先暫く御控あれ、其方隊計御入れあれば、味方打之有り候間、此儀は相止、私の謀計を御覧あれと申され候に付、拠無く相止め待ち居り候処、右人大声にて申され候には、敵十五六人討取、分捕などは数知れず、最早味方十分の勝に候間、今一息防ぐと申され候処、敵是を聞き碎易して鼠の逃げるが如く、ソロソロと引取り候、味方勝鬨を上げ、酒を呑みながら逃る敵を追打いたし、銃弾薬等を分捕り候処、残らず元込に候、其の外首を取り、懐中をさがし書付奪取り見候処、長州藩と之有り候……(後略)」

薩摩藩の二番遊撃隊、外城三、十番隊の半隊は長州兵の右方向から朝日山攻撃に参加していたが、砲台四つを奪ったものの苦戦を強いられ、引揚げた。

時山直八は、濃霧に紛れて山頂に陣を構える敵方の背後に出ようとし、横渡村の農民・重左衛門に案内させたが、重左衛門は殺気立つ奇兵隊士たちを前に竦み上がり、不安と恐怖心のためか道を間違え、東軍兵の前に出てしまった。時山はやむを得ず、そのまま突き進むことを決め、自ら先頭に立って勇猛ぶりを発揮。迎え撃つ東軍兵は当初動揺したが、長岡藩槍隊の隊長・安田多膳は隊士に槍を持って突撃を命じた。しかし、これを桑名藩雷神隊の隊長・立見鑑三郎が止め、霧の中での混戦は同士討ちも有り得るので、守備側に不利であると説き、自分に策があるので、しばし待機するよう求めた。
西軍兵が姿を現した時、東軍兵は敵兵に向かって一斉射撃。立見の策は当たり、激戦の中で時山は
雷神隊の砲手・三木重左衛門に狙撃され、戦死した。時山の首は部下がようやくかき切り、味方のもとへ逃れた。

【旧桑名藩戊辰戦蹟】
「敵兵、追躡す、鼓声堂々として殊に肉薄し、刃を抜きて相せまる。長岡兵畏縮して戦ふこと能はず、会人伴百悦等も営を棄てて走らんと欲す、立見、叱咤四十余人を督して壁に乗りて死闘し、遂に大に破る」

【会津戦争従軍記】
「同日、敵方より未明に砲撃頻りなれば、本隊にては何故ならんと怪しみ居たるに、朝霧の晴始めしにより四方を凝視すれば、我が隊の本隊が朝日山の麓四方より、蓑笠を着けた人足風の人数が、沢山に登り来り来れば、敵が変装し朝駆けせしものと察し、一令のもと、各持場の塁壁につき狙撃に努力せり。
敵は軍旗を先頭に進め、最早五、六間の所迄進む来れば、本隊は此所打破せられては一大事なりと、熾烈に防戦せり。又西方より登り来るもの数十人、先頭に立ちたる者、太刀を打振り、胸壁間近く進み至れば、味方よりは片桐氏の銃卒柳下竹次郎なる者、我れ遅れじと太刀を引き抜き、勇んで壁を乗り越えて踊り出で、打ち合数合にして見事、彼を転倒し首級をあげたり。然るに是迄吶喊し進軍を重ねたる此の猛威に危惧せしにや、俄に敵軍総崩れとなり、一兵も残らず敗走せるは実に痛快なりき」

5月14日

長岡藩兵、朝日山と古城跡、榎峠に大砲を上げ、信濃川対岸や三国街道鉄(くろがね)坂付近の西軍陣地に向けて砲戦を仕掛ける。
戦いは勝敗を決せず、19日の長岡落城まで続いた。

【長岡藩戦争之記】
「旭(朝日)山・古城址・榎嶺三所ノ砲戦頗ル勉ム、尓来十九日長岡落城ニ至ルマテ日夜砲戦也、而シテ格別勝敗ナシ、故ニ以下日々記載セス」

武作之丞隊の大瀬庄左衛門紀興、隊長の命により信濃川対岸の敵状視察に出る。
紀興は小舟を雇い、知り合いの目明し仲蔵と二人で蔵王村の渡し場から対岸に乗り出し、西軍兵が防塁を構築しているところに出くわしたので、百姓姿になって難を逃れ、大瀬家に出入りしていた百姓の久蔵がいる大嶋村に向かった。そこへ西軍兵が人足を求めに来たので、百姓・乙次になりきって敵陣の様子を窺い、用が済むと来た道を戻り、待たせていた仲蔵と合流、軍服に着替えて帰還した。
敵は僅か50人ほどで、今夜にでも奇襲すれば勝利は間違いないことを武隊長に知らせ、隊長も本営へ提案したが、容れられなかった。

【追考昔誌】
「余陣ニ帰リ、具サニ隊長武氏ニ達シ、且曰。敵兵五十人計、我兵今夜密ニ下流ヲ乱(わた)リ、不意ヲ撃テバ、勝利疑ナシ。請君政府ニ出テ之ヲ陳ゼヨ。
武氏曰。諾、遂ニ政府ニ出テ之ヲ陳シ、且己レ之ヲ襲ハント請フ。政府許サズ。乃チ止ム」

朝日山に布陣の萱野右兵衛隊長岡藩兵とともに浦柄の敵陣を攻撃。
西軍は一旦小千谷に敗走するが、夕刻より反撃。
同日、
萱野隊、持ち場を桑名藩兵と交替して寺沢村に転陣。

長岡にいた朱雀寄合二番隊萱野隊との交替のため、長岡より朝日山に向かい、六日市に宿陣。

三条の
会津藩兵桑名藩兵、大面に向けて出立。

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