七十年前の思出


 私は戊辰戦役の時は年僅かに六つ、殊に熱病(腸チフス)あがりで、記憶もおぼろげで皆さんのお為になる様な、面白い立派なお話の持ち合わせはありませんが、会津史談会からのお勧めでもありますから、只その当時のつまらぬ思い出話を少しばかり申し上げます。
 私には叔父二人ありまして別選組でした。一人は正月五日淀で戦死し、一人は五月朔日の白河大激戦で負傷し、家に帰って六月十二日に没しました。父は白河方面に長兄は越後に出陣し、家には祖父と次兄貞吉とが居りましたが、祖父は隠居ですが、いくさが始まってからは毎日お城につとめて居た事と思います。貞吉は平常の通り学校へ往き、又お三の丸で調練の稽古をして居った事でしょう。

 私は九つになる姉と一緒に母の膝下に居りまして、死ぬ時はかように手を合わせ目をつぶって、悪びれずおとなしく殺されるのだぞと、朝に晩に教えられていました。それですから時々遊びの合い間に思い出して母に向かい、お母さま、死ぬ時はこうするのですねと、小さき手を合わせて目をつぶり、死ぬ稽古をして見せ、母をホロリとさせた事と存じます。
 家には母と姉の外に八十以上の曾祖母と六十ばかりの祖母とが居りました。かねてお城で早鐘が鳴りますれば、一同お城へ這入れと云う事でしたが、私の処ではお三の丸へ這入って死ぬのだと、皆々死装束を用意して居りました。いよいよ八月二十三日となり、味方の形勢思わしからず、瀧澤へ御出陣の殿様もお城へお帰りになり、敵が追々城下に迫るそうだと云う事で、お城の早鐘ごーんごーんと罵詈響いたので、すわこそと家内一同用意の仕度をして、やしきの門を出ました。その時、年寄り二人と私はうば(会津の家中では女中の事をうばと申しました。乳母ではありません)に負われ、一足先に出ました。私の家は大町通りで二ノ丁と三ノ丁との間の西側でありましたから、それから一ノ丁へ出て左折してお三の丸へ向かいましたが、後ろを振り向いて見るに母と姉とが見えません。姉は若党に負われて来る筈でした。今に後から追い付くんだろうと、人にもまれもまれて北追手門前番所の処まで参りましたところ、偶然祖父に出会いました。祖父は「そんな処でうろうろして居ては危ない、今に此の辺でも軍が始まるだろうから早くお城へお這入りなさい」曾祖母は「今後からおふみ(母)とおひろ(姉)とが来る筈だから一緒に」と申しますと、「来たら入れるから、みんなは早くお這入りなさい」と北追手門御門からお城の中へ入れられました。それから幾つも門を通り、お玄関の様な処から広いお座敷へ通されました。其処には既に大勢の人が居られ、猶あとからあとからと見知らぬ人が沢山這入って来ましたが、母と姉とは参りません。夕方になっても参りません。私は末子で母にあまえて殊に病後だから、寝る時はまだ抱き寝をして貰い、おっぱいをいじくって居たのだから、悲しくて悲しくてしくしく泣き出しましたら、武士の子が何だ、そんな弱い事でどうして死なれると祖母に叱られました。母と姉はどうして来なかったか、これは後で会ってから分かった話ですが、一足おくれて出まして、両人は一ノ丁の角まで参りますと、陣笠、陣羽織の武士一騎、馬上で鞭を挙げて下がれ下がれと叫んで、お城の方へは一歩も通させず、心ならずもこれまた大勢の人にもまれもまれて知らず知らず西の方に下り、遂に河原町口の御門から外に出されてしまったのだそうです。而うして外に行き場がなく困りましたところが、若党の藤太と申す者が律義者で、私の宅へおいでなさいと申してくれましたから、その藤太の宅は堂島か慶徳辺でもありましたろうか、其の宅へ往って世話になっていたそうです。かように私共と母とはぐれてしまって遂に死ぬ機会を失ったのであります。
 私共うばとも四人は仕方がないから、そのお座敷に居り、一日二日と過ぎました。その中に敵が小田山とかから大砲を打ち出して危ないとて、畳を二三枚ずつ小田山の方向にでしょう、立てられました。大砲の弾がお城へ中った時でしょう、地震の時の様な地響きがして、立てられた畳がどしどしと倒れる事があります。ビックリして祖母にすがりつくと、臆病だと叱られました。若い婦人方は皆襷がけで働いておられましたが、私共では年寄りと子供で何のお役にも立ちませんでした。食事の時にはその婦人方が玄米のおむすびと、生味噌とか又ある時は梅干一粒ずつです。とても食べられたものではありません。併しお腹がすけばどうやら食べられたものと見えました。彼是二週間ばかり為す事もなく居りますと、役に立たぬ年寄り子供は糧食を減らすばかりだから、城外へ出される事になりました。さぁ困りました、城下は戦争の巷となり、屋敷は焼け失せてしまい、帰る処がありません。その時、うばが私の宅へいらっしゃい、百姓家のむさくるしい処ではありますが、誰に気兼ねもありません、御恩返しはこの時です、いつまでもお世話しますとまめだちて云ってくれるので、祖母二人が決心して此のうばの処へ世話になる事とし、一同にも別れを告げて西出丸の御門の方から出たそうです。それからうばの案内で、うばの宅は高田の在で何村と云いましたか、今記憶はありませんが、その村をさしてとぼとぼと参りました。高田へ着きまして、腰掛茶屋に休み、昼飯の注文をしました。暫く待っていると、炊きたての白い御飯と豆腐の味噌汁と、にしんの丸煮と漬物とを持って来てくれました。久し振りにて白い御飯とおかずがついている故、ニコニコ悦んでこれを食べますると、その御飯は油っこいようで、するするといくらでも咽喉へ通り、おかずは是まで生味噌か梅干であったのが、にしんというお肴と豆腐汁だから、そのうまい事例える物なしで、実に大牢の御馳走とでも申す様でありまして、幾椀か量を過ごして食べました。それからうばの宅に参り、何日間か世話になっているうちに、降伏開城となり、老幼婦女は塩川の謹慎所にまとめられる事となり、其の時に母と姉と久し振りで会いまして、嬉し泣きに泣きました。それから塩川お代官所の一室に謹慎して居りまして、白い御飯ににしんの煮たものも時々は食べましたが、どうしても高田の時の様なうまいにしんはありませんで、お祖母さま、高田のにしんの様なにしんを食べたいと、度々祖母にねだって困らせておりましたそうで、後々までの笑い種とせられておりました。
 それから其のお代官所の別室に、私の従兄弟なる中根兄弟も居りました。総領は十三四歳で鉄次郎(後直)と申し、次は鉄六(後明、会津中学校長となりし人)といい、私より二つ年上で、其のまた次は源九郎(後寿)といい、私より一つ年下でした。私は鉄六と最も仲が好く、いつでも一緒に凧揚げなどして遊んでおりました。其の頃、其の辺を巡邏警戒しておったツツポー、ダンブクロの西軍の者の事を会津藩の人は皆々奸賊奸賊(字はどう書いたか分からぬ。罪もなき町村富豪の土蔵を封印して何々藩分捕の札を立て、その金品を劫奪(ごうだつ)せし兵隊故、官軍と称せし盗賊の意味かもしれぬ)と言いました。その奸賊が同じく凧を揚げて私共の凧をつるしに来て仕様なかったものです。或る日、私と鉄六とが仲良くあげて遊んでいると、やって来ました。私は思わず大声をあげて「あら、お母さま、奸賊が凧をつるしに来ましたよう」と叫びました。すると、母と中根の叔母とが駆け出して来て、つるされぬうちに降ろしてくれた事など覚えております。余り面白くもないお話、この位でお仕舞に致します。



■従兄弟の中根兄弟とは、貞吉・関弥兄弟の母ふみの妹で中根幸之助(家禄300石)の妻せいの子供達のこと。


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