中根秋錦尼書翰写

 

(前段切裂)
御ちそうは先おまんま、こまごま豆腐のおしる、お平に里芋と棒たら、小皿はほうれんそうのごまあい、つぼはそら豆のしおゆで、先此位なり。西京で里芋と棒たらをにたのほど、うまい、おいしい、けっこうなものはないと皆々心得居りし。いもたらとて昔御地で何ぞというと、あけ玉子やき鳥といえしごとくなり。
ここへいろいろさまざまの人寄あうに御ざ候。歌の先生は東海とて、ひんそうなお寺さまなり。又、ほっ句の先生は、どこのかいんきょ(隠居)らしく此の人六十斗にて顔長く、鼻高く、目じりつり上り、歯はなけれど、いかにも立派にて、是はたしかに平家のおちうど権中納言知盛か、さもなくば能登守教経が世をしのんで坊主になっているにそうい(相違)なく、身なりもむしのすおりのふるびたれど、立派なひふをきて小袖幾枚もきて居候。しかし京都者の浅ましさ十銭だしたと思うてか、又々ふだん(普段)おかゆ斗くっている故か、御ぜんになると此の年寄くう事くう事(此の人に限らず皆々むしょうにくうなれど)おまんま八はい、おしる六ぱい、いもたら七はい、ほうれんそう九はい、そらまめ五はい、おかわりしてたべ候。時々うんうんとうなるのやら、かけ声やらしてたべ候。
「あんたはん、いもたらなどもそっとおよばれやす、うんうん、ほうれんそうのあじ(味)ようおます事、うんうん」と申してたべ候。外のわかい人は、数かぎりかぞいたてなく候。又花月社をやめてあとでは小倉山へ弁当もちて行く事になり候。昔、定
家侯が百人一首をえらばれしという寺にて、昔のままのちん(陣?)が御座候(あづまやなり)。ここへ皆々もって行き弁当はやかじとうふをしょっぱくしょっぱくにたのやら、さんしょうみそ(山椒味噌)、しらぼしのにつけ、里芋位を少々もって行く也。私ゆで玉子などもちゆき、人々にとりてやると目玉白黒にしてたまげ候。人々歌の下書をするに状袋やちり紙をだして致し候。状袋は名前のかいてある古いのに候。ちり紙はあたらしい也。私あたらしい半紙へ下書すると、皆々興ざめた顔をして、気ちがいか又は大阪潟の池のおばあさんではおまへんか、など申し候。小倉山もけしきよき所にて、きぬがさ山を見渡し軒ばに筧で水をひき、四季の花色々にありて、昔御幸のありし紅葉、今はかれてかれたぼくが床の上にのせてあり候。くだらぬ昔ばなし申し上げ、われながらおかしく候。山川御地へ上り候よし御地の御様子、二葉、操に会って遺し候。此の両人くちよと当地へ立寄り候。御畳替ができたり、よし戸などたてて、なかなかよくくらしていなさるなと申し候よしに候。何も御うかがいまで、めで度かしく。

清 拝

  お文様


前略 さだめしあなた様もお年よらせられ候私などはだれもだれも七十以上と□□ 御目にかけ候わば、おたがい様にびっくり致す事と存候。
塩川でお別れ申し候折は、まだあなた様も三十九じゃもの、花というとしのさかりにおわし申し候えしが、もはや二十年のよ年月をかさね、私も歯は御地の石がきよりもくずれ、目はくぼみにくぼみて、うしろへづぼんとぬけたら磐梯山よりおっかなからんなと、人々申すくらいに候。
御存じ通り、里いもを二つにわったようなはな(鼻)、昔にかわらず顔のまんなかにすこししなびてくっつき居り候。 私も長にてかみをおろし、坊主に相成り候。京都には女のざんぎりあたま誠にまれにて、年さえとると皆々坊主になる所にて、どこもかしこも見渡すかぎり坊主だらけに候。そこへ私がざんぎりあたまをひえ(比叡)山おろしおい風にさかだて、あるき居り候と京童どもが「あれ、おかあはん、お見やすやぁ、たぬきのおばけが通るさかい」「おお、こわやのお、石などなげておまそうわいのお」「はよういなしておくれんかいなぁ、わし石ひろうて来まほうかいなぁ」「きょうは雨がふるさかい、お天気がようなって石ひろうてきてぶっつけて上げませや」など申し候。誠に気の長き所にて、ばけ物を見ると石ひろいに行く。それも京都は道きれいにて、やたらに石などころげていず、四條河原か三條河原へゆかねば石なく、お天気になって河原へいってひろうてきてぶっつけるまで私町なかにたってもいられず、さっさと帰り帰り致し候が気の長き事お話にならず、お客のある時めにはやくさかなをあつらいてこい、はやくはやくと申し付け候と、「へいへい、ちょいとおまちあそばせや、そないになぁ、毎日毎日あるきますとなぁ、げたのはまがへりますさかいに色々御用をかさねておいて来月の末におさかなあつらいてきますさかい、ちょいとおまちあそばせやぁ」など申す所に御ざ候。あだし事はさておき、お話もとへかえるさてもさる程に京都でざんぎりあたま人々にばけものと見られ候間、長でもこわがられては大へんと、さっそく坊主になり候のに御座候。御地はいかが候や、ここ元は雪はふらずあたたかにて梅の花四方に匂い、誠にうららかに相成り、此のけしきを見て歌よまずんばあるべからず、よまでやはかなうべきと考えて見ても一句もいでずくやしく候。  (下略)


(前後切裂)
此のおうたは誠に上品でけだかく、昔物語にでもありそうにて、何の法皇とか何のみかどとか、又何の院などという御方かりの宮居に世
をわびしく思し召す頃、月欠のえん(宴)もようされ(催され)、御製ありしおうたでもありそうにて、たれ見よとの御句身にしみあわれにて、人もなき世にとし候ところしみじみかなしくなり候。昔物語などならいにしえ(古)の事どもこよいに取りわけ思しつづけ給いて
  たれ見よとなほてらすらん秋の夜の 月にまといる人もなき世に
と打ぎんじ給うみこえ(御声)もしめりがちなり。みまえ(御前)にさぶろう(侍ろう)ないしのかみ(尚侍)打ちなきて
  てる月はその世の秋にかはらねど なれし都の空ぞ恋しき
と、ほのかにいえりければ少なこん(少納言)
  みよしののよしのの山にすむ月を いつか雲井の秋にしのばん
せんざいの菊つゆにぬれたるを見て、女の童
  ももしきの庭のまさこと見る斗 月にさやけきしらぎくの花
の侍従みはしちこう見わたして
  おくつゆもおはなの袖にあまるらん ひかりこぼるる秋の夜の月
などと一くだりの物語にもせにおしく候えども、なかなかたれ見よとの御うたに引つぐ歌も文もできず、みまえ(御前)にさぶろう(侍ろう)いおさんおなべのようにほかできず、歌本など見るいとま更になく、三人学校へでても五才と二才の孫ははなれず、せわしくせわしく。


(前略)
飯沼お文様も弁天
山(飯盛山)位は御出に相成り候由、是又何より何より、よろこび居り候。此のせつ四方のけしきうららかに、木々のくれない実に目もあやにながめ居り候。此の間、日光山の紅葉さかりのよし、人にさそわれ参り候処、実に名所だけ錦おりかさねたるように候。一夜とまり候、小西といえるへとまり候処、折ふし次の間にとまり合わせ候は、年の頃四十路あまりのつまはつれいやしからぬ女、みめうるわしき十四五の娘をつれ居り、親子と見えてむつまじくかたらうさま、ふと戸のすきより見れば、いつかい見し事のある顔なり。しばらく思いも出でず、又よくよく見れば、かの西郷のおうらに髣髴たり。つれの娘も姉のおうたの娘盛りによく似たり。彼は此の世にありとしも覚えぬを心のまよいと思いかえしつつも、又見ればえり元のしゆもつのあと(痕)といえ、右の目の下のほくろといえ、似たとはおろか其の人なれば思わずもはしり出で、ぶしつけながら其元様は西郷おうらにはおわさずやとたずねれば、かなたはふしぎそうにしばし顔打まもり、はい、只今は氏も名もかえぬれど小女の頃はうらとなん申し侍り、わがおさな名しらしめすあなたいそもいづこ(何処)の御方様ぞというに、さていと嬉しく、なつかしや、われはそなたのおばなるぞといえば、かなたも思い出しけん。さてはおば君にておわしけるか、年召させられ見わすれにきと、たがいに手をとり、しばし涙にことばも出でず、ようように顔をあげやよ、おうらすぎし戊辰の戦より御身はもはやなき(亡き)人と思いつづけて、朝な朝な囲向こそすれ玉くしげふたらの山にきょうはしもふたたびめぐりあわんとは神さえしろしめさるまじくかなへ見ればふたむかし其余の年をいづこ(何処)にて過ごしけるかもばば君や母上ならびにおやをさえ今はいかにと問いければ、おうらはいととせ(幾年)くりくる涙のひまよりいえけるは、わらは(妾)かの時よりのうきかんなん(憂き艱難?)はなかなかに夜はつくるともいえもつくされず先ばば君や母上の御身の上より申上げなん。思い出れば慶応四年葉月末の三日(8月23日)の朝、てきへい(敵兵)間近くよせぬとき、召使いしものどもは残らずいとまとらせつつ、皆々しろきぬ(白衣)身にまとい、しろはちまきに薙刀かいこみ、大城をさしてゆく途中、火玉あめあられと飛び来り、進べくもあらざれば、心ならずも引返し、諏訪の社におちのびつ世は是までぞ、いづこ(何処)までのがれ行くべき、皆々覚悟せよと母の仰せに、わらは(妾)もおやをももろともにかいけん(懐刀)ぬきはなし既にこうと思いつつふと見れば、かなたにばば君は薙刀うちふり、もののふ(武士)の妻たるもの、てき(敵)一人だもうちすえずしてなんでうおめおめ死なるべき、よきてきござんなれと、たけりくるい(猛り狂い)、うら手の土手へひらりと飛びのり給うにぞ、わらは(妾)もあわてまどい、今朝の門出にくみかわしつるささにやえはせ給えけん、又は御心くるいしか、おのこ(男子)と見ればためらわず、おのれさつま(薩摩)め、長州かとみだりに切りかけ給うにぞ、とが(咎)なき者にきずつけ給うな、なぁなぁと、あとおいつつ思わず諏訪四ツ谷とか云える所にはしり出たり。男女子を引き、親を扶け、むらがりまようぐん(群)の中見えつかくれつ走り給うをおいかけおいかけ、かろうじて會津川のほとりまで来にけり。立ちどまりてかえりみれば、大城はほのお(焔)につつまれて、けぶり(煙)は天をうちおおいぬことに、飛火のおとは百万のいかつち(雷)よりも猶おそろしく、されば殿には今はとく御生害遊ばしつらん、主従三世というなるを第もおいばらかききってもはや御供に立つつあらん、あぁ、おみなほどなまよみの甲斐なきものはあらじかしと、思わずそこに泣き伏しぬ。ばば君もはやとく御心しずまりおわせば、大城やぶれていつまでかながらふべきいで生害せんとのたまうに、母上はゆきかいしげき(往来繁き)ここらあたりになきがら(亡骸)をすてん(捨てん)も心苦しければ、寺ある方までおちさせ給え、あの森こそとたどるまにはや暮れ近くなる、かね(鐘)も諸行無常と告げにける。折しも野武士にやあらん大勢ばらばらと現れ出てこやおちうど(落人)よ逃るに用なき、そのうち物おいてゆきねと行手にふさがり、やにわに薙刀こしのものうばわんとひしめくにぞ、こなたもきっと身がまいなし諸共にわたり合いしばし戦うそのうちに、おやをは野武士三人まで切りたおせしが深手おいけん、うちたおされぬ母上は手おいながらも切りはらい、なぎたをし(薙ぎ倒し)おめず戦い給いにき、ばば君はうす手ながら数ヶ所のきずにはや太刀すじも乱れ給う。わらは(妾)もきずはうけながら、幸いに浅手なれば、こなたをおいかけ、かなたに走り、みなごろし(皆殺し)にせんとはたらくをやよ、おうら長おいすな、名もなき下司にばば君をうたすな、はやおちよ、とくとくとせきたてられて御先ども見ず立さるべくも思わねど、この手かしはの二つなき身をいかにせん、ばば君の手をとり、あとを見返れば、花の顔あけにそみ苦しむおやをがかたへには刀を杖にのび上り、気づかわしげに見送り給う。母さえやがてふしまろび給へぬ其折のわらは(妾)が心大方は推し給えね死におくれたる羽ぬけ鳥木かけとたのむたらちねの母のさいごをよそにして、さす方もなくあゆむ間に日ははたひたと暮れにけり。とある辻堂にばば君をしばしやすらわせいらすれば、はりつめし御心のすこしたゆませ給えけん、にわかにきず口いたみそめはてはたえがとう(耐え難う)うちなやみ、歯をくいしばり、目さえ開き給たず、こはいかにせん、あさましや悲しきかなと声たてて御身にひたととりすがり、と、おうらが始終の物語きくわれさえにむねふさがり、思わずあっとさけびしに、ばばさま、ばばさま、ゆめにおそわれ給いしよ、ばば様、ばば様、と孫の呼ぶ声に目を開けば、是なん思いねの夢なりけり。日光へも行かず、孫とそえね(添い寝)のゆめでありました。先は孫どももせわしくからまりだし候。あらあら、めでたくらしくらし。

せいより

たつ田様

・ 西郷おうら、とは西郷十郎右衛門近登之の長男の娘うらで、中軍護衛隊の長を務めた西郷寧太郎(やすたろう)の姉にあたる。中根秋錦(せい)にとっては姪であり、上記手紙にあるとおり、戊辰八月二十三日、諏訪神社にて祖母なほ、母みね、義妹やほと共に自刃。


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